本日(1/7)は暖かな日でしたね〜。久々に自宅の庭で「ひなたぼっこ」をしちゃいました。
ああ、ジジクセ〜(^_^;)
その時ふと「ある事件」が起こり、その結果として「回向」という事を考えさせられたのでお話します。
ウチにはいま一匹のメス猫が居候しています。実はこの猫、持ち主は私ではありません。首輪にはちゃんと持ち主の名前と電話番号、さらに猫の名前が書かれており、それから察するに近所のとある家の飼い猫なんです。
ところがいまから3‐4年前の冬あたりから、ウチにたびたび顔を出し始め、しまいには居付いてしまった猫なんですよね。私は昔から小動物の類が好きで、特に猫は大好きでした。だから、最初どこかから逃げてきた猫なのかもしれないと思い、餌をやったり、お風呂に入れたりと面倒を見てきました。ところがつい最近になって「名札」をつけて現われ、近所の家の飼い猫だとわかったのです。
なにしろ、私が家に居る間は片時も私のそばから離れません。一階のリビングに居ればテレビの上でうたた寝していますし、寝ているうちに二階の寝室に引っ込むと後を追ってきます。
私は独り者ですから、昼間は仕事で居ないのですが、私が出勤支度をすると進んで自分から家を出ていきますし、仕事から帰ってくると何時の間にかどこからか姿を表して門の上で待っているのです。寒い冬の日だと家の中で寝ており、仕事から帰ると玄関でお迎えまでしてくれます。
何やかんやで独り者の私を慰めてくれる。そんな存在の猫なんです。
その猫が今日。私の庭先にある20メートルの鉄塔(アマチュア無線用アンテナが上がっている個人持ちの鉄塔。HPのアマチュア無線の部屋参照)で奇妙な行動を見せたのです。それは、アンテナ整備のために、鉄塔のウインチを下げ、アンテナモーターを高さ1メートルぐらいの所まで下げてあるのですが、そのモーターめがけて飛びかかったり、タワーによじ登ってモーターの隙間に前足を入れたりしていたんです。
「妙な行動をするな…」と思ってしばらくのあいだ見ていたのですが、あまりにもしつこく何かをしているので近寄ってよくみてみると、アンテナモーターとアンテナポールの隙間から、スズメの足が見えているではありませんか。
なんと、スズメが誤って全長5.5メートル、太さ50φのスチール製ポールの中に落ち込んでいたのです。猫はそのことに気づいていたのです。だから、何とかスズメを取ろうとして前足を、アンテナモーターとポールの隙間に突っ込んでいたのです。
わかる人にはすぐわかると思いますが、細長い中空のポールに小鳥が落ち込むと飛び出す事が出来なくなります。というのは、狭いポールの中でどんなに羽ばたいたとしても1〜2メートルぐらいしか飛び上がる事が出来ないからです。鳥が何十メートル飛びあがるのことが出来るのは、飛ぶ事によって鳥自体の移動速度が上がり、その速度によって鳥の両羽に大きな揚力(浮き上がる力の事)ができるからです。
狭いポールではそんな事は出来ません。せいぜいジャンプする高さにプラスα程度しか飛びあがれないのです。スズメだとせいぜい3メートルぐらいでしょうか。事実、そのスズメは何度も飛び上がって脱出しようとしていまして、その音から察するに2メートルも飛びあがれないようでした。
ポールの長さ(垂直に立っているのですから、鳥にとっては深さと言っても良い)は5.5メートルあります。このままでは永遠に脱出する事は出来ません。つまり、このまま放置しているとスズメはこのポールの中で死んでしまうしかないのです。
ポールには全長8メートルの八木アンテナ(アルミ&アルミ合金製)と430MHz用アンテナのスタックポール(亜鉛めっきのスチール製)などが取り付けられており、それをしっかりとアンテナモーター(ローテーターと言います。専門用語では。)にボルトで固定しています。そう簡単に外せません。重量も半端ではなく、アンテナを含めて15キロ程度はあります。片手ではポールを持ち上げることは出来ません。
どうしたらスズメを救助できるか。私は必死に考えました。
猫はタワーの真下に座ってじっとモノ言いたげに私の顔を見ていました。「スズメを出してよ。私が捕って遊ぶからさ。」と言いたげでした。
アンテナをバラす事は容易ではありません。組み立てるのには二人がかりで半日かかります。各ヶ所ボルトを緩めて持ち上げる。それならば出来そうでした。
でも実際には一人では無理でした。もう2,3人いれば何とかなったかもしれません。でもこうやっているうちにスズメも体力的に弱ってきているようにも見えてきました。
最後の手段です。ポールをモーターに固定している部分のボルトを外し、モーターから取り外せば何とかなるかも。そう考えてプライマーとモンキーレンチを持ってきて解体し始めたのです。
これは成功しました。ボルトを外し、取り付けカバーを外すと楽にポールが外せました。すると閉じ込められたスズメは勢いよく飛び出し、空のかなたへ飛んでいってしまいました。猫はそれを見るとがっかりした様子で庭の隅にある潅木の下に潜ってしまいました。横目づかいでジロリと見るしぐさ。なんかふてくされているように私には見えました。
「がっかりするなよな、オイ。」私は潅木のところへ行って猫を慰めるように言いました。「逃げられてもいいじゃないか。お前はあのスズメを助けたんだぞ。お前が見つけてやったから、あのスズメは死なずにすんだ。結果として善いことをしたんじゃないか。ふてくされるなよな。」
その言葉を猫が理解したかどうかは分かりません。多分、言葉は理解しなかったと思いますがね。
でも、ふとその時思ったんです。この猫は自分の意図した事とは別に、結果として善い事をしたのだろうか、と言う事でした。猫のした事は結果として「私にスズメの位置を教えた」に過ぎません。それも、自分の意思で教えたのではなく、ただ面白い物を見つけたのでちょっかいをかけただけなのです。それがたまたま日向ぼっこをしていた私の目に入っただけなんです。
しかし、猫のした事は結果として「私の行動」によって「危機状態だったスズメの救助」という行動に「昇華」されたと言えるのではないか。そして、この現象は日ごろ私達が言っているところの「回向」に通じるのではないか、と考えたのです。
私達は日々の「勤行」で自らの福運をほかに回すと言う意味で「回向する」といい、朝五座夕三座に題目を上げて行いますね。これは、多分に「儀式的」な意味だけであり、事実としての「回向」とは、私達が日々行動するなかにあるのではないのか、と思ったんです。
私達が日々行動する中で、仮に「人を救った」としましょう。それは事実としては「自分が取った行動」によって為されたものかもしれません。しかし、結果から見るに「人を救った」という行動の成立の為には、当然救った人が此の世に生まれなくてはならないし、それも丁度その「時」に生まれあわせなければ出来なかった事です。そう考えるとその行動成立の要因として、その人を生んで育てた「両親の行動」も無視できません。
そのように考えてくると、自らの行動の結果が全て、自分の今まで関係してきた人の行為の結果としての意味を持ってくる。つまり、私達の行為の善悪は全て、それまで関係してきた人達の行為の善悪に直結してくるのだと言う事。そういう事が言えるのではないか、と考えたわけです。
一匹のメス猫の行動ですが、行動した「私」の「結果」で、本人の意図とは別なところで善悪が決定してしまう。仏法で言うところの「回向」というのはそうモノなのではないかとかんがえてしまったわけですね。
自分の身近なところでそういう難しい現象の本質を考えてしまう、舞雨 寛でした。
2000/01/08発表