ちょびっと古い話をしましょう。
と言っても「信心」の話じゃありませんけども。
昭和51年の12月頃の話です。当時、私は中学三年生でした。
高校受験を翌年に控え、いよいよ受験の正念場に差し掛かっていました。
私は両親の期待で「公立高校合格」のプレッシャーを掛けられており、その為に冬休みも返上で「高校受験突破セミナー」なる学習会に参加したのです。
当時の私の成績では「公立高校」は非常に危うい状態でした。
今はどうか分かりませんけども、当時は「神奈川方式」という方法で「高校受験」の合否が決定されていました。
私は当時、神奈川県横浜市に住んでいたので、当然のごとく地元の県立高校を目指すことになっていました。
神奈川県では中学校の成績と全県共通の実力試験(アチーブメントテスト。通称ア・テストと称されていました。)に高校独自で行う入学試験の成績を加味するといった方法で選抜されるのです。
具体的には、中学校二学年の三学期全科目の成績を五段階で相対評価し、それに三年の二学期全科目の成績を十段階の相対評価したものを加算する。さらに、二年の三学期に全県の中学校内で同時に実施される全科目実力試験の点数を、県共通で十段階の相対評価で評価され、前述の点数にさらに加算されるのです。
これが、各々受験生の「持ち点」になるわけです。その上に各公立高校では個別に「入学試験」を実施し、生徒を選抜して行くのです。
つまり、私が「セミナー」を受ける頃は既に、「あとは受験のみ」という状態であったということです。三年の二学期の成績はすでに通知されていましたし、アチーブメントテストの成績も個別に連絡されていました。
しかし、その時点では私の志望校合格の可能性は70パーセント程度の確率だったのです。
いつもならば家でテレビを見、みかんでも食べながらゆっくりしているはずの休日に、昼間から「塾」に行って「英語、数学、国語」の特訓を受ける訳です。
私はその当時、どう言うわけか主要五科目のうち「理科、社会、国語」に関しては、殊更に勉強をしなくても「それなりの成績」を得る事が出来たのですが、「数学、英語」は全くダメでした。とくに「英語」はいつもスレスレ。学校の先生からは「英語がなければ、桜ケ丘や希望ケ丘(二つとも当時は<超>進学校として地域では有名でした。)もオッケーなのにな。」と言われていました。
そんな中、塾では担当の講師が手を変え品を変え、あらゆる方法で「国語、数学、英語」を講義し、生徒たちに教えるわけですが、私には国語以外全くちんぷんかんぷん。
こんなままで「受験」して大丈夫かなあ、などと不安が募る毎日でした。
でも、一つだけ「楽しみ」を見つけたのです。それは「塾」の机を使った「コミュケーション」でした。
そのセミナーは「2交代」で行われていました。昼間の部と夜の部です。昼間の部とは、朝は9時から夕方は3時ごろまで。夜の部は夕方5時ごろから夜の10時ごろまでだったと記憶しています。私は冬休みだけの「集中講座」だったので昼間の講座を受けていたのです。
講義に退屈していた私はふと机の上の文字に気づいたのです。それは鉛筆で薄く書かれていました。
「勉強なんていやだよ〜。」
確か、そう書かれていた記憶があります。
「なんで高校受験なんかがあるんだよ〜。」
かわいい「愚痴」のセリフでした。
私は興味を覚え、その言葉に返事を書いたのです。
「そうだよな〜。面倒くさいよな。」
翌日には延々と長文で相手からの「返事」が書かれていたのです。
不思議なモノでそれから一週間ほど、そのようなコミュニケーションが続いたのです。なんのことはない。いまのBBSと変らない事をしていたわけですね。
何を伝え合ったのか、具体的な部分は記憶のかなたに消えてしまいましたが、お互い受験生同志の励まし合いが行われていたと記憶しています。相手は別の学区のようでしたのでそれ以後どのような人生を送ったのかは分からずじまい。お互いに本名は名乗りませんでしたから、いまでは追跡調査をする事も出来ないでしょう。
しかし、毎年今ごろになるとどういうわけかその物語が思い出されます。
私はそれ以降、大学進学などしませんでしたので、受験と言えば「高校受験」しか経験していません。そして、高校受験と言うとその物語がすぐ思い出されるのです。
きっと彼も、この空の下で人生の荒波を乗り越えながら一生懸命に生きている。そう信じています。
ちなみに私は、志望していた地元の県立高校に合格しました。v(^_^;)
ちょっとセンチな話になってしまいました。
1999/12/28発表