安全保障について

自国の安全保障をどう考えるか。

我が国の憲法論議はまず、これをどうにかしないと先に進まないと思う。

一番「微妙な問題」であるからだ。

今現在の「安全保障」は基本的にアメリカとの同盟関係に依存している。日米安保条約がその本質だ。これは敗戦後の国力不足状態にあった日本において、脅威の経済復興を成し遂げるという意味で、結果的に非常にプラスになった「安全保障体制」であったことは間違いないと思っている。

「アメリカ」からしてみれば「共産主義の展開阻止」のために、アジアに拠点をつくる必要があったし、日本からしてみれば自ら軍隊を所持するのは「アジア各国を戦争に巻き込んだ形になった太平洋戦争」の経緯から、国際社会に置ける立場や崩壊した財政など、きびしい状況にあったとみる事が出来る。軍隊所持以前に日本国の存続自体が危なかったわけだから。

隣りの韓国・北朝鮮のような大国の思惑による「民族分裂体制」にならなかったこと。これは先人たちの見えない努力に感謝すべき事だと私は思っている。

アメリカによる「安全保障」は、日本と言う国の事実上属国化を招いたが、財政上一番「非生産的」な部分であるところの「安全保障政策」に必要以上の金をつぎ込まないで済んだと言う意味で、日本にとってプラスであった。なにしろ、その結果として世界史上でも「奇跡」ともいえた短期間での「復興」と「高度経済成長」を成し遂げる事が出来たのだから。

とりあえず、戦争による物質的貧困からの脱却は達成できた。アメリカにしても「ソ連」というライバルが存在していたから、日本との同盟の意義にも「価値」があったし、そういう部分では「日米安保条約」は両国にとってともに「必要且つ有意義な政策」であったと評価すべきだ。

しかし、時代はかわり「ソ連」は崩壊して「ロシア」となり、事実上超大国は「アメリカ」のみとなった。これは一つの時代の終焉であり、同時に新しい時代の幕開けでもある。

終焉した時代とは「ソ連とアメリカの綱引きで平和が保たれていた時代」である。ソ連の崩壊は同時にアメリカの勝利をもたらしたが、アメリカの「対ソ連」部分の崩壊も同時に起きた。その結果、「安全保障」の部分に限って言えば、アメリカの対ソ連及びその同盟国向けに配置されていた「戦力」の縮小がはじまった。

これが我国にとって如何なる意味を持っているかを考えると、まず一つは「日米安保条約の存在意義の変化」である。ソ連がロシアに変わり、仮想敵国でなくなった以上アメリカは以前に比べ、軍事に多額の国家予算を注ぎ込めなくなった。仮想敵国の喪失は国内問題に国民の目を向ける形になった。

ソ連が崩壊したのに、なんでアメリカは豊かにならないのか。そんな疑問がアメリカ国民の心の中に起きたと思う。だから、それまで青天井だった軍事予算が削減されて行くのも当然と言えた。

それらが相互に作用して、日米安保では「基地の統廃合」と「思いやり予算の増加」という形になったと思っている。中国・北朝鮮という国はアメリカにとって「日本」が考えるほど「脅威」にはなり得ない。特に中国は「アメリカ」にとっては「仮想敵国」になりうるかもしれないが、日本にとっては「アメリカ」が考えるほど「仮想敵国」にはならない。むしろ、日本にとっては「北朝鮮」のほうが厄介だ。

事実双方の国民や政府が持っている「不信感」は、日本人拉致疑惑、ミサイル発射実験疑惑を見ていれば明らかである。

つまり、終焉した時代というのは「アメリカ」「日本」ともどもに「危機感を共有できた時代」と言えるのかもしれない。仮想敵国としての「ソ連」はアメリカにとって、日本にとってあまりにも強大な「敵国」であった。

しかし、ソ連は崩壊し、国自体は四分五裂。強大な国としては「ロシア」が残った。しかし、ロシアはソ連時代に抱え込んでしまった「問題」の解決に汲々としている始末。もはや「ソ連」のように勝手気侭には動く事が出来ない。むしろ、日米がそれぞれの思惑を込めて「援助」してやらなければ立ち行かない国になったとも言える。

そうなるとアメリカ、日本は「共通の脅威」を失ったわけで、残るのはそれぞれ各国の思惑で温度差の生じている国の関係となる。明らかに言えば「アジア各国との関係をどうするか」という問題に対して、同盟国である日本とアメリカの間に「温度差」が生じているということである。

アメリカが感じている「脅威」が即ち、日本国自身が感じている「脅威」ではないのである。特に「アジア」に関しては。

そうなると当然「安全保障」の考え方も変わって来て当然だ。逆に変えなくてはならないだろう。少なくとも以前のような「甘い蜜月」の如き関係はもはや時代にそぐわない。日本は日本独自の「安全保障体制」を確立していかなくてはならない。それが、アメリカにとっても日本にとっても、長い目で見ればプラスになると信じるものだ。

その第一歩として「自衛隊」の地位の確立が急務である。

現状ではどうしても「違憲状態」を免れないし、専守防衛という掛け声は良いが、事実上不審船の拿捕も出来ない「弱き立場」の自衛隊では、非常の時に活躍できるか心もとない。それもこれも、自衛隊の位置が憲法上に確立されていない事にある。

これは、憲法の謳う「戦力放棄」が現在の国際情勢に整合していない現実を、国民や政府が正確に認識していないところから生じていると思っている。

われわれは「戦力放棄」を、日本国憲法の誇るべき「理念」であると教育されてきた。そして、先人たちもこの「理念」を最高のものとし、「神聖化」してきてしまった。その結果、護憲派と呼ばれる人たちはまず、なにが何でも「戦力の放棄」をすることが「平和の道」であり、同時にそれをかたくなに守る事こそが「護憲」であり平和主義であると主張するようになった。

だから、国際社会の歪みから生まれた「警察予備隊」は「自衛隊」と呼称は変わっても「継子」扱いされ、冷遇されてきた。銃器、兵器の類を備えているにもかかわらず、為政者からは「憲法の言うところの戦力でない」などと詭弁を弄され、平和主義者からは「憲法違反だ。すぐなくせ。」などと言われてきた。

これも、憲法に謳う「戦力放棄」の理念が、「自衛隊」の存続意義と真っ向から対抗しているから起きているのである。

「戦力放棄」は確かにすばらしい理念である事は間違いない。そして「戦力」と「戦争」は密接な関係にある。双方がお互いを必要とするからだ。「戦争」を起こす為には戦力が必要であるし、「戦力」ある限り政治的問題解決を「戦争」に委ねることになるに違いないからだ。その相互依存関係を断ち切る意味で「戦力放棄」は是非とも実現しなくてはならない「理念」であるといえる。

しかし、現実はどうであろうか。「戦力放棄」を国是として、積極的に放棄しようとしている国が、日本国の他にあるだろうか。自国・自国民の防衛を大義名分に、積極的に「戦力」を維持している国がほとんどではないだろうか。そのような国際社会の中において、日本国のみが「戦力放棄」をする意味があるのであろうか。

アメリカとの相互安全保障条約の体制下ではそれでも意味のあった事かもしれないけれど、その体制が揺らぎ始めている現在においても、いままでの「戦力放棄の実現」という国是に意味があるとは思えないのである。

それは、現在の「戦力放棄」の意味が、「日本一国の戦力放棄」の段階で立ち止まっているからだ。真の意味での「戦力放棄」の実現に、誰も努力をしてこなかった。平和主義者も、自らの主張が実は「一国の戦力放棄」という、高邁な理念そうで実は「平和日本国のエゴ」であることに気づこうとしなかった。その結果、日本の「安全保障戦略」は日本一国が独立して立ち行かない、実にお粗末極まりないものになってしまったのだ。

私はなにも、日本国憲法が謳っている「戦力放棄」という高邁な理念がいけないと批判するつもりはない。むしろ、日本国民としてこのすばらしい理念を護持し、後世に伝えていく義務さえあると思っている。

しかし、現在の「戦力放棄」が「日本一国」の次元にとどまっている限り、真の意味での「戦力放棄」の実現は不可能であり、不可能な理念を不可能なままに護ることなど無意味であるといいたいのである。

つまり、真の意味での「戦力放棄」というのは、一国に止まるものではなく、すべての国が一斉に放棄してこそはじめて実現できるものであるからだ。

「一国のみの戦力放棄」は例えば、街中で誰もが銃を腰にぶら下げている中において、撃ち合いを恐れて自分だけ銃を放り出して「善し」としている事に似ている。

アメリカの西部劇でもよく見るシーンである。映画でたいていは「銃」を放り出したほうが「負け」だ。銃を放り出すということは「無条件の服従」であり、対決相手によっては「死」さえもありうるのである。まして、住んでいる人たちが「フェア」であり、スポーツマンシップみたいなモノを持っているとは限らないのだ。むしろ、エゴ丸出しに常に自分の利益のみを追求している人たちがほとんどである。それを考えれば、危険値は否応無しにあがるのだ。

なんでもかんでもすぐ「戦力放棄」するということは、かようにも危険な行動なのである。

では、真の「戦力放棄」を実現させるのはどうすべきであるのか。さまざまな方法が考えられると思うが、私はひとつのモデルを提示したい。

まず、第1段階は「自国の安全保障体制の確立」である。

いままでのアメリカに頼った「安全保障体制」ではなく、独立した戦力を保持した安全保障体制をまず作り上げる事である。従来のままでは、アメリカ傘下での「安全保障」であり、独自の安全保障戦略の構築は困難である。いかような理屈を述べようとも「アメリカ」の安全保障戦略から自由ではなく、また諸外国に対しても説得力ある提言など述べられる立場にはなれないからである。

第2段階として諸国と対等の「安全保障条約」を結ぶ事である。

従来の日米安保条約は片方のみの権利と義務を定めた、いわゆる「片務契約」で到底対等な安全保障を目指して締結されたものとは言いがたいもの。そのような「安全保障条約」が適切な時に適切に機能するとは到底思えない。やはり、「安全保障」は相互に対等な「ギブ アンド テイク」なものでなくては相互に信頼関係を築く事など出来ないのである。補足として、ここで言うところの「安全保障条約の締結」とは、相互の国民同士に信頼関係を築き上げていくことに主眼があり、単純に「軍備の共有(共同使用)」を狙うものではないことに留意すべきである。

第三段階はさらに「軍備の縮小と共有化」である。

諸国との「安全保障」の連携が進めば、不用になってくる「軍備」が生じてくるものだ。また、「安全保障」は非常に「金食い虫」の政策であり、同時に「非生産的」であって、投資に見合った「利潤」が得られるものではない。それは、得られる利益が「国の安全」であり、国民の平和と安寧と言った「お金では測れぬ価値を持つ利益」であるからに他ならない。

しかし、だからと言って無制限に「資金」をつぎ込めば、その「重さ」が国を破滅に追いやる事も、旧ソ連の姿を見るまでもなく明らかな事。「国の安全」を求めるあまり、国の財政が崩壊するとなっては本末転倒もはなはだしい。やはり、「軍備」は最低限に押さえるべきものである。

複数の国家が相互に共通の安全保障体制下に入れば、それぞれの国力に応じて軍備を共有する事も出来る。共有できるということはお金がかからないということだ。逆に言えば、少ない資金で「安全保障」ができると言う事になる。それを推進することである。

さらに縮小するだけでなく、もっと重要な事は「共有化」である。単に「自国の戦力」ではなく、共有の「戦力」に統合していく事。これによって、効率よく「安全保障」が実現できるようにするのである。

そして最後は「戦力は<統合軍>のみとし、自国の戦力保持をなくす」のである。

「統合軍」。これは、現在の国連憲章に謳われている「国連軍」の構想そのものと言える。現在の国連軍はこの「理想」とはかけ離れていることはよく知られている。「国連軍」は「米軍」と同意であり、「米軍」が自国の利益のためにかぶる仮面と化しているのが「国連軍」の実態である。これでは100年たっても「戦力放棄」など実現できない。どこの国にも所属せず、各国が支払う「分担金」のみで経営される「統合軍」がなくては、公平な「安全保障」など実現できない。「統合軍」は国家間の「警察権力」を担わなくてはならないからである。

以上、4段階のステップを踏んで、真の「戦力放棄」を実現していく事。それこそが「日本国憲法」の謳う「戦力放棄」の理念の、「真の実現」であると思うものである。

そして、まず日本の安全保障を考えるにまず、憲法における「自衛隊」の「継子扱い」を無くす事である。 その為の「改正論議」は積極的に推し進めるべきである。何時までも「我が子を戦場に押しやるな」といいつつ、時代遅れのイデオロギーに固執し、諸国の不満を買って「なし崩し的」に「違憲」状況を作り上げるよりは、思いきった大胆な行動で改革し、真の意味での「戦力放棄」を実現させる事こそが肝要な事であると私は考えるものである。

1999/09/30発表

2000/08/06加筆訂正


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