近況



六月になりました。 

<光陰矢のごとし> 
と、言います。時の流れと言うものは早いものですね。 

子供の頃は「一年」という時の長さが、信じられないような長さに感じたものですが、二十歳を過ぎた頃からどんどん早く感じられるようになって、三十路を過ぎたころからは「あっ」と言う間に10年が過ぎてしまったような気がします。 

最近の研究によれば、子供の「時間感覚」と大人のそれとは違っているらしいですね。 

つまり、大人の感じる「一年」と子供の感じる「一年」の時間感覚か異なっていて、子供の方が大人より「時間」を長く感じているらしい。 

確かに子供たちの姿を見ていると、いつもどこかで走り回っていて、じっとしているときがない。親が注意をしても、わずか数分の後には再びどこかへと行ってしまう。 
それを「こらえ性がない」と親も含めた大人たちは見ているけれど、それは本当に「こらえ性がない」と言う事なのだろうか、と疑問視するわけですね。 

たとえば「神経」の反応速度、という「パラメータ」を考えてみましょうか。「時間感覚」を「脳」が認識するのはやはり、「神経」を伝わってくる「刺激」が基本にあり、その「刺激」に対応して「アクション」を起こし、再びその「反応」をまつという「繰り返し」によって「事象時間系列」が構成されて記憶され。それを「思い出す」ということによって「長かった」「短かった」というような「感覚」が生じてくる、と考える 
わけです。 

もしかしたら、子供たちの方が「反応速度」が速いため、「刺激」に対する「反応」の繰り返しが大人たちに比べて「多い」のかもしれない。だから、一分一秒と言う時間にも大人たちが感じるより、はるかに時間として長く感じているのかもしれない。 

毎年正月になると、子供たちは「お年玉」をもらえる。今の相場は知りませんが、私の子供時代(今から30年ほど前。1960年代後半から1970年代前半頃)では、一人当たり千円から五千円程度もらえたわけですけれど、これが子供にとっては一年に一回の、スペシャルバージョン級の臨時収入になるわけで、当然のごとく期待をして待つわけです。 

子供の頃はそれが待ち遠しくてネ。(^_^;) 
早く正月にならないものかなと、じりじりして待っていたわけですな。時には「獲らぬ狸の皮算用」までしてね。 

ところがこの歳になると、正月などあっという間に来て、親戚や知人の子供たちに「お年玉」を奮わねばならなくなる。 
まあ、お金をあげる立場ともらう立場、義務感と権利意識の差があるとも言えるのでしょうけど、この歳になってしまうとそれこそ「あっ」という間に正月がやってきてしまうんですよ。 

この「感覚」の差に、子供と大人の「神経速度(反応速度)」の差を意識するのは、おかしいのでしょうかね。やっぱり、自分も確実に「老い」に向っている証拠なのかな、と思い悩む昨今です。 

ああ、立ち仕事ばっかしで古傷である足首が痛い。(T_T) 


舞雨 寛

2001/06/02発表


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