8/15日を迎えると必ず「政教分離」の問題が頭をもたげてきますね。
これは毎年、国会議員をはじめとする政府の方々が「靖国神社」を参拝する事に刺激されて起こる「恒例行事」みたいなものですな。
私もこういう議論は嫌いじゃないので、「靖国神社参拝賛成派」「反対派」の人たちの意見をよく見たり聞いたりしているのですけれどね。
反対派より、賛成派の方に実に面白い「議論」を見かけますな。
まず「宗教と生活」に関する認識が曖昧だなと言う事。そういう人に限って「政教分離」については「完全分離」を主張する人が多く見られるのです。
そもそも、「政教分離」という考え方は、「信教の自由の実現」の為に、政府が拘束される「原則」をさします。これがまず「定義」であることを忘れてはならない。
信教の自由という「自由権」を保護する為には、特に権力を行使する側である「政府」が特定の宗教を保護するような行為をしては、それ以外の宗教を「圧迫」することとなる。それはすなわち、自由を制限する事と同意である。それらを防ぐ意味で政府は常に「中立」もしくは「無関与」でなくてはならない、と規定するわけです。それが「政教分離の原則」というわけです。それにもうひとつ。これも重要なんですが、「政教分離の原則」は「政府」もしくは「国」が拘束される原則でありますが、「国の機関」という意味ではどこまでの部分が拘束されるのか、という問題があります。
国家機関、いわゆる「国権」を担う機関は大きく分けて3つ存在します。所謂、「司法」「立法」「行政」です。「司法」の機能を担っているのが裁判所。「立法」の機能を担っているのが「議会」で、わが国では「国会」と称しています。そして「行政」の機能を担っているのが「政府」で、わが国では「内閣」と称してます。
このうち、いわゆる「行政」分野においてのみ、拘束するというという考え方が妥当だと思われます。というのは、実際に政策を実行し、国権を発動するのは「政府」「内閣」であるからです。
一部の人間は「国会もそうだ。」といいますが、国会はあくまでも「議決」をする場です。議決自体は「政府」を拘束するものですが、国民自体を拘束するものではなく、「政府」を介して拘束するものだからです。
「司法」も同様です。司法はあくまでも「事後拘束」という形をとります。国民の行為に対し、追認する形で過去を裁定し、それが未来を拘束するのですが、やはり直接国民を拘束するのではなく、「政府」を介した形でしか拘束できません。
例えば、犯罪に対しても「裁判所」は国民の行為を「法に照らして裁定する」ことしかしてません。具体的に「処罰」するのは「刑務所」であり、それは「行政」機関の一部です。
行政は執行機関なんです。だから、中立であらねばならない。さもないと「自由」が阻害されるのです。「信教の自由」を「擁護」する。その目的達成のために「政教分離の原則」があるのです。それを理解しなくてはいけないのです。
信教の自由というのは当然、基本的人権のうち「自由権」のひとつですから、独立した個人にはすべからく認められている「権利」であります。つまり、ここで云う「靖国神社への個人参拝」と言う意味でいえば、誰であろうともその「権利の行使」を妨げる事は出来ないのです。それは目的がいかなるものであろうともできない、つまりこの「権利行使」には「目的」は関係ないのです。「靖国神社の御霊」の中にA級戦犯がいようがいまいが関係ない。誰にもその行為を差し止める権利は無いとまで言い切ってもいいものです。
ただ、公職についている人たちはべつになります。それは、公職についている人たちは個人の立場のほかに、公職として「政府代表」と言う立場があります。いわゆる「公私のけじめ」と言う部分ですな。私人の立場としていくのであれば問題はなくても、公人としての立場で参拝する事は「政教分離の原則」に明らかに抵触するものと言わざるを得ない。
それはまず「公人」として「靖国参拝」となれば当然、特定の宗教に「名誉」を付与する事になる。「政府が公式参拝する宗教」という名誉である。名誉付与と言う事は、間違いなく「特権」を与えたに等しい。俗な例えで恐縮だが「公的機関による保証」を与えたと同じ効果を持つ事になるということだ。
この場合「政教分離の原則」に則った参拝を行うのであるならば、方法は2つ考える事が出来る。ひとつは、国内全ての「宗教団体および施設」への参拝をするか、国内にあるどのような宗教にも属さないの施設に於いてどの宗教にも則らない拝礼方式で参拝を行うかのどちらかしかない。
しかし、参拝賛成派をみると、「国のために命を落とした御霊を拝礼して何が悪い」だの「靖国神社はもともと招魂社から派生してきたから神社ではない」だの、全然「政教分離の原則」とはかけ離れた土壌のうえで、非合理的感情論を展開している人が多い。
石原慎太郎都知事なんていうのはその最たるものといえよう。確かに、戦争を経験している世代だから、われわれのような戦後の世代とは考え方が違うのはわかっているが、それにしてもその点においては頑固すぎる。「公人だの私人だのと姑息な理論云々」というが明確に立場の立て分けが出来ておらない上に、「姑息だ」などと強弁する自分を良く観察してみるがいい、といいたい。公私混同は都知事としてはおろか、一般社会人としては常識の範疇に入るだろう。明確に「私人」としていくのであれば文句は無いが「公用車」を使い、公費を使って私的行為をするのであれば、一般社会では「犯罪」だ。
程度の差はあれ、外務省の役人および大使とやっている事は同じである。
石原知事が「石原個人として参拝する」と言い、玉ぐし料、供花料などを自分のポケットマネーで支払うのであるならば文句は無いが、「公私」を曖昧にし、公費から金銭供養をするのであるならば大いに問題にすべきだ。そういうところをもっと勉強して欲しいと思う。
まあ、ともあれ政教分離についてはまだまだ勉強不足なところもあり、もっと掘り下げた理論を展開できない恨みがあるが、そのような自分でも納得いかない「靖国神社公式参拝問題」。もっと多くの人々がこの問題を考えてくれる事を望みたい。
舞雨 寛
2001/08/22発表2004/09/07追加改訂