全米同時多発テロ事件!



実に痛ましい限りです。 

犠牲者の中に何人かの「日本人」がいた模様ですな。 
よりによって、我が同志も犠牲になったとか。ご親族の悲しみ、苦しみは想像するに余りあるし、さぞかし先生も心をお痛めになっておられるであろうと拝します。 

私個人としては、これを理由に「イスラム」を排撃する気持ちはありません。「原理主義」というのはある意味では「純粋」に信仰を求める姿勢につながるし、テロに走るのはなにも「イスラム原理主義者」だけではないから。 

でも、テロを許す気はない。「イスラム」であろうが「共産主義」であろうが、どのような「理屈」であれ、暴力で問題は解決できないから。 

人間には、ありとあらゆる可能性がある。その可能性ある「人材」を一瞬の暴力で以ってその全てを奪い去る「所業」はまさに「魔の所為」そのものであると断じたい。 

どのようなテロも世界を変えることが出来ないということは、過去の歴史を見て明らかだ。常に時代を変えてきたのは「対話」であり、その主体は「民衆」である。 

イスラムの民とも「対話」で解り合える日がくるだろうが、テロを支持し、テロを正当化するような「魔民」とは永久に解り合える日はこないでしょう。 

もっと重要な事はテロリストに対し「テロ」によって報復する事もまた「テロリズム」であることを銘記しなくてはならないということです。怒り、悲しみ、恨みといった感情に任せて「テロ」に走れば、それは「テロ」によって問題解決を図ると同義であり、それを認める事はすなわち、「テロリスト」の行為を認めるということです。この自己矛盾の解決こそ、もっとも「テロ」撲滅の近道になると信じます。 

同胞であるアメリカの「民衆」が受けた悲しみや苦しみは深く重いものでしょう。それは、平和ボケした日本国民には理解できないものなのかもしれません。しかし、われわれは理解する努力をしたいと願っています。そのうえで、冷静を保ち「友」に対して諫言できる「友」でありたいと願っているのです。 

邪な行為に「断固とした態度をとる」ことと「暴力に訴える」事は同義ではありません。 
願わくば、軍事力に物言わせ、罪のない「民衆」を虐殺するような事無きことを願い、祈らざるを得ません。 

2001/09/14発表

舞雨 寛


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