対話での一考



私達創価学会員は何かにかけて「折伏」だの「対話活動」だのと日々行っているわけなんですけど、その中にあってなにかと考えさせられることがあります。

この信心を続けているおかげで、それまでは考えなかった「哲学」「心理」「思想」と言う側面でさまざまな問題に直面するもので、とくにこの対話運動ではそれを目の当たりにさせられるわけですな。

そのひとつに「解釈(価値観)の相対化」という部分があります。

物事の真実を探求する際に、物事を絶対的見地から解釈する場合と、相対的見地から解釈する場合があるわけですが、本当にこういう部分というのは難しいものだと考えさせられますね。

よくわれわれが「この信心は素晴らしい。No.1だ」と確信を込めて言うわけですけれど、これは自分のしていることに自信があるからいえるわけで、例えばラーメン屋で「ウチのラーメンは日本一や!」ということと同じなわけですよ。

表現からするとそれは何か特別な「基準」があり、その基準を満たしているからNo.1と表現している様に見えますが実はこれはPRのひとつであって、何か絶対的な基準があるわけではなく、その根拠というのは実に経験的でかつ、曖昧な感覚によって為されている訳なんですな。

ある意味「誇大広告」のようなものであり、そういう部分では実に信頼できない側面があるわけです。こういうのを「相対的評価」っていうんですけども、表現では「絶対」という言葉が用いられているので「絶対的評価」と勘違いされてしまうんですな。

相対的であるって事は即ち、信頼できる絶対的な目盛り、基準みたいなものは無いということになり、常にぺターしか表現できないってことになる。わかりやすくいえばAとBと言うものがあるとA>BもしくはA<Bのどちらかしかいえないわけで、たとえ対象物が3つ以上存在しても常に「比較級」でしか物事は判断できない。それを「絶対的評価」と錯誤もしくは歪曲して論じられると大いなる誤解を生じるわけです。

対話していると良く、「絶対と言えるのならば証拠をだせ」といわれて実に辟易するのもこういう側面があるわけですな。

我々の信心というのは実に曖昧な「感覚的側面」がある。それは評価の対象が「幸福感」なる実に曖昧な感覚的実体によることに端を発するのですよ。わかりやすくいうと「幸せ」とは一体どういうことか?ということにつながります。

「幸福感」というのは極めて主観的な感覚である。それを否定することは出来ないでしょう。誰もが他人の幸福を推し量ることは出来ても「決め付ける」ことはできない。それを否定できる人は居ないと思います。
これは翻って、第三者的には「不幸」に見える環境下にあっても「幸福感」を感じる事が出来るということであり、また、どんな「幸福」にみえる環境下にあっても「不幸」を感じてしまうと言うことでもあるということです。

ということは即ち、先ほどの「絶対良くなるなら証拠をみせろ」と問われても、その証拠になる要因は「第三者」には「幸福」にも「不幸」にも見えるものとなってしまう。これはその「中」にある、当事者の「内部要因」にも光を当てない限り、その「真実」は読み取れないと言うことにもなるわけですな。

ところが対話の相手、所謂対告衆はそういう「内部要因」についてはまるっきり理解して無い場合が多く、多くは誤解に誤解を積み重ねてしまうわけで、こちらがムキになればなるほど余計にその度合いを広げていく傾向があるようなんですな。
これが実に「共通」している「クセ」みたいなもので、同じ誤解をするにも悪い方へどんどんと度合を広げてしまうのも、そういう方々の特徴です。

これを考えるに仏法では「仏と魔」という表現をしてますな。「仏」とは即ち「より良く変わろうとする力」のことで「如来(にょらい)」とも言われている。「魔」とはその逆で「悪く変わろうとする力」を指します。

物理学で言うところの「エントロピー」に対比できると私は思っていますが、その表現を使えば「仏」というのは「エントロピーを縮小しようとする力」であり、逆に「魔」は「エントロピーを増大させようとする力」ですな。

「仏の力」を発動させるときに、他からエネルギーを貰わなくてはならない、というところも物理学の「エントロピー」に対比できると思う。「エントロピーを縮小させる」為にはその対象に対してエネルギーを供給してやらなくてはならないというのも「物理学の法則」ですからね。

これが実は「そういう人たち」にも働いていると見ることが出来るわけで、物事を「悪い方向に解釈する」というのは実にそういう働きを如実に示していると見ることが出来るわけですよ。つまり、エネルギーの供給をシャットアウト(拒絶)しているわけですな。

でもたまに「よい方向へ解釈しよう」という人も居ることは居る。そういう人というのは常に「向上心」に燃えており、つねにポジティブな考え方ができる人たちなんですな、これが。こういう人というのは常に、自分自身の中に「ジェネレーター(発電機)」見たいなモノを持っているんでしょう。そういう人の回りには常に人が集まりやすいという特徴もあります。たぶん、その人の持つエネルギーが欲しくて集まるんでしょうな。

こういうことからもわかるように、物事を悲観的に捉えてしまうということ自体が既に、自分自身からエネルギーが逃げてしまっている状態なのであり、それの延長は「エネルギーに限度」がある限り、絶対的に「空(Empty)」になるのは目に見えているんです。

ところがそういう方は、そのようには考えない。これもまたやっぱり「エネルギー」が低下しているからなんでしょうけど、自分はまともである、と絶対的確信を持ってしまっている。エネルギーの高い人はそういうことを肌で感じれるから逆に「相対化」できるのでしょうが。

ちょっと取り留めない話になってしまったけど、対話活動を続けていてそういうことを考えてしまう舞雨 寛でした。

2003/11/04発表


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