「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」の映画パンフ
私がアニメファンになったのには理由があります。
それは今から28年前に遡りますが、日曜夜7時半より日本テレビで放映していた「宇宙戦艦ヤマト」という作品にめぐり合えたからです。
その頃の私は、マンガ(今風に言えばコミック)が好きで、とくに松本零士氏の作品が非常に好きでした。「男おいどん」「ワダチ」を始め「ザ・コクピット(当時は戦場まんがシリーズと称していた)」「大四畳半物語」などといった作品などを実際にコレクションをしてました。
あの独特のメカニック表現。馬鹿でかい計器とレバーが、暗がりの中で光っている様子。それだけでは有りません。ブサイクだが妙な温かみのある男性キャラと、それらに比較するといかにも線の細そうな女性キャラに魅力を感じまして、いつか自分もあのような女性キャラクターが描けるといいな、といつも思っていました。
結果的に男性キャラは物真似出来ましたけど、女性キャラはダメでした。
ある日、テレビのCMで新番組の紹介をしてまして、何気なくみていたところどうも今までのアニメ(当時はアニメというよりマンガ映画と呼ばれていました)とは違い、ちょっと真面目くさったものだなという感じを受けていたんです。正直、あまり見たいという感じは受けなかったんです。
ところが放映第一日目のエンディングを見たとき、はっと思い当たりました。見たことのあるキャラが画面いっぱいに映っているじゃありませんか。間違いない、松本零士のキャラだ、と思わず声を上げてテレビのブラウン管にかじりついたのです。
残念でした。そのとき私は裏番組(たしか、アルプスの少女ハイジだったと思いま
す)を見てまして、それがほぼ終わったので何気なくチャンネルを回していたときだったのです。とうぜん第一話を見落としてしまいました。
次の週には最初から見ることにしました。あの、「さらば〜地球よ〜」から始まるバージョンの歌に「男らしさ」というか「重厚さ」を感じまして。それからAパートが始まり、いまだに忘れませんな。赤い地球の地平線から登る太陽の姿。素晴らしいの一言でした。あっという間に放映時間が過ぎてしまい、なんか物足りなさだけが残る番組。じつは後に幾つかそういう番組に出会うことになるんですけど、私にとって最初の作品が「宇宙戦艦ヤマト」だったんです。
あれから幾星霜。ヤマトの再放送が切っ掛けで作品がブレイクし、続編が次々と作られました。私は見事作品にはまり込み、全ての作品に目を通すことになったわけです。時には泣き、時には笑い。最後には怒りさえ感じるくらい作品に没頭するようになったのですが、後にも先にも「ヤマト」だけじゃないですかね、あれほどハマったアニメ作品は。
ところがです。その「ヤマト」にキズを付けられるような事件が起きました。知る人ぞ知る「ヤマトプロデューサー西崎義展氏」による不祥事でした。
私の周囲にも幾人かヤマトファンが居たのですが、みなあの事件でヤマトファンを辞めてしまいました。彼らの思いも私は分かるつもりです。あれほどの作品を創りあげた人にしては、随分と愚かな真似をしたと思います。しかし、私はヤマトファンをやめられませんでした。
いまも「自称第一期ヤマトファン」を自認しています。これには意味を込めているのですが、私は一応「ヤマトファン」として全作品を支持していますが、個人的には「新たなる旅立ち」以降は好きではありません。
特に「完結篇」に至ってははっきりと「駄作」の評価を下しています。
私が個人的に認めているのは「宇宙戦艦ヤマト」「さらば宇宙戦艦ヤマト -愛の戦士たち-劇場版」のみです。「ヤマトPART2」は評価相半ばですし、「新たなる旅立ち」以降「PART3」「ヤマトよ永遠に」までは「別作品扱い」で「ヤマトであってヤマトでない」と思っています。それでも、別作品と考えればそれなりに評価できるなと思える程度には内容を「買っている」つもりです。
ところが「完結篇」に至っては「別作品であっても認めるものか!」とまで思い込んでいる次第なんですな。
正直、「ヤマトファンをバカにしている」とまで思っています。
ちなみにどこが気に入らないところなのかを羅列してみますと次のようになります。
1.宇宙戦艦ヤマト艦長・沖田十三を「復活」させたこと。
第一作で主人公でかつ「英雄」としてまさに「男の生き様」を見せ付けた「沖田十三初代艦長」を復活させ、さらに再び平和の名の下に「殉死」させました。ヤマトファンにとって「沖田十三」はまさに「英雄」「HERO」そのものでした。自ら病を押して前人未到の宇宙へ出征し、最後には全身ボロボロの状態で地球までたどり着き、自らの使命を終えて静かに旅立った沖田十三の姿に、「男の中の男」を見たものです。つまり、そこで完全に「沖田十三」という漢(おとこ)の人生は完結しているんです。
それを、「適当なキャラが居なかったから」「早く死なせすぎた」という、中途半端な理由で「復活」させることは、はっきり言ってヤマトファンの中に作られている「沖田十三初代ヤマト艦長」の偶像を破壊する行為です。
しかも、その「復活」させるプロセスがいけない。「佐渡酒造医師の判断ミス」
はっきり言って「陳腐」です。全然realityがないし、必然性もない。取って付けたような、と言うのはまさにこれ。ふつう、こういう状態を「手抜き」と言うもんですな。プロフェッショナルがやることではないし、それでヤマトファンを納得させられると思っていたならば「ファンを舐めている」としか言いようがない。
2.究極の愛の姿と称して、作品の中にセックスシーンを盛り込んだこと。
「究極の愛とはセックスだ」という論にケチを付けるつもりはない。そんな個人的で勝手な思い込みをするくらいは自由と言うものだし、表現の自由もあるのだからそれは勝手に考えていればいいこと。ズボズボヌタヌタビショビショ勝手にしてくれと言いたい。
ただし、それは別作品で表現してくれ。ヤマトという作品には会わないシチュエーションだ、と。
あえて下衆な勘繰りをさせてもらえば、セックスシーンを盛り込んで「若い男女」のもつリビドーに衝撃を与え、話題性を高めようとしたのかもしれない。要は「ウリ」のひとつと計算したのだろう。
しかし、元々ヤマトは「男の世界」の話がベースになっている。死ぬか生きるかの闘いの人間ドラマだ。その分野における、未だかつて名作と呼ばれる作品のどれに、少女マンガのような甘酸っぱいセックスシーンなどがあったろうか。
むしろ、戦時下に必死に生き残ろうとした「赤線(売春宿)」の売春婦(慰安婦)の荒々しくも哀しい性行為のシーンだったならば、まだ「ヤマト」には似合っただろうけども。
しかも、最初から鳴り物入りで出した以上それを突っぱねるのであればまだしも、ビデオになったとたんにそのシーンをカットして差し替えてしまう「姑息さ」。まさにミエミエなのだ。
さらにもうひとつ。最後のクライマックスシーンでの「沖田十三艦長の自爆」である。
これによって製作側の言い訳はどうであれ、沖田十三艦長復活の意図ははっきりと見えた。
理想に燃える「自爆テロ」要員としての存在価値である。
其の他細かいところを上げたらキリがないが、とにもかくにも「完結篇」の不完全さには非常に腹立たしい想いを依然として持っている。それだけは確実に。
でも、そういう状況であるのにいまだ「ヤマト」に対して憧れというか、ノスタルジックな思いを抱いてしまうのはどういうわけなのか。いっそのこと「ファン」を辞めてしまえば楽になるのにと思うのだが。
つい最近、ヤマトの新作が作られると言うウワサがたった。それ以前にも、ヤマトの新作として「ヤマト2520」という作品が作られ、それなりに面白さを感じたこともあるが、西崎氏の不祥事発覚とともに作品は中断。それ以後ヤマト新作の話は聞くことが無かったのだが。
どうやら「西崎氏」の方は「ヤマト復活篇」なるものの制作を意図しているようだ。しかも、そのあらましをHPに公開しており、さらにその親族らしき人が代理人として製作に入ろうとしている。しかし、著作権のうち「人格権」しかもたない西崎氏は、「宇宙戦艦ヤマト」の続編、しかも「前作」にかかわる設定を含む部分については、不祥事が発覚した際に東北新社に売却(ウエストケープコーポレーション倒産の際に、債権償却の目的で売却された)されたようで、作品として制作するには東北新社の了承が必要となっているせいで、すぐ制作に入れないようだ。
まあ、ファンの間ではどういうわけか東北新社を逆恨みしているようなのも見受けられるが、それはひいきの引き倒しのような気がする。確かに西崎義展氏は「ヤマト」の著作権のうち、著作人格権を持っていると認められているが、それはあくまでも作品の人格権のみであり、映画やテレビの「作品」としての「商標権」其の他はすでに、ウエストケープの倒産の際に「残留資産」として処分されており、その権利を承継しているのは誰が見ても「東北新社」であることは間違いない。
よって、新規作品として過去の作品設定を「流用」するのであれば最低限度「東北新社」の了承を得ない限り不可能。
どうもそこのところを踏み間違えたのか、西崎氏側の行動によって東北新社のほうが「へそ」を曲げてしまったようだ。ということは当分、新作は作られることはないだろうというのが私の個人的見解ですな。
それに、新作についてですが、私個人の意見としては、正直言ってあの「復活篇」のプロットは嫌いだね。というのはあまりにもヤマトの古い体質がミエミエだからだ。
つねに新しい設定を設けて過去のストーリーを無視するかのようないい加減さがにじみ出ている。
具体的には「ブラックホール」の設定がいい加減だ。そもそもあのプロットでは小松左京氏の作品「さよならジュピター」のミディアムブラックホール設定の方がまだrealityがあるし、説得力もある。
第一、前作やPART3で銀河系内周辺にすでに人間が生息している惑星が多々存在していることになっているのに、なぜたかが100年以内にあのような「天災」ともいえる現象が起き得るのか。ましてブラックホールという、ある意味致命的な存在に、無理に「有利な設定」としてワームホールの特性があったなどと規定するに至っては笑いが止まらぬ。
現時点での宇宙論では、たとえ「量子論的思考」を持ってきたとしても、ブラックホールに「次元トンネル」の意味合いを盛り込むなんていうのは出来ない。まして、ワームホール(宇宙の虫食い穴)とブラックホールではそもそも大きさが違うとされている。ブラックホールは大質量星が自らの重力に耐え切れず、重力崩壊した結果、重力の穴として存在するしかなくなった星のことであり、それに接近する物質は所謂シュワツシルトの半径(重力速度が光速となる半径)に至る前にその強大すぎる潮汐力によって分解してしまう。つまり、ブラックホールの内側へはどんな想像力を働かせても「量子」単位でしか入れないのだ。
それを避けえる素材としては「ワームホール」という存在があるが、彼の有名な理論物理学者ホーキング博士の著作に寄れば、その発生はかの「ビッグバン」の頃にまで遡ることが出来、その存在も十分に現時点の「宇宙論」では存在を推測できるようであるがいかんせん、ホールの大きさが素粒子レベルだと言う。つまり、原子や分子単位では、その「穴」を通過できないらしいことが分かっているようだ。
まあ、想像を豊かにして組み立てられている情報をクオークレベルに落とし、その情報を素粒子に織り込んで投入し、ワームホールを出たところで織り込まれた情報を解凍して復元させる、という空想はできるだろうけど、どうしても「自然界」にそのようなプロセスをもつモデルがないので、やはり自然現象としてある、という意味での説得力には欠けるだろう。
まして、乱暴にも「ブラックホール」に地球を飛び込ませて、別次元の世界に再生できるとする「空想科学ストーリー」は、まだブラックホール研究自体が進んでいない1990年代初頭であれば、利用可能であったろうけども、現在2003年に於いては既に「古くて使い物にならない」設定となってしまっている。
言うなれば「零下300度の冷凍光線」と同類の設定になっていることに気づかなくてはならない。まして、ヤマトファンの真面目な部類に入る連中は、ヤマトのおかげで「宇宙論」に興味を持った人間が多々居ると聞く。ならば、その設定におけるrealityは、現時点における科学知識で十分に説明可能なものとすべきだろう。
まして、話の中心にあるイベント設定が陳腐になってしまっているというのは、言うなれば、フランス料理でコースのメインディッシュになっている「生牡蠣」がくさってしまい、前菜とデザートで腹を満腹にせよ、と言っているようなもの。
はっきり言って「喰えたものではない」ということである。
その検証さえ行っていない「手抜き料理」を、常識ある人間が喰いに走るものか。
よほど「食事に飢えた」死にかけているホームレスだったならば喰うかもしれないが、最低限度の文化的生活を営むものならば、そんな腐ったものは喰わんだろう。
食あたりを起こして死ぬのは真っ平ですからな。(^_^)v
ともあれ、私個人としては宇宙戦艦ヤマトのストーリーを西崎氏に限定するような考えは持ちたくない。むしろ、ヤマトに感化された若いクリエーター達によって「新しいヤマト」が作られることを望んでいる。そして制作が(株)エナジオでなくても別に構わない。東北新社でもいいとさえ思っている。
要は「面白いヤマト」を作ってくれるのならば誰でもいいのだ。
もちろん西崎氏を疎外するものではない。西崎氏が面白い設定と話を作れるのならばそれに越したことはないが、少なくともいまの「復活篇」のプロットを見る限り、その発想の遅れは哀しい事ながら明らかに思えてならないのである。
2003/11/23発表
2004/09/10改訂
舞雨 寛