鬼畜といえば…

 

法華講連中もそうだろうな。

今回のような「イラク人質事件」でも、「創価学会誹謗」のネタにしてしまえるのだから。


しかし、彼らの頭の中ってどうなって居るのだろうか?


こういう「政治問題」になると彼らの頭の中は「誹謗中傷」をしたいがために多分「狂う」のかもしれない。

まったく「仏法を信じるもの」にとっての「基本的な思考」というものが出来なくなるらしい。

例えば以前「阪神大震災」が起きたときもそうである。彼らはその原因を「創価学会が偽本尊をばら撒いたからだ」としたのである。まあ、御本尊の真偽なるものだとて、その論理は「宗教権威主義に則ったいかがわしいもの」であるのだが、仮に百歩譲ったとしても「阪神大震災」という災難に会われた人たちは、一部学会員もいたけれどもそのほとんどは、学会はおろか宗教とは直接関係ない人たちだ。

そもそも彼らの言う「偽本尊」はべつに関西の、それも神戸周辺にだけ配布されたものではない。全国一斉に配布されたものである。それなのに何故「阪神大震災」だけが惹起するのか。
仏法は基本的に「公平」である。「功徳」も「罰」も分け隔てなく顕れるのだ。だから「差別なく平等」であるといえるのだ。それなのに、何故「偽本尊がばら撒かれたから阪神大震災が起きた」と言うことになるのか。

因みに大聖人の御在世のとき、正嘉の大地震というのが関東地方に起きた記録がある。関東地方を中心に起きた「関東大震災クラス」の大地震で、御書や吾妻鏡などと言った古文書からも、この地震によって多数の死傷者が出たと言うことが推測されている。

これを大聖人はどう捉えているか。


 「人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す、瞋恚の大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり、此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり」(瑞相御書)


これは御書の一文であるが、ここから見ても「自分(大聖人)が鎌倉に居るから、みな自分を恨むような人が多数増えた為に、こう言う災いが起きた」とかんがえていたと言うことだ。

大聖人はそれ以前より、間違った仏法が弘まっていることを叫び続けていたが、誰もそれらに耳を傾ける人たちは居なかった。むしろ、悪口雑言を浴びせかける人たちばかりになった。そういう人たちが増えたから「地震」と言う形で災難が発生した、と言うことである。大聖人はそのとき「鎌倉」に居たから鎌倉を中心にして災難は大きくなったとされている。
吾妻鏡などでみると、鎌倉の街中は建物が全壊し火災がおき、材木座海岸では津波まであって避難してきた人たちが全て、波にさらわれたと言う。

この場合は大聖人が「鎌倉」という都市におわしたことが、正嘉の地震での災害が「鎌倉」に集中した理由になっているのだが、阪神大震災が何故「神戸・明石」のような阪神地域に集中していたのかの理由がないのである。彼らの言う「偽本尊のばらまき」とやらが理由なのであれば、その被害は全国的でなくてはならないだろう。そういうところから言っても全くの「牽強付会」以外の何ものでもないのである。


むしろ、その地震が起きたあとの、正宗寺院および法華講信徒の姿こそ非難されるべきものであろう。


地震直後、正宗寺院のほとんどは何を恐れてか門を閉じ、だれも門内に入れることはなかった。正嘉の大震災のときはたとえ「邪宗」とはいえ、寺院は門戸を開き、被災者の救護センターとしての機能を果たしていたことが知られているが、阪神大震災のときは、被災者救護は愚か「暴徒がやってくる」というデマを信じて被災者の救済は愚か、締め出しまでしていたのである。

それに比較して「創価学会」は会館を開放し、被災者を収容するだけではなく、毛布・布団等寝具の提供や、炊き出しなどを行い、青年部などはバイクや自転車などによって物資の輸送、情報収集等のために街中を走り回った。それによって多数の被災者の救援に貢献したのである。

のちに創価学会はその功績により、感謝状をもらったのであるが、正宗や法華講連中は何もしなかった。ただ、自分たちの無事だけを喜び、被災者救援に走って人気を上げた創価学会を妬むだけでなく、「偽本尊が配布されたからその罰で災難が起きたのだ」と言う、大聖人の仏法を知るものとは思えぬ「愚劣」な誹謗中傷をしたのである。


今回も「某サイト」では、イラクの人質事件に引っ掛けて、名誉会長をこき下ろすような発言が述べられている。
まあ、関わりあうのさえ馬鹿馬鹿しいのでそのサイトに発言するのは控えるが、何も言い返せ無いからだ、と言われるのも癪なので幾つかのポイントをここで示しておこう。

そもそも「政治団体」と「宗教団体」とは、問題解決の手法が違うのだ。

「政治団体」は基本的に「駆け引き」で問題解決をすることになる。世論誘導、武力行使、交渉などがそれにあたる。
「宗教団体」は「宗教行為」によって問題を解決するのだ。

折伏、対話を中心とした思想拡大による活動。それらによる「啓蒙運動」こそが宗教団体として問題解決を図る活動になるのである。

それを「交渉」や「デモ」というような、それこそ宗教の立場から言えば表層的な行為を持ち出して問題解決を迫るなどといった、まさに「宗教を知らぬもののタワゴト」としか思えないことを平気で口に出来る。その「精神」こそ批判されるべきものであることは間違いない。

まして彼らは「自称・大聖人の弟子」と言うのであるから、あいた口が塞がらない。「因果の理法」を信じて居なければならぬはずなのに、表層の事象ばかりに捉われているからこそ出来る批判なのだ。

まして、自分でさえ「出来ない」ことをあげつらって批判をしている事実に気づけないほど、彼らの思考は異常になっている。これを仏法では「頭破作七分」と呼んでいる。まさに、大聖人の仏法を行事ているひとを「誹謗」するがゆえの実証であろう。

普通、自分で当然のごとくできることを掲げて、他人を批判するものだ。しかし彼らはそうではない。自分で出来もしないことを、相手に要求して「出来ない」と決め付けての一方的な批判である。これは、一言で言って卑怯この上ない批判だ。

自分も出来ないことは、他人にも出来ないことと考えるのは当たり前のこと。むしろ、相手が出来て自分が出来ないことがあるものだから、相手の出来ないことをあげつらうだけではなく、それによって自分の出来ないことからも目をそむけ、自らの「無能」を忘れるが為の批判なのだ。


つまり、そういう「法華講連中」は基本的に「無能」である。それがゆえに「卑怯な批判」で自分を慰めているに過ぎないのである。


ついでに言わせてもらえば、何もアクションを起こしていないと言うのはべつに「必要を感じていないから」と言うことであって、それは「公明党」なかんずく、現状の政府に一任していると言うことに他ならず、他の弱小政党のような「パフォーマンス」で参議院選挙の人気取りをしようというような「下劣な下心」を持っていないと言うこと。

それをあえて「騒ぎ立てる」のもやっぱり、力のない組織及び個人の「パフォーマンス」であることに気づいて欲しいものだ。

舞雨 寛

(2004年4月13日発表)


戻る