教育の世界と現実

 

23年ぶりの、「リベンジ」というには遅すぎる感のある「挙」ですが、それでも「やった」という達成感というものはいいものです。
こういう「達成感」を「感じる」にはやはり、仲間による「お祝いの言葉」というのは重要な働きをするものですね。改めて感じる次第です。

「子供を育てるには褒めることが一番」と聞きます。つまり、教育の世界ではこういう事(褒めること)は重要なファクター(要因)であると思います。

高校は出たが「仕事」がない。大学生が多すぎるから、という人もいますが私は必ずしもそう思わない。これは、私が社会人になって痛切に感じたことでもありますけれど、正直言って「高校卒」は使い物にならない。言葉を言い換えれば「高校卒業程度では社会の役には立たない」ということです。

まあ、すべての高卒がそうだとは言い切れませんけど、一般的に高校卒業で就職してくる人たちは、自発的に勉強をしようという態度が取れない。いつも、まるでツバメの雛のごとく「口をあけて待つ」習性が染み付いてしまっているというのが実感です。

これもある意味しょうがないことで、高校教育が「準義務教育化」してしまったことと無関係ではないでしょう。昔の「高校」というのは、自らの強い意志で「教育を受けたい」と志したものだけが受けられるものでした。ところが今は「義務」ではないが「たいていは受けるもの」「受けるのが常識になっているもの」になっている。逆に「受けない者」が非常識というものであり、受けないと何らか人格・環境等に「欠陥」があるのではないかと思われてしまうものになっています。

そういう意味で「自発的」でない環境下で「教育」を受けるとなれば、ツバメの雛状態になるのもやむを得ないのではないか。人の指示を受けない限り、自分に直接不利益が被ってこない限り自分で「教育を受けよう」と考えないのではないか。
私は少なくとも、そう感じます。

私の場合は高校を卒業したあとに二年間、専門学校で「専門教育」を受けたわけですが、そのときに初めて「勉強とはこういうものなんだ。」と感じたものがありました。それまでは「勉強」といえば、誰か指導教官がいてその人の講義を聞いて内容をなんとなく理解するもの、と思っていたわけですが、専門学校に入学して勉強をはじめるとそれが「違う」事に気づいたのです。

その第一がまず、「自分で疑問を持つこと」がスタートになったことです。

私は普通科高校出身ですから、電気関係の知識はそのころ趣味だった「アマチュア無線」程度。それも最低のレベルである「電話級(現行法では第四級)」程度しかありませんでした。

だから、何か「回路」を組んで電気機器を作ったり、修理をしたりということが一切出来ませんでした。無論、回路図を読んで動作を理解するどころか、回路さえ読めなかったわけです。
「どうして電波を飛ばしたらいいのか。」
「どうしたら電波を受信して、信号を取り出せるのか。」といった、基礎中の基礎さえわからないでいたわけです。

同じアマチュア無線をしている仲間が、簡単に機器を作って遊んでいるのを見て、どうしてああいう機器が作れるのか不思議な気持ちでみていたものでした。

だから、専門学校で「電気回路学」「電子回路」「回路網理論」などといった授業はそれこそ「夢中」になって勉強したものです。それこそ教科書だけでなく、講師の先生にもかじり付いて質問を浴びせましたし、同級生などにも連絡をとりながら一生懸命に勉強しました。
生まれて初めてでしたね。あとにも先にもあのときほど「勉強」を意識したのはありません。ふと、勉強とはこういうものではなかろうか、と思ったわけです。

自分で疑問を持ち、参考書はもちろんのこと指導教官や同輩たちの協力の下、持った疑問を積極的に解決していく。そのプロセスの最中に新たな「知識」が増えていく。それこそが本当の「勉強」ではなかろうかと。

実は後に、そういう勉強の仕方は「学問する」ということだと知りました。実はこの姿勢こそが、社会において大切だったんです。

「教育」というのは、つねに「上から下」へ「知識」が流れていきます。高校ではそれが「先生」から「生徒」へですね。だから必要な「知識」は常に「上」が準備をし、「下」はそれを受け止めればいいだけの話です。
だから、「下」は常に「上」から「知識」が流れてくるのを待てばいい。また、流れてきた物だけを「受け止める」だけで目的は達成されます。

ところが社会に出るとそうではない。確かに一部は「上」からの指示で問題解決をすれば事足りる部分もありますが、「仕事」となるとそうはいかないのが一般です。
そもそも「教科書」なるものが存在しないのですから当然「模範解答」というものも存在しないわけで、結局評価されるのは「目的の達成度」でしかないわけです。

どれだけの商品を売ったか。
どれだけのものを作ったか。
どれだけ客を喜ばせたか。

それが全てなんです。そういう「結果」を出すためには、「上司」が、「客」が、あるいは「会社」が、何かを要望したり要求したりしてくるのを待っていては仕事にならないのです。逆に積極的に先を読み、してくるであろう「要求」「要望」「苦情」を先取りしなくては、お金にならないのです。

そのためには「何か問題か」を常に把握し、疑問を持ち、解決していくプロセスが必要であり、それを自発的に行うことが出来る人が求められている。単に言われたことを言われたままに忠実にこなす人ならば、代わりになるものがいくらでもいる現在、存在価値が皆無なんです。

だから「高卒」は「使えない人が多い」というのは真実なんです。

それでも従来は「会社」の中で「再訓練」することにより、人材化することが出来たので、使えない「高卒」も雇うことが可能だったわけですが、その過程と言うのは実は「投資」であり、お金が必要なものです。お金が必要ということは景気がいいときは気になりませんが、景気が落ち込んでいるときは目立ちます。投資が必要な人材と不要な人材があれば、迷うことなく不要な人材を採る。それは「経営」「経済」の世界では常識のこと。結果として「高卒」の採用が減るのはあたりまえのことになってしまうのです。

大学を卒業した人はそういう「学問する」という訓練を受ける機会に恵まれています。一般に「ゼミ」なんていいますけど、卒業間近になると自分の専門分野で、自ら研究テーマを見つけて自分で調べ、問題解決を図って研究結果を発表することをします。

ゼミには指導教官がつきますが、高校のように「模範解答」を提示することはしません。ただ、解決の方向を提示するだけです。解決するのは自分なのです。

そのゼミをまじめに努めていれば「学問する姿勢」は鍛えられます。自分で問いを発し、自分で問題解決を図るといったプロセスを「学ぶ」ことができる。これが重要なんですな。それがスムーズに出来る人こそが社会では求められているのです。

ところが「高校卒」ではそれが出来ないのです。「準義務教育」であるため、人が多すぎるのもそうですが、効率を重視するあまりに「詰め込み」する傾向があるのも問題です。だから、つい「上意下達の知識伝達」に終始してしまうわけで、生徒に問題があるというわけでは必ずしもありません。

また、教師にも問題があるでしょう。

私が学生時代の風潮として、「教師」になる一番のメリットとして叫ばれていたのは「安定した職業であること」でした。たしかに「公務員」であるし、小中高の国公立学校ならばお金は「税金」からでてくるから「売上」だとか「業務効率化」というものは、「民間企業」ほど気になるものでもないし、プレッシャーもかかりにくいといえます。
それに「教師」というだけで社会的信用があらかじめ付与されているのも魅力だったわけで、とにかく一生「食いっぱぐれのない職業」として認識されていた部分はあったように思います。

そんな意識で「教育の世界」に入れば、保守化するのが目に見えています。教育をどうするか、などという本質的な問題など 考えているつもりになっていて実はさほど考えてはいない。制度にあぐらをかくのが当然とばかり、逆にどこがわるいのか、などと逆切れするのがおちとなります。

事実、「変わらなくてはいけない」などと叫んだ東京都などは、さまざまな打ち出しを行い、変革しようと努めたが「教師レベル」での変革が出来ていない現実が明らかとなっています。個人の所為というより、システムとしてそうなってしまう。

そもそも「社会人」の経験がない「教師」が、社会で求められている人材がいかなるものであるのか知る由もないのは当然であると思います。結局は「大学進学の予備校化」するのが関の山。自分たちの経験している「お受験」でしか、教育効果を実感できない、ある意味「超保守的思考」を当然として受け入れるしかない「お役人意識」しかもてない人材しか集まっていないのが実情でしょう。

必要なのは「校長・教頭」には「経営感覚」。主任クラスの中堅教師には「専門知識」、そして新人・一般教師には「社会経験」ではないでしょうか。ところが、どこの「教育委員」もそれらに気づいてはいない。むしろ「学習内容」だとか、個人の資質だとかテンで関係ない分野にばかり目が行っているように思えてなりません。

もっとも大切なのは「現場感覚」のはずなのに、改革内容を提示している人たちが一番、現場から遠い人たちであることもまた「不幸の要因」といっても良いでしょう。
「劣等生の気持ちは、優等生には理解できない。」
「上流貴族ほど、社会に鈍感な階級である。」

上記の命題が真であるならば、彼らがしている改革なんていうものは、お茶を濁すための道具でしかないはず。現場で辛苦している熱意ある人材を、腐らせてしまうことにもなりかねないのが現状ですよ。

そういうような問題点を積極的に把握して問題解決できるような「システム」を作り上げない限り、今の教育システムでは社会に貢献できる人材育成なんぞ出来ないと思っています。

それを思うと「高卒は使えない」という企業判断は、いささか独善過ぎるようなものではあるが、的を得た判断といえるのかもしれません。

舞雨 寛
(2004年10月30日発表)


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