風の谷のナウシカ


「風の谷のナウシカ」原作コミック

 

先日久々に「風の谷のナウシカ」を鑑賞しました。思えば1984年に映画館で初めて見たとき、なんだかわけのわからんストーリーだと思いつつも、その背景の分厚さゆえに理解できない不思議な「感動」を覚えたのをはっきりと思い出します。

ところが人間と言うのは成長するんですね。今になるとこの作品の素晴らしさが良く理解できます。

原作も好きで、これを読みたいがために「月刊アニメージュ」を買い続けました。途中でよく連載が休止され、それでも再開が気になって雑誌を買い続けたものです。

この作品の素晴らしさを一言で言えば「生命の賛歌」と言うことでしょう。「火の七日間」という、「最終戦争」をイメージする悲劇から1000年。わずかに生き残った人類は「腐海(ふかい)」と呼ばれる蟲(むし)と瘴気(しょうき)に包まれた独特の生態系を持つ森に生活圏を奪われつつも、そのほとりで静かに暮らしている。

実はこの森も蟲達も「人工」の生命体で、「火の七日間」で汚染された土壌を「浄化」するべく先人たちによって産み出されたもの。しかも、実は今生きている人間たち(ナウシカやクシャナたち)も、腐海が発生する毒(瘴気)に対してある程度の「耐性」があるよう「改造」が施されている。

つまり、この「ナウシカ」が居る時代は総てが「人の手によってつくられた生命」が全盛の時代とも言えたわけです。

その中で「ナウシカ」は自らの行動によって、次第にこの世界の真実に近づいていく。そして、最後には「先人たちが隠しておいた幻の生命工学の技術」を葬り、自らの力で「腐海」や「蟲」たちと共に生きることを誓う、と言うのがストーリーです。

その中の、最初のほんの一部が「アニメ映画化」されたもの。それが劇場版の「風の谷のナウシカ」なのです。映画では最後のシーンは、武器として人工的に引き起こされた王蟲(おうむ)の大暴走を「ナウシカ」が身を以って止めるといった悲劇的な物語ですが、ところがどっこい、さらに「奇跡」が用意されていてナウシカは王蟲の力によってよみがえると言った、結局はハッピーエンドになるという「お決まりのパターン」でありますが。

この物語のポイントは「人間のエゴ」と「自然」の対比だと思っています。このような「斜陽」の世界で人間は如何生きるべきなのかと言うこと。
それは、二人の重要なキャラクター、風の谷の族長の姫「ナウシカ」と強大な軍事国家トルメキアの王女「クシャナ」によって語られます。
クシャナは自らの力で「自然」を征服することを主張します。自らの半身も蟲たちに食われながらも「腐海を焼きつくし、蟲たちを殺しつくすこと」を主張するのです。
それに反し「ナウシカ」は腐海と共に生き、蟲と共に暮らすことを主張します。

これは極端に言えば西洋思想と東洋思想ともいえるでしょうな。西洋思想は常に自然を「未開発の対象」とし、自然を人工のものに作り変えることが「文明」であり「開発」であるとしてきました。ところが東洋思想はそのような自然を受け入れ、協調することによって文明を育ててきました。日本では「里山」と言うのがあります。それ自体は「自然」ではありますが「自然であって自然でないもの」が実は「里山」です。

山は下草が刈られ、木は間伐されて日光が降り注ぎ、その柔らかで暖かな場所に山菜が生い茂ると言った、一見何も存在しないようで実は豊かな場所。それが「里山」なんですからね。

クシャナはそういった考えを持つ「ナウシカ」に反発を抱くのですが、次第にナウシカ自身に惹かれていきます。アニメでは最後に風の谷やトルメキア、ペジテなどといった国々が一つになっていくようでしたが、コミックの方ではそれらに「土鬼(ドルク)」といった、もともと巨大な文明国家群の末裔たちが作った「宗教国家」も「ナウシカ」のもとに集まってきます。

クシャナはこののち、戦争で疲弊した母国トルメキアを再生させ、後の世の人々に「トルメキア中興の祖」として称えられるまでになりますが、自身は「王」を僭称せず、終生「“代”王」を名乗り続けました。
これは、自身「ナウシカ」を王と認め、その代理人としてトルメキアを治めたということなんですね。

アニメでも「ナウシカ」は族長の娘以上の地位にはなっていません。しかし、誰もから愛される「姫さま」「姫姉さま」として、結果的にみんなを引っ張っていきます。この話の後日談を想像するとき、細々ながらもまさに「人間的に」生き抜いていったんではないかと思えますね。

宮崎さんの作品にでる「女性」というのは、誇り高くまた「強い」女性が多いですね。ナウシカもクシャナもたくましさでは負けていない。唯一、ペジテのアスベルが男性代表でたくましさの片鱗を見せますが、やはり力不足は否めません。まだ「青二才」と言う感じがして、どうも弱弱しさが見えてしまう。

まあ、剣士ユパ・ミラルダが「父性」を見せますが、ちょっと次元が違いすぎる。なにしろ、そんなユパも最初は「ナウシカ」に救われるのだからやっぱり「頼りない」存在かも。

まあ、いずれにせよこの作品は実に奥が深いですよ。単に「環境問題」のシンボル映画だと割り切るのはあまりにも感性が拙い。人によっては別の捉え方も出来るかもしれない。そんな気にさせる作品です。

何度も鑑賞して、自分なりの「作品の捉えかた」にチャレンジしてみてくださいな。そんな作品です。

舞雨 寛
(2005年4月27日発表)


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