ふるさと


酒田市中野俣から見る胎蔵山

 

人はいう。
「私のふるさとはここだ。」

「ここ」ってどこ?
生まれ育った場所?
今生きている場所?
これから「生きよう」としている場所のこと?

私の生まれた場所は、山形県酒田市。そこの旧飽海郡平田町。
JR羽越本線でいうと余目と酒田の間に有る、名のあまり知られていない駅、砂越(さごし)。

そこから町営バスで20分ほど山奥に向かうと、奥羽山地の山襞に挟まった小さな集落がある。中野俣(なかのまた)という。近くには胎蔵山(たいぞうさん)と呼ばれる標高729メートルの山があり、その奥には経ヶ蔵山。そして、集落の真ん中には最上川の支流のひとつである中野俣川が流れる静かな山里だ。

1961年7月11日に鶴岡の産婦人科で生まれ、それからから一年余。私はそこで育ったという。しかし、家庭の事情とやらで翌年には東京へ家族と共に上京。住んだのは大田区大森。しかしそこも僅か1年余りで引越し、神奈川県相模原市渕野辺のアパートに移り住むことになる。

さらにそこも一年しか住まず、次に移り住んだのは同じ神奈川県横浜市戸塚区相沢原。今の瀬谷区相沢である。しかし、それも長くは住まなかった。同じ瀬谷区内を転々と移り住み、下瀬谷に落ち着いたのは1978年の夏だった。
つまり、私は家庭の事情で一つ処に落ち着いたためしがないのである。

一番長く住んだ場所と言えるのは実は下瀬谷で、約10年間住んでいたことになるがそれもまもなく、現在の埼玉県児玉郡神川町に取って代わられることとなる。と言うのも、神川町に住むようになってから今年で10年になるからだ。

このように私の生きてきた44年間のうち、一つ処に10年以上落ち着いたことがないということは、私の中に「ふるさと」という思い入れの場所が育たないと言う結果を生み出したのである。

皆が「ふるさと」について語るとき、自分にとって「ふるさと」ってなんだろうか、と思う。物心ついたとき、既に横浜市に住んでいたがそれも「会社の家族寮」や「アパート」暮らし。小学校のクラスに行けば「友達」や「仲間」はいたかもしれないが、向こう三軒両隣に住むという「幼馴染」はついに出来なかった。

親戚はみな「山形県内」に住んでおり、横浜には一人も居ない。つまり、「横浜」と言う場所に私自身を縛り付けるものは何もなかった。ということは、横浜という場所で私自身は「客人」でしかなかったのだ。

父も母も、山形で生まれ育ったために、父母のふるさとは「山形」だった。「山形」に行けば親類や友達・幼馴染がいまだに居るし、両親の墓も有る。幼い時に走り回った野や山、川、海などが存在し、そこに思い出も存在する。

私もそういう意味では「横浜」に様々な思い出が有るが、その土地に根付いた思い出が有るかといえばそうでもない。どこからか移り住んだ人間としての思い出しか存在しないのだ。どこまで云っても「客人」としての思い出しか存在しないのである。

やっと「住む土地」を得たものの歳は既に16歳を過ぎていた。しかも、小中学校が存在する自分が成長した土地ではなく、全く違う余所の土地だ。だから地元としての土地勘もなく、当然同級生もいない。向こう三軒両隣の住民も「移住者」ばかりだから顔も知らず、そういう意味では全くの孤独である。そんな中で僅か10年過ごしたところで、その土地を愛すると言う感情が育つものだろうか。

いや、育つわけがない。なぜなら、その土地に結び付けられるような思い出が、僅か10年間という短い期間で作られないからだ。それでも子供のときから同じ場所で生活していれば、心身の成長と共に思い出が形成され、土地と一体感が得られるのかもしれないが、既に16歳になった私には無理なことだった。

結局自分にとっての居場所がつくられる前に「移住」を繰り返したために、アイデンティティーとして「土地」に対する思いが形成されなかった。それは私にとって「ふるさと」というものを作らせてくれなかったと言う結果になったのである。

だから、人が「ふるさと」という言葉に込める「思い」のうち、ほんの一部しか理解できない人間になってしまった。それは実に寂しいことだ。

「私のふるさとはここだ」

「ここ」ってどこ?
生まれ育った場所?
今生きている場所?
これから「生きよう」としている場所のこと?

私はいつも問いかけている。
心に一抹の寂しさを覚えながら…

舞雨 寛
(2005年6月29日発表)


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