宗教としては基本的には仏教系に分類されます。そして、流れは「法華系」であり、さらに「日蓮系」ということになります。「日蓮系」には教義解釈の違いによって様々な「宗派」に分裂、存在をしていますが、その中にあって日蓮大聖人の正統な教えを護持していると主張する「信徒団体」です。
●創価学会の流れ(系譜)
創価学会は様々に分派した「日蓮諸宗派」のなかで、六人の本弟子のうち、日興上人の流れを汲む「興門派」、さらにその「正統派」を以って自認する多宝富士大日蓮華山大石寺「日蓮正宗」の流れを汲んでいます。
現在は、教義内の「法主の地位」と「聖職者と信徒の地位」における解釈の相違から、「日蓮正宗・宗門(法華講)」と袂を分かち(宗門側で言うところの「破門」)、独立した信徒団体として歩みを進めています。
以下にその系譜を示します。
聞くところによれば、創価学会は日蓮正宗を否定したと言う批判がありますが、創価学会は日蓮正宗を否定してはいません。あくまでも「現状の宗門」を否定しているのであって、代々受け継がれてきた「正宗の教義」については厳守をしております。
●宗門の堕落
宗門が「破門通告書」を送りつけた事を以って「創価学会は宗教法人ではない」といった批判をしている人たちが居るようですが、実に他愛もない的外れな批判です。宗門と袂を分かったとはいえ、日蓮大聖人の建立された「ご本尊」はありますし、教義もあります。ただ、宗門の教義とはその意味も内容も異なったものになっているだけです。
それに、なにも「教義」というのは「宗門」の「占有物」ではありません。それを持つ団体が「公認」すればそれはその団体の「教義」になります。その「淵源」をどこに持ってくるかはその「団体」の自由であります。それを、さも「占有物」であるかのごとく「論難」を仕掛けてくるところに問題がある。私はそう考えます。
「教義」は「思想」です。「思想」というものは個人がもつ「考え方」であり、それは個々に尊重されるべきものであって、「所有権」「占有権」で支配できるものとする考え方は間違っています。また、「著作権」で捉える方もありますがそれはあくまでもその「著作」のみに限定すべきものであって、それを表した背景までも保護するに価するものではないと思います。
なぜなら、思想は個人の所有ではなく、人類全体の「所有」とすべきものである。その方が「益」が多いと考えられるからです。
「宗門」の論難に限って言うのであれば、彼らの「主張」には「欠点」があります。それは、彼らの主張が「矛盾」していることに他なりません。
彼らは「学会の教義」が「正宗の教えではない」と主張しています。つまり、「教義が自分達のものとは違う」ことは認めているのです。であるのに彼らは同時に「正宗の教義を盗んだ」とか、「勝手に用いている」とか主張しているのです。かの「破門通告書」にも「教義に違背している」旨の文言を載せているところから見てもそれは「明らか」であります。
で、あるのに彼らはいまだに「教義を盗んだ」という表現をもって批判しております。「宗門」と「創価学会」の教義はお互いに「根」は同じで、確かに類似する部分は多々ありますけれども、根幹の部分での「相違」があるがゆえ、「宗門」から「破門」という処分を受けたのであり、その時点で「宗教上は全く違う宗派」となったということであって、「盗んだ」「奪った」という表現は間違っています。
●教義の違い
宗門の「ご本尊」といえば「伝・弘安二年十月十二日建立 本門戒壇の大本尊」ひとつしかありません。それ以外の本尊は「偽本尊」と決め付けております。創価学会は違います。創価学会の本尊は大聖人の法門でいうところの「本門の本尊」を指し、「本門戒壇の大本尊」も「ご本尊」のひとつであるに過ぎないという立場をとっているだけです。
宗門の本尊観は単に、「ご本尊」のひとつを「特別視」することによって、本山である「大石寺」なかんずく「宗門中枢」の権威を高め、法主一人の権威を必要以上に高めることにより「信徒」の支配を狙っているに過ぎないのです。
その典型的なものが金口嫡々(こんくちゃくちゃく)・唯授一人の「法水」の血脈相伝なる「教義」であります。本来、その立場は代々の法主が「法」であるところの「本門の題目」「本門の本尊」「本門の戒壇」という、所謂教義の根幹、信仰の根源とも言うべき「三大秘法」を、宗祖から受け継いできたという「事実」を示しているに過ぎません。その証拠に彼らはこれら教義を「宗祖」の「御書」という「古文書」ではなく、後々の「法主」が書き連ねた「著書」に根源を求めているのです。つまり、明らかに「宗祖ではなく、後の弟子が書き連ねた書」をもとに、所謂勝手な解釈で「そのような義がある」と主張しているに過ぎず、それが「大聖人の意思」であったかのように述べている、所謂「詭弁の類」を抜けていないものです。
確かに「宗史」を顧みるに、代々の法主が「三大秘法」を伝えてきた事実は間違いありません。しかし、その義は「未来」にも「努力義務」を課しているだけで「保証しているものではない」ことに気づかなくてはならないものです。現実に「宗史」は何回かの「断絶」を意味する「事件」を伝えています。
現在にあっても第六十六世日顕法主は、信徒から集めた供養を湯水のように使い、放蕩遊興の限りを尽くしています。彼らにとって信徒とは、遊興のためのお金を持ってくる「カモ」でしかないのでしょう。そんな「カモ」が法主批判などとは片腹痛い、と思っているに違いありませんけどね。しかし、われわれだってそんなに馬鹿じゃない。「法主である前に人間だ」などと、トンチンカンな言い訳を言った所で我々の眼はごまかせません。
日本においては、宗門史上初のアメリカ合衆国における「出張御受戒」という歴史的な日に、「シアトル事件」で売春婦相手にもめごとを起こし、それをかくまった「地元のご婦人信徒」を侮辱するのみならず、「そんなことはありえない」とし、その信徒に対して「うそつき呼ばわり」をする始末。挙句の果ては自分で「裁判」を引き起こしておきながら、自分で創作した「手帳」なる証拠の欺瞞性を裁判長に見抜かれて「敗訴」。それが知れ渡った台湾にあっては「花坊主(すけべな僧侶)」という批判をされ、台湾を訪れるたびにマスコミに騒がれているといった、日蓮大聖人が立宗されて以来、史上初の「ドスケべ僧侶」として内外に名を轟かせています。
結果的にこの「事件」は、「和解」となり、「宗門が訴えを取り下げる代わりに、学会もシアトル事件の事実追及をしない」ということになりました。これは、「シアトル事件が事実」であることが明らかであり、また「宗門」なかんずく日顕法主の出す証拠、証言なるものが実にいい加減であり、これ以上の「公判」を続けても「学会の主張が正しいこと」が明らかになるのみでなく、原告側の受ける損失を考えるに双方に益なしと判断した裁判所が「和解」という「解決」を提示したというものです。
「和解」は「学会」が提示したものではないということがひとつ。そして、この「和解」は事実上「宗門の敗訴」であり、これによって第一審の「判決」が事実上「確定」したことになり、これ以後宗門は「そういう事実はなかった」と主張することは自由ですが、「第一審」の判決を覆したり、それを主張する「創価学会」なかんずく学会員を「名誉毀損」等で訴訟することは出来なくなったのです。
その証拠に、この判決以降、インターネットで「シアトル事件」に関する「宗門」の見解を示す文書の掲示が「一斉」になくなりました。(一例はここ。)
これは、各WEBにあって「過激な学会批判」をすれば、逆に「名誉毀損」で訴訟沙汰になることを恐れた「宗門中枢」が、「通達」をだして各講員に対し「締め付け」を行ったものと推察されます。個々の「事実検証」を嫌い、信者の言論を封殺する宗門の体質を如実に表しているものです。
この「宗門のトップ」の状況ひとつとってみても、「宗門の堕落」は目を覆うものであることは間違いなく、現在にいたってはその宗勢いかばかりか。もはや、宗教としては「滅びの道」まっしぐらというところでしょう。逆に、分かれてよかったのではないかと思うばかりです。
●創価学会の現在
現在創価学会は国内において公称800万世帯。さらに、海外では162カ国に現地宗教法人を置き、それら各国の団体とSGI(Soka-Gakkai-International)を結成。NGO(Non Governmental Organization,非政府機関)として核兵器廃絶等、世界平和の思想を訴え続ける活動を行なっております。