日蓮大聖人(学会では宗祖・日蓮上人に敬意を表する意味で「大聖人」の尊称を用いています。以下「大聖人」と言えば「宗祖・日蓮上人」を指します。)は1222年(承久四年、4月13日に貞応元年に改む)2月16日。安房国小湊で漁師の子供としてお生まれになりました。
12歳の頃に地元の大伽藍であった安房清澄寺に登り、道善房を師匠として仏教を学びました。そして数えで16歳のときに得度し、是生房蓮長と名乗り、以後17年間鎌倉・比叡山にて遊学しました。
そして33歳のとき、ふるさとである安房国清澄寺に戻り、立宗宣言。自ら名乗りを「日蓮」に改めまして、その後1282年(弘安五年)61歳で亡くなるまで、弘教一筋に生き抜かれました。
大聖人の御一生はただ一つ、「南無妙法蓮華経」の弘通にありました。釈迦の大集経で言うところの「末法の様相」から、末法では、もはや釈迦の仏法は効を為さなくなるとの御確信から「末法の御本仏」との自覚を胸に、「法華経文底独一本門の南無妙法蓮華経」こそ一切衆生を苦悩の大海から救済できるただひとつの法であると主張。当時の主権者であった鎌倉・北条幕府に国主諫暁書であるところの「立正安国論」を提出するなど、当時の伝統仏教界に新たなる風を吹き込む活動を展開されました。
しかし、その内容は過激なもので、釈尊の説いたとされる八万四千法蔵の仏典のうち、極説とされる「妙法蓮華経」を誹謗する浄土、禅、真言、律では「成仏は不可」であるとし、ただ「妙法蓮華経」のみが釈尊の御本意であり「成仏」の経であるとしたのです。
これは当時の仏教界からしてみれば「革命的」な宣言でありました。
当時は比叡山延暦寺を総本山とした「天台宗」が「国教的地位」を占めていました。そして「天台宗」を中心として真言、律、華厳、法相宗といった「奈良仏教」と呼ばれる伝統的な仏教が畿内を中心として全国に広まり、公家を中心とした「上流社会」に広く信仰されていたのです。
ところが平安末期、武家が台頭する頃から庶民の間では法然・親鸞の「浄土(真)宗」が広まりはじめ、武家の都・鎌倉では公家に対抗して「禅宗」が広まるなど、まさに「仏教」は様々な宗派が入り乱れる「混沌」の様相を呈してきたのです。
大聖人は、安房清澄の寺で修行中に、釈尊が唱えたであろう「仏教」の教えが、なぜこのように様々な宗派に分裂したのか、疑問を抱きました。大聖人は、国にも国王があるように、仏教の教えにも「最高峰」のものがあるはずであると考え、それを探求することを誓ったのです。
その結果、大聖人はたくさんの経文の中からその手がかりを見つけ出しました。さらに、その考えを確かなものとするべく、比叡山延暦寺に向かいました。その上、畿台の大伽藍という大伽藍が蔵している経文及び流釈に目を通し、自分が得た確信に磨きをかけたのです。
その結論が「妙法蓮華経」だったのです。