これから少々難しい話になります。
§1.釈迦について
仏教の開祖といえば釈迦があげられます。御存知の方も居られるかもしれませんが、釈迦というのは厳密に言えば、人の名前ではありません。もともと古代インドの部族の名前から来たもので、今のヒマラヤ山麓・ネパール国のあたりにあったとされる小国の名前です。
その釈迦族の王子であったゴータマ・シッダルタ。彼が悟りを得て仏教の開祖になりました。彼をその釈迦族からでた聖者(牟尼・ムニ)という意味で「釈迦牟尼(ムニ)世尊」と称し、その略称が「釈迦」であり「釈尊」であるといわれています。キリスト教で本来、救世主を意味する「キリスト(クライスト)」という称号が、その開祖であるところの「イエス(ジーザス)」の称号になり、いまでは「キリスト」といえば「イエス」のことを指すのと同じ事ですね。
また、同じ称号に「仏陀(ブッダ)」と言うものがあります。「釈迦」と同じように今では「仏陀」といえば仏教の開祖・シッダルタのことを指しますが、本来の意味は「悟りを開いた者」「真理を悟った聖者」を意味する言葉です。この称号から「仏(ぶつ・ほとけ)」という言葉が出来ました。
日本では、亡くなった方を指して「仏になった」といわれますが、本来「仏」とは亡くなった者を指す言葉ではなく、生きている人格者のことを指す言葉なのです。つまり、日本独自の「教義」というか、語句の用法なんですね。
たぶん、「死者に鞭打つなかれ」の精神で、死んでしまった人間に対し、「仏様になられた。」と表現したのが慣習化したのでしょう。「成仏」とは本来仏になることを指しますが、人が死んで弔われたことによって「成仏した」というのもその延長だと思われます。
釈尊(以後、開祖・ゴータマ・シッダルタを「釈尊」と称します。)の活躍した時期には、古代インドが客観的史伝を持たない国であった関係で、史料の上で特定することはほぼ不可能とされています。ですからインド−中国−日本と伝わってくる北伝仏教の伝承による説と、インド−スリランカ−西洋(特にイギリス)−日本という関係で伝わってきている南伝仏教の研究からくる説で、釈尊の「御在世」時期については様々な異説がある事が知られていますが、近代では次の3つの学説が有力視されています。(参考文献・春秋社刊「釈尊の生涯」 水野弘元著による。)
(1)
.仏滅紀元前544〜3年説南伝仏教が採用している説。南伝仏教国では、仏滅年代を以って暦としている。まあ、西暦が「イエス・キリストの誕生」をもとにしているのと同じですね。(<著者註>ところが西暦を定めた後に、イエスの誕生がもっと昔であった事が分かったため、:現在「誕生の年」=西暦元年とはされていない。)ただ、この説には虚構の六十年が加算されていると言われています。(第三文明社刊 仏教史入門 塚本啓祥著)
(2).
仏滅紀元前480年前後説これも南伝仏教からくる説のひとつです。根拠は、インド史上ですでに年代が確定しているマウリア朝アソカ(アショーカ)大王の即位(紀元前二六八年頃)を仏滅二一八年とするところから来る説です。これにはもう一つ、北伝仏教側の中国(広洲)に南方伝として伝わっている衆聖点記説(釈尊が入滅してから毎年一点ずつ、律蔵に打ち続けたという説)とも一致する説で、現在もっとも有力視されている説です。
(3).
仏滅紀元前380年頃説これは仏滅からアソカ大王即位までを、北伝仏教に伝わる伝説に従って仏滅一一六年であるとする説です。
(2),(3)の説はともにインド史上最初の統一王朝である「マウリヤ朝」のアソカ大王が、仏滅後何年に即位したかと言うのが相違点であり、南方伝である二一八年か、北方伝である一一六年かという違いがあるだけです。「マウリヤ朝アソカ大王」の即位年代については、確実な史的根拠を持つものであり、その点についての異論は現在ないもようです。
日蓮大聖人はその当時、日本国内及び中国で知れ渡っていた
周書異記を根拠に、釈尊の入滅を周の穆(ぼく)王52年(紀元前949年)説を取っていました。それによれば大集経で言うところの末法のはじめは2000年後の1052年(永承7年)になります。ですから、大聖人が「末法」を言うときは、この
「周書異記」による入滅時を頭に入れて解釈し、考えることになります。
§2.末法思想について
大聖人の仏法を理解するには、基本として「末法思想」の理解が必要です。
末法と言うのは、釈尊の教え(仏教)が伝承されていく世相を予言している、正像末の所謂「三時」のひとつです。
釈尊の説かれた「仏法」が正しく実践される時期を<正法>といい、形式が重んぜられて形骸化が進む時期を<像法>といい、仏法が完全に形骸化して正しい法(釈尊の本意)がわからなくなってくる(隠没する)時期を<末法>と称するのです。
これを教行証の三つの側面に立て分けて捉えると分かりやすいでしょう。教とは<仏の教え>であり所謂教義と同意です。行とは<修行方法>であり所謂実践です。そして、証とは<結果>つまり、実践の結果として得られたもの、悟りをさします。
正法と言うのはその<教><行><証>が正しく「機能」する時期を指します。つまり、まず<教義>があって、それが<正しい修行方法>に裏打ちされ、さらに<正しい結果>を出せる時期ということです。
像法は<教><行>は残りますが<証>が失われ、教義どおり修行方法通りを行なっても、思うような結果が得られなくなる時期を指します。
更に末法は、<教>ばかり残り、<行><証>ともに正しいものが得られなくなる時期を指すのです。
正法・像法については分りませんが、末法であるとされる現在を見ると、巷には実に多くの<教義><思想>が氾濫していますね。その思想が<仏教>から来ているようなものもあれば<神道>のようなものもある。<キリスト教>から来ているものかと思えば<自然信仰><民族信仰>から来ているものもあるといった感じで、実に多くの<教>があります。
それが正しく<修行方法>が確立されているかと言えば、実に様々です。教義は<神道系>であるかと思えば修行は<仏教系>であったり、教義が<キリスト教系>であるかと思えば<道教系>、若しくは<民俗信仰>の呪術式の修行をしたりと、混沌となっているのが実状だと思います。
また、仏教に限定しても<題目>を唱える修行をしたり、仏像を<御守>がわりに持ち歩いたり、呪術的祈祷や必要以上の苦行を体に課したりと言った、実に宗派によってまちまちになっています。
そして、結果や悟りについてもどうなんでしょうか。これは個人的要素も含まれているので断定は出来ませんが、釈尊御在世の時代を知っている人がいれば尋ねて、意見を聞いてみたいなと思うのは私だけでしょうか。
ここまで考えてみれば「末法」というのがどういった世情を指すのか、お分かりになるかと思います。
次に、正像末の三時の期限については、末法万年というところでは一致していますが、正像の期限については異説があります。
1.正法千年、像法千年説(中観論疏)
2.正法五百年、像法五百年説(大乗三聚懺悔経)
3.正法五百年、像法千年説(大集経)
日蓮大聖人は大集経の「五箇の五百歳」の推移と重ねあわせ、正法千年、像法千年という説を取られています。
撰時抄という御書の中で大聖人は、
「大集経に大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には『我が法の中に於て、闘諍言訟して白法隠没せん』等云々」(大聖人御書全集P258−5)
と述べられている通りです。
つまり
末法思想とは、この仏典の中で説かれている釈尊滅後の仏教の様相から「白法隠没せん」、すなわち、釈尊の法滅の時と捉えて「釈尊の仏法が役に立たなくなる」「御仏(みほとけ)の力が及ばなくなる」と考え、衆生が救われなくなる「末世」になると危惧する「思想」のことです。
日蓮大聖人が御生誕された1222年という年はそのような「末法思想」が公家社会は無論のこと庶民の間にも深く浸透し、この世を儚(はかな)む「厭世」の雰囲気が蔓延している時だったのです。そのような社会状況の中で、庶民の間に爆発的に「流行」した新興宗教が「念仏宗」と言われる「浄土宗」でした。
浄土宗は法然房源空(1133年〜1212年)が開創した宗派です。専修念仏といい、「南無阿弥陀仏」という「称名念仏」を数多く唱えて後生の救済を念じるのが特徴であります。これが、末法の入り口と呼ばれる時期に爆発的に流行したのには、ひとつには「専修念仏」という修行法が単純明快であり、これによって西方浄土の教主である「阿弥陀仏」によって救済が受けられるというところにあります。
それまでの仏教は「像法」の名前が示すとおり「伝統的」であり「教義中心」で、宗教というよりも「学問」に近いものに変貌していました。そのために内容は難解を極め、幼いころより修行をしないとなかなか理解できるものではなかったのです。
しかし、世は末法の様相が色濃くなり、それに一番敏感に反応したのは当時の社会で、一番底辺に位置していた庶民でした。彼らには学問の素養がありませんでした。日々生活するだけで精一杯で「仏道修行」を行うなんぞ「夢のまた夢」でありました。そのような庶民に対して当時の旧仏教界はなんら救済の手を差し伸べることは出来なかったのです。
そのような中で法然が主張する「念仏信仰」は、その単純な教義と易しい修行法で救済が受けられるとして、庶民を中心に広く受け入れられたのです。
つまり、庶民は末法に入りつつある社会状況で救済を求めていたと言えるのです。
§3 大聖人の登場
このような末法思想が蔓延している中で大聖人が登場してきたのです。大聖人は当時の仏教界がさまざまな宗派に分かれ、それぞれが「釈尊の本意である」との主張をしていることに対して疑問をもたれました。そして自ら誓願を立てて「釈尊の本意」を追求することを決意するのです。
その結果、大聖人は「法華経(妙法蓮華経)」にこそ、釈尊の本意・本懐(本当の目的)があることを突き止められ、一宗を立てます。それが「日蓮宗」であり、「法華宗」です。
大聖人の仏法はそれまでの仏教とは異なり、「唱題行」を修行の中心に置きました。「唱題行」とは「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることです。そして、その修行の中心に「御本尊」を置いたのです。「題目」「御本尊」「御本尊安置の場」をひっくるめて「三大秘法」といいます。
なぜ、「三大秘法」なのか。これはよく聞かれることですが、内容が修行の根幹部分である関係上、教義上の理論ではさまざまな意義が盛り込まれており、その全てを紹介することはなかなか難しいことでもあり、入門というレベルではないので深くは取り上げませんが、ひとつだけ紹介しておきます。
それは、「祈り」ということについてです。
人間は行動するとき、まず何からスタートするか。それは「こうありたい。」という「思い」ではないでしょうか。例えば、自分の欲しいものを得たい。資格を取って仕事につきたい。うまいものをタラフク食いたい。その全てが、ある理想状況を自分の頭の中に浮かべて、その実現を「願望」することからはじめるでしょう。
これを「祈り」といいます。「祈り」というのは、神仏だけにささげるものではありません。自分に対し、他人に対し、「こうありたい」と念じることも全て「祈り」なのです。
つまり、人間はまず「祈り」から行動をスタートさせるのです。まず、何か目的を決めてから「こうありたい」と念じ、行動を起こすものなのです。
この「祈り」の部分。これが「三大秘法」が関係する部分になるのです。
ただ、漠然と祈るのではなく、「祈りの対象」(これが御本尊)に対して「祈る言葉」(これが題目)を捧げる。そして、それを「祈りを行う場所」(これが戒壇)にて行う。ここに「三大秘法」が生きてくるわけです。
ですから、我々創価学会員は必ず「決める」「祈る」「行動をする」をひとつのリズムとして捉え、全てに挑戦していくわけです。強き祈りは強き行動の原点であると主張するものです。
大聖人は弘安四年三月に、その当時の剛信者であった太田乗明に対して送られたお手紙で「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」と仰せです。ここでいう大覚世尊とは釈尊のことです。これは、大聖人がまさに「三大秘法」こそが末法の時代にあって、最も有効な「修行法」であるとの御確信をもたれていた証拠です。
§4 釈尊の仏法と大聖人の仏法との関係
私はいままで「仏法」と「仏教」という言葉を何の説明もせず使ってきました。しかし、これは何の考えもなしに使ってきたわけでは有りません。実は、ここのところに「釈尊の仏法と大聖人の仏法との関係」があるのです。
「仏教」といえば、宗教としての「仏教」であり、開祖は古代インドの釈迦族の聖人ゴータマ・シッダルタその人です。歴史的に見れば、彼の存在によって当時の人たちは数多く救われており、結果的には2000年もの長きにわたってその教えは語り継がれました。それが現在、この日本にも伝わってきている「仏教」です。八万四千法蔵とも呼ばれるその「経典」はすべて、開祖ゴータマ・シッダルタが、機会あるたびに弟子たちに語りかけてきた「言葉」の集大成です。
ですから、経典の中には優れた「哲学」「思想」を含んだものから、学問に触れる事さえかなわなかった当時の貧困層の人間にもわかりやすく、譬え話を用いたり、また当時常識として庶民層に広く行き渡っていた「伝説・伝承」の類を巧みに用いたりして、人間のこうあるべき姿(振る舞い)を説いたものまで、内容は千差万別です。中には矛盾を含んだ部分が少なからず有ったとも思われます。
このような経典の言葉の一つ一つを、ただ表層的に捉えるのであればそこにはまさに「荒唐無稽」とも言われる事象が述べられており、それをそのまま「釈尊のお言葉」として捉えると、非常に非科学的な「神秘主義」とも言える世界に入らざるを得なくなります。そこで、その「お言葉」を一つ一つ、
ある根源的な原理や意義から読みなおし、そこにより根源的な法理・法則を見出していくという手法がとられます。そして導き出された法理・法則をひっくるめて「仏法」と称している訳です。
「仏教」とは「宗教」であり、「仏法」と言えばその経典から導き出された「法理・法則」全てを指すのです。ですから、「釈尊」が説いた「仏法」は経典に説かれていますが、「仏法」は何も釈尊だけのものではない。釈尊もその「仏法」によって成仏した仏であり、なにも仏は「釈尊」ひとりではないのです。そして、この事を釈尊は「三世十方の諸仏」という表現で、さりげなく説いているのです。
創価学会では「日蓮大聖人」を「末法の御本仏」と呼び、尊崇の対象にしています。それというのも「大聖人」こそが、民衆に仏になる道すなわち、「成仏の直道」を開かれた「先駆者」であり、釈尊の仏教典から「根源の仏法」を導き出した当人であるからです。これには、大聖人御自身の「確信」および「覚悟」の部分も有り、それを信ずるが故とも言えるものです。
「仏教」と言えば当然の如く、開祖は「釈尊」ことゴータマ・シッダルタその人です。しかし、釈尊は「妙法蓮華経」を説き、その成仏の根幹原理を説いてはいましたが、寂して2000年余、日蓮大聖人以外それを顕説したかたは居られませんでした。そして「南無妙法蓮華経」を説いたのは末法の御本仏たる日蓮大聖人です。「南無妙法蓮華経」は単に「妙法蓮華経」の「題目」にとどまらず、その根幹たる思想をも意味するものといえます。
大聖人は「御義口伝」という御書の中で、
「南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」
と仰せです。つまり、「南無」するということは「釈尊」すなわち人間としての「仏」に帰命し、「妙法蓮華経」という「法」に帰命する事であるということです。さらに帰命については、同じ「御義口伝」のなかで、
「帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり・命とは本門随縁真如の智に命(もとず)くなり」
と仰せです。これは、迹門(法華経の前半部分、序品第一〜安楽行品第十四の事で、人間には「仏」になりうる可能性があることを説いている。)の「不変真如の理」に帰することであり、かつ、本門(法華経の後半部分、従地涌出品第十五〜普賢菩薩勧発品第二十八の事で、釈尊自身の振舞をもとに、成仏の本来の姿が明かされている。)の随縁真如の智に命(もとず)くことであるとの仰せなのです。
分かりやすく言えば、「人間の可能性を信じ、人々を幸福の境涯に導く生き方を終生貫いていく」ということです。これが、「法華経」の根幹たる思想の全てです。
まあ、細かいことを言えばきりがないのでここら辺までとしますが、結論を言えば、釈尊の仏法は「歴劫修行」といって「繰り返し繰り返し修行をつづける。」ことを前提とし、条件を整えた後に成仏に至る事を目的として説かれているのに対し、大聖人の仏法は「受持即観心」とした原理原則としての「成仏」が約束される所謂「即身成仏」を目的とされている点で違いがあるのです。
そして、その原理は既に釈尊の時代には示されていたのですが、末法の時代に入るまでそれはどう言うわけか前面に押し出され、説かれることがありませんでした。それをはじめて前面に押し出して説かれたのが日蓮大聖人であるわけです。