牙城会とは、会館警備をその主任務とした創価学会男子部の中の、人材グループの「名称」である。彼らは「会館警備」という任務を通して「信仰」を学び、「無事故の任務遂行」を達成する事により自分自身を鍛え上げ、一流の人材に成長してゆこうとしている青年たちである。彼らは今日も、黙々と「無事故」目指して、任務を遂行しているのである。
月一回の任務指導会。それはある意味では牙城会員にとって重要な会合とも言えた。毎月の会館運営会議の決定事項やその月の日程での注意事項などが徹底され、さらに牙城会員としてのその一ヶ月の活動方針などが発表される会合だからである。
さらに、それが1月に行われる任務指導会と言う事になれば、一年間の着任日程が発表されるのでより重要度が増す。ちなみに牙城会での「年度」は、その年の2月から始まり、翌年の1月までとなっている。
新入会員である川口信行のもとに、牙城会任務指導会の連絡が入ったのは、正月気分もいまだ抜け切れない1月10日のことだった。仕事からかえって一息いれていると高橋部長から電話がかかってきた。
「来週の15日。夜9時から轟文化会館の共戦の間で任務指導会があるから出席してくれ。」
1月15日は成人の日で祝日だ。しかし、信行にとってその日は「休日」ではない。信行の会社では一月は連休が多い事を理由として、祝日を「全員出勤日」にしていた。しかも、年度末に近いため、仕事は立て込んできている。
信行の仕事は電気部品の製造だ。大手電機メーカーの下請けで、無線機器の一部である電子回路基板を作っていた。これが実に細かい仕事で、かつ短納期で制作しなくてはならないため、仕事自体は非常に忙しかった。
轟文化会館に9時ということは、会社を8時に退社しなくては間に合わない。しかし、今現在の仕事を考えるとどう頑張ってみても、8時どころか10時まで残業をしなくてはノルマが達成できない。
しかも、上司は24時間仕事ずくめの中でたたき上げてきた「古強者」ともよべる安西係長だ。今年40歳になると言うのに平気で深夜・徹夜をこなす「上司」だ。「いい若い者が残業しないでどうする。」が口癖で、自分が若いとき3日間徹夜仕事をしたと言うのが自慢なのだ。だから、定時で帰ると言う事を相談できるような上司ではない。
「俺は若いときに3日間徹夜して仕事をしたものだ。若いときの苦労は買ってでもしろというだろ?定時でなんか帰ったところで、暇があるとお金をろくでもないところに使うのが落ちだ。それより、残業をして金を稼いだ方がいいにきまっている。」
信行は安西係長のこの言い分が未だに理解できないでいる。早く帰ろうが遅く帰ろうが、自分達が拘束されるのはあくまでも定時間のみであるはずなのに、なぜ強制的に残業をしていかなくてはならないのか。それが、仕事が詰まってどうしようもないのならわかるのだが、急ぎの仕事が入ってなくても定時で帰る事がなかなか許されないのはどういう訳か。
「若いときの苦労は買ってでもしろ」と言う諺は信行も知ってはいるが、それがなぜ残業の苦労でなくてはならないのか。そこで言う「苦労」とはそんな、「機械的残業」というような「消極的」な意味だとは到底思えないのだ。
でも、そんな事を議論できる上司ではない事は、信行にも良く分かっていた。たたき上げの職人というのは、自分の今までやってきた事に対しては、異常なほど執念を燃やすものだ。誰がなんていおうと自分のしてきた事に対する自身と実績が彼らの存在価値のすべてとなる。だから、そのやり方に批判めいた言動があると全身全霊を込めて否定してしまう。つまり、仕事を批判されると自分の人生全てが否定されてしまったように感じるのだ。だから、下手な事は言えない。
安西係長もそんな「職人」の一人なのである。だからいつも「残業」ばかりしている。
そのうえ、今度の1月15日は事情があった。20日に得意先の大手電機メーカーに納入しなくてはならない基板があり、その立ち会い検査が16日に予定されているのだ。どう言い訳しても15日に早く帰れる道理がなかった。
信行はその事情を率直に話した。
「そうか、厳しいか。」
「はい。なるべく早く帰ってこようかとは思うんですが、ちょっと厳しいですね。たぶん、10時を回ってしまうんではないかと…。」
「でもな、信行。おまえにとっては最初の活動だぞ。牙城会として最初の日だろ?最初から<負け>だと、最後まで負けてしまうぞ。それでいいのか?」
高橋部長の一言に信行はむっとした。でも、理屈は分かるので、その感情を無理に押し殺した。
「仏法には<因果倶時>と言う事がある。つまり、最初が肝心と言う事だ。すべての闘いに通じる事なんだが、最初に<負け>てしまうと、次々と負けが込んでしまうんだ。信心は勝つ事が大事だけど負けない事がもっと大事なんだぞ。」
高橋部長の容赦ない一言一言に信行は返す言葉を失っていた。ただ、返す言葉がないと言う事はストレスがたまると言う事。だんだんと腹の中が煮えくり返ってくるような感覚が信行を襲ってきた。
「じゃ、高橋さん。どうしろっていうんですか?」
「そうだな。まず、<おれは1月15日に出席する>とまず決めろ。信行自身が決めるんだよ。」
「無理です。それは最初に説明したはずです。」
「まあまあ、まず話を聞けよ。」
半ば怒りかけている信行の事を察知したか高橋部長はなだめるように言った。
「いいか、牙城会の闘いの本質と言うのはだな、時間との対決なんだ。自ら与えられた時間をこなすんじゃなくて、自ら時間を創っていく闘いなんだ。おまえも牙城会員になったからには、自分で時間を自由にしていけるようにならなくちゃ。いつまで立っても時間の虜でいたいのか?」
高橋部長は熱っぽく語り始めた。でも、信行には今一つピンときていなかった。
「言っている意味が分かりません。時間の虜ってどういう意味ですか?」
「つまり、始終時間に追われて生活する事だよ。朝起きてから夜寝るまで、自分の決めた時間で生活できない人たちの事を言うのさ。時間の虜ってね。自分で決めた時間で行動できないって言うのは結局、受け身で生きているって事さ。わかるだろ?」
「はい。」
この時、信行の心がちくりと痛んだ。
「受け身で生きていると<愚痴>がでるものさ。何で俺はこのような境遇なんだろう、とか、いつも時間でしばられて、なかなか家に帰れないなんてなんて不運なんだ、とか。仕事の時間だってそうだ。仕事は自分でするものだろう?それをなんで、自分の自由にできないのか。そこに問題が潜んでいることを気づく必要があるのじゃないかい?」
「それって僕が活動をサボっていると言いたいんですか?高橋部長!」
「そこまでは言わないよ。でも、自由に出来ていないと言う事は事実だろ?」
「仕方ないじゃないですか!仕事が忙しいのだから。忙しいのは自分の責任じゃあありません。」
「だから、そうじゃないって。別に責任がどうのって事を言いたいためにこうして話をしているわけじゃない。そこはわかって欲しいなあ。肝心な事は、<自分で時間を自由に出来ていない>と言うところに問題があるんだと言いたいんだよ。」
たしかにいわれてみればそうだ。信行は次第に頭が冷えていく感じがしていた。
「もっと率直に言わせてもらえばそれは、信行自身が積極的に生きていない、行動していないということなんだ。それがもっとも恐ろしい事なんだよ。」
「はい。」
「仕事をする事は大切な事さ。大聖人も檀越某御返事で<御みやづかいを法華経とをぼしめせ>と指導されている。だから、仕事は一生懸命しなくちゃいけない。だけど、仕事はするものであって流されるものじゃあないはずだ。川遊びだってそうだろう。川を自在に泳げるから楽しいのであって、川の流れに流されては楽しいはずがない。川に流されないようにするには<体力>が必要なのと同じように、仕事を楽しくするのはそれを自在に操る事が出来るほどの<力>が必要なんだ。その力を創るのはこの信心しかない事は信行にもわかるだろう?」
ここで信行は高橋部長が何を言わんとしているのかはっきりとわかった。つまり、最初から駄目だとあきらめるな、と言いたいのだ。最初から仕事の所為にして「行けない」と決めてしまっては、いつまでたっても変わる事が出来ない。仕事が辛い、苦しいのは当たり前であり、それを楽しく出来るかどうかは自分の持っている力にかかっているのだと。
「わかりました。高橋さん。まず、やってみろと言う事ですね。」
「おう、わかってくれたか。さすがは信行だ。物分かりが早いや。」
「とにかく、まずやってみますよ。そうでなくては、これからの牙城会任務だってやり抜けませんよね。」
「そうだそうだ。牙城会任務着任なんかはもっと厳しいぞ。一分の遅刻だって許されないからな。遅刻がすなわち<事故>という認識だから。いいか、頑張れよ。」
「はい。頑張ります。」
電話を切ると仏壇の前に座った信行は、数珠をさらさらと揉んだ。5日後の指導会にどう仕事をやりくりしたら参加できるか。それが最初の闘いとなったのである。この闘いに信行の「牙城会人生」がかかっているのだ。
信行は静かに鈴を鳴らし、勤行をはじめた。
仕事は忙しかった。いつも終わるのが10時になった。電子回路基板の部品はとかく遅れがちになるものだが今回は大きく遅れていた。得意先の大手電機メーカーが支給してくれる部品がいつも日程ぎりぎりなのである。
安西係長もいつもやきもきしていた。
「何であそこはこう、いいかげんなんだ。「日程がないよ」って言っているのにいつも部品が入らない。そしてぎりぎりになって部品をよこし、よこすとすぐ製品を作れ、てアオリをかけてくる。」
信行も同じ事を考えていた。あの客先が無理難題を吹っかけてくるから残業になるんだ。あれを何とかしてくれないものかな、と。
ガラスエポキシで作られているプリント基板に、部品を半田付けして電子基板が出来あがる。信行の仕事はそれを調整して部品として完成させる事が仕事だった。部品の中には特別仕様のものがある。それは客先から、指定されている部品を支給してもらわなくてはならない。今回も、その部品の支給が遅れているのである。
「どうだ。調子は?」
作業台に向かって仕事をしている信行の背後から声がかかった。安西係長だった。
「15日までに50枚仕上げなくてはならないがどうだ?」
「係長、厳しいですよ。例の部品がないとこれ以上進みませんよ。」
信行は基板を見せた。
「とりあえず30枚までは部品が無い状態で、仮調整を済ませました。だから、14日に部品が入ればとりあえず16日までは間に合うと思います。でも、それ以上遅れるとどうなるか…。多分間に合わないでしょう。」
間に合わないのは電子基板の納期だけではない。信行の任務指導会参加もそうなるのだ。任務指導会は15日。参加するためには14日では遅い。13日、つまり明日中に部品が入らないと駄目なのだ。
疲れた体を家に運ぶとぐったりとなる。何とか明日中に部品が入れば、理由をつけて15日には定時で帰る事が出来る。しかし、14日になると15日は徹夜作業の恐れも出てくるのだ。
自分としては精一杯の努力をしているつもりだった。しかし、どういう訳か見通しはますます暗くなるばかりであった。10日の夜に決意して題目を30分余計にあげる事にした。朝は30分、夜は1時間である。これを続ける事が戦いの基本戦略となっていた。
しかし、状況は題目をあげればあげるほど厳しくなっていった。客先の部品課に確認の電話を入れても、色よい返事はこない。客先でも部品の入手に苦労しているらしかった。
「入手先のトラブルで遅れているのかもな…。」
安西係長の推測だった。しかし、そんな推測など信行にはどうでもいい事だった。ただ、13日中に部品入手が出来ればいいのだ。信行は疲れている体に鞭打って仏壇の前に座った。そして題目を唱えながら、何としても13日中に部品入手が出来るように祈ったのであった。
夜は短い。一寝入りすればすぐ朝がやってくる。そして、長い一日がスタートするのだ。
13日の朝。題目をあげている時、信行はなんとなく今日は「いいな」とおもった。
なぜか体の奥から、すがすがしいものがあふれてくる感覚があった。やがて、体のどこかでプツンと何かが切れた。これでいい。これでいいのだと言う安堵感を感じたのである。なんとも不思議な一瞬だった。
会社に出社すると、安西係長と仁志田課長がただならぬ表情をして何か打ち合わせをしていた。一瞬背筋が凍る感覚があった。もしかして何かあったのか?
朝礼を済ませた後に安西係長に呼ばれた信行は、一抹の不安を抱えて係長席の前に立った。
「信行よ、あの、例のパネルな。いよいよ以って厳しい状況になったよ。」
信行はぎくりとした。
「今朝一番に客先から日程が入ってきてな、支給部品の入手が14日の午前になったそうだ。客先もな、部品メーカーに確認を取ったと言うからまず間違いないだろう。」
信行は膝がガクガクいうのを感じていた。最悪の結果だった。
「更に困った事に、客先の方もパネルの納入日程はずらせない、何とか日程どおり納入して欲しいと言ってきているんだ。俺もよ、出来ないから納入をせめて2日、後へずらせないか散々交渉したんだが、相手がうんと言ってくれないんだ。こっちもぎりぎりの日程だと突っぱねられてしまった。」
大企業ってのはいつもこうだもんな…。いつもワガママを通しやがる。信行は怒りを通り過ぎて悲しくなってきた。いつも犠牲になるのは下請けなのだ。
「相手がどうにもしてくれないなら、こっちが何とかするしかないだろう。そこで申し訳ないが、明後日の15日は徹夜覚悟で仕事をしてもらいたい。既に、課長の許可はもらっている。」
決定的であった。これで15日の任務指導会の参加は不可能になったのである。信行にはとてつもないショックであった。あれだけ祈りに祈って戦ってきたのに。今日まで毎晩10時まで残業し、その後も残って仕事の見通しをつけようと努力してきたのがすべて無駄になってしまった。
信行はガックリとうな垂れて自分の作業台のところへ戻ってきた。そして、作業準備にかかろうとして、ふと高橋部長に指導を受けてみようと思い立った。
ポケットを探り定期入れを取り出すと、中に入っている名刺を一枚一枚調べて、見つけ出した。今朝、机の上で財布を捜していたときにたまたま高橋部長の勤め先の、とある事務機器販売会社の名刺が出てきて、片づけるのも面倒だったのでそのまま定期入れに入れて持ってきていたのだ。
昼休みになり、会社の前の公衆電話に駆け込んで、さっそく高橋部長の勤めている事務機器販売会社の電話番号を打ち込んだ。
長い呼び出し音のあとに元気で威勢のいい男の声が響いてきた。高橋部長その人の声だった。
「おう、信行か。どうした?」
相手が信行だと分かると急にくだけた調子になる。
「何かあったか?ん?」
信行は急に、自分はもしかして場違いな電話をかけようとしているのではないかと不安になった。たかが信心の、たかが任務指導会に参加できなくなったと言うだけで周章狼狽している自分が、ひどく見苦しい姿のように感じてならなかった。
こんな事で高橋部長に電話などして、叱られたり、笑われたりしないだろうか。
「どうしたんだ?急に黙りこくったりして…」
電話の向こうで高橋部長が心配している様子が分かった。いっそ、このまま電話を切ってしまおうかと思ったりもした。急に自分が恥ずかしい者のように感じていた。
「実は部長…。聞いて欲しい事があるんですけど…。」
信行はやっとの思いで声を絞り出すと、今までの状況を話し始めた。牙城会員としての最初の戦いに勝利しようと決意した事。御本尊に向かって題目をあげ、仕事にしても工夫を凝らし、何とか当日参加の見通しが立つようになっていた事。さらに今日、状況が急変し、任務指導会参加が完全に不可能になってしまった事、等々。
高橋部長も電話の向こうで静かに聞いてくれているようだった。なにも叱らず、ただひたすらに自分自身の思いを受け止めてくれているように信行には感じていた。
「部長、これって結局、負けなんですかね。自分自身精一杯、部長のいわれる通りしてきたつもりです。題目も自分としては精一杯あげていたのに。毎日祈っていたのに…。」
突如、信行の両目が曇り出してきた。あれえ、なんで泣けるのだろう。こんな事で泣く必要なんぞ無いはずなのに、なんで今俺は泣いているんだ?
「そうか、信行。おまえ、頑張っているんだなあ。」
高橋部長の言葉が、今日はなぜか信行の心に染みた。なんか今日はおかしいぞ。なんで、こんな事ぐらいで動揺しているんだ俺は?
「わかった。良く分かった。信行の気持ちは良く分かったよ。おまえはよく戦っている。それは、必ず御本尊さまにも通じるよ。」
「でも、任務指導会には参加できないんですよ。もう。」
「それはまだわからないだろう?今日は13日だ。15日ではないんだから。最後まであきらめちゃあ駄目だよ。」
「でも、今日上司からいわれたんです。15日は徹夜してくれって。後どうやって対処したらいいんですか?」
「正直言ってここまで来たら、この俺にもわからない。しかし、信行は御本尊さまに誓いを立てたんだろう?15日に参加したいって。それだったら、その姿勢を最後まで貫かなきゃ。」
「でも、でも…。」
「いいか。いま、おまえの置かれている状況ははっきり言って厳しい状況だ。祈れば祈るほど、題目をあげればあげるほど、状況はより厳しくなっている。それは、魔の蠢動である証拠さ。魔は題目をあげればあげるほど強くなるものだからね。でも、魔の正体と言うものはお前の回りにあるものではない。お前の中にいるものだ。つまり、今の状況に負けようとしているお前のこころにいる事を忘れるなよ。」
信行はこくりと頷いた。
「なぜ、魔が蠢動してきたかと言えば、お前が御本尊さまを深く信じようとしているからだ。つまり、いままで時間に流されてきたお前が時間を思い通り動かそうとしている。それも、御本尊さまに対する祈りと言う方法で動かそうとしているから魔が激しくなってきているんだ。これによって、お前がより深く御本尊さまを信じようとする動きを封じようとしているのだよ。これに負けてはいけない。必ず諸天善神も動いているから。それを信じて戦い抜きなさい。いいね。」
「でも、見通しが…」
「お前は御本尊さまを信じた。信じるなら最後まで信じきる事だ。きっと、お前が予想もしなかった事で結果が出る。これが信心の凄いところであり、御本尊さまの凄いところだ。あの釈尊の弟子・舎利弗だって60劫と言う期間、菩薩道を行じてあと少しで成仏と言うときに、片目のバラモン僧の布施に耐えられず退転してしまった。その為に無量劫の間地獄へ落ちてしまったと言われている。信行よ。おまえは御本尊を信じると言う修行をしてここまで来たんだ。あともう少しで成就と言うところで放り出したら、その舎利弗と同じになってしまう。ここはふんばるんだ!頑張るしかないよ。」
その時信行は急に晴れ晴れとした気分になってきた。そう、今朝題目をあげていたときに感じたあの感覚だった。全身が軽くなり、今まで落ち込んでいた自分がうそのようだった。
そうだ。俺はすでに勝っていたのだ。だから心配する事はないのだ。
理由も無く信行はそう感じていた。ただ、無性に嬉しかった。
「わかりました、部長。頑張ります。」
「そうか。信行、頑張れよ。」
「ありがとうございます。なんか、話をしたら気が楽になりました。」
そう言って信行は電話を切った。
午後は忙しかった。輪をかけて忙しかった。とにかく、自分のやれる処はすべてやって置こうと思った。後はすべて、御本尊さまにお任せすればいいのだ。
部長からもいわれた通りだった。最初から御本尊を信じ、題目をあげきる事が基本戦略だったのだ。それが、途中から厳しくなったからと言ってうろたえてはいけなかったのである。要はいかに最後まで信じきれるかが勝負だったのだ。信行は危うく「敗北宣言」するところだったのである。
家に帰って題目をあげながら信行はそんな事を考えていた。
翌日14日。会社で信行は一人の訪問客を迎えた。客先の大手メーカーのパネル検査を担当している桂さんだった。太って大柄な桂さんはどういう訳か信行と気が合った。年齢が30歳と5つも年が違うのだが、桂さん自身の気さくさと、信行との共通の趣味がある事が幸いしているようだった。
その趣味とは「アマチュア無線」であった。
「よう、川口君。元気でやっているかい?」
桂さんは大柄の体をゆさゆさとゆすりながら、例の人懐っこい笑顔を浮かべて信行に近づいてきた。
「今回は大変だなあ。うちの部品課のチョンボで日程が詰まってさあ。」
「まったくですよ、桂さん。おかげで明日は徹夜になりそうですよ。」
「うん、聞いてる聞いてる。おかげでこの俺まで駆り出されてしまった。」
「え?桂さん、手伝ってくれるの?」
「しょうがねえだろ、日程が詰まったと言うのも元々はうちらのチョンボが原因だし、それを無理言ってやってもらっているわけだから、うちらとしても人を出さざるを得ないって事かな。」
「やったあ、ならば少なくとも明日は徹夜しなくても済みそうだなあ。」
「とりあえず部品は今検査中だ。午後には間違いなく届くだろうから、それまでは仮調整を済ましとかなくちゃあな。とりあえず、やってないのは何枚ある?」
「あと5枚ほどだけど…。」
「よっしゃ、ちょうどいいな。俺も手伝おう。」
桂さんは同じ作業台の横にどっかと腰を下ろして、さっそく基板の仮調整をはじめた。もしかして、桂さんが諸天のお使いかな、などと信行は考えるのであった。
午後になってようやくお待ち兼ねの部品がやってきた。ダンボール箱に一つと言う少ないものだが電子回路基板に実装する部品としては重要この上ないもので、これが無くては所定の機能を満足しない。桂さんと信行は部品照合もそこそこに、さっそく基板に部品をつけ始めた。
あたりはすっかり暗くなっていた。50枚の基板に半田付けが終わって調整にかかったときのことである。脇にいた桂さんが妙にぶつぶつと言い始めたのである。
「何かありましたか?桂さん。」
「いや、妙なんだよ…。」
そう言いつつ桂さんは図面を見たり、仕様書を見たりとあわただしくしていた。
「部品表や仕様書をみると確かに間違いじゃあないんだけど、どうも気に入らんなあ。」
桂さんはしきりに首をかしげている。
「いやさ、このパネルさ。俺が担当する装置で使うんだけどさあ。なんか、妙なんだ。もしかすると俺の勘違いかもしれないんだけど。使うモンが違っているような気がするんだよな。」
「なにさ、いまごろになって。嫌だよそんな事。」
信行は露骨に嫌な顔をした。
「とりあえず、どうも気になる。ちょっと電話を貸してくれ。」
そう言うとそそくさと席を立ち、係長席においてある電話でどこかへ連絡をしているようだった。
しばらくすると席に戻ってあわただしく片づけ始めた。
「何かありましたか?桂さん?」
「うん、これから会社に戻るよ。ちょっと、調べものがあるから。」
「へ?手伝ってくれるんじゃないの?」
「すまん、あしたまた来るようにするから。今夜はこれでかんべんな。じゃあ。」
そう言うと大柄な体を激しくゆすりながら、工場を出ていった。
なんだ、諸天の使いじゃなかったんだ。気を持たせやがって。
信行はそう呟くと仕事に戻った。
結局その日も仕事が終わったのは夜10時を過ぎてからであった。
信行も仏壇の前に座って「いよいよ明日だ」と呟いた。相変わらず状況は厳しい。どう考えてみても明日の任務指導会に参加は出来ないように思えた。今日の作業の結果を見ても徹夜にはならずとも、深夜作業は確実だった。
でも、信行にとってやるべき事はすべてやり尽くした感があった。桂さんの出現によって徹夜作業はどうやら避けられそうであった。もしかしたらこれが功徳なのかな、と信行は思ったりした。
翌日会社に出社すると桂さんは来ていなかった。安西係長のもとに「本日は午後に来る」との伝言があったそうだ。仕方なく信行は一人で黙々と仕事をこなしていた。
しかし、午後になっても桂さんは現われなかった。それより、午後になってどうも安西係長の動きがおかしくなった。安西係長だけではない。仁志田課長の動きもあわただしくなった。
でも、信行には関係ない事だった。今日は15日だ。どう見ても任務指導会参加は無理だった。仕事にしても徹夜は確実である。結局、何も変わらなかったのだ。
「大山鳴動して、鼠一匹か…。」
信行はかえってサバサバしていた。しょうがない。自分の一念が足りなかったに過ぎないのだ。結局、自分の信心のレベルが明らかになっただけ。ただ、それだけだったのだと自分に言い聞かせていた。勝つ事は出来なかったが、ただ、負けてはいなかったとの自負だけはあった。
「そうさ、未だかつてやった事のない闘いだけはやりぬいたのだから。俺は、これでいいんだ。」
この思いをどのように部長に報告するかを考えているうちに、いきなり背中を叩くものがあった。振り向くと桂さんがにやにやと笑って立っていた。なんだ、諸天の使いのニセモノが来たか、と信行は思った。
「よっ川口君。元気かね?」
「元気かね、じゃないっすよ。早く手伝ってくださいよ。待ってたんですから…。」
「作業は中止だ。今日はやらなくてもいい事になったよ。」
その時のショックをどう表現したらいいのだろう。信行はしばらく口をぽっかりと開けて桂さんの顔を見ていた。
「いや、実に申し訳ない事をした。手配されたあの部品ね。実は手配ミスだったと言う事が今朝わかったんだ。」
手配ミスだと?いったいどういうことだ?
「昨日、俺がここに来てさ。気にいらねえを連発していたと思うけど、それはこの部品の使用する場所と規格が合わない事に気づいたせいなんだ。確かに、部品表や図面の通りの部品は来ていたんだが、図面を見てさ、調整をしているうちにこの部品にかかってくる電圧を考えたら、非常に微妙な事がわかったんだ。つまり、部品の耐圧が弱すぎるんだよ。このままじゃ、しばらくは何ともないがいずれはこの肝心な部品が掛かってくる電圧に耐えられず、ぶっ飛んでしまうところだったんだ。」
「でも、何でそれが今までわからなかったの?」
「実はさ、川口君が仮調整をしてくれたからわかったんだよ。仮調整をしていたから部品を実装するとき何気なくテスターで電圧を測ったら、部品の許容値ぎりぎりの電圧が出ているじゃあないか。俺は驚いたね。さっそく調べたら、このパネルの評価試験の際、重要問題としてうちの技術に連絡がいっているものだったんだ。それを技術が見落とし、さらにわれわれ検査も見落とすところだったんだよ。君が仮調整をして、俺が事前確認をしたから見つかったんだ。」
「じゃあ、作業はどうなんの?」
「それを相談しに俺が来たんだよ。いま、うちの技術は技術検討でてんやわんやだよ。多分今夜いっぱいで結論が出るかどうか。結論が出たにしても対策が決まって改造工事をして…。どう転んでも日程の延期は避けられないだろうね。」
そう言うとそそくさと作業台をはなれ、課長席にむかった。どうやら仁志田課長と打ち合わせをやるつもりらしい。
そのうち安西係長が信行のもとにやってきた。
「話はきいたろ?」
「はい、作業は中止だと。桂さんがいってましたが。」
「まさにそのとおりだよ。我々が意気込んだ処で大きく躓いたね。しょーもない。」
「じゃ、今日はどうします?」
結論はほぼ分かっていたが、信行はあえてたずねる事にした。
「仕事がないのに残業もないだろ。定時でいいよ、定時で。」
信行は大勝利を収めた事を確信していた。
「やったじゃあないか、信行。」
轟文化会館の共戦の間に入ると高橋部長がさっそく近づいてきた。
「やったな、ついにやったな。一時はどうなるかと思ったが、余裕の勝利じゃあないか。」
「はい、このようになるとは思いもよりませんでしたよ。」
そう言いながら高橋部長と信行はしっかりと握手した。
「最初の勝利。おめでとう。これで牙城会員としての記念の第一歩が記せたわけだ。これからも頑張れよ。」
「はい。何があってもやりぬきます。」
信行は力強く答えた。
しかし、信行には一つ気になる事があった。それを思い切って高橋部長にたずねてみた。
「高橋さん、一つ聞いていいですか?」
「何だよ。」
「結局、今日は自分が祈ってパネル製造の日程をぶっ飛ばした事になるわけですよね。」
「フウン…。確かにそのようにも取れるな。」
「これって、自分勝手な真似にはならないんでしょうかね。どうなんでしょ?」
「うん、それだけは違うな。信行よ。」
高橋部長はにこっと笑っていった。
「だってさ。結局お前がした事は、なんとか任務指導会に間に合わせたいからって、とりあえず仮調整を先に済ませて、後から入ってくる部品をつけて本調整をちょこっとすればいいようにした事だろ?」
「はい。」
「それをしたからこそ、パネルの不具合がわかったんだろうが。」
「はい。」
「お前がそれをしなかったならば、不具合は検出されずそのまま装置に組込まれた可能性も十分あったんだろう?それを事前にわかる事はいいことじゃないのかい?」
「ええ、まあ。確かに装置に組込まれてからわかるのと、パネル単体のときにわかるのでは天地雲泥の差がありますけど。」
「そうだろう。お前は一生懸命題目をあげた。あげた事によってパネルの仮調整を予め行っておくいう知恵を引き出した。それによってパネルの不具合を検出させた。それだけ見ても十分、会社には役に立ってるじゃあないか。」
「そうかなあ…。」
理屈は分かるが、どうも信行にはしっくりといかないものがあった。
「更に付け加えさせてもらえば、お前を手伝いに来てくれた桂さんと言う人。あれはまさに諸天の使いだね。彼が来てくれなかったらそのパネルの不具合に気づけないわけだからね。」
その桂さんを「諸天の使いのニセモノ」と断じていたのは信行だった。
「ともあれ、この信心の凄いところは、自分の利益になる事だけではなく、周囲の利益にもなるような功徳が出る事だ。これは実に不思議な事だが、まさに今回信行が経験した通りなんだ。これが積み重なっていけばどれだけ未来が開けて行くか計り知れないものがあるだろう。」
「そうですね。同感です。」
「牙城会で学ぶのはこの信心の醍醐味だ。やる事は会館の警備と言うつまらない事かもしれないが、その警備と言う仕事を通して信心を学び、未来の人材に成長していく。今回の経験はその第一歩なんだ。いいか。」
「はい!」
信行は元気に返事をした。
「それからな、信行よ。」
急に高橋部長は声を小さくして、耳打ちをするように言った。
「今度指導を受けに電話をかけるとき、会社名を一緒に言ってくれ。うちの会社、厳しくてね。私用電話は禁止されているんだ。今回はたまたま俺が出たけど、他の人が出たときに私用電話だと思われたらまずいからよ。たのむな。」
そう言って肩を叩かれると、無性に嬉しくなってしまう今日の信行だった。