牙城会とは、会館警備をその主任務とした創価学会男子部の中の、人材グループの「名称」である。彼らは「会館警備」という任務を通して「信仰」を学び、「無事故の任務遂行」を達成する事により自分自身を鍛え上げ、一流の人材に成長してゆこうとしている青年たちである。彼らは今日も、黙々と「無事故」目指して、任務を遂行しているのである。

 

第3話 「退屈な日常」

 

 いつものように仕事が終わり会社の門を出ると、裏山にある会社の社員専用駐車場までとぼとぼと歩く。空は茜色に染まり、春に向かって少しずつ日が延びている事を実感させてくれる。町通りはにぎやかで、みなそれぞれ帰宅を急ぐ車が交差点で信号待ちをしていた。中には窓を開け、ぷかぷかと煙草をせわしなく吸っているのも見える。

 ふと信行は、明日が着任日になっている事を思い出した。手に持っている鞄からビジネスダイアリーを引っ張り出して日程を確認してみると、まさしくそうであった。幸い休日である土曜日なので焦る事はない。仕事は未だ忙しいが、さりとて休日出勤は命ぜられていない。実は既に、会社の規定以上の「残業」をしているために会社としても残業を命ずる事が出来ないのだ。

 先月以来連続して69.5時間を越える残業が続いていた。タイムカードに記す事が出来ない残業時間(これを信行の会社では<貸し>と言っている)を含めると100時間は越えている。貸しだけで40時間はある。これは、信行にとって辛い仕事ではあったが、牙城会着任日の事を考えると仕方のないことだった。

 先月は着任日が平日だったため心配したが、案ずるより生むが易しで着任日に「定時」で帰る事が出来た。今回も「休日出勤」を命じられると厳しい状況になるが、予め「残業」「休日出勤」を先取りしてやっていたおかげで「余裕」を捻出する事が出来、ついに「休日出勤」命令を封じる事が出来た。あの残業の職人「安西係長」でさえも、「信行。明日は出るな。」と言わしめる事が出来たのだから。

 でも、代わりに男子部活動者会をはじめ、地区協議会、座談会など地元の組織での会合は、この一ヶ月間ほとんど顔を出す事が出来なかったが。

「さぞかし、陰口を叩かれているだろうな。高橋さんも大変だろう。」

信行の地区である旭日地区の地区部長は知久智男(ちく・ともお)といってなかなかやり手の壮年部だ。しかし、少々自分勝手な所が有って、地区坦当員である母・妙子を辟易させている。母から聞いた話では、先日の地区協議会に出てきた高橋部長に苦情というか、愚痴を言っていたという話である。もちろん、それは名前こそ出さなかったが、信行が地区リーダーのくせに地区協議会になかなか顔を出さない事に対する少々嫌味を含んだ「苦情」であった。

 目の前には信行の母親である妙子がいるのに、どういう訳か知久地区部長は妙子には文句を言わないのだ。言うのはたいてい、男子部長である高橋さんに言うのである。高橋さんはそれに対して口答えをせず、ただひたすら詫び、頭を下げつづけていたという。

 あの高橋さんの事だ。さぞかし腹の中は煮えくり返っている事だろう。しかし、信行は定期的に高橋さんには連絡を取っていたし、夜中の12時には必ず高橋宅に電話を入れることにしていた。別に報告する事はないのだけれど30分ぐらい、よもやま話に花を咲かせる。これが妙にストレス解消になって助かってはいるのだけれど、その時も高橋部長は苦情を言われていることをおくびにも出さない。ただ、雑談をしたいだけするか、たまに活動日程が出てくると、信行に伝えるだけなのである。

 一度、高橋さんに知久地区部長の件に付いて聞いてみようと思っている。知久地区部長は男子部圏幹部から壮年部に進出した、筋金入りの地区幹部だという噂だ。しかし、そういう割には地区部長という役職から上に上がっていない。たしか、5年前までは地区幹事という役職だった。

 

 会社の駐車場へくると自分の車を捜す。本当はまだ会社の許可を得ていないのだが、会社が特別取り締まりをする風にも見えないので空いている所を探して車を押し込めるのだ。いつも来る時間になると満車なのだが、始業時間より1時間半程度早目に来ると結構空いている所はある。別に置く場所は決まっていない為、どこに置こうが構わないらしい。仮に、交通事情等で遅れたとしても、駐車場の周囲を取り巻く道に駐車すると言う手がある。ここは、会社の「私道」だと言う話で、警察も見て見ぬふりをするらしい。めったに取り締まりが行なわれる事はない。

 そのかわり、来る時間によって止める場所がまちまちになるので、自分でさえどこに置いたのか分からなくなるときがあって、困る事があるのが難点と言えば言えた。

 車に乗ると、ふと今日は街に出てみようかと思った。そう言えば近頃本屋に寄る事も無い。特に今年に入ってからは仕事に追いまくられて、ゆっくり本を読んだ事も無かった。幸い今日は会合も無い事だし、轟文化にも寄る事が出来るからいく事に決めた。

 

 轟市の中には何件か本屋がある。それぞれさまざまな特徴を備えている本屋であるが、信行のお気に入りは町の中心部、中町商店街の「ブックス鳳」、それに町の郊外にある「白鳳堂」であった。とくに「白鳳堂」は車を置く駐車場も完備している典型的な郊外型の店舗であることもさる事ながら、店頭に並べてある書籍の種類も多く、一番の理由は実はここらあたりで「学会系の書籍」が陳列してあるコーナーをもつ唯一の本屋であるからだ。会館の書籍コーナーもしのぐほどの量がある。そして、ビデオも展示していた。

 話に依ればこの本屋のオーナーも「学会員」だと言う話だ。全国にはこのような本屋がいくつもあると聞いている。

 会社の駐車場から裏道へ入り、車一台がやっとの細い路地を抜けると交差点手前30メートルの地点へ「ひょい」と出る事が出来る。ここは地元のドライバーしか知らないと言う「抜け道」である。信行の会社でもまだ少数しか知らない秘密の抜け道だ。

 ここを通るのも実はやむを得ない理由があった。町へ向かう為には「宮の内」という交差点を通らないといく事は出来ないが、実はこの「宮の内」の交差点と言うのが実に「渋滞」する、近所でも有名な交差点なのである。主要幹線道路が2本、交差する交差点なのだが、交差点のもう一つ向こうに鉄道の踏み切りが存在するのである。しかも、朝夕のラッシュ時にはほとんど「開かずの踏み切り」となる県内でも有名な踏み切りであった。

 そのため、信行の会社からこの交差点を目指すと、ラッシュの時間には延々と1000メートルは連なる渋滞の通りと化してしまうのである。正直に並ぼうものならば、最短で20分。最悪では1時間は覚悟しなくてはならない。しかも、市街の繁華街の中にある「轟文化会館」に行くには線路の向こう側に行かなくてはならずまた、どういうわけかすべての抜け道はここ「宮の内交差点」に集中しており、他には見当たらない。つまり、ここを抜けるしか道はないのである。さらに、鉄道が二重に邪魔をしておりその鉄道にはどういうわけか「立体交差」なるものがなく、近所にあるものはすべて「踏みきり」であった。

 さすがにこれでは交通事情が悪くなるばかり。鉄道会社には地元住民からは盛んにクレームが上がっていた。解決策として近日中に鉄道の高架橋工事が始まるとの話であったが、土地買収に手間取っているせいか、計画発表から既に3年の月日が経っているが工事は未だ始まっていなかった。その間にむしろ県の計画道路の方が先にすすみ、少し離れてはいるが「轟バイパス道路」が完成間近になっている。「轟バイパス道路」が出来れば、会館のある場所まで20分もあれば行けるようになる。しかも、市街地を遠くまく形にはなるが、鉄道とは立体交差になるし、信号や交差点も少なくなる。しかも、こことは違って4車線道路になる予定だった。信行はこちらの方に期待をかけていた。

 でも、牙城会に入ったからにはそんな事では遅刻は許されない。定時退社時刻が17時30分。着任時刻が18時30分。余裕は1時間しかない。その1時間の内に「宮の内交差点」を突破し、会館に着任しなくてはならない。その為に情報を掻き集め、探り当てたのがこの「抜け道」なのである。この道ならば、交差点手前30メートルの駄菓子屋「きくちゃん」の前にひょっこりと出る事が出来る。ここからならば交差点を抜けるのに10分とかからない。会社から30分。轟文化会館に18時15分には着く事が出来るのだ。信行はこの通りを駄菓子屋「きくちゃん」から取って、「きくちゃん通り」と呼称していた。

 その「きくちゃん通り」を経て宮の内交差点を過ぎ、あの「開かずの踏み切り」を30分かけて通り過ぎると市街地に入る。細い裏路地を経て4車線道路の轟バイパスへ出るとあっという間に会館の裏にでる。会館任務の時はこの交差点を右折して市街地に入り、旧国道との交差点でもう一度右折すれば目の前であるが、白鳳堂は更に進む。やがて左手に大きな看板が目に入ってくる。そこが白鳳堂だった。

 駐車場は30台ぐらいは停められる広いものだが、いつも14〜5台ぐらいは停まっていた。車を適当なところに停めるとエンジンを切り、中に入る。人がたむろしている雑誌コーナーをすり抜けて二階へ行く。学会書籍コーナーは工学専門書の並びに設けられていた。

 いってまず、目に付くのは「人間革命」だった。全12巻の小説である。信行も全巻揃えてあるが、時々しか読んでいない。そして、次に目を引くのは聖教文庫だ。日蓮大聖人の御書解説の文庫本がたくさんあった。あと、池田名誉会長の対談集や随筆集など色々だ。マンガや劇画もあった。出来れば全部揃えたいなとは思うが、まだちょっとためらいがあった。「人間革命」でさえたいして読みもしないのに、本だけ揃えるというのはなんか照れくささがある。

 信行自身、本はキライではなかった。むしろ、活字を読むのは好きだ。でも、時間がかかるのが難点だった。それに引き換えマンガは素早く読める。いや、読むというより「眺める」といった方が良いかもしれない。とにかく、短時間に情報を取り込むには「マンガ」の方が良いと思っている。しかし、マンガは読み過ぎると頭が妙に働かなくなってしまう。活字を読むときに、そこで描かれている「情景」や話の筋道が分からなくなるときがあるのだ。だから、マンガを読んだ後には必ず「活字」も読むようにしていた。

 書籍をあさっていると時間はあっという間に過ぎていく。ふと、気がつくと外はすっかり暗くなっていた。腕時計をみると既に7時をまわっていた。そろそろ、家に帰ろうかと思っていたとき、肩をとんとんと叩く者がいた。振り向くと見た事があるような顔があった。

「なんだ、橋立さんじゃないですか。」

橋立誠(はしだて まこと)。いつも信行と一緒に牙城会任務に着いているメンバーだ。牙城会の班長であり轟文化の主任も務めている。すでに牙城会員として15年以上活動しているキャリアをもっており、地元のラインでは男子部副部長の任命を受けていた。

「なにやってんだ?こんなとこで。」

「べつに、ただ退屈凌ぎに本でも買おうかと来ているだけですよ。」

「そうか。」

そう言うと細面の顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべる。この人の特徴だ。笑っていても「嫌味」がない。この人は、言葉は辛辣で容赦が無いが、この笑みで得をしているのだろうなと思う。

「いま、轟文化に寄ってきたんだ。」

橋立さんは明日の任務確認を既に終えたらしい。

「川口君は行ったのかい?轟文化へは?」

「いえ、これからです。」

「そうか。明日は、会合はないらしいぞ。退屈な任務になるだろうな。」

 

 牙城会の任務は「会館警備」が主である。昼間は会館の正式な「管理人」が常駐しているが、夜間や日曜・祝日は「牙城会員」が常駐し、会館の警備にあたっている。

 具体的には会員他来館者の対応と電話の応対、会館使用申し込みの受付管理業務。消防設備や会館設備の点検および管理。会館周辺の警戒および不審者・不審物のチェックもしている。

 

その中で「会員他来館者の対応と電話の応対」が特に忙しい。四者(男女青年部、壮年婦人部を含めた呼称)が一同に会する規模の会合があると会館の電話は鳴りっぱなしとなる。牙城会員はその電話の応対に忙殺されるのである。

 特に困るのは「誰何」の電話だ。つまり、「○○さんは居ますか?」と言った類の電話の事だ。

 牙城会員は一人でも多く会員の顔と名前を覚える事に全力を傾けている。「××さん。」「○○地区部長」と言われてもすぐに対応出来るようにだ。しかし、それにも限界がある。会館をよく利用している圏幹部(区幹部)はすぐに覚えられるが、本部幹部や支部幹部ともなるとなかなか難しく、地区幹部に至ると、半分も覚えられれば良いくらいである。まして、一般会員ともなるとほとんど不可能に近い。

 それなのに、電話では同じ地域の男子部が相手であるという気安さからか、「○○支部の××さんをお願いします。」というような類の電話が多いのだ。とくに、大きな会合になるとそのような電話が必ずかかってくる。すると牙城会員は大騒ぎとなる。

 まず相手が来館しているか確認するのが手間となる。小さな会合であるのなら牙城会の責任でもって予め、所属支部名と名前を来館者名簿に書いてからでないと入場させないので、来館者名簿を見れば一目瞭然であるが、大きな会合となると大人数の名前を来館者名簿に書きいれる事は物理的にも時間的にも不可能である。その場合はやむを得ず会合運営責任者の責任でもって、所属と氏名を確認してもらい、報告書に参加人数のみを記入して牙城会に報告してもらう手はずになっている。つまり、来館者は牙城会では把握していないのである。

 だから、当然会合運営責任者に所属と名前を告げて本人が来館されているか確認を取らなくてはならない。普段のときのように小さな会合がちょこちょこ行なわれているときは余裕があって、そのような確認もしてやれるのだが、大きな会合となると電話対応以外の仕事も詰まってくるのでそのような確認を取る時間さえ難しくなる。しかし、やはりそのような状況にあっても「最善をつくし、失礼の無いように対応する」のが牙城会員のモットーであるから、何とか工夫をして確認を取り、電話口へと誘導してあげるのだ。

 だから、大きな会合が多く催されるとそれだけ忙しい思いを牙城会員はしなくてはならない。「無事故の会館警備」が「至上課題」であるがため、非常に緊張が強いられる事になるのである。

 

「そうか、今日の任務は関口一郎君ですね。」

信行ははたと気付いた。関口一郎君は、今年成人したばかりの新人でもあった。橋立さんの担当する部の部員でもある。しかも、入信2年目で牙城会員になったという珍しい人間であった。

 普通、牙城会員になるにはまず、幹部の役職についていなくてはならない。最低でも男子部班長(ニューリーダー)の任命を受けている事が条件である。しかし、関口一郎君は違っていた。いまだ、一部員でしかない彼は自分で牙城会員になりたいと志願してきたのである。彼が志願したのには理由があった。

その詳しい経過を知ることが出来たのは、翌日の任務着任のときであった。

 

彼は長い間、家族のことで悩んでいた。両親の仲があまり良くなく、一人っ子である彼自身、体が弱いこともあって普段から家にこもっているときが多かった。

父親はギャンブル僻があって、暇があるとパチンコ、競馬に通っていた。仕事はまじめにやっているようであるが、彼によれば給料日になると大抵、競馬かパチンコへいき、5万〜8万の金を使ってくる。儲かれば機嫌が良いが、取られてくると露骨に機嫌が悪くなる。休日になれば再び金を持って遊びに行く。大抵は競馬だ。それも楽しむために行くのではなく、儲けるために行くので穴狙いだ。たまに穴が当たり、儲かるときもあるが、ギャンブルというのは本来、胴元が儲かる仕組みになっているので当然のことであるが「負ける」ことがほとんどである。

負けるとむしゃくしゃするのであろう、帰りにパチンコで憂さを晴らす。そのパチンコだって、本気になって研究をして「つぎ込む」のではない。ただ、経験的に「釘を読む」程度で、あとは出たとこ勝負という実にいい加減なものだ。要は「運が良ければ…」ということであり、そういう客はパチンコ店では「お得意さん」ということである。どうあがいても「儲け」になるはずがない。結果的に10万もの金を持っていっても1円も帰ってはこない。至極あたりまえのことだ。一ヶ月の給料の半分はこのようにギャンブルに消えてしまうのである。

それでも、それなりに楽しんで帰ってくるのであれば、その程度のお金の分は「遊び」として割り引いて考えてもいいが、儲かろうが取られようが帰ってくると必ず機嫌が悪いのである。つまり、競馬でたまたま当たりが出ると、帰りによってくるパチンコで「儲け分」はすべて取られ、それが原因で機嫌が悪い。逆に、競馬で取られてくると今度は憂さ晴らそうとパチンコへよって、さらに取られてなお、機嫌が悪くなる。たまたま競馬がやってなければ、朝から晩までパチンコ漬けだ。しかも、ある程度出たところで止めれば良いのに、欲をかいて夜遅くまで続けるから結局「一文無し」になってしまう。しかも、取られているから当然のごとく機嫌は悪い。

「貧乏人から金ばかり取りやがって!ばかにするな!」

「あいつらは汚い!ずるい!」

「俺は惨めだ。何も良いことがない!」

帰ってくると愚痴をこぼしながら自棄酒を飲む。昼間でも構わず飲む。たまに説教でもしようものなら、サザエのようなゲンコツが飛んでくる。

「人に育ててもらいながら、説教を垂れるな!おれは親だぞ!」

彼は体が弱いから喧嘩がよわい。いつも父親から張り飛ばされて終わる。

そんな父親だから母親はいつも泣いていた。昼間はパートに出てお金を稼いでくるが、そのお金もすべて父親のギャンブルにつぎ込まれて終わりになる。たまに遣り繰りがいかなくてお金を出さないでいると「お前、どこで無駄遣いをしたか!」と、自分の「ギャンブル」を棚にあげ、母親の顔を殴り飛ばし「お前はいつも遣り繰りがへたくそだ!だから金がなくなるのだ!」と叱る。

一度彼は腹たち紛れに、「父さんのギャンブルにいくらかかっていると思っているんだ!」と反論したことがあった。

 漫画を書くことが趣味で、イラストレーターになりたいと思っている一郎君が、美術系の専門学校に進学がしたくて父親に相談したときに、酒に酔っていた父親は「そんなものに金を出すぐらいなら、遊んだほうがマシだ。」と言い出したので、さすがに彼も頭に来たのだ。

すると父親の顔色が見る間に変わり、手元にあった木製のハンガーでしこたまに叩かれ、最後にはハンガーがバラバラに砕けるほど打ち据えられた。「子供のくせに生意気いうな!」というのである。

その時は余りにも情けなくて顔を腫らしたまま家を飛び出した。どこをどう走ったのかはわからなかった。ただ、気がつくと近所の公園に来ていた。

夜中の公園は静かだった。ベンチも冷たくなっている。彼は腰をかけて頭を抱えた。頭にも二、三個コブが出来ていた。涙が次々とあふれ出てくる。ただひたすら情けなく、悔しかった。自分にもっと力があれば、あんなクソ親父を半殺しにしてやるのにと思っていた。

そんな時、彼の目の前に立ったのが中学生時代の同級生だった。名前は同じ関口といった。中学時代は大して仲が良い友達ではなかったが、たまたま家が近くて卒業後は何かと町中でであうようになっていた。

同級生の関口大輔君は彼の姿を見て咄嗟に「父親の仕業だな」とわかったらしい。彼のうちは家族全員が「創価学会員」であった。しかも、両親とも「地区部長・地区婦人部長」という「役職」をもつ幹部であり、どういうわけか彼の家庭のことはよく知っていたのである。

彼はその公園で始めて「信心の話」を聞いた。父親のこと、母親のこと、自分の体のこと。全ては自分の前世からの宿業であり、その宿業を絶たない限り、解決しない問題であること。そして、日蓮大聖人の仏法は、その「宿業」を絶ち、「幸福」へと転換させる力があることを聞いた。

一郎君自身、もともと「宗教」の話など「胡散臭い」ものだと思っていたが、話を聞いてみるとそれなりに理屈は通っているようにも思えた。なによりも、同級生の大輔君の熱弁が不思議だった。中学校時代はそんなに付き合った記憶はない。むしろ、意図的に自分を遠ざけている様にも思えたほどだ。それなのになぜ、これだけ熱く自分のことを考えてくれるのか。

「今の環境を変えたいならば、まず自分が変わることだ。自分が変われば周囲も変わる。」

そのときに聞いた同級生の大輔君の一言だった。その一言に妙に惹かれたのである。

 そのうち母親が探しに来たので話はそこで終わってしまった。しかし、この時以降、同級生の大輔君の話がいつまでも心の隅っこに引っかかっていた。

 一週間後に再び街中で大輔君に会った。そこで彼は「座談会」なる会合に誘われた。最初は何とか話をそらそうと返事をあいまいにしていたけれど、押しの強い大輔君の言葉に押し切られるようにして約束させられてしまった。そして、3日後に、座談会に参加したのである。場所は、大輔君の家だった。

座談会は華やかだった。彼は近所の人達がみな嬉々として集うことに不思議さを感じていた。既に年を取って足もおぼつかない老人が、 今日杖をつきながら昔の友人に会いに行き、仏法対話をしてきたことを愉快げに話す。そして、友達に新聞を勧めた結果、一ヶ月の約束ではあるが購読してくれたことを話すと、場内から拍手が沸いたのである。老人は、皺くちゃの顔を余計皺くちゃにしながらうれしそうに笑っていた。

「なんと暖かいところなんだろう。」

うれしそうに話す人を見ることが、こんなに気持ちがよく、楽しいことだとは思わなかった。

同級生の大輔君は司会をしていた。彼は紺のスーツに身を固め、会場の外にも聞こえんばかりの力強い声を出していた。このとき、同級生の大輔君が所属していた地区の男子部地区リーダーだったのが現在の橋立副部長だった。

「あのときの一郎君は目を白黒させていたよ。こんな会合など見たことが無かったからだろうな。」

退屈な任務のときは、こういう体験談を語り合うのが一番だった。既に任務着任から2時間が経過しようとしていた。

「会合が終わった後は、学会得意の『膝詰談義』だ。オレも大輔君も必死だった。地区部長や支部長も入ってくれていろいろ話してくれたが、一郎君はいま一つ踏ん切りがつかないようだった。無理もないよ。彼は未成年だったからね。両親だってこの信心を知らないわけだから、反対されたらどうしようと言う不安もあったはずさ。」

「でも、関口一郎君は入信したんでしょ?結果的に。」

「うん。それが不思議なんだ。結局その後ついに踏ん切りかつかないまま帰ったんだけど、それから二、三日もしないうちに関口地区部長宅に電話が入って『やってみます』の一言が聞けたんだよな。大輔君なんかあんまり嬉しすぎてその場で泣いちゃったとさ。後で地区部長に聞いたんだ。見えないところで一郎君の事、必死に祈っていたんだろうな、大輔君。」

「でも、両親はどうしたんです?御本尊はいただけないでしょう?ご両親から反対されたら。」

「それがすごいところさ。一郎君はご両親を説得したんだ。頼むからやらせてくれってね。当然親父さんは大反対だったけど、お母さんのほうが認めてくれてね。一郎君は取りあえず、内得信仰のかたちで活動する事になったんだ。それから半年して一郎君は専門学校へ行くために家を出たんだ。たまたま近くの学生寮に空きがあって、そこに入る事になった。」

「じゃあ、御本尊さまはいただけたんですね。」

「うん。そうさ。結果的にはね。でも、ここでも不思議な事と言うか、偶然があったんだよ。」

「え?」

「川口君は専門学校出だろ?一郎君が行った学校は美術系で君は工業系の違いは有ると思うけど、学生寮というのは一人部屋なのかい?」

「あ…そうか!」

言われて思い出した。信行は入らなかったが、学生寮の話は友達から聞いていた。

「そうだ…。うちの学校は二人部屋だったっけ…。」

「一郎君のところも二人部屋だった。相手がいるんだよ。でも、本人が何とかすると言うんで御本尊はいただけたんだ。御厨子はちょうど僕が古いものを持っていたんであげたんだけど、御安置まで心配だった。ところが…。」

「もしかして、同部屋の相手が『同志』だったりして…。」

「ピンポ〜ン!」

「本当ですか?まさか…。」

「その『まさか』さ。一年先輩だったんだけど、レッキとした内部。学生部だったわけさ。でも、非活動家だったけどね。」

「じゃ、御安置は出来たんですか?」

「二つ返事でOKだったそうだ。相手は親元では信心もそれなりにしていたけど、都会に出てきたらぷっつりと活動をやめていたらしい。なにしろ、地元のほうでも個人カードが送られて来ていたようだけ『行方不明』扱いになっていたんだ。なんと、住所が間違っていてね。たまたま、同室に入ってきた後輩のおかげでようやく『把握』されたという、実に間抜けな話さ。」

「相手の御本尊さまはどうしたんです?」

「それが、地元で分世帯でいただこうとしたらしいが、学生寮だということで遠慮したというんだ。地元でいただいたとしても、学生寮で御安置できなかったら、と気にしたらしいんだ。事実、昨年いっしょにいた先輩と言うのが二年も留年した<ツワモノ>でね。しかも、バリバリの「共産党支持者」だったらしい。だから聖教新聞さえも取れなかったのさ、先輩がいやがってね。聖教新聞が入ればまず、婦人部のほうで把握されるから、個人カードに間違った住所が書いてあってもすぐに分かるんだけど、それがために、よけい把握が難しかったんだな。」

「ところが、翌年入って来たのが『内部』の一郎君だったと。」

「相手も驚いたろうね。でも、それが切っ掛けで相手も活動家の仲間入り、となったというんだな。」

「すごいなあ。」信行は全てが仕組まれたように動いている『世界』を感じていた。「全て、関口一郎君の『一念』ですね。なんでもかんでもやってやろうと言う『覚悟』というか、『気合』のようなものを感じますね。」

「そうだな。一郎君も目を白黒させていたさ。自分が信心をやろうとすると、次々と目の前に障害が現れたわけだが、それが実に次々とクリアされていくのを見て『この信心はすごい!』と感じたらしいんだな。ところが、嬉々として活動会に姿をあらわしていた彼だったんだけれども、しばらくしてひどく落ち込むようになっていたんだ。」

橋立副部長はつっと立つと警備室の窓をあけた。春が近いとは言え、外の風はまだ冷たかった。

「落ち込む原因が実は、一郎君のお父さんにあると知ったのはそれからまもなくだった。お父さんがいきなり寮に現れて一郎君の部屋に入って御本尊様を見つけてしまったらしい。その為にお父さんは家に帰ってから暴れたらしいんだ。」

「・・・・。」

「かわいそうなのは一郎君のお母さんだった。お父さんからの暴力をまともに受けて痣だらけだったと言う。お父さんにしてみれば何の断りも無く宗教なんぞを始めたわけだから。しかも、それをお母さんだけは知っていたということがとてもショックだったのだろうね。自分だけ仲間はずれにされたと感じたのだと思う。」

「でも、それってしょうがないと思う。」信行は腹のそこから沸いてこようとする怒りを抑えるようにしていった。「だって、もし、一郎君がこの信心を始めようとしたら、お父さんは絶対反対しただろうし、たとえ、本人が納得してやると決めたことだったとしても、あのように自分勝手な考え方をする人だったら、話にもならないのじゃないのかな。」

「云いたい事はわかるけどさ。でも川口君。」橋立さんは振り向いていった。「君はまだ一人者だから分からないかもしれないけど、父親と言うものは子供を自分の手元近くに置きたがるものなんだ。自分の手の届く範囲の中で動いている限りは安心するものなんだよ。かく言う自分も子供が生まれてはじめて、父親の考え方というものがおぼろげながら分かるようになったんだけどね。」

「でも、子供って成長するものでしょう?何れは父親と肩をならべるようになるのは当たり前であって、さらに父親を超えるのは時間の問題。そうなると自分の思いも依らない世界に行くことは当たり前じゃあないですか。それを不安に感じるのは致し方ないとしても、その不満を自分より弱い立場の人間に八つ当たりするなんて卑怯ですよ。同情の余地など無いね。」

「厳しいな、川口君は。」橋立さんはにこっと笑った。「確かに理屈はそうさ。でもね、人間が全て、自分の理屈通り行動できるのであれば、此の世に不幸なんていうのは存在しない。理屈では分かっていても、その理屈通り行動できないからこそ、此の世に不幸の境涯と言うものがるんだ。そう思わないかい?」

「それが人の弱さ、ってことですか?」

「まあね。人生ってさ、川の流れにたとえられるよね。流れに身を任せていればそれなりに生きていけるものだけど、自分の思ったとおりの場所に行くとは限らない。やはり、自分に体力をつけて川に流されるのではなく、自在に泳ぎきれる自分になる以外に、自由な生活を楽しめないのだってことだね。」

橋立さんは席に戻った。

「この信心をする理由が実はここにあるわけだけど、一郎君もそれを痛感していたんだと思う。だから、真剣に悩んだうえで自分の意思で入信した。しかし、結果的に自分が入信したことがお父さんを激怒させ、お母さんに対して迷惑をかけた形になった。だから余計落ち込んでいたんだ。」

「それで?」

「周りの人間は心配していたんだ。もちろん、僕や紹介者である大輔君もね。しかし、どうしようもなかった。どのように激励していいものか分からなかったから。ただひたすら題目を送るしかなかったからね。しかし、驚いたことに一郎君は思い切った行動に出たんだ。それが、牙城会志願だったんだよ。」

「牙城会は普通、ニューリーダー以上の役職に就いている男子部員が入るんだけど、一郎君は熱意が認められて特別に牙城会員になれた。創価学会に入会してすぐに人材グループに入ったなんて前代未聞だよ。そして去年、牙城会大学校生として一年間活動して今年、正式に牙城会員になれたんだ。」

「じゃ、まだ役職は就いていないわけ?」

「正式には今年末ごろになるんじゃないのかな。」

「でも、どうしてそんな思い切った行動に出たんでしょうね。」

「そうだな…。」橋立さんはちょっと首を傾げた。「この間本人に聞いたところによると、大輔君のお父さんに相談したとき、人材グループの話があって、その人材グループでがんばっている人の話を聞いて、途端にやる気になったというんだ。聞いたのはもうひとつの人材グループである創価班に入った人のことだったんだけども、一郎君は牙城会に入ることにしたとか言ってたよ。大輔君が入っているのが創価班だからというのも理由の一つらしいけど。」

「でも凄いなあ。志願するなんて…。」

信行は自分が創価班を断った時のことを思い出していた。以前自分は、牙城会や創価班などやりたくないと思っていた。こんな厳しいグループなんかに入ったりしたら自分の時間など持てるわけがない。まして、母・妙子が事あるたびに牙城会・創価班に入っている男子部員の活動をみていて、凄い凄いを連呼していたから余計いやだった。そんな「軍隊調」の組織なんて入るほうがどうかしていると思っていた。

「一郎君は多分、少しでも早く、結果を出したかったのだろう。早く結果を出してお父さんやお母さんに認めてもらえるようになること。その為に牙城会に入ったのかもしれない。事実、牙城会に入ってからはお父さんも何も言わなくなったようだし、お母さんも変わり始めた息子の姿をみて入信する気になっているとか。お母さんのほうは、すでに入会カードは記入している。あと、座談会の出席と本部長の面接を受ければ晴れてご本尊さまをいただける。みな、一郎君の決意と努力で決めてきたんだ。これって凄いことだよね。」

話しながら橋立さんの目が潤んでいる。橋立さん自身、一郎君の活動と成長を目の当たりで見てきたのだから。感動して当たり前だ。信行自身、話を聞いているだけでも目頭が熱くなっていた。

「今度、3.16記念の支部総会の席で、関口一郎君に体験発表をしてもらうつもりさ。しかも、お母さんと一緒にリレー体験でね。きっと凄い体験発表ができると思うよ。」

橋立さんはニコニコと笑っていた。

しかし、このことがもっと凄い、轟圏どころか常勝「県」の牙城会組織まで巻き込むことになる「事件」にまで発展しようとはこのとき、信行も橋立さんも予想だにしなかったことであった。

往々にして「重大な事件」の進展は、「退屈な日常」のうちに静かにまた確実に進むものである。それは「日常」が「退屈」なのは、その事件に関わる人間すべてが、気が付かないうちに「油断」と「驕り」という名の「魔軍」の尖兵にたぶらかされているからである。「退屈な日常」にこそ、魔軍の侵攻が続いていることを心に銘記する必要があるのはこのためであった。

「それはそうと、川口君。」

橋立さんはそのとき、何気ない気持ちでつぶやくように言った。

「このごろ、何故かみんなの気持ちの箍が緩んでいるような気がしないか?。」

「なぜです?」

「ただ、なんとなくさ…。」

「?」

「牙城会の任務をやっていると、幹部連中の動き回る姿がよく見える。特に、4者圏幹部の動きや言動をつぶさに見ることができるけど、このごろ妙に彼らがいいかげんに見えてしまう。これも、単に幹部連中に対する不満をもつ俺だからかもしれないけどな…。」

信行はこの言葉を聞き流してしまったが、のちに大変な意味を持つ言葉として思い出されるのであった。

「退屈な日常」が今日も過ぎていった。信行は今日も無事故の任務を終えることが出来たのである。

 

第3話 終了

 


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