牙城会とは、会館警備をその主任務とした創価学会男子部の中の、人材グループの「名称」である。彼らは「会館警備」という任務を通して「信仰」を学び、「無事故の任務遂行」を達成する事により自分自身を鍛え上げ、一流の人材に成長してゆこうとしている青年たちである。彼らは今日も、黙々と「無事故」目指して、任務を遂行しているのである。

 

第4話 「事故」

 

3月10日午後11時半頃のこと。それは寒い夜であった。暦の上では春だとは言え、まだまだ寒い日々が続いている。

一台の軽トラックが県道をよたよたと走っていた。落ち着いてよくみれば、その車は明らかに異常な動きをしているのが分かる。速度は決して速くないが、車線が引かれている道路で、不規則に左右にブレながら走っていた。

酒に酔っている、まさに泥酔状態での運転は明らかだった。

出掛けに軽トラックの運転手は軽い気持ちでビールを飲んだ。また、出かけた先の近所にあった友人の家で、さらに焼酎をご馳走になったのであった。御馳走になったからには常識では当然、車を友人のところに置いて行かねばならない。しかし、家も近くであるし、車のとおりも少ないようだし、なによりも車を友人宅において行くのが不安でもあった。いままで無事故で来ていた自信も手伝って、引き止める友人の手を振り払っての運転だった。

確かに車を出発させたときは緊張もあって、しっかりと運転をこなせていた。しかし、馴れは直にやってきた。気が緩むと次に襲ってくるのは「睡魔」であった。

そのとき運転手は自分ではしっかりと両目を開けて運転しているつもりであった。が、一瞬の睡眠は彼を、目の前にある信号が青から黄色、さらに血のような赤色に変わったことに気づかせなかったのである。

タイヤが激しくスリップする音、そして車が握りつぶされたような音を響かせたとき、その運転手ははじめて、自分が交通事故のもう一方の当事者になったことを知った。

3月16日というのは創価学会にとっては意義深い日のひとつである。それは広宣流布を目指す創価学会が、広布後継の日と定めているのが3月16日なのだ。

時に昭和33年の3月16日。日蓮大聖人立宗700年記念祝賀総登山のなか、創価学会第二代会長戸田城聖の宿願であった折伏七十五万世帯の達成を記念して、広宣流布の暁に行われるであろう儀式を模した「後継の儀式」が行われたのである。当日はその当時、内閣総理大臣であり、戸田第二代会長の友人でもあった岸信介氏が来賓として、大石寺を訪れる予定であったが、急遽事情が変わって訪れることが出来なくなった。しかし、その「後継の儀式」は岸信介氏の代理人を迎えて、盛大に執り行われたのである。

戸田第二代会長はその後、体力の衰弱激しく、同年の四月二日に逝去している。そして、その後を継いだのが池田大作創価学会名誉会長であった。名誉会長はその後、さまざまな誹謗中傷の嵐の中、戸田第二代会長の構想を次々と実現し、戸田城聖という一仏法指導者の弟子であり、唯一の後継者たる証を立てたのである。

その戸田城聖から池田大作へとつながる後継の儀式。それがまさに3月16日の「広布の模擬儀式」であった。そのときより、3月16日は「広布後継の日」として創価学会では、青年部が「後継の誓い」を確認する意義ある日として祝うことになっているのである。

 

常勝県でも3月16日を記念して、各圏を中心に3.16記念総会が行われる予定になっていた。轟圏でも準備が着々と進んでいた。信行が所属している栄光本部では青年部が中心になって合唱をすることになり、毎日激しい練習が行われていた。毎日午後9時に集まって一時間の練習はきつかった。日々拠点闘争と合唱の練習は轟文化会館と田中会館で交互に行われていたが、3月16日を目前にすると追い込みは厳しくなり、帰宅するのはいつも十二時を回っていたのである。

「轟圏は凄い闘いをしているな。」

境本部に有る個人会館・田中会館にひょいと現れた常勝県の県長である西田恵は轟圏長・竜田利光を前にして感心したように言った。

「全体として折伏成果は着実に上がっているようだし、なによりも青年部が生き生きしている。とくに、豊田本部と栄光本部が元気そうだな。」

目の前では合唱の練習をしている栄光本部の男女青年部が「広布に走れ」と「紅の歌」を練習していた。その中には、川口信行の姿も見えた。

「いまも、轟文化では設営のメンバーが明後日の設営準備にいそしんでいるのを見てきた。いやいや、どこでも元気なのは青年部だよ。われわれのような壮年部はもう体がついていかないね。」

「設営のほうがやや遅れ気味なのが心配ですけどね。」竜田圏長は笑って言った。「もう、一週間も有りませんから、追い込みに入っていますけど。」

「でも、十分気をつけてくれよな。魔が強くなってきているから。」西田県長は真剣な表情になっている。「聞いているとは思うけど、栄光本部のある支部長宅に泥棒が入ってお金が取られているし、境本部では数人の地区部長や地区婦人部長が風邪にやられている。新町本部では本部長が職場で怪我をしているし、男子部本部長は職場が倒産してしまった。状況は極めて厳しいと見なくてはな。とくに、轟圏は今回、一番頑張っているから特に気をつけなくてはだめだ。危ない。非常に危ない。」

仏法の原則で言えば、一番活動が進んでいるところに魔が集中して起こる、とされている。折伏でも何でも、過去最大の活動成果が出るところに障害が発生するのだ。だから、幹部たちはとくに活動が順調に推するときに注意を促される。

「大丈夫ですよ。」竜田圏長は胸をたたいて見せた。「題目はあがっています。日々唱題会を持ち、みんなで題目をあげぬいてから活動していますから。圏男の細井君も頑張ってくれています。」

「そうか、それでも気をつけてくれよ。」竜田圏長の自信ある返答に安心を覚えたのか、西田県長はそれ以上なにも言わなかった。

 

「おいっ!声がそろってないぞ!」

合唱団責任者の金山書記長の罵声が飛んだ。女子部のほうからも声が上がった。

「そこの高音の部!声が出てないわよ。もっとお腹のそこから声を出して。女子部の声に負けているから揃わないのよ。」

女子部の責任者は松本洋子圏主任部長だ。彼女は芸大出身で歌手でもあった。今回の合唱では専門家として指導にあたっている。

「いい?もう一度やるからね。男子は頑張って!」

信行は声がガラガラになっているのを感じていた。既に二時間も連続して歌いつづけている。壁の時計を見るとまもなく11時になろうとしていた。

田中会館はもともとクラシックバレエ教室だったところだ。だから、防音設備もしっかりしている。少々騒いだところで音が外部には漏れない。大勢で唱題するにはもってこいの場所というわけだ。

仏間兼イベントホールとなる部屋は、鉄筋3階建ての建物の地下にある。一階は駐車場と玄関。正面の幅広の階段を上って二階と三階に田中壮年長一家が居住している。

このような拠点が轟圏にあることが有り難かった。少々の無理が利くからである。普通ならば、合唱のような大きな騒音を伴うイベントの練習には、練習場所の確保が大変なのだ。

理想を言えば音楽スタジオを借りることが出来ればそれに越したことはない。しかし、借りるにはお金が要る。それも時間単位でかなりの金額が消えていくものだ。分県、総県の単位で行われるイベントならば何とかなるかもしれないが、圏単位のイベントでは少々無理だ。

普通は各ゾーンにある創価学会の「文化会館」を借りるのが良い。文化会館は大人数で勤行・唱題をすることを前提に設計されているために、スタジオほどではないが防音や音響もそれなりに考えて造られている。借りるのにお金は一銭も要らないし、手間もかからない。

しかし、他の支部・本部と、圏内で共同使用しなくてはならないので思うとおりに使えないし、やはり時間制限がある。地方によって異なるが朝9時から夜は10時までというのが一般的だ。いくら日程が詰まってきたから10時以降使いたいといっても特別の理由がない限り認められない。原則として各総県の中心会館にある事務局の許可が必要で、それ以外は一切認められないのである。

 

その点、多少無理が利く個人会館の存在は大きい。田中壮年長もなかなか出来た人で、気軽に部屋を貸してくれる。しかも、夜は二時ごろまで構わないとまで言ってくれている。この、気さくさがよかった。だから、総会の練習も無理なく続けられるのである。

「はい、結構。」

松本女子圏主任部長のOKが出たのは11時半を過ぎていた。

「今日はここまでにしましょう。」

途端に場内にため息が響いた。信行も大きく背伸びをすると畳の上に座り込んだ。

「信行。やっと終わったな。」

高橋部長が田中会館に現れた。高橋部長は運営を担当していた。

「あら?なんで部長がここに?今日は轟文化でしょう。」

「ああ、終わったからここに寄ったんだ。学は?」

学とは信行の弟のことだ。

「これから仕事だって、一人先に帰りましたよ。」

「なに?あいつこれから仕事だって?」

「今日は徹夜らしいですよ。あいつの勤めている会社は私と違ってベンチャーですからね。大変なようですよ、近頃の不景気で。」

「御苦労なこったな。そう言えばおまえ、明日任務だったっけ? 」

「私、明日は休暇を取っちゃいました。さもないと、残業やらされて着任できなくなってしまう恐れがありましたから。」

「おい、休暇とって大丈夫か?仕事は忙しいんだろ?」

「大丈夫ですって。このごろ休暇取ってなかったし、仕事だって一日ぐらい余裕はありますから。」

「そうか、明日任務か。じゃ、明日は練習出れねえな。」

「いや、大丈夫でしょう。どうせ、明日も田中会館で練習するんだろうから。終わってからだって参加できますから。」

信行は笑って見せた。しかし、部長の顔が一瞬曇ったようになった。

「実はな、信行。おまえも知っているだろうが、轟文化での無断時間延長問題。」

「はい…。」信行は頷いた。「幸いにも自分のときは橋立さんのおかげで早く帰ることが出来ますけどね。」

「今日も設営と企画担当が時間延長で轟文化に残っているんだけど、そろそろやばくなりそうだ。」

「どうしてですか?」

「今日、分県の西田県長が来てたろ?田中会館にも顔を出したはずだぞ。」

「そういえば、入り口のところで圏長と一緒にいたのを見ました。それがなにか?」

「どうやら、無断での時間延長が総県で問題になっているらしいんだ。」

信行はふうん、と鼻を鳴らした。当たり前だろうなと思っていた。

 

無断時間延長問題というのは、会館使用の際規定されている時間以上に、延長して会館が使用されている問題のことである。

規則上は、前にも述べたように総県の中心会館事務局の許可を得ないと、時間外の会館使用は原則として認められない。

ところが昨今は、そのような会館の無断規定外時間利用が増えているのだ。中央より地方の会館に多く見られることなのであるが、地元の幹部の一言で勝手に「時間延長」がされてしまうのである。それは牙城会としても悩みの種であった。

轟文化も、このような使われ方がなし崩し的に続いてしまっている会館のひとつであった。許可を勝手に出してしまうのは壮年の圏・分県幹部である。そして、管理をしている牙城会員は、そのほとんどが四十を越えない青年たちであるから、どうしても四十、五十の壮年幹部には弱い。さらに彼ら壮年幹部は過去においては青年部の上級幹部経験者であり、今の青年部員たちを指導激励してくれた大先輩だから、多少の無理を言われてもつい「遠慮」してしまう。

それを良いことに、まるで自分の子分であるかのように次々と決定を下し、会館の延長を勝手に決めてしまう。牙城会員も言いくるめられてしまい、仕方なく中央の会館には「うそ」の報告をする。「全員無事退館」という報告を。それでも牙城会員は、その責任感から退館せず、そのまま延長で一時間、二時間と残る人が多い。それは同時に、居残り幹部にたいしては「うしろめたさ」を感じさせるらしい。その所為か中には変な気遣いをして、鍵を預かって牙城会員を帰してしまう幹部もいる。

これが実は大きな危険を孕んでいるのであるが、そのような幹部たちはそこまで気づいていない。また、思い至ることがあってもついつい「大丈夫だろう」という、保証のない安心を勝手に決め付けて、その場をごまかしているに過ぎない。牙城会の幹部たちも、その危険を常に認識しているのであるが、彼ら強引な壮年幹部の一言につい、遠慮をしてしまうのである。

実はこの轟圏の竜田圏長も実はそのような強引な幹部の一人であった。もともと竜田利光圏長は男子部時代、男子部方面幹部で活躍していたことがあり、全国の幹部にも推挙されたほどの経歴を持つ猛者であった。その経験からか青年部を卒業し、圏長としてこの地に戻ってきたとき、昔感じていた「大胆さ」が「傲慢さ」に変わったと婦人部幹部から「陰口」をたたかれ始めたのである。

しかし、彼の「強引さ」は確かに数字の上では「結果」を出すので、婦人部も陰口を言えなくなり、ここに暗黙の「竜田政権体制」と呼ばれるものが確立されていた。

それから彼の「強引さ」は「大胆」と呼ばれ、だれも竜田圏長を批判できなくなっていった。そして、その影響は轟圏牙城会の上に、ひそかに暗雲を漂わし始めていたのである。

そのような「なし崩し」的な会館運営を真っ先に批判したのは、橋立誠牙城会班長であった。毎月恒例の「任務指導会」で橋立は、圏警備長、圏委員長に対し、使用時間延長問題について運営状況のあいまいさを指摘し、改善を要求したのである。それだけではなかった。橋立は自分が着任するとき、居残りをしようとする圏幹部を次々と追い出すように退館させた。殺し文句は「中央の許可をとってくれ」というのである。圏幹部が話をしようとすると何も言わずに総県文化会館事務局の電話番号をメモに書き、責任者に手渡すのである。これは実によく効いた。だれも電話なんぞ出来ようはずがない。あの竜田圏長も橋立を敬遠するほどだった。

しかし、このような思い切った行動を取れる牙城会員は少なかった。橋立の他は、会館警備長の長田裕次郎と圏委員長の熊谷直実ぐらいしかいなかった。

「いつか絶対事故を起こすぞ。」

橋立誠はそれ以後、月一の任務指導会には必ずこの問題を取り上げ、圏委員長や分県委員長、分県警備長に問題の早期改善を詰め寄っていたのである。その甲斐あってか総県も、ようやく重い腰を上げはじめたのである。

「でも、そう簡単に解決するかしら?また惰性でずるずる行っちゃうんじゃないですか?だれか怪我をするか、死人が出るかしないとわからないんじゃない?」

信行は半分あきらめたかのように言った。主任の橋立さんが苦労しているのを目の当たりにしているため、総県が動いたからってそう簡単にこの問題が解決するとは思えないのである。

「でも、まずいぜ信行。事故なんておきちまったら…。」高橋部長はにやりと笑った。「そうなったら圏長の進退問題にまでいくぞ。竜田圏長はクビだよ。」

学会草創期には上級幹部が実績を出せないということで降格処分になったことはあるが、最近はそのような話を聞くことはない。たまに重大な事件を起こして、その不始末が目に余る場合のみ降格となる場合がある。それでも高橋部長は本気で言った積りはなかった。信行も冗談のつもりだった。

このように、この直後に起きた事件は誰もが予想し、危惧されながらもやはり、起こるべくしておきたものだったのだ。

その第一報は牙城会班長の一人であった高橋部長の携帯にかかってきた。

「長田警備長からだ。轟文化で今日任務に就いていた牙城会員が事故に巻き込まれたらしい。」高橋部長の顔色が変わった。「詳しくはわからないが、とりあえず緊急の役員会をやるという話なんで俺は行ってくる。申し訳ないがほかの人の車で帰ってくれ。」

「誰が事故に?」信行は突然の衝撃にひざがカクカクと震えた。

「今日の任務は、境本部の沖田幸治くんと、豊田本部の関口一郎くん…」信行はおもむろにカバンから日程表を取りだした。そして関口一郎の名前を見たとき、突如として背筋に冷や汗が流れるのを感じた。

「まさか…!」

高橋部長は自分の車に乗り込むとすぐに轟文化会館へ向かって走り去った。信行はとりあえず、金山男子部書記長の車で家に帰ることとなった。

家に戻ると直に電話が鳴った。出ると高橋部長からの電話だった。

「今日事故に巻き込まれたのは豊田本部の関口一郎君だ。」

やっぱり!信行は自分の予感が的中したことを悟った。

「任務を終えて会館から帰る途中で、信号無視をしてきた酒酔い運転の軽トラックと鉢合わせしたらしい。軽トラックは無傷だったが、関口君のほうはそれを避けようとして中央分離帯に乗り上げ転倒。車は大破したそうだ。」

「本人は?」

「救急車で等々力記念病院へ収容。緊急手術だそうだ。かなりの重傷らしい。いま、豊田本部の柊木(ひいらぎ)本部長宅で緊急の唱題会が開かれている。」

「病院へは誰も行ってないんですか?」

「とりあえず、長田警備長と熊谷委員長が向かっているけど、なんだ、おまえも行くか?」

「行ってみます。なんか、他人事のような感じがしないんで。」

信行はとっさに橋立さんを思い出していた。関口一郎君はもともと、橋立さんのところである境本部の部員さんだった。学生寮の関係で豊田本部へ統監は移っていたけども、同じ圏内でもあるし、牙城会では同じ部員でもあったので橋立さんとは特に仲が良かった。それに紹介者である関口大輔君も橋立さんと同じ地区の地区リーダーをしている。多分二人とも病院に向かっているはずだ。話だとかなりの重傷だという。二人が病院に急ぐ姿が目に見えるようだった。

「ちょっと出かけてくる。」

「どうしたの?こんな時間に…。」

母・妙子は息子が顔色を変えて家を飛び出そうとしている姿を見て尋ねた。

「知り合いが交通事故に遭って入院したと連絡があったんだ。」

「え?!」

「この間話したことがあったじゃないか、あの牙城会の関口君。車が大破して緊急入院だって。かなりの重傷らしく、緊急手術中だそうなんだ。これから、等々力記念病院に行ってくるよ。」

そう言うが早いか信行は家を飛び出していた。

等々力記念病院の待合室には数人の人たちが集まっていた。信行の知っている顔もいくつか見える。橋立副部長と関口大輔君の姿もあった。手術室の前には一郎君の母親と、関口地区部長、関口地区婦人部長が同行していた。

信行はまっすぐに橋立副部長に駆け寄った。

「川口君。来てくれたのか。」

橋立副部長の顔はどこか厳しい表情だった。一緒にいた大輔君も不安そうに待合室の時計を見ている。

「手術室に入ってから既に一時間。もうすぐ出てくると思うんだが。」

「怪我はどの程度なんですか?」

「人聞きなんだけどかなりひどい。本人もシートベルトをしてなかったようで、頭を打っているらしい。それに出血もあって微妙だ。今はただ、無事に出てくるのを待つだけだよ。」

「無事だと良いんですが…。」

そう言うと信行も時計を見た。既に一時をまわっている。

「事故の相手方は?」

「警察さ。飲酒運転で信号無視をしたんだ。一郎くんはその車を避けようとして急ハンドルを切ったらしい。相手は無傷だったけど一郎君は中央分離帯に乗り上げて転倒。車は対向車線に飛び出して転がったようだ。せっかく車の免許が取れたと喜んでいたのに。」

 

橋立副部長から聞いた事故の様子はこうだった。

轟文化会館では3.16記念轟圏総会の設営および運営の最終打ち合わせが行われ、結局規定の退館時間である10時30分で収まらなかった。それで、設営責任者から田中会館にいる竜田圏長に連絡が取られ、圏長決済と言うことで30分ほど延長がなされた。それにつられる形で担当の牙城会員も残留業務につくことになった。主任の沖田幸治君は一応、常勝県の中心会館である常勝文化会館に任務終了報告をした。

30分の延長時間も直に過ぎたが、それでも退館しなかったため部員の関口君が退館を催促。ようやく退館となった。全てのチェックが終了したのが11時15分。警備システムのスイッチを入れ、二人が退館したのは11時20分ごろだったという。

事故現場は開通したばかりである轟バイパスの中央一丁目交差点。轟文化からは直線で800メートルと離れていない。真っ先に帰った関口君が現場に差し掛かったのは11時半ごろ。昼間は車どおりも激しいバイパスだが、11時を過ぎると極端に交通量が減る通りでもあった。中央一丁目の交差点は、県道多々良場線と交差しているのだが、その山側、多々良町方面から一台の軽トラックが赤信号を無視して進入。それに気づいた関口君が運転する軽自動車が慌ててブレーキを踏んだが間に合わず、それでも事故を避けようとしてハンドルを切り、中央分離帯に乗り上げ、勢いあまって対向車線に転がり落ちた。

事故は、後方を走っていた主任の沖田君が警察に連絡。逃げようとしていた軽トラックの運転手を捕まえ、警察が現場に来るのを待って身柄を引き渡した。そのとき初めて、相手が泥酔状態で運転していることがわかったのである。

救急車に収容された時点で関口君の意識はなく、沖田君が呼びかけても返事さえしない状態だった。救急隊員も盛んに呼びかけてみるが全くというほど反応がない。額から出血があり、衝突の際頭を強打している可能性があるため収容病院の選定が急がれた。結果、最も近い「等々力記念病院」に収容されることになったのである。到着は12時をまわったころだった。そして緊急手術。内容ついてはまだ説明がない。駆けつけた母親も手術室の前で待つだけだった。

「いま、関口地区部長と地区婦人部長がお母さんにつきっきりだ。何かあれば連絡をくれるはずなんだけど…。」

橋立副部長はそう言いながら手術室のある方向をじっと見ていた。

「長田警備長と熊谷委員長がこちらに向かっていると聞いたんですが。」

「二人ともさっきまでここにいたよ。いま二人とも、豊田本部の柊木本部長宅で題目を上げてくれている。」

「おっ、地区部長だ。」

そこにいる誰かが声を上げた。全員の視線が手術室のある方向へ集まった。そこには関口地区部長がよれよれのジャンパー姿で現われた。後ろには一郎君のお母さんが地区婦人部長に付き添われてきた。

「やあ、みなご苦労さん。」

関口地区部長は心配して集まってきた同志にねぎらいの言葉をかけた。

「お父さん!」

大輔君が地区部長に駆け寄った。大輔君も一郎君の事をひどく心配しているようだ。

「一郎君の事はどうなの?」

「手術は今しがた終わった。いま、担当医から説明を受けてきた。」

橋立副部長や信行も関口地区部長のそばに集まった。みな、一郎君の容態を知りたかったのだ。

「一郎君はいま、小康状態にあるそうだ。足首の捻挫と手足や胸の打ち身。それらは大した事ではないが、問題は頭だ。どうやら車がひっくり返った際にひどく頭を打ちつけたらしく、頭蓋骨骨折と脳挫傷。それに内出血があったそうだ。幸いにも手当てが早く、頭蓋を開けて出血部分の血腫を取り除けたのでとりあえずは心配ないそうだけど、予断を許さない状況ではあるとの話しだった。いま、ICUに運ばれていったがしばらく面会は無理だろう。本人もまだ意識が戻らない状態だ。」

ひどい話しだ。信行は顔をしかめた。頭蓋骨骨折と脳挫傷が心配だ。もしかしたら植物人間になる可能性だってあるじゃないか。

「みんなも心配だろうけれど、ここは私たちが何とかするので、みんなは夜も遅いから今日は解散してくれ。とりあえず、手術は良好だった。あとはみんなで題目を送って欲しい。いま、一郎君は魔と全力で戦っている。我々が出来ることは題目を送ってやることだけだ。そして、一日も早く一郎君が戻ってこられることを祈ってあげようではないか。」

地区部長の言葉にそこにいる一人一人が頷いた。もちろん、信行も深く心に期することがあった。

家族の中で苦悩していた一郎君はようやく、それらを解決する方法に行き当たった。そして、一日でも早く解決したいがために彼は必死になった。牙城会に自ら志願してきたのもその思いだった。そしていま、彼は生涯で最大の「闘い」に入ったのだ。相手は死を与える魔・死魔であった。

「行学すでに努めぬれば三障四魔紛然として競い起こる」

日蓮大聖人の「御金言」である。彼にとって今は正念場なのだ。彼はここで断じて勝たねばならない。そのためには我々も彼に一言でも多く、題目を送ってやることだ。

「豊田本部の柊木本部長宅でいま、壮年婦人部や男女青年部合同で緊急の唱題会をしています。」橋立副部長は関口地区部長に言った。「男子部の長山本部長や大久保副本部長、熊谷圏主任部長も行っています。ここにいるメンバーで都合が良い人は、柊木本部長宅で唱題すると言うことで良いんじゃないですか?」

「そうだね、橋立君。そうしてくれるかい。こっちはまだ、一郎君のお父さんが来ていない。だから、それまでは私と家の奴で待とうと思っている。」

そう言うと関口地区部長は、待合室の隅っこに座り、ハンカチで両目を押さえている一郎君のお母さんを見やった。脇には地区婦人部長である大輔君のお母さんが座り、肩を優しく抱いて励ましていた。

「見ての通り、一郎君のお母さんはいま大変だ。息子の容態が心配でたまらないだろうし、かなりショックを受けている。このままほうって置けないからせめて、一郎君のお父さんが来るまで一緒にいた方が良いだろう。」

「わかりました。では、柊木本部長宅に行きます。何かあったら本部長宅へ連絡ください。」

「わかった。ご苦労さん。」

一緒に集まっていたのはどうやら一郎君のもといた地元である境本部の男子部メンバーらしい。一人一人が橋立副部長の言葉にうなずいていた。

「川口君もわざわざありがとう。」橋立副部長は信行の手を力強く握り締めた。「容態は聞いた通りだ。これ以上ここにいるのは夜も遅いし、君も明日も仕事があるだろうから。もし都合が良いのなら柊木本部長宅で一分間でもいいから題目をあげてほしい。」

「わかりました。御一緒しますよ。」

信行の返事に橋立副部長は「ありがとう。」と一言云った。

そのときである。作務衣姿で草履履きの男と数人の関係者らしい一群が病院内に入ってきた。そして、その一群に囲まれるようにして50歳ぐらいの無精髭を生やした作業者風の男が、ひとりそこから抜け出してきて一郎君のお母さんに近寄ってきた。

「一郎君のお父さんだ。」橋立副部長は急に厳しい顔つきになった。「それに奴らは法華鉦明寺の坊主。高市法顕とその檀家だ。なぜ、法華講がこの病院に…。」

一郎君のお父さんはつかつかとお母さんに近づくといきなり横面をひっぱたいた。慌てて大輔君のお母さんが仲を割って入り、一郎君のお母さんをかばった。同時に地区部長が急いで駆けつけ、一郎君のお父さんを押さえた。

「ばかやろう。だから創価学会の信心なんかやらせるなといったんだ!」

一郎君のお父さんの口から出た言葉に、関口地区部長だけではなかった。そこにいるメンバー全員が目を剥いた。

「おまえの所為だぞ。こんな奴らの口車に乗せられやがって!」

「待ってください。ここでは喧嘩しないで!他人に迷惑ですから。」

大輔君のお母さんも必死だった。

「うるさい!人の息子を悪の道に引きずり込みやがったくせに。こんなざまになってあんたはどう責任を取る積りなんだ。ええ?」

「ちょっとまってください。」地区部長が間に割り込んだ。「これは誰の所為でもない。事故です。お母さんの所為でもなければ誰の所為でもないんです。」

「やかましい!だから創価学会は嫌いなんだ。信心をすれば幸せになるだの、運命を変えるだのと、其の時ばかりは調子良いことばかりしゃべくりやがって。そして、こういう目に会えば誰の責任でもないとぬかしやがる。それはあんた、無責任というものだろうが。ばかにするな!」

「仰りたいことはわかります。でも今はそんなこと言っているときではないでしょう。いま、あなたの息子さんは怪我と闘っているときなんですよ。そんな大事なときに、貴方がしっかりしないでどうするんですか。お母さんは事故のショックで弱っておられます。貴方は旦那さんでしょう?奥さんがショックで弱っているのに、暴力を振るうのは感心しませんよ。」

すると、一郎君のお父さんは顔色を変えた。

「おまえな!自分を何様だとおもって居やがるんだ?俺が何しようと指図できるのか?人のうちのことに口出ししてもらいたくないね。まして、大嫌いな創価学会員なんてお断りだ。とっとと帰ってくれ!」

「お父さん!」

そのとき、凄まじいまでの激しい声で怒鳴りつけたのは、いままで泣いてばかりいた一郎君のお母さんだった。

「あんたはなんてことを言うの。一郎が大変なことになったというのに貴方はいったい何をしたというのよ?ここにいる学会の人たちはね、一郎のために心配して、いの一番に集まってくれたのよ。貴方はどこへいってたというの?パチンコ行って遊んでただけじゃないのよ!いつもいつも、一郎のことを心配してくださっているのはここにいる人たちよ。そんな人たちにお礼を言うどころか、文句ばかり言って。どうしてお礼の言葉ひとつ言えないのよ!」

一郎のお父さんはお母さんの突然の反撃にたじろいだようだ。目をむいて息を呑み、肩を怒らしている。興奮しすぎて言葉が出ないようだった。

「無責任に思う貴方の気持ちは理解できます。」

地区部長は努めて冷静に話そうとしているようだった。

「でも今はそんなことを言っているときではないでしょう。一郎君の容態を気遣ってあげてください。それから喧嘩はしないように。一番大切なのは、一郎君が一日でも早く治って元気になることです。そのためには、お父さんお母さんの協力がなにより必要です。」

「ふん、口だけはうまいな。」

一郎君のお父さんは関口地区部長に対して侮蔑の態度を隠そうともしない。明らかに憎悪している。

「いいか、俺は絶対だまされねえぞ!」

それまでおとなしく黙って見ていた橋立副部長が一郎君のお父さんに向かって歩み寄り始めた。途端に信行の背中にひやりとしたものが流れた。橋立副部長の目が、明らかに怒りに満ちているのがわかったからだ。関口地区部長もどうやらそれがわかったらしい。

「橋立君!」スーっと二人の間に入ると橋立副部長の肩を押さえた。そして小さく首を振った。「よすんだ。」

関口地区部長の顔が非常に厳しくなっていた。この人は童顔で優しい顔をしているのだけど、このときの表情は硬く、信行には非常に怖くみえた。橋立副部長もその場に立ち尽くす形になった。

一郎君のお父さんはその二人のやりとりをじっと見ていた。やがて鼻を鳴らすと一郎君のお母さんを急かすようにして病院の奥へ姿を消した。

一方、一郎君のお父さんが連れてきた一行のうち、作務衣姿で頭をつるつるに剃った僧侶がひとり、二人が奥へ消えていったのを見極めると関口地区部長に近づいてきた。

「久しぶりですね。高市先生。」

関口地区部長は表情を固くしながらも、軽く会釈をした。僧侶の背後で若い講員が「尊師と呼べ!」といきまいていたが、僧侶が手を上げて制すると黙った。

「関口さん。今回は大変でしたね。」

正宗の寺院、法華鉦明寺の住職である高市法顕の口調は、あくまでも穏やかだった。

「大変な怪我と聞いているが、どうなんですか?」

「重体です。とりあえず手術は完了していますが、意識はありまぜん。医者の言うには危険な状態だそうです。」

「それはお気の毒に…。」

「先生こそ、どうしてこちらへ?」

「信者の息子さんが怪我をしたと連絡が入りましてね。一緒に来てくれと頼まれたものですからここに来ました。」

「え…?」

「ご存知なかったのですか?。あの人、関口善治さんは私の寺の講員さんなんですよ。ついこの間入信したばかりなんですがね。」

これにはそこにいた関口地区部長をはじめ、すべての学会員が驚きを隠せなかった。

「うちの青年部長をしている鶴丸さんがね、紹介者なんですよ。自分の息子が創価学会に誑かされているとお悩みになっていてね。それで、私達の寺院を訪ねていらっしゃった。それが縁で信心をはじめたんですよ。」

橋立副部長の顔が蒼白になっていた。心なしか手が震えている。

「これもまた、何かの現証でしょう。貴方もご存知の通り、仏法には無駄がありませんからね。」

関口地区部長も表情が硬かった。何を思っているのかはその表情からは窺い知る事は出来ない。

「とりあえずわれわれは戻ります。」

関口地区部長は高市法顕に対し、そう云うと軽く会釈をした。そして、そこにいる全員に目配せをすると病院の出口へと向かった。皆も関口地区部長の後をついて行った。

病院の出口には、高地法顕が連れてきた法華講中員が立っていた。みな、出てくる学会員に対し、露骨な敵対意識を隠そうともしていない。ただ、黙って睨みつけていた。

 そのうちの一人がボソッとひとこと言った。すると、橋立副部長の顔色が変わった。

「よさないか、橋立くん!」

関口地区部長の声は大きかった。驚いたのは橋立副部長だけではなかった。何かを小声で言った法華講員も驚いていた。

「私達は争う為に来たのではない。同志の容態を心配してきたのだ。対決したいのなら日を改めてすれば良い。こんな場所で争うなんて、常識を疑われても仕方ないだろう。やめなさい。」

関口地区部長は明らかに怒っている。信行にはそれが良くわかった。何に対しての怒りであるか、それは分からないがとにかく、怒っているのは間違いなかった。

等々力病院の裏手にある駐車場に来たとき、関口地区部長は皆を集めた。

「先ほどは怒鳴り散らして済まなかった。でも、あそこで揉め事を起こす事はどうしても避けなければならなかった。皆には不快な思いをさせたと思う。許して欲しい。」

そう云うと関口地区部長は頭を下げた。それに対し橋立副部長がすかさず言った。

「いえ、とんでもない。私こそ頭に血が上ってしまって。申し訳ございません。」

そう云うと橋立副部長は頭を下げた。

「無理も無かったと思う。あの、一郎くんの姿に対して創価学会の罰だなどと言われれば、感情的になるのも仕方ない。よく、我慢してくれた。」

そうか、そんな事を言ったのか、あの法華講員は。

「法華講と言うのは、目の前の事しか分からないのだろうな。仕方が無い。あの、阪神大震災の時も『創価学会が偽の本尊をばら撒いた所為であのような災いが起きた』などと平気で口に出来る輩だ。そもそも、あの災難を受けたのは創価学会員だけじゃない。創価学会に関係ない人達がほとんどと言ってもいいくらい、たくさんの人が傷つき、死んでいったんだ。さらに、あの大震災で死んだ同志をあげつらい、笑うような仕業を平気でする下司な振舞をさらして恥とも思わない輩だ。そんな輩とまともな相手をすればこっちが低く見られてしまう。ここは何を言われても相手にしない事こそ肝要だ。奴らの狙いは、このような低次元な争いに引き込んで、こちらの評判を落とすことだ。奴らの挑発に乗れば奴らの思うツボに嵌る事になる。」

「でも、悔しいですよ。同志である一郎くんがあのような状態で必死に頑張っているのに、それを侮辱されて引き下がったよう形になったじゃないですか。副部長が怒るのも無理ないっすよ。」

部員の一人が声を震わせている。悔しいのだろう。信行も同感だった。

「じゃ、君達は一郎くんが『罰』であのような姿になったと思っているのかい?」

「いえ、そんな…。」部員の一人は関口地区部長の鋭い一言に言葉を飲み込んだ。

「じゃ、良いじゃないか。一郎くんの姿は『転重軽受』だ。本来ならばあそこで死ぬ運命だったのかもしれない。とりあえず死なずに済んだのだと思うことだ。信じる事だ。いずれ結果は出る。その結果で見返してやればいいじゃないか。口で勝つよりも行動で勝つ事だ。大聖人も仰っているじゃないか、『釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』と。百の雄弁より一つの行動だ。われわれは負けてはならない。われわれは正しいから勝つのではなく、正しいからこそ断じて勝たねばならないのだ。そこを履き違えるな。」

関口地区部長の熾烈な檄が飛んだ。そんな感じだった。

「まずなによりも題目だ。題目を上げぬいて奴らを見返してやれ。法華講はわれわれより題目を上げる事は出来ない。何故なら、奴らの棟梁である日顕法主自体が題目を上げる事を嫌っているからだ。勝つ為には題目を上げきる事。それしかない。あの一郎くんが五体満足で私達の前に戻ってこられるように題目を上げきる。ここにいる一人一人が勝つ為にも上げに上げぬくのだ。いいね、みんな!」

「はい!」

そこにいる全員が力強く返事をした。一人一人がそれぞれの思いを胸に、闘いをスタートしたのだと信行は感じていた。

後になって振り返るとこの日より、境本部の活動家に火が点いたといえた。それまでは轟圏の四本部のうち、栄光本部と豊田本部が中心となって活動が進んでいたのだが、この日を境に境本部に火がついたのである。まさに、一郎くんが身を以って境本部の活動家に火をつけた形となったのである。

その関口一郎くんは、昏睡状態から今だ醒めずにいた。

 

第4話 終


<戻る>