牙城会とは、会館警備をその主任務とした創価学会男子部の中の人材グループの「名称」である。彼らは「会館警備」という任務を通して「信仰」を学び、「無事故の任務遂行」を達成する事により自分自身を鍛え上げ、一流の人材に成長してゆこうとしている青年たちである。彼らは今日も、黙々と「無事故」目指して、任務を遂行しているのである。
冷たい色の壁と消毒液クレオソートの香り。細かくカチャカチャとなる記録計とせわしなく鳴るブザーの音。ただひたすらに患者に空気を送るコンプレッサーとポンプの音。
ICUの中ではいま、必死に死魔と戦っている一郎君がいた。頭と顔の半分を白い包帯で包まれながら酸素マスクをつけ、静かに、そして激しく戦いは続いていた。
事故に遭ってからようやく一日が過ぎようとしている。長い一日だった。しかし、長く感じているのは一郎君自身ではない。一郎君を心配し、元気な我が子の姿を廊下でただひたすらに待ちわびている母親だった。
父親の姿はすでになかった。どこへいったのかはわからないが、少なくともここにはいなかった。母親はそのことに気づいていたがそんなことはどうでもよかった。昨夜はまるで気がふれたように暴れまくっていた父親だった。気遣ってくれる一郎の友達を、創価学会員だからというだけでまるで仇のように憎悪する。よくもあんな男と二十年以上も連れ添ったものだと思う。
一郎は確かに変わりつつあった。あんな体が弱くていつも暗い顔していた子供が、まるで水を得た魚のように走り回っている。最初は「創価学会」と聞いて心配はしたが、創価学会に入ってからというもの、笑顔で笑うことが多くなった。いつも家の中にいて一人、静かに漫画本を読む程度の事しかしない子供だった彼が。
思えば一郎は小さい頃から体が弱かったために、早起きなども出来なかった。朝はいつも調子が悪いのである。また、よく鼻血を出した時期もあった。朝になると蒲団が血だらけになるのだ。病院へ連れて行っても原因は不明。先天的に鼻腔(鼻の中)の粘膜に通っている毛細血管が弱く、鼻血が出やすいのでしょうという医者の診断だった。とりあえず薬をくれたが大した効き目は無く、病院を転々とする毎日が続いた。
人の話を聞いてドクダミの葉がよく効くと聞いて、ドクダミを煎じて飲ませたり、わけのわからないクロレラだとか紅茶キノコとかいうものも試したがダメだった。カルシウム剤が良いと聞いてカルシウム剤を飲ませもした。しかし、それもダメだった。それでも年を経るにつれ、何時の間にか鼻血が出る事は無くなったが、今度は原因不明の発熱に悩まされた。疲労がたまると39度もの高熱が出るのだ。医者に見せても何も言わず、風邪だろうとかインフルエンザだろうとか、一応はもっともらしい事はいうけれど、どれも奥歯にモノの挟まったような歯切れの悪い事しか言わなかった。
結局そのまま、この年になるまでその状態は続いている。しかし、ここ数年間は高熱を発する事が以前より少なくなっていた。何時の間にか体が丈夫になってきているようだった。これからだったのに。
「かあさん。僕、イラストレーターになりたいんだ。」
ある日、一郎は申し訳なさそうに話し出した。
「イラストレーター?」
母・陽子にとってそれは意外な息子の告白だった。小さい頃には「将来、何になりたいの?」と聞かれてもはにかんで、はっきりと言う事が無かった子供だった。母としてはただ漠然とサラリーマンになってそこそこの生活を営んでくれれば良いと思っていただけだった。
「絵を書く仕事さ。雑誌だとかチラシだとかに絵と言うか漫画を描いたりする仕事の事だよ。僕小さい頃から絵が好きだったし、漫画も好きだった。漫画家と言うのは大変だと聞くけどイラストを描くくらいならば僕にもやれそうだから。」
陽子はイラストレーターという仕事を知っていた。たまたま若いときに勤めた会社の客先にその当時著名なイラストレーターのプロダクションがあり、少しの間だったがそこの若きイラストレーターの一人と交際していた事があったからだ。
「やっぱり、カエルの子はカエルだね。」
陽子は自分の息子がイラストレーターになりたいと意思表示してくれた事が嬉しかった。
「母さんもね、若いときにイラストレーターになりたくてね。一時はイラストレータ目指して頑張った事もあるのよ。でも、ダメだった。好きだけでなれる職業じゃなかったのよ。」
陽子はそう言ってやんわりと止めたつもりだった。イラストレーターと言う職業は売れれば良いが売れないと悲惨なものだ。
陽子が付き合っていた相手もなかなか売れないイラストレーターだった。売れてはいなかったが夢を持ち、いつかは大きな仕事をして見せるといつも言っていた。陽子も相手が売れる事を願っていたがいつまでたっても売れる気配はなく、陽子自身年を経るに連れて妙に現実が見えるようになってくると、次第に相手に対して不安と不満を抱くようになっていた。
いつまでも売れないイラストレーターと一緒になって、これからどれだけの生活が出来るのか。陽子は将来に不安を感じていたのだ。それにいつも夢ばっかり追い続け、現実の生活に目を向けない相手に不満を抱くようになっていた。
夢ばかり追っていてもお腹はふくれない。明日食べるご飯が無ければ飢え死にしてしまうのだ。散々悩んだ挙句、陽子は相手と別れることにした。相手は泣いて陽子を引き止めにかかったが、陽子はその手を振りきって部屋を飛び出していった。
それ以来、相手には逢っていない。自分の夢だったイラストレーターの道も捨てた。
陽子はその後、知人の紹介で真面目で実直だと言う今の夫・関口善治と知り合い、勧められるままに結婚したのである。善治は確かに真面目な植木職人だった。知人の経営する造園会社に勤め、毎月しっかりとした収入を得ていた。然も、腕の良さには定評があり、将来を有望視されていた。
しかし、結婚してまもなくに善治は、高所作業中に誤って脚立から落ちて太ももの骨を折ってしまった。それ以来、高所恐怖症になってしまったのである。植木職人が高所恐怖症になってしまったら仕事になるわけがない。それでも何とか努力をして克服しようとしたが、無理をして高いところに登ったさいに再度足を踏み外して腰を打ち、仕事を休むようになってからは仕事に出ないようになってしまった。
それは自信の喪失であった。また、脚立から足を踏み外してしまうかもしれない。事実、脚立に足を乗せると膝ががくがくと震えるようになってしまった。こなくそ、と自分自身を叱りつけるがどうにもならない。
とうとう善治は造園会社を首になってしまった。仕事が出来ないのだからやむを得ない。しかし、子供が出来、これからと言うときに失業をしたのである。陽子は身重の体ながら、仕事に出なくてはならなかった。
善治は暫く失業保険で食いつないだ後、以前勤めていた造園会社の知人による紹介で、ある小さな自動車部品の工場に勤めるようになった。しかし、馴れない仕事の上に忙しく、善治はひどいストレスに悩まされる結果となった。夜は寝られず、朝は起きる事が出来ない。朝になると腹痛や下痢・発熱と言う症状に襲われるのに、昼過ぎになるとけろりと直ってしまったりと言う事が続いた。当然会社には出社できない。病院に行っても異常は認められず、結局原因不明。ついに会社を辞めなくてはならない事になった。
陽子は身重の身体のまま働きつづけるしかなかった。その無理が祟ったのだろうか。生まれた子供は未熟児だった。それが一郎だった。夫は失業中で収入は無く、出産直後で陽子も働く事が出来ない。夫の失業保険と、陽子が若いときから積み上げてきた貯金の切り崩しで、何とか糊口をしのげるといった暗い状況。そんな厳しい中で、陽子にとって生まれたばかりの我が子の存在は、出口のない闇の中での一筋の光明にも等しかった。
陽子は必然的にわが子に自分の思いを託すことになった。未熟児で生んでしまったことに対する負い目もあって陽子は、何とか我が子を健康で丈夫な子供に出来ないか苦心していた。当然の如く、働けずに苦悩する夫に対して、何かと冷たく当たる事が多くなった。
夫の善治も父として、また夫として満足に働けないと言った悩みに対して、その頃覚え始めたギャンブルに逃避する事が多くなった。無理もないことである。すでに、ここに家庭崩壊の兆しが見えていたように思える。
夫がギャンブルに凝り始め、家庭を顧みなくなっていくにしたがい、陽子の思いはいっそう、息子の一郎により注がれるようになって行くのは当然の成り行きだった。その大事な息子は、体が弱くてこのまま満足に成長してくれるのか気になる存在である。自然に子育て一筋になっていくのも仕方が無かったろう。
夫は転々と職を変えた。まるでフリーアルバイターのような生活だった。陽子も身体が回復するとすぐに働きに出た。機械部品の工場、米屋の店員、パート社員としてスーパーのレジにも立った。一郎は近くの知人に預けたり、保育施設に預けたりせざるを得ない。幸いな事に一郎の評判は良かった。おとなしい。本を与えると静かに読んでいるだけで手間がかからない子供だというよい評判であった。ただ、季節の変わり目になるとすぐ風邪を引いたり、慣れない食事をさせるとすぐ下痢をすると言った手間は掛かった。あるときなど突然高熱を発して病院に連れていかれたりもした。しかし、幸いな事に生死を争うようなひどい状況にだけは至らなかったが。
そんな子供が弱いながらも無事成長し、ある日自分の若いときを思い出されるような告白をしてくれたのだ。こんなに嬉しい事は無かった。嬉しいがやはりそんな息子の身体が心配だった。イラストレーターが見かけの華やかな仕事の裏で、どんな血を吐くような思いをして仕事をしているか。陽子はよく知っていた。やはり、息子の体を考えれば無理な仕事だ。そんな仕事に就かせるわけにはいかない。そう思った。だから止めた。でも、それをいくら無理だからとて、言下に否定するのはやはり躊躇われた。
しかし、息子・一郎の思いは激しかった。頑として言う事を聞かなかった。説得しているうちに陽子の胸の奥で、くすぶっていたものが再び燃え出してくるのが感じられてきた。そう言えば昔の自分もそうだった。親の言う事など聞かず、意地になってイラストレーターの道を選んだものだった。
陽子は一郎に押しきられるようにして認めた。いや、認めざる得なかった。息子の生まれてはじめての抵抗だった。
その夜。陽子は夫・善治に息子がイラストレーターの専門学校に通いたいとの話を切り出した。後ろには息子の一郎が並々ならぬ決意を秘めて座っていた。
「イラストレーター?」
善治はそう言われてもピンと来ていないようだった。酒が少々入っていたのもあるかもしれないが、そもそも元・植木職人でしかない善治に、横文字の職業名を言われても分かるはずもなかったが…。
「雑誌とか、本だとかに絵を描く仕事のことよ。」
陽子は分かり易く簡単に説明した。善治はテレビを見てじっと考えるふうだった。
「なんだ、絵描きか。」
「そんなようなモノね。」陽子は足がかりをつかんだ気がした。「一郎は小さいときから絵を書くのが好きだったでしょ?それで、もっと専門的に絵の勉強をしたいんですって。この間、自分でわざわざ学校まで行って願書とパンフレットを手に入れてきたのよ。」
陽子は手元にあった白い大きな封筒からパンフレットと願書を出した。
「今度学校で親子面談があるって言うから私が行こうと思うんだけど、先生にもはっきりと専門学校へ行きたいというつもりだって。一郎ったら。」
「ダメだ。」
陽子の手が止まった。
一郎の表情が固まった。
「絵描きなんかでメシが食えるわけがネエ。」
「あら、いやだ、おとうさんたら…。」
陽子は善治の言葉が一瞬、理解できないモノのように思えた。
「確かにイラストレーターって言うのは難しい仕事よ。そこら辺の会社員のように入ってすぐお金が貰えるような仕事ではないけれど、でも一郎がやってみたいと言うのだから…。」
「ダメだと言ったらだめなんだよ!」
そう言うといきなり、酒の入ったコップを陽子めがけて投げつけてきた。陽子は愕然となった。コップは陽子を外れ、部屋の隅に叩きつけられて割れた。
「絵描きだかイラストレーターだかしらねえが、俺がダメなモンはダメなんだ。そんなに行きたければ勝手にすれば良いだろ!俺は金はださねえからな!」
「そんな、むちゃな事は言わないで。一郎にもあたしにも専門学校へ行くようなお金があるわけないじゃないのよ。」
「そんなくだらねえモンに出す金なんて俺はもってネエ。絵描きの学校に行く暇があったら働けば良い。俺だって中学しか出てネエんだ。高校まで出してもらっただけでもありがたいと思え。」
「おとうさん!いまどき高校を出たぐらいで人並みの就職なんてできないわよ。なにか手に職をつけるのは当たり前…。」
「ガタガタ言うな!」
今度は拳骨が陽子目指して飛んできた。陽子の頭に当たるとニブイ、ごつんという音がした。
「痛い!」
陽子は頭を抱えてうずくまった。一郎は身体が固まったまま動けなかった。ただ、いきなり善治が怒り始めたのをただ見守る事しか出来なかった。
「お前は何かあると一郎一郎ってな。見てみろ、こんなろくでもないやつになってしまったのはお前の責任だぞ。人の言う事は聞きやしネエ。ろくでもない本ばっかり買いあさってくる。やつの部屋を見れば分かるだろ?漫画ばっかしじゃネエか。」
「だって、一郎は漫画が大好きだって…。」
「そんなくだらねえモン読んでるから体が弱くなっちまうんだろ!なんでもっとびしびし鍛えねえんだよ。お前がいつもチヤホヤするから、こんななまっちろい奴になっちまうんだ!」
陽子には善治が何を考えているのか理解できなかった。ただ、本人は面白くない事は確かなようだ。そう、陽子の実父がそうだった。陽子の実父も陽子がイラストレーターの道にすすむと言い始めたときに暴れ出したのである。目の前の夫の姿に、今はもういない実父の姿がダブった。
「みてみろ。小遣いなんかやったってみんなくだらねえ漫画になっちまうじゃネエか。そんな奴に金なんか出したってろくな物にならネエだろが。」
確かに一郎の部屋の本棚には本がいっぱいである。あまりの多さに入りきらない本はダンボール箱に詰めて押し入れの中に入れているほどだ。
しかし、それも一郎が昔から体が弱くて外に出ることが少なかったからであって、だれの責任でもない。強いて言えばそんな子供に産んだ親の責任である。それをこの人は私の責任であるかのように言っているのだ。メチャクチャな理屈である。
「こんなくだらねえ奴に五万、十万の金を払うくらいだったら、競馬やパチンコに使った方がナンボもマシだ!」
陽子の顔が引きつった。なんてことを言う人だ。言うに事欠いてそんな事を子供の前で言うなんて。
「このクソ親父!」
突如、背後で声が上がった。一郎である。
「手前のギャンブルでいったい幾らかかっていると思っているんだ!」
「一郎!」
陽子は一郎に向けて首を振って見せた。今、さらに怒らせるような事を言ったらまずい。善治の事だから暴れまくるのは必至だ。
陽子は善治を見た。思ったとおりだった。怒りのために目に狂気が宿り、手が小刻みに震えていた。
「このガキ。人をナメくさって…。」
眼は一郎を見つめながら左手は拳を固め、右手は何かを探すように動かし、たまたま手元に落ちていた木製のハンガーを握り締めると、がばっと立ち上がり、一郎めがけて近寄った。
「きさま、だれに育ててもらったと思っているんだ!俺は親だぞ!育ててもらいながら生意気言うな!」
怒鳴り声と言うより、泣き叫ぶような声での雄叫びだった。陽子は「やめて!」と叫びながら善治の足にしがみついたが、完全に切れている善治の力は凄かった。善治は木製のハンガーで何度も一郎を打ち据えていた。あまり激しく打ち据えるので木製のハンガーが折れ、ばらばらに砕け散ってしまったほどであった。
陽子はただ、やめてを連発し、善治の足にしがみつくしか出来なかった。一郎は痛い痛いと叫びながら部屋の中を逃げ回り、善治は止める陽子を引きずりながら追いかけて、壊れたハンガーを握り締めた手で、一郎の体を叩きつづけていた。
「もう、やめて!」
叫んだところで陽子は目が覚めた。どうやら病院の廊下で居眠りをしていたようだ。ICUではまだ、一郎が真剣に闘っていた。
腕につけている時計を見るとすでに真夜中になっている。でも、病院の灯りは消える事がない。とくにICUの周りは常に電灯が点いており、すぐ隣のナースセンターでは看護婦がつねに忙しそうに歩き回っていた。
「関口さん。」
看護婦の一人が陽子に近づいてきた。
「寒くありませんか?こんなところで寝ると、身体に良くありませんよ。」
それは若い看護婦だった。まだ看護婦になり立ての初々しさが残る人だった。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
陽子は頭を下げた。
「昨日の夜から何も食べていらっしゃらないんでしょう?これでもどうぞ。」
看護婦は小さなアルミホイルで包まれたお握りを手渡ししてくれた。
「今日の夜勤の為に作ってきたのですけれど、残っちゃったんです。残り物で悪いですけれど。どうぞ食べてください。」
看護婦の優しい態度に胸が熱くなる思いがした。確かに言われる通り昨日よりなにも口にしていない。心配で何ものどを通らないのだ。食欲は起きないが優しい看護婦さんの気持ちがありがたく、陽子は黙って受け取った。
「あなたも学会の方でしょう?」
突然の言葉に陽子は返事につまった。
「私も学会員なんですよ。二世なんですけれど。」
「はあ…。」
「頑張ってくださいね。必ず治りますよ。御本尊様に祈れば必ず治ります。」
看護婦の顔を見ながら陽子は、この子は何か勘違いをしていると思った。確かに息子は「学会員」だけど私はまだ違う。学会員ではない。入ってもいいなとは息子に言ってみたけど、まだ入ってはいないのだ。
「私も去年、母が脳溢血で倒れて昏睡状態になったんです。担当のお医者さまも十中八九ダメだろうって言われたんですけれど、私のお題目で母は助かったんです。多少の後遺症は残ったんですけれども、今じゃ元気に走り回ってますよ。」
看護婦はにこやかに笑いながら話している。心配をしてくれている事はいやでもよくわかっていた。また、見ず知らずの他人だというのに、このようにお節介をかけてくる。
いったい学会というのは何なのだろう。陽子はそれまで「創価学会」の話を聞いたことがなかったからよくわからない。
「お宅の息子さんも必ず治りますよ。頑張ってお題目をあげてくださいね。」
そう言うと小走りでナースステーションに戻っていった。
「お題目か…。」
そう言えば息子も言っていた。お題目、南無妙法蓮華経というお題目の力は凄いと。唱えていくうちに身体の奥底からふつふつとたぎるような力が涌き出てくるからと。
「お母さん。いっしょにやろうよ。一緒にお題目を唱えて頑張ろうよ。」
息子が宗教にかぶれてしまっている。その不安はぬぐえないものがあった。しかし、身体の弱かった息子が見る見る間に健康的になって行くのを見ているうちに「何かが違うぞ」と思えるようになってきたのだ。
そうだ。唱えてみるのも良いかもしれない。
陽子はここではじめて唱えてみる気になった。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」
最初は恐る恐るだった。何か恐ろしい呪文のような気がしてならなかった。しかし、唱えているうちに何か心の中が溶けて行くような、そして、なによりも全身に響き渡っていくような「うなり」が感じられてくるのだ。
「どうか、わたしの息子を…一郎を助けてください。」
(ついに大きな河を渡ってしまった。)
陽子は昔、なにかの本で読んだ言葉を思い出していた。いままで息子から幾度となく勧められていたはずの題目が、今自分の口から出ていることに違和感はなかった。ごく自然に言葉として出てくる題目に不思議さえ感じていた。唱えていくうちにいろいろな雑念が消えて行き、残ったのは「自分のかわいい息子が元気になって戻ってくること」ただそれだけだった。
「かあさん。このご本尊さまはね、祈って叶わざるはなしのすごいご本尊さまなんだよ。祈ったとおり、願ったとおりのことを実現してくれる仏さまなんだ。」
息子の言葉が頭の中をよぎっている。今思えばあの子は一生懸命だったような気がする。あの時は息子の宗教かぶれがまた始まったと思い、軽く聞き流してしまっていた。適当なその場あたりの返事をしてごまかしていた。最後には「いっしょにやろうよ。」の言葉に何でもっと真剣に聞いてやろうとしなかったのだろうか。もし、もし、ここで一郎が死んでしまうことになったなら、自分は自分を一生許すことはできないだろう。一郎を不健康な子供として産み落としただけでなく、そんな息子が一生懸命なっていることを理解しようとしなかった自分。そんな自分がどうしようもない親のように思えてならない。いや、もしかしたら自分が、あれほど嫌っていた「子供に無理解な親」になってしまっていたのではないかと思えてならなかった。
そうだ。そういえば昔の彼が何気なく言っていた言葉があった。
「人間は、自分が一番嫌っていた人種になるものだ。」
それは陽子にとって、自堕落な彼の言い訳に過ぎないと決め付けていた。自分は決してそんな人種にはならないと無根拠に信じきっていた。陽子の親は最後まで陽子のことを理解してくれなかった。いまだにそうだ。自分はそんな親になるつもりはなかった。
しかし、現実はどうだ。自分は一郎のことを本当に真剣に考えていたつもりだった。弱い身体のこと、将来の仕事のこと。果ては結婚の相手まで自分で探してやるつもりでいたのだ。しかし、それは単に、自分の満足のためにやっていただけではないのか。何もかも自分で世話してやらなければならないと、勝手に決め付けてそれで善しとしていただけではないのか。子供のことをわかっているようで一番分かっていなかったのではないか。
自分の価値観を押し付けている無理解な親。気がついたら自分が一番嫌いな人種になってしまっていたではないか。
いつのまにか陽子のあげる題目に力が加わっていた。それまで口の中だけであげていた題目が真剣になるにつれ、口の外へ出るようになっていた。今の陽子にはただ、息子の無事を祈る一念があるのみであった。他には何もなかった。ただ、ひたすらに無事を祈っていた。
どのくらい時が過ぎたのだろうか。突如、ナースステーションにけたたましい警報が響いてきた。看護婦の動きが急にあわただしくなり、数名の看護婦がICUに駆け込んだ。
陽子もそのあわただしさにハっと我に返り、思わずICUに駆け寄った。しかし、中で何が起きているのか確認することはできなかった。
やがて数人の医師と看護婦がただならぬ表情でICUの中に駆け込んだ。陽子はその医師に見覚えがあった。たしか、一郎の容態を説明してくれた外科医師だった。間違いない。すると、この騒ぎはもしかして、一郎の容態に変化があったのかもしれない。陽子の心臓が激しく鼓動するのが分かった。
「関口君のお母さん。こちらへ。」
マスクをした看護婦がICUのドアを開けて陽子を呼んだ。陽子は小走りにかけてICUに入っていった。
消毒された帽子とマスクをつけ、薄い水色の割烹着のようなものを着用してICUの奥に入ると、一郎がさまざまな機械に取り囲まれるようにして横たわっているベッドの前に立った。同じようにマスクをした医師が暗いまなざしで彼女を迎えた。
「息子さんの容態が芳しくありません。現在、血圧が低下しており、薬の力で何とか小康状態を保っていますが、はっきり言ってよくない状態が続いています。私達も最善を尽くしますが、後は息子さんの体力だけが頼みです。」
陽子は眠っている一郎の顔を見つめた。何も考えることはできなかった。ただ、何とかしてやりたい、この子を助けられるのであればどのようなことでもしてやりたい。この子の為にしてやれることはないのだろうか。
「先生。」
陽子は医師を見つめた。
「この子の手を握ってやってよろしいでしょうか?」
「ああ、構いませんよ。」
医師は軽く許可を出してくれた。つけていた手袋を外し、陽子はベッドの横にかがんで蒲団の上に乗せられていた息子の右手を、いとおしそうに握り締めた。
「一郎。お母さんも頑張るからね。頑張ってお題目をあげるからね。いっしょに頑張ろうね。」
陽子はそう呼びかけると小声で題目をあげ始めた。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…。」
陽子の題目は静かに続いていた。カチャカチャとなる機械の音に混じっていつまでも続いていた。
そこはどこかよくわからない。一瞬のようであり、また永遠のようである不思議な場所だった。ただ、ぽつんと一人うずくまって目の前の川の流れを見つめていた。
「なぜ自分はここにいるのだろう…。」
さっきから同じことを考えつづけていた。
「ここはいったい、どこなんだろう…。」
空を見上げてもただ白い乳色の光が蔓延しているだけ。見えるはずの太陽がここにはなかった。あるのは向こう岸が見えない川が足元に流れているのと、それを静かに見つめている自分だけであった。
どれだけ時が過ぎたのだろうか。いつまでもここにいてはならないという心の中からの声に答えるかようにその場から立つと、川の向こう岸を見つめた。どうやら何人かの人の姿が確認できる。みな楽しそうに遊んでいるように見えた。
「向こう岸には何があるのだろう。」
ふと、足元の川が浅瀬のように思えて渡ろうとした。そのときである。
「行っちゃだめ!」
聞き慣れた声が自分を呼び止めた。振り返ると遠くで声を限りに叫んでいる人がいた。誰だろう?見覚えがあるがよくわからない。女の人だ。よく見るとその女の人は泣いていた。
「そっちはだめ!戻ってきて!」
なぜ行くとだめなんだろう?再び目を対岸に向けると誰かが手招きしているのが見えた。
誰かが呼んでいるな。行ってみようか。そう考えると川の中に足を入れた。すると、いきなり足元が掬われたようになって転んでしまった。
気がつくと空を飛んでいる。すさまじいスピードで大空を飛んでいるのだ。吹き付ける風が気持ちよかった。
「なんだ、俺って飛べるじゃないか。」
両手を大きく広げて胸を張ってみる。するとより高い位置に浮いていく。このまま高い空へ飛んでいったら気持ちいいだろうなと考える。そうだ、もっと高い空へ飛ぼう。そう思いつくとさらに胸をそらせて空高く飛ぼうとした。
「智生房!」
誰かの罵声で目が覚めた。智生房ってだれだ?おれか?
「いつまで居眠りをしているのだ。さっさと起きないか!」
ふと気がつくと街中の小屋に座っていた。そうか、俺は居眠りをしていたのか。
「そろそろお師匠様が戻ってくるころだ。急いで草庵に戻らないと弁殿からきつくお叱りを受けるぞ。」
弁殿はお師匠様と同年代の先輩だ。下手をするとお師匠様より怖い存在である。
「せっかくお師匠様から出家を許されたのに、ぜんぜん進歩というものがないではないか。これではいつまでたってもおまえは下っ端で終わってしまうぞ。智生房!」
いつもそうだった。どう言うわけか自分ばかり叱られるのだ。叱るのはたいていこの目の前にいる先輩、伯耆房である。厳しい先輩であった。
松葉が谷にある草庵に駆け込むと既に勤行が始まっていた。どう言うわけか今日はたくさんの信者が草庵の周りに集まっていた。そうか、お師匠様が帰ってらしたのに相違ない。智生房は懐から数珠を取り出すと、信者の間を縫うようにして草庵に入った。
草庵の中では既に多くの弟子僧と稚児が集まっていた。そして、その中心にお師匠様が座っているのが見えた。
ここで智生房はふと、懐かしさを覚えた。お師匠様の背中がとても大きく豊かに見える。まるで、大きな巌を感じさせた。やっと会えたという思いだった。なぜか目頭が熱くなり、涙があふれて止まらなかった。
どこからか題目の声が聞こえてきていた。
「智生房よ。いくぞ。」
気がつくとお師匠様が道の先を歩いていた。
「はい、ただいま。」
智生房は必死に後を追った。どこまでも長い道を歩いているようだ。一生懸命に追うがなかなかお師匠様に追いつけなかった。そのうちに息が切れ、意識が朦朧となっていった。
「智生房よ。つかれたか?」
朦朧とした意識のなかで智生房は「大丈夫です。」と言おうとした。しかし、声にはならなかった。
「おまえの進まねばならぬ道はいまだ遠い。されど、終わりの無い道はない。しっかり歩むのだぞ。」
智生房は息を切らしながらうなずいて見せた。あまりの息苦しさに声が出せないで居る。
「おまえの父や母はどうしている?」
「父は体の調子がよくなくて、仕事を転々としております。」
息を切らしながら、それでもなんとか声をひねり出して返事をした。
「母は、そんな父をたすけるために仕事にでております。」
ふと気付くと自分は僧衣をまとっていなかった。普通のワイシャツにネクタイの姿で立っている。そして目の前には一人の僧侶が静かに立っていた。
「いきなさい。」
僧は穏やかに言った。
「おまえがここに来るのは早すぎる。」
「お師匠様!」
僧はにこっと微笑んだ。すごくやさしい笑顔だ。この人はこういう笑顔も見せるのか。と思った瞬間に全身に衝撃が走り、一郎は天高く舞い上がって落ちていく感覚に教われた。
「落ちる!?」
そう思った。そして、大地に叩きつけられた感覚が襲ってきたとき、意識を失った気がした。
もやもやとした目の前になにやらぼんやりとみえるものがあった。一郎はそれを一生懸命に見ようとしていた。しかし、どう言うわけかハッキリと見えなかった。
しばらくしてそれが、顔の片半分を包帯でぐるぐる巻きにされているためだと気付いた。次第に意識が明瞭になるにつれて、自分がベッドの上に横たわっている事がわかってきた。
「どうしてだろう…。」
頭の中でつぶやいているが、声にはならなかった。そのうち、白い服を着た女の人がカーテンの向こうから現れた。と、視線が一郎のものと一致したとき、驚きの表情をみせた。
「先生!先生!」
看護婦は部屋を飛び出していた。
しばらくすると今度は男の人が現れた。薄い水色の医療衣に身を包み、同じ色をしたマスクをしていた。
「意識が戻ったようだね。」
男の人は医者のようだった。何か看護婦に小声で言いつけると一郎の顔をのぞき込み、そしてゆっくりと穏やかに話し始めた。
「心配しなくていい。ここは病院だ。君は交通事故を起こしてここに収容されたんだ。」
一郎は何かを思い出そうとしたが、ひどく昔の事を思い出すかのように曖昧模糊としてハッキリとしなかった。頭の中に灰色の部分があり、その向こうに何か大切なものが隠されているようだった。
「君は今まで危険な状態だった。しかし、意識が戻ったからにはもう安心だ。良く頑張ったな。」
一郎は何かしゃべろうとしたがなぜか声が出なかった。
「ああ、無理をしなくて良い。ゆっくりと寝てなさい。」
一郎はようやく自分の体がずたずたになっている事に気付いた。手にも足にも力が入らず、特に右手の薬指に感覚が無い。手を上げようにもまるで筋肉がずたずたになっているかのように激痛が走ってどうにもならない。まるで筋肉と言う筋肉が固まってしまったかのようだった。
顔の半分には包帯が巻かれている。そのため左の目が「目隠し状態」で何も見る事が出来ない。右目だけが自由にものを見る事が出来た。
一郎は自分が居る部屋を見回した。少しならば頭も動く。だが、動かすと頭に痛みが走る。鈍痛だ。まるで頭の中で割れ鐘が鳴っているようだった。
ふと気がつくと、自分の頭の上に何かがつるされているのに気付いた。良く見ると、それは折り紙で作られた鶴だった。そう、千羽鶴だ。いったい誰が…。
そのうち、足元のカーテンが開かれ、看護婦につれられて女性が一人入ってきた。そのとき、頭のはじっこで何かが割れる音がした。と、今までつめられていた物が一気に噴出すような感覚にとらわれた。
そうだ、あの河を渡ろうと思ったとき、「言っちゃダメ」と叫んだ女の人だ。そうだ、あのひとは母さんだったんだ。
「一郎。」
母さんは泣いていた。涙をぽろぽろと流し、言葉にならないようだった。
「ご・め・ん・な・さ・い」
一郎は声を出せなかったが、口を大きく開いたつもりになりながら詫びた。一郎の右目からも涙が一筋流れた。
「たいしたものです。今だから言えるけど、私はほとんどあきらめていた。こうなったのは息子さんの生命力の強さですよ。」
マスクの上に見えている医師の目がこころなしか潤んでいた。
― 第5話 終 ―