牙城会とは、会館警備をその主任務とした創価学会男子部の中の人材グループの「名称」である。彼らは「会館警備」という任務を通して「信仰」を学び、「無事故の任務遂行」を達成する事により自分自身を鍛え上げ、一流の人材に成長してゆこうとしている青年たちである。彼らは今日も、黙々と「無事故」目指して、任務を遂行しているのである。
第6話 誓い
常勝文化会館で行われている定例の県執行会議は重苦しい雰囲気に包まれていた。事務室の脇にある会議室で、常勝県長の西田恵が腕を組んだままじっと何かを待っているように議長席に座っている。
いつもならば横には立石恵子県婦人部長が座っているのだが、今日はどう言うわけか席にいない。そればかりか、常勝県の3圏(ゾーン)のうち轟圏の幹部、竜田利光圏長と三島敦子圏婦人部長。それに分県書記長で轟圏出身の加瀬一成がその場に居なかった。
轟圏からは熊谷直実圏青年部長と細井英一圏男子部長のふたりがいるだけだった。
「まだ連絡がありませんねえ。」
栄光圏長の向井勇一が盛んに時計を気にしている。既に開会から二時間が過ぎていた。いつもならば会議も終わっている時間だ。
「竜田さん。かなりごねているのかもしれないわね。」栄光圏婦人部長の高柳みねが、困惑した顔をしながらぼやいている。「あの人も意地っ張りだから…。」
「意地っ張りじゃないよ。へそ曲がりなんだ。」
ひどくブンむくれた顔をして、吐き捨てるように言ったのは多々良圏長の畑田光だった。
「あの人は昔からそういうところがあったんだよな。少々自分勝手なところがあって、振りまわらされる人こそ迷惑なんだよな。」
「同志の悪口を言うものじゃないよ。畑田さん。」
西田県長がたしなめるように言った。
「かれも大変なんだ。いろいろと…」
「でも、書記長と三島さんが竜田宅に行ってもう一時間ですよ。この間の事故直後の集まりで批判をされた事をまだ根に持っているんですよ。だから、なんだかんだといって理由をつけて、いまだ会合に出たがらないんだ。」
畑田圏長はずけずけとものを言う人らしい。
「誰だって面と向かって批判される事を喜ぶ人はいないよ。竜田君もそれなりに一生懸命に頑張っていたんだ。ただそれだけなんだ。それなのにいきなり、面前で批判された。だから感情的になっただけなんだよ、彼も。」
「でも、県長。関口一郎君とか言う男子部が交通事故に会い、瀕死の重傷を負ったのも事実ですよ。それも、会館の無断延長という事をしていた後だと言うじゃないか。そんな事をしておいて、圏長として責任を感じないこと自体がおかしいでしょ?」
畑田多々良圏長は憤激しているようだ。
「でも、竜田さんはこういうことがあるかもしれないからって、牙城会には先に帰宅して良いと言ったそうじゃない?それを拒否したのは彼らでもあるし…。それに、会館の無断延長はなにも、竜田さんだけがしている事とは違うのじゃないかしら?」
竜田圏長を弁護するかのように高柳栄光圏婦人部長は言った。その言葉の中には少しではあるが皮肉がこめられているようだった。つまり、暗に栄光圏の会館運営についての批判をしたいらしい。向井栄光圏長の顔が少しだが赤くなった。
「それは違うだろう。」今度は畑田圏長の方が息巻いた。「そもそも牙城会は会館警備が仕事だ。残る人が居る限り、任務につくというのは牙城会の使命でもある。深く使命感をもつ男子部だったからこそ、そのように言われても帰らなかったんだぞ。それを批判するのはお門違いと言うものだ。」
「でも、そんな意地を張った結果として、あのような事故に遭ったんだという竜田圏長の言い分も分からないことではないわ。早く帰っていればあんな事故になど遭わなかったんじゃない?会館のカギなんぞ、圏長に任せておけばよかったのよ。」
すると、分県の男子部主任部長であり、分県牙城会委員長でもある向田直樹が穏やかさの中に張りを含ませた野太い声で口を開き始めた。
「高柳さん。それは見方が違いますよ。本来ならば圏長決済での会館の時間延長はすべきではなかったのです。基本的には許可されている時間内で切り上げるべきだった。それを延長したからこそ事故になった。そのように考えるべきなんです。」
「3.16の記念総会が明後日に迫っていたんだから無理もないわよ。日程はぎりぎりの状態だった事は貴方だって分かっていたはず。竜田さんの判断だってやむを得なかったものじゃないの?」
「たしかにやむを得なかったところは有るでしょう。しかし、それと責任感とは次元の違うものではないでしょうか。少なくとも関口君はその責任を自覚していた。だから、帰宅せずに居残りを続けた。これはこれで賛嘆すべき行為ですよ。」
「でも、結局交通事故に遭遇してしまったじゃないの。無事故を目指すならば最後まで目指すべきでしょ?」
「それこそやむを得ないじゃないですか!事故には防げるものと防げないものがあるものと思います。確かに彼の持つ宿業とも言えるかもしれない。しかし、それは同時に我々幹部の宿業でもあるはずです。」
高柳圏婦人部長がむきになって反論しようとしたとき、西田県長が手を上げて婦人部長を制した。
「言いたいことは分かった。だから二人ともやめなさい。私達は責任をどうのと議論するためにここに集まったのではない。」
県長の言葉にその場は収まった形になったが、高柳圏婦人部長はまだ何か言いたりない様子だった。
西田県長は会議室の壁にかかっている時計を見やった。止むを得まい。
「時間がない。婦人部長や書記長がいないが、とりあえずはじめようか。」
西田県長は一つ咳払いをして集まった幹部連の顔を見回した。
「予定された時間が過ぎて申し訳ない。本来ならば、3.16記念総会の総括をする予定で集まってもらった訳ですが、ごらんの通り不手際があって執行会議の開会が遅れてしまいました。お忙しいところ、集まってもらった皆さんには非常にご迷惑を掛けてしまい、申し訳なく思っております。」
西田県長の言葉には沈痛さがあった。
「最初に、各圏では記念総会を開催していだだき、大変にご苦労様と申し上げたいと思います。戦いの結果としては総会における内部結集率もさることながら、聖教啓蒙、入会、およびご本尊流布の所帯数も、それぞれ目標を大幅にクリアできました。これも一重に皆さんの協力の賜物であると思っております。」
ここで県長は一息つき、集まっている各幹部たちの顔を眺めた。
(どうしてだろうか…。)
いつもとは違う雰囲気だった。
(重いな。)
結果として戦いは「大勝利」であったはずなのに、西田の心に今一つ、晴れやかなものがなかった。幹部たちの顔も今一つ優れないものがあるのは、そんな西田の気持ちがそう感じさせているのかもしれない。でも、果たしてそれだけだろうか?
「とくに、轟圏の戦いは目を見張るものがありました。それまでの『主役』であった栄光圏の”お株”を奪うような、壮絶な戦いが繰り広げられました。そう言う意味ではまさに『史上最高の戦い』であったといってもいいと思っております。」
西田はちらりと栄光圏のふたりを見た。向井は目を伏せており、高柳は視線を合わせなかった。やっぱりと思った。この二人はそれまでなにかと一位だった「成果」が他圏にとられたのが面白くないのだ。しかも相手が二人が最も嫌っている竜田利光であったことがよけいなのだろう。
向井圏長も以前から竜田とはウマが合わないと感じていたひとりだ。特に高柳圏婦人部長の竜田を嫌うことは激しかった。憎悪といっても良いくらいだ。元男子部方面幹部で全国幹部にも推挙されたことがあるということが鼻についているのかもしれない。
確かに竜田圏長は二人に比べては若い。まだ40代前半だ。それで鳴り物入りで圏長になったわけだから、50を過ぎた壮年婦人から見れば「青二才」の感は否めないわけだし、それでもって話し方が高調子であれば「生意気な小僧」と思っても仕方がない。それでも向井圏長はまだ「分別」というか、自分の持つ感情を抑えることが出来ているようであるが、直情型で「自尊心」の強い高柳圏婦人部長は露骨に反発してしまうのだろう。
問題の半分は竜田利光自身の性格にあるにしても、高柳婦人部長自身の持つ「自尊心」の強さにも問題がある。すくなくとも西田はそう見ていた。実は竜田利光を敢えて圏長に推薦したのには、高柳みねの「自尊心」と竜田利光の「傲慢さ」を競合させる西田の「策謀」の意味もあった。竜田の「傲慢さ」を最初に指摘した高柳と「競合」させる事により、戦いに緊張感を持たせたかったのである。
今までは確かに良かった。「策」は功を奏していたのである。『婦人部が動けば成果が確実に出る』という内部での法則どおりに、栄光圏は常に成果ではトップの成績を収めていたのだから。ちょっと気弱な圏長・向井勇一をカバーして余りある成果であった。
しかし、今はそれが裏目に出ていた。競争意識が嵩じすぎて「怨嫉(怨み嫉むこと)」の域にまで達している。何とか二人をなだめなくてはならない。互いに怨嫉させるのは退転へとつながる可能性が大だ。西田はそう思った。
「でも、残念なことに轟圏では、男子部で牙城会の関口一郎君が交通事故に巻き込まれるといった『事故』が起きてしまいました。これは明らかに『魔の蠢動』と言えるでしょう。これは非常に残念なことには違いありませんが、仏法には無駄はありません。必ずそこには深い意味がある。その意味をどう捉えるかはそれぞれの一念にあります。それをしっかりと捉えて、後の日には『転重軽受』であった、あれで我が地域は変わった、と喜べるようにしたいと思います。」
西田の正直な気持ちだった。常勝県の県長として、池田先生の大事な弟子を任されているという「責任感」が、彼の気持ちを鬱にさせているのだと彼はそう信じていた。何とかしなければ。考えれば考えるほど、今回の事件はただの事故とは思えない何かがある。自分の「打った」手が明らかに「手詰まり」の感を呈している。これは「何か」を変えなくてはならない「前兆」かもしれない。でも、このようなことはここでは言う事は出来なかった。まさに、県長としてひとり「苦悩」しなければならないことだった。
不意に電話が鳴ったのはその時だった。たまたま近くにいた熊谷直実圏青年部長が電話を取った。そのとき、不思議なことに西田の心臓が「ことん」と鳴った。
「県長。加瀬書記長からです。」
熊谷青年部長はコードレス電話を西田に渡した。電話の向こうではただならぬ事が起きているようだった。書記長の声は僅かではあったが上擦っているように聞こえた。
「なに?竜田圏長が法華鉦明寺に入っていくのを見たって?」
そこにいる幹部のすべてが西田の声に驚いて振り返った。西田の声が裏返ったからだ。
「どう言うことだ?あの竜田君が脱会したとでも言いたいのか君は!」
空気が凍りつく。一瞬、すべての時間が止まったように感じたのは、電話を取り次いだ熊谷圏青年部長だけではなかったろう。
常勝文化会館が大きく揺れようとしていた。
等々力記念病院の前に一台の車が止まった。中から出てきたのは川口信行と橋立誠、それに関口大輔の三人だった。
この日、二人は一郎君の見舞いにやってきたのである。
「もう、春なんだなあ。」
信行は病院の庭に咲いているソメイヨシノの花を眺めていた。既に満開というところか。
「日本人て面白いね。なぜ、こんな花を好きになるのだろうね。」
橋立さんが信行の後ろから問いかけるように言った。
「よくわからないけど、花見にはサクラは必要だよね。」と、大輔君。
「じゃ、なにか?花見がなけりゃサクラはいらんてか?」と信行。
「当然ジャン!桜無くして花見無し。酒飲めずして何ぞこの世の楽しみや。」
「あほか!お前は。」
橋立さんの突っ込みに、二人はなぜか大笑いしていた。それも、一郎君の回復が順調である事と無縁ではないだろう。
一時は危篤状態に陥りながら、まるで不死鳥のように蘇ってきた一郎君を見舞おうと言い出したのは大輔君だった。大輔君の気持ちは橋立さんに伝えられ、それが信行にも伝えられた。信行も二つ返事でOKを出した。
既に一郎君はICUを出て一般病棟に移っているという。頭以外の怪我は大した事ではなく、順調に行けばリハビリも含み、三月ほどで退院できるだろうとの話を主治医からは言われているらしい。とにかく今の一郎君がどんな状態なのか、一目みたいと思って二人についてきたのだ。
「この間来たときはまだベッドに寝たままで、言葉も大して話せなかったようだったけどね。」
大輔君はお父さんから一郎君の容態を聞いていた。入院の際にあんなことがあったので、何かあると悪いというので、大輔君や橋立さんは敢えて見舞いを控えていたのであるが、お父さんの関口地区部長だけは、時間を見て病院を訪れていたのだ。
もちろん、父親の関口善治と鉢合わせしないように気配りをしての訪問だった。
情報は創価班から逐次伝えられていた。というのも、法華講が動き始めたことにより、創価班の広宣部が動き始めていたからである。広宣部では本人の了解も得て、病院の周囲に張り付いて訪問する人たちをさりげなくチェックしている。その中に法華鉦明寺の法華講、鉦蓮講(しょうれんこう)のメンバーがいないかどうかのチェックである。もし、彼らが乗り込んできて迷惑をかけるようであれば、同志として一郎君を守ってやらねばならない。広宣部長である佐竹勝利圏主任部長は何名かの専任者を指名して張り込ませていた。
それによると、何回かは法華講員が病院を訪れたようだ。たいていは父親である善治氏が連れて入るようで、その中には善治氏を入信させたと言う鉦蓮講の青年部長・鶴丸一樹の姿も見られたらしい。しかし、母親が頑として見舞いを断わったため、本人に直接対面することはほとんどなかったという。時には父親がその態度に気色ばんだようだが、母親の力であろうか。さすがの善治氏も人前で暴れるのを躊躇ったのか、広宣部が入り込む場面までには至っていなかったという。
入り口の自動ドアを抜けるとパステルカラーに彩られたロビーがある。病院のロビーは相変わらずの賑やかさだ。特に老人と子供の姿が目に付く。受け付けで手続きをすませると奥に入り、階段を上って別の棟へと続く通路を渡ると入院病棟と言う表示が目に付く。
「一郎君は二階の206号だと言う話だよ。」
大輔君は父親から病室の番号を聞いていたらしい。率先して廊下をきょろきょろと見回しながら病室の札を見て回っていた。
「ここだ。」
大輔君が立った206号室は、ドアが開け放たれていた。中には6つのベッドがあり、それぞれ患者が横たわっていた。しかし、どう言うわけか一郎君の姿がなかった。
「ああ、関口さんね。今朝ほど病室が変わったと言うんで急にでてったよ。」
アタマのはげた60歳ぐらいの人が、窓際の片付いてきれいになっているベッドを指差していった。「いろいろ有ったようだからね。大変だよ、あの人もね。」
なぜか気になるような一言を言う人だな。信行はその言葉の裏に何かを感じていた。
三人は礼を言うと部屋を出、再び連絡通路をわたって受付にもどり、一郎君の病室を尋ねた。すると、入院病棟の最上階ということだった。
最上階は個室だ。行ってみると部屋には母親がいた。一郎君もベッドに横たわっていた。まだ、頭と顔の左半分に巻きつけられている包帯が痛々しい。
三人は持ってきた見舞いの品を母親に渡した。
「元気そうじゃないか。」橋立さんの言葉に一郎君は嬉しそうにうなずいていた。「今日は様子を見に、みんなで来てみたんだ。」
「どうもすみません。まだこのまんまで…。学校のほうもまだ出られないし、任務のほうも暫く出られそうにも無くて。みんなに迷惑をかけているようで申し訳無くて。」
「気にする事はないよ。あんな大事故にあったんだもの。しょうがないさ。いまは怪我を早く治すことが君の闘いだ。ゆっくりと養生すれば良いさ。」
橋立さんは気遣いを見せながらじっくりと話し掛けて行く。まず何よりも本人を元気付けようとしているのだ。自分のところの部長である高橋さんと同じやり方だ。
「そうだよ。一郎くんはすごい実証を示しているんだ。車はメチャメチャになってしまったけど、運転している本人は生きているんだもの。父さんはしきりに『転重軽受だ』って言っているよ。一郎君は本来ならば、あそこで死んでいたんだって。母さんも『一郎君には使命が有る。だから、御本尊さまが護ってくれたんだ』って言っていたし。」
大輔君はまるでスーパースターを見るような眼差しで一郎君を見ていた。弟の学が言っていたように、やはり二世だからだろうか。このようなはっきりと目に見えるような『功徳の体験』を積んでいないようだ。だから、大きな功徳を受けたように見える一郎君が、純粋にうらやましいのだろう。
「川口さんも来てくれたんだ。どうもありがとう。」
信行は照れたように頭を掻きながら笑って見せた。
「大した事じゃない。落ち込んでいる君を励ましてやれればなどと思って来たんだけれど、こんなに元気だったとはね。当てが外れてしまった。」
病室は笑いに包まれた。こんな賑やかな病室なんて有るのかな。信行にはここにも「功徳」の一端が垣間見えるようだった。
「そうだ。橋立さんに聞いてもらいたい事があったんだ。」
一郎君はベッドから起きあがろうとした。一郎君のお母さんがそんな彼を抱えるようにしてベッドの上に座らせると意外なことを話し始めたのである。
「橋立さんは『生まれ変わり』って信じますか?」
「生まれ変わり?」
「はい。」
「そうだな。信じてもいないが否定もしないよ。ただね、連続した同じ人格としての『生まれ変わり』と言うものは「ない」と言うのが基本的立場だけどね。」
何かと理屈っぽい橋立さんの言葉は難しすぎて、信行にはよくわからない。ただ、巷で言うところの「人間の魂」というものを否定していると言う事だけは以前聞いた事があった。
「僕は『生まれ変わり』というものは『有るかもしれない』と思っていたんです。つまり、自分の『前世』というものがあって、その時の記憶は無いけれどもそこでも何らかの『人生』を歩んでいた事があり、その結果として『今の自分がある』というように。」
「確かに、大聖人も御書の中で『前世』と言う事を語っている部分があるからな。それを一郎君のように解釈する事自体は構わないとは思うね。」
一郎君は物知りだ。小さい頃から本や漫画が好きで、いろんな本を読み漁っていたと聞いている。その中には「オカルト志向」のものもあったとか。だから、一郎君はそういう「不思議路線」の話が好きだったようだ。
「実を言うと僕自身。あの交通事故で意識を失っていたときに、不思議な夢を見たんです。」
「ほう?どんな夢かな?」
そこで一郎君はとうとうと話し始めた。それは実に不可解な「夢」の話だった。
鎌倉の町を二人の僧侶が歩いている夢だという。
「智生房ね…。」
橋立さんは腕を組んで考え込むようなしぐさをした。信行も拙い記憶をたどってみたが、そのような名前を聞いた事が無かった
「そのような『お弟子』さんの名前は聞いた事が無いね。」
大輔君にも振ってみた、が彼も首を振っていた。
「どうなんですかね?橋立さん。」
橋立さんは一応青年教学一級の保持者だ。このまま壮年部へ進出すれば、教学部の「教授認定」がされるほどの知識を持っていると既に認められている。
「俺も聞いた事は無いな。」
橋立さんもキッパリと言いきった。
「でもな、それは単に『記録が無い』と言うだけで即、その存在を否定できるものではないよ。大聖人御在世のときにいたお弟子さんで、記録には残らなかったが真面目に活動していた人だって居たと思う。名前が残った人達だって中には『退転』したり、『師敵対』してどこかへ行ってしまった人が居るし、その逆があってもおかしくない。」
「へえ〜。」信行も大輔君もうなずいていた。はじめて聞く話だったからだ。
「例えば少輔房(しょうぼう)というお弟子さんが居たとの記録がある。あまり詳しく伝わっていないが、かれはごく初期に大聖人を見限って退転したらしい。その後、大聖人が龍ノ口で斬首の刑に遭う際に、検断沙汰として時の侍所の所司(著者註:今で言うところの副長官)であった平左衛門尉頼綱の部下が大聖人を捕らえに来たんだけれど、その中に少輔房という名前があってね。どうやら違う人物らしいんだけど、たまたま名前が同じだったから、『少輔房というお弟子さんは退転した後、平頼綱の子分となって大聖人を迫害した』という伝説になったからな。」
「歴史っていうものはね、記録が織り成す隙間だらけのタペストリー(壁掛け)と言われているからね。というのも、歴史の真実というものは同時代に生きて、その現場に立ち会ったもののみしか得られないからな。でも、それが歴史にとっては重要なことではない。真実を得る事よりも、その隙間だらけのタペストリーから、何か大切なものを得る事のほうがもっと重要なんだ。」
橋立さんは熱く語った。ギンギンにアツイおじさんだ。
「その話の中に出てくる『伯耆房』というのは日興上人のことだろう。日興上人はもともと武士の血筋で、早くに父親を亡くしている。母親は別の武家に再婚し、日興上人は母方の祖父である由比入道に育てられたとある。そういう意味では性格的には実直で、何事にも一心不乱に努力するような、そんな人だったらしい。幼くして父と死に別れ、母とも別れて祖父・祖母に育てられ、かなり苦労してきたのだろう。他人の機微に敏なるところがあったようだ。そんなところが大聖人に認められ、弟子になれたのだと思う。また日興上人も、大聖人に父親の面影を抱いたのかもしれない。だから、大聖人の元を離れず、常にそばに居て大聖人の教えを血肉にする事が出来たのだと思う。それは同時に、後輩に対しては厳しい先輩に見えたことだろうよ。」
「弁殿と言うのは日昭上人の事だ。上総の生まれでもともとは天台宗の僧侶だった。その時の名乗りが「成弁」で、大聖人からも「弁殿」と呼ばれていたらしい。御書にもそのような記述がある。歳も大聖人よりひとつ年上で、大聖人が鎌倉に来た頃にお弟子になったというしな。」
「そのようなお弟子たちの狭間で人知れず、こつこつと信心を続けていた、目立たないお弟子さんが居たとしてもそれを否定できる根拠はない。だから、智生房というお弟子さんが居た記録はない、とは言えるけど、居ない、とは言いきれないんだ。」
「僕は今まで、大聖人のことを、あまり知りませんでした。というより、興味が無かったんです。」一郎君は何か焦っているような話し方をしている。「だから、弁殿という呼び名も知らなかったし、伯耆房という名前も聞いたことがありません。だから、どうしても単なる『夢』だとは思えないんです。」
信行にはそんな不思議体験など無い。だから、一郎君が話していることの真偽はよくわからないが、何か因縁めいたものを感じている。こんな不思議な話もあるのかという一種の驚きでもあった。
「そうか。だとすると一郎君は本当に昔の弟子の生まれ変わりかも知れないな。」
橋立さんの一言に一郎君の目がきらきらと光り始めた。
「だとしたら、一郎君。君には重大な使命があるのだろうな。だからいま、このような状態になっているんだ。」
一郎君はうなずいている。
「願兼於業といって、仏や菩薩が自ら悪世に生まれて衆生を救うことがある。これは、法華経法師品第十にある『薬王。当知是人。自捨清浄業法。於我滅度後。愍衆生故。生於悪世。広演此経。(薬王、当に知るべし、是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍[あわれ]むが故に、悪世に於いて生まれ、広く此経を演[の]ぶるなり)』という経文を、妙楽大師(※)が釈した言葉なんだが、われわれも同じなんだ。願、業を兼ねると読むが、自ら願って宿業を持って生まれ、それを解決して見せることにより、衆生を助けるのがわれわれなのだよ。だから、一郎君も同じ。今の境涯を打破してみせることが今の君の使命なのだ。その本地(本当の姿)が、大聖人の時代のお弟子さんだったという可能性はあってもいい
と思うよ。」
橋立さんはそういうとにこっと笑い、右手を差し出した。
「とにかく、題目あげてがんばろうな。一日も早く退院できるようにネ。」
一郎君は暫くその右手をじっと見ていた。やがてゆっくりと右手を上げて、乗せるような感じで橋立さんの手を握った。そのとき、信行には橋立さんの顔色が一瞬ではあるが曇ったような気がした。しかし、橋立さんの左手がまるで、大事なものを包み込むような感じでその上に重ねられたとき、その顔には優しげな、そして頼もしげな笑みが浮かべられて、先ほど感じた「翳り」は全く無かった。気のせいだったのか。信行はそう思った。
やがて三人は一郎君のお母さんに声をかけて病室を出た。帰る道すがら信行と大輔君は顔を見合わせて一郎君の順調な回復を喜び、これもご本尊の功徳であろうかなと話し合っていた。しかし、部屋を出たとたんに橋立さんは何もしゃべらなくなっていた。ただ、すたすたと急ぎ足で歩き、二人より先にエレベーターに乗り込んだ。信行にはまるで、橋立さんが怒っているようなそんな気がしていた。
エレベーターのゴンドラ内はやけに静かだった。やがて軽快な鈴の音とともに扉が開くと思ったとおり、橋立さんは真っ先に飛び出していった。
「橋立さん!」
大輔君も橋立さんの異常な態度に気づいているようだった。
「待ってくださいよ。何急いでいるんですか?」
橋立さんは何かはっと気づくと足をとめ、頭を掻いて見せた。
「すまん、すまん。ちょっと考え事をしていたものだから…。」
「橋立さん。」信行は橋立さんの前に立つと声をひそめて話し掛けた。「もしかして、一郎君のこと。何か気になるんですか?」
「なんだ。判っちゃったのか。鋭いな、河口君は。」
橋立はばつが悪そうだった。
「僕はすぐに顔に出るのかな。それとも河口君の洞察力が凄いのか。」
「右手でしたね。握っていたのは。」
信行の問いに橋立さんは素直にうなずいた。
「彼の怪我のことだ。彼はたしかイラストレーターになるのが夢だったけな。」
大輔君も信行も、一郎君がイラストレーターを目標に専門学校へ通っていることをすでに知っている。
「彼の怪我は脳だ。頭蓋骨左側頭部陥没骨折に伴う脳挫傷ってヤツだ。スピードの出ていた車が横転したとき、左側頭部を強打して生じたものだ。」
三人は病院を出ると橋立さんの車に乗り込んだ。橋立さんも車のエンジンをかけるとサイドブレーキをそのままに、ポケットからタバコを取り出して火を付けた。やがて運転手席側の窓をあけると、美味そうに煙を吐き出した。
「脳の側頭部にはいろいろな機能があるがそのひとつに、体のコントロールを司るというものがあるといわれている。つまり、手や足や体のあちこちを、思うように動かすというものだ。さっき、一郎君を励まそうと握手を求めたのは知っているね。一郎君は握手しようとして差し出した僕の右手をまるで、なにか変なものを見るように暫く見つめてから右手を差し出した。彼の手はなぜか冷たかった。まるで血が通っていないような冷たい手だったんだ。それだけならば、単に外の空気が冷たいから冷えていたのかもしれないと勝手に思って、気にもしなかったのだろうけれどその次の瞬間、彼の手が異常に冷たいのはなぜかわかってしまったんだ。」
橋立さんの言葉が二人に重たく聞こえてきた。やがて、何かを思い切るような感じで言い切った。
「ほぼ間違いない。彼は手に障害がある。多分、事故の後遺症で指が思うとおり動かないのだろう。」
「でも、一郎君の怪我は左の脳でしょ?後遺症なら左側に出るんじゃないの?」
信行にはすぐわかったが、大輔君はよくわかっていないようだ。
「大輔君。」
信行は大輔君に声を掛けた。
「運動神経系は脳の中で左右に交差していて、左の脳が司っているのは右半身。右の脳が司っているのは左半身なんだ。」
「え?ほんと?」
大輔君は信じられないという顔で信行を見た。
「だから、右脳を損傷すると左半身。左脳を損傷すると右半身に麻痺が来ることがあるんだよ。僕の母方の祖母さんは脳血栓で死んだんだけど、最初の発作のとき、血管が詰まったのが右側の側頭部だったために左半身不随という重い症状で床についてしまったんだ。それから2回ほど発作が起きてしまい、ついに死んでしまったんだけどね。」
「川口君の言うとおりだよ。」
橋立さんは淡々と話し出した。
「手が冷たいという事は、手をあまり動かしていないからだ。それに交感神経、副交感神経のバランスも悪いということなんだ。つまり、彼は精神的に参っているという事なんだよ。多分、事故の後遺症で実に手の指を思うとおりに動かせないことに、強度のショックを受けているのかもしれない。それに、握手したとき微かに指は動いたようだったが、力をまるで感じなかった。だから彼は『生まれ変わり』の話をし出したのかもしれないな。彼は今、すべてに於いて自信をなくしているんだよ。おそらくはね。」
そうか。信行はやっと理解した。一郎君にとって利き腕の指が動かないという事は「イラストレーター」になれないということなんだ。
「でも橋立さん。」大輔君は身を乗り出すようにして橋立さんに聞いた。「リハビリで治るんでしょ?指だって一生懸命にリハビリすれば動くようになるよね?」
「何が何でも治さなきゃな。一郎君のためにも。」
信行はどうかな、と思っていた。脳細胞というのは神経細胞で構成されており、神経細胞は再生しない細胞だと話を聞いたことがある。損傷したらその細胞は死んでしまうだけ。代替の細胞が出来てくることは無いというのが現在の医学でわかっていることだ。
つまり、失われた機能は取り戻せない。取り戻すためには非常な苦労が要求されることになる。
車の中には重苦しい雰囲気が漂い始めた。信行も一郎君の指が動かない事実を思うと息が詰まる思いがする。
(本当に回復するのだろうか。)
帰りの車中は三人とも黙ったきりだった。信行の目の前を見慣れた景色が通り過ぎていったが、後になって思い出そうとしても何も記憶に無い。気がつくと関口地区部長宅の前に車は止まっていた。
大輔君は礼を言って車を降りた。
「そうだ、大輔君。」
橋立さんが沈黙を破るかのように声を掛けた。
「明日の協議会だけど、5.3の記念幹部会の入場券が配布されると思うからさ。それ、一郎君に持っていってやってくれないかな。」
「え?」大輔君は怪訝そうな表情をした。「だって今、本部が違うよ。僕は境本部だけど、一郎君は今、豊田じゃなかったっけ?」
「何言っているのさ。一郎君は豊田の学生寮だけど、お母さんは地元だろ?一郎君は我が本部の派遣部員だって長山本部長も言っていたろうが。」
「あ!そうか。そうだよね。」
学会の組織は融通が利く。当事者が「そうだ」と考えるとそのようになる傾向にある。
「でも、病院に入院中だよ。出席できるかな?」
「出来る出来ないじゃないよ!それは一郎君本人が決めればいいことさ。われわれ幹部は常に最善を尽くしてやること。それに彼は今、一番辛い時を迎えているんだ。顔を出して激励してやることが大切なんだよ。」
「でも、一郎君の状態を考えるとさ…。」
やっぱり。大輔君も辛いんだ。彼の右手に障害があることが分かってしまったから。
「大輔。君までが元気を失ってどうするよ。一郎君に必要なのは同情じゃないぞ。御本尊を持っている限り、常に可能性はあるんだ。一郎君はそれを信じきれるか否かで立ち止まっている。君までもが同じように立ち止まってしまったら、誰が彼を救える?」
「…。」
「これは彼の戦いであると同時に君の戦いでもあることを忘れるなよ!なぜなら大輔が折伏したんだぞ、一郎君は。御本尊の素晴らしさを教えたのは君だ。このまま一郎君が不幸になると大輔がウソをついたことになるんだ。一郎君に対しても、御本尊に対してもだ。」
大輔君はうつむいたまま、黙って橋立さんの話を聞いていた。
こういうときは心の中で激しい葛藤がおきているものだ。信行も高橋部長に諭されているとき、同じように黙ってうつむいてしまう。理屈はわかるのだが納得がいかないのだ。自分としては正しいものの道理を考えて結論を出しているつもりなのに、それを否定されているように感じる。だから感情が高ぶってしまう。それがわかっているから必死に押さえ込んでいるのだ。
しかし、こうやって第三者的に端から見ていると、意外と自分の内面にある弱さのために行為も考え方も萎縮しているのがよくわかる。本人には自覚でなくてはわからない部分だ。しかも、無理やり他人から突っ込まれると感情的になって逆効果になることが多い。信行はただ黙って見ているしかなかった。
「いいか、大輔。相手を元気付けてやるためにはまず、自分が元気を出さなくてはならない。元気でないものが他人を励ますことが出来ないのは道理だろう?それと同じように、御本尊を信じきれるものだけが、御本尊を信じさせることが出来るんだ。彼の障害の重さはわれわれにもわからないではないけども、それを乗り越えるのも信心だ。戦いなんだよ。」
「でも、医学的には機能回復は難しいとわかっているんでしょ?それを励ますことなんで出来るのかな。」
そのとき、橋立さんの口調が変わった。
「誰が決めた。そんな事…。」
「え…?」
「誰が一郎君の機能回復は出来ないと決めた?」
「だって、川口さんや橋立さんが、言ってはいなかったけどそんな風に…。」
橋立さんは運転席からがばっと顔を出した。
「大丈夫だ!一郎君は必ずよくなる。祈って叶わざる無しの御本尊だ。祈りに祈れば必ず回復する!」
「本当ですか?」
「本当だとも。少なくともオレはそう信じている。一郎君も、御本尊様もね。」
「…。」
「まず、大輔が信じないとダメだ。そして、大輔が一郎君をたすけるんだ。いいかい?大輔は一郎君の友達だろう?」
「はい。」
「いまは、友達と同時に同志でもある。そんな彼が苦しみ悩むのをそのままに出来るかい?」
「いいえ。」
「だろう?ならば共に悩み、苦しんで題目をあげてやることこそが大事だ。それが本当の友情だろう?」
「はい。」
「まず、決めよう。なんとしても今年中に一郎君を五体満足に治してやる。オレは決めた。だから、大輔。お前も決めろ。」
「え?」
「俺も題目を上げる。一郎君のためにだ。大輔!なんとしても彼をイラストレーターにしてあげようじゃないか。」
この一言は効いたようだ。大輔君の頬に赤味が増してきたようだ。
「いいな!大輔!戦おうじゃないか。」
橋立さんは大輔の手を取り、硬く握り締めた。
「わかりました。橋立さん。ぼく、頑張ります。」
「そうだ。頑張ろう。」
やがて車は動き出し、大輔君は手を振っていつまでも見送っていた。
「橋立さん。」
「なんだい?」
「僕も題目を送りますよ。一郎君のために。」
「ああ、頼む。そうしてくれ。」
橋立さんの言葉には力強さがあった。一郎君のために、戦うと決意したようだ。
大いなる試練のとき。それがいま、始まったようだった。
第6話 -終-