牙城会とは、会館警備をその主任務とした創価学会男子部の中の人材グループの「名称」である。彼らは「会館警備」という任務を通して「信仰」を学び、「無事故の任務遂行」を達成する事により自分自身を鍛え上げ、一流の人材に成長してゆこうとしている青年たちである。彼らは今日も、黙々と「無事故」目指して、任務を遂行しているのである。
第8話 成果
信行はバッグを襷にかけながら、ひたすら自転車を漕いでいた。いま、久々の部員回りをしている最中なのである。
旭日地区というのは新興住宅地であるとはいえ、もともとは田んぼや畑、小さな川に小さな林が転々としているところに急遽、住宅が軒並み建ったようなまさに、街づくりの前に家が乱立したような場所だ。そのため、小さな道が建物の隙間に入り組んでいて、とうてい車で回れるような場所ではない。だから信行は、部員回りをするときはいつも、母・妙子が使っている自転車を借りて回ることにしている。
今日の信行はいつもの信行ではない。並々ならぬ覚悟をして部員回りに臨んでいる。というのも、今日は一人の部員さんにターゲットを絞っているからに他ならない。
信行が受け持っている部員数は15名。その中には信行みたいに自主的に活動に参加するものもいれば、名前だけの「幽霊部員」まで居る。中には自分自身が「学会員」であることを知らない部員まで存在するのだ。
「幽霊部員」が出来る過程はさまざまあるが、今日信行が訪れようとしている部員はまさに「居るか居ないか分らない文字通りの幽霊部員」なのである。
名前を「早乙女将吾」といった。
前任者であった諸角智さんの話によれば、早乙女さんはもともと母親だけが信心をしていたという、所謂「学会二世」である。しかし、両親の離婚によってこの地に越してきて、アパートを借りて住んだのはよいが、元々信心は母親だけであり、母親もさして熱心な方でなかったようで息子の将吾さん自身、勝手に母親が名前を記載して「男子部員」として登録された「被害者」としての立場を取っているとのことだ。だから、尋ねてくる学会員に会うことはほとんどなく、いつも門前払いを食らうとか。前任の智さんも、顔をあわせたのは一回程度だったらしい。
年齢も名簿で見る限り、既に30代も後半に入っている。そのくせまだ独身だという話で、その所為で「壮年部」にはなっていない。「壮年部」に卒業する明確な基準というものは存在しないが、一般的傾向として、非活動家は早く「壮年部」に卒業する傾向がある。まして、既婚者で家族が居るとなると拍車がかかるようで、より早く「壮年部」に移される場合が多い。
まあ、問題のある部員は若輩である「男子部」に任せるわけには行かないという、四者サイドの一種の親切心で、親心のようなのかもしれない。少なくとも信行はそう思っていた。
しかし、そういう部員さんに会うということは、非常に大変で勇気が要る行為であった。相手がどのような人物であるか分らないし、なによりもそのような部員さんの一般的傾向として、「学会」に対して良くない印象を持っている人間がほとんどだからだ。
早乙女さんの場合もそのような部員さんの一人らしい。そもそも「二世」といっても母親だけの所謂「片肺信心」の家庭で育っている。その母親の信仰姿勢も大したものではなく、会合に呼べば参加する程度。もしかしたら既に「勤行・唱題」といった基本的な部分で「停滞」しているような信心であるかもしれない。
経験的に言ってもこのような家庭の場合、門前払いは当たり前。下手をすると部屋から物が飛んでくる場合も十分に考えられる。だから訪問するのにも余計に力が要る。結果として疲れる仕事になるのだ。
信行は出てくる前にご本尊様の前に端座し、30分程度唱題して「元気」をつけてきた。その勢いで突破しようと決めていた。あの諸角さんさえも「シャットアウト」したという最も厳しい部員さんに合う事によって、現状突破を図りたかったのである。
その数日前である。
「まず、挑戦してみようよ。」
高橋部長は力強く宣言した。
「いいかい?外に打って出る戦いも大事なんだけど、家庭指導も同じくらい大事なことなんだ。今度の戦いはまず、内側を固めていこう。そして7月11日記念青年部総会に大結集をしようじゃないか。」
創価学会にとって7月と言う月はいくつかの特別の意味を持っている。その一つが「青年部の月」ということがある。
まず7月11日は「男子部結成の日」であった。
第二代戸田城聖会長が会長推戴された年である昭和26年の7月11日に、当時学会本部があった西神田の地に180名の男子青年部員が集まり、男子青年部四部隊の結成を見た。さらに同月19日には同じ西神田の本部で女子青年部五部隊の結成を見ている。
そのような経緯から毎年この頃になると「青年部」の会合が企画されているのである。
今年は7月11日に同時中継で「記念青年部総会」が企画されていた。
「今年前半は色々なことがあったし、この後半戦には地方選挙もある。その前半戦の一区切りともいえるのがこの『青年総(青年部総会の略称)』の結集なんだ。」
高橋部長は集まっている4人の地区リーダーと2名のニューリーダーに切々と訴えかけた。
友光部には4つの地区がある。川口信行の旭日地区、栗田勘吉の本町地区、羽根田優一の和泉地区、それに遠藤元哉の川本地区だ。2名のニューリーダーとは旭日地区に一名。信行の弟である学と、川本地区にやはり一名。学生部上がりの島本優一だった。
今行われている「地区リーダー会」で高橋部長が宣言したのも、その「青年部総会」に向けての部の方針を明確にするべく行われたものだった。
「まず、各自名簿をもう一度チェックしてそれぞれ地区の結集目標を明確にして報告すること。それが第一歩だぞ。」
地区リーダーはそれぞれ自分の地区の部員さんたちの名簿を持っている。元ネタは各地区部長が持っている部員カードである。
信行は手持ちのバッグから名簿を取り出してみた。旭日地区の部員数は15名。うち、活動家と呼ばれるのは僅か5名に過ぎない。他の10名はほとんど活動に参加しないか、中には行方不明となっているのもいた。
「うちは厳しい地区だからなあ。」
信行は後頭部を掻きながら活動家の5名の名前を確認していた。
まず、ニューリーダーである弟の学である。会合が日曜日であるのでまず参加は確実だろう。その他二人の活動家である柏木正治と積田勝のふたりは、毎週行われている部活動者会にも顔を出しているのでまず出席はできるだろう。心配なのは能代さん宅の敦之君だ。
能代さん宅は俗に言う「片肺信心」の家である。「片肺信心」というのは、家族の中で両親のうち御主人、もしくは奥さんのみが「入会」している状態を指していう。
能代さん宅は奥さんが元々「女子部」で活躍していたのであるが、結婚した相手が「未入信」であり、結婚の条件が「信心を強制しない」というものであったとか。すでに結婚して20年たつがいまだにご主人は入信していないという話であった。
そういった経緯がある所為か、奥さんは座談会や支部活動者会、本部幹部会などに参加しているようなのだが、一人息子の今年二十歳になる敦之くんは、進んで活動に参加していない。
信行の弟の学とは中学校時代、部活の一年先輩と後輩の間柄なので、自分より学のほうが話しやすいだろうと何かにかけて学に任せている部員さんでもあった。
その学の話によれば、本人は一人っ子の所為か、ものすごく「甘ったれ」で自分の意思というものが見えないような人間らしい。会合に誘っても露骨に嫌な顔をする割には、文句を言うでもなく、渋々ながらついてくる。また、部屋に上がって話をしようとしても、人の顔を見ず、テレビゲームを黙々とこなしているだけ。たまに母親が気を使って部屋をのぞく時だけは学の顔を見て話を聞いている振りをしてみせるらしい。どうも母親の小言を気にしているようだという。
確かに学に連れられて会合に顔を出しても、部屋の隅で正座し、勤行も口の中でブツブツとする程度。いつも終わると胡坐をかき、猫背で畳表を見つめて、織り込まれたイグサの数を数えているような姿をしている。めがねの奥にある目はいつも落ち着かず、どこと無くおどおどしている感じだ。何を言っても返事をせず、ただ頭を下げたり、うなずいたりするだけ。ちょっと危ない感じがするのが気になる。
「このごろ妙に母親がブロックに入るんだよな。」信行は弟の学が言っていたことを思い出していた。「ちょっと顔を見によると、本人ではなく母親が出てきてさ。本人はいないって言うんだけど、玄関を見ると能代君が愛用しているスニーカーがあったりするんだよ。結局居留守使われているんだよな、露骨に。」
信行にも経験がある。たいていは一人っ子で親元で生活している部員さんに多い傾向なのであるが、本人あてに尋ねて行ってもどういうわけか本人が顔を出さずに母親が応対するのである。信行の場合は本人の声が露骨に聞こえているのに、母親に言わせると「不在」になるのだ。
「会いたくない。はっきり言って嫌いなんだよ、お前は。」
声には出さないけれど、そう言われているのがよく解かる。
でも、そんなことは良くあることだ。気にしていたら「学会員」なんぞ勤まらない。どんな屈辱的な仕打ちを受けようが、笑って「また来ます!」と言い切る。腹の中では煮え繰り返るような怒りがこみ上げて、閉じられたドアを蹴飛ばしたくなるようなことになっても、それを耐え忍ぶことが「仏道修行」なのだと信じて、家に帰って泣く代わりに題目を朗々と上げるのである。それが「学会活動」というものなのだ。
「まず、信行の旭日地区だ。」
高橋部長の一言でわれに返った信行は名簿から四人の名前をあげた。
「そうか、旭日地区は例の五人衆だけか。」
高橋部長も旭日地区の厳しさを良く知っている。
「ということは結集率は万年33%と変わらんということだな。」
"万年33%"というところに「妙な力」が加わった言い方だった。
「信行よ。お前本当にそれでいいと思っているのか?」
信行は息苦しさを覚えた。痛いところを突かれたという思いがある。
「思っていません。何とかしたいと思っています。」
もろに言い訳臭いな。自分でもそう思う。
「何とかしたいじゃ、なんともならねえんだぞ、てめえ、解ってんだろうな!」
部長が巻き舌口調になるときは、たとえ顔が笑っているようでもその実「怒って」いるのだ。信行の背中に冷や汗が滲む一瞬である。
「どういう努力をしてきたんだ、いままで。おめえが預かっている部員さんに対して何をしてきたというんだ?」
確かに「何とかしたい」とは思っていたが、思っているだけで何もしていない。言うべき言葉が見つからなかった。だから、黙るしかなかった。
「今回は何か一つ、チャレンジしてみろ。いつもの五人衆だけじゃ負けだぞ。」
そういわれても…。五人衆とはいっても能代君が厳しいのは変わりないし。
「でも、いい案が思いつきません。」やっとの思いで声を絞り出し、反撃を試みようとしているが、劣勢であることは変わりない。やっぱり、「やっている」と「やっていない」の差は歴然なんだ、と観念するしかなかった。「能代くんだって近頃は厳しい部分もあるし、一応弟の学に任せてはあるんですけど…。」
「一応か?」
「はい。」
「それがダメだって事に気づいていないのか?」
部長の声が意外な響きを持って聞こえたのはそのときである。それが「ダメ」だって?
「おめえ、勘違いするなよ。俺たちがしていることをなんだって思っているんだ?」
「はい…。」
「俺たちは別に特別なことをしているわけじゃないんだ。やっているのは信心だろ?」
この高橋部長の「指導」は突然、思いもしないところから降ってくる特徴を持っている。このときも信行は、高橋部長が何を言わんとしているのか全く理解できていなかった。
「学会の組織というのはだな、良く出来ているもので、お前の信心の姿勢が組織に現れてくるものなんだ。それが解らないのか?」
背筋に冷たい汗が流れた。言葉も出ない。ただ、今のままではいけない。それだけは分かっているつもりだ。でも、どうしようもないって事もあるんじゃないのか。
「前も言っただろ。われわれは信心をやっているんだ。だから、行動も結果も信心で捉えなくてはならない。だから、物事を小手先でかわすような真似をしてはいけないんだ。」
高橋部長は常に「熱血」を説く。確かにそれは分かる。わかるんだけども…。
「いいか、信行!信心をなめるな!」
腹の底から搾り出すような一喝だった。信行だけではない。その場にいた栗田勘吉、遠藤元哉、羽根田優一の地区リーダー三名も一瞬首を竦めた。少々調子のいいところがある羽根田はいつのまにか正座をして畏まって聞いていた。
「信行。お前の地区からなかなか人材が出ないということはだな、お前の地区リーダーとしての命が全然成長していないということなんだぞ。他の地区と自分の地区を比べてみろ。そして、どこが違うか考えろ。そして、明日までに目標を決めて報告しろ。分かったな!」
信行は首を竦めたまま「まいったな」とつぶやいていた。口の中でつぶやいたので部長には聞こえていないだろうけど、どうも今日の部長はいつもと違っていると感じた。
その後、他の地区については目標をまとめて聞いただけだった。
なぜか自分だけ差別されたような気がした。どうして自分だけ一喝されなければならないのだ?遠藤・栗田・羽根田の三名はそれぞれ自分たちの目標を述べただけなのに、一喝どころか数の訂正さえしなかった。地区リーダーの述べた数だけを事務的に記入し、二三の点を問い合わせ、確認するだけだったのに、自分だけはもう一度考えろと一喝されたのだ。一体何を考えているのか、わからなかった。
地区リーダー会が終了した後、信行はどうもいたたまれず、そそくさと拠点を後にした。空には星がてんてんと輝いている。なぜかそんな星空が物寂しく感じてため息が出た。
「おーい、兄貴!」
ふと呼ばれて振り返ると弟の学だった。そうだ、今日は兄弟で地区リーダー会に出席していたんだっけ。
「つめてーな!置いてけぼりかよ。」
「すまん、すまん。ちょっと考え事しててな。」
「兄貴。わかるぜ。高橋部長に総括されたこと気にしてんだろ?」
信行はどきりとした。まさに学の云うとおりだったからだ。
「兄貴よ。なぜ部長が兄貴を叱り飛ばしたか分かるかい?」
「うん、なんとなくね。」
したり顔をしながら頷いて見せたが、これはうそだった。まったく理解していないというのが真実だった。でも、弟に弱気なところを見せることが出来なかった。
「このごろは惰性に流されているからね。その惰性を切ってくれようとしたんだろ。」
それとなく、理由を考えてみたが、そうとしか思えなかった。だから言った。
「それだけかな?あの高橋さんという人が、それだけで兄貴を叱り飛ばすような人だとは到底思えないがな。」
そういいながらニヤニヤと笑う学。
「俺はさ、高橋さんという人が意外と策士だと思っているんだ。あの狐目のおっさんが何も考えずに兄貴のような人間をどやしつけるようなタマだと思うかい?きっとなにか深く考えているに違いない。俺はそう思うね。」
高橋部長という人の人柄そのものを、真っ先に理解していたのはじつはこの弟、学だったということは後に分かることなのだが、このときの信行にはまったく理解できていなかった。たんなる「虫の居所が悪かったんだ」と考えるしかなかった。
「どういうことだよ。学。教えろよ。」
自分がむしゃくしゃしてくるのがわかった。高橋部長が何を考えているか分からないということが異様に腹立たしさを助長させているようだ。
「正直言って、俺もワカんネ。」
ふてぶてしいと言うか、無責任というか。わが弟ながら根が大胆なのか、はたまた単に無責任なのか良く分からない。でも、彼には昔から人間の本質をつかみとる独特の「勘」のようなものがあることを熟知していたので、無視は出来ない。
「じゃなにか、高橋さんはこの俺に何かを期待しているとでも言うのかよ。」
学はちょこっと首をかしげた。
「そうだな。もしかすると、そんなところかもな。」
「この俺だけを叱り飛ばした、ということは俺のケツにでも火をつけようとしたのかな。」
「う〜ん、それは違うだろ。ただ火をつけるだけだったら、兄貴の性格を知っているならば叱り飛ばすより、おだてて賺して調子に乗せたほうがいいもんな。」
「じゃ、スケープゴートとか?」
「兄貴は年齢から言ってスケープゴートにするのは勿体無いよ。兄貴はさ、うちらの部では地区リーダーとして年長になるだろ?考えてみると分かるじゃん。クリカン(栗田勘吉のニックネーム)や羽根田はどっちかというと俺と同世代。遠藤さんは逆にそろそろ壮年部へ行こうって年だ。あと数ヵ月後には「男子部卒業」の辞令が来る人間に、いくら部長だからって30前後の若輩が叱れるかよ。仮に旭日地区不振のスケープゴートなら、この俺を直接叱り飛ばすのが筋ってモンだろ。兄貴はむしろ部長と同世代だ。ということは共に戦う同志として扱うのが普通じゃないのか?。」
学は色々考えているようだった。でもいまひとつ「真意」を図りかねているようだった。
「でもさ、兄貴。あの高橋部長が何も考えずに兄貴を叱るわけ無いじゃん。この間も言っていたろ。いままでこの友光部の部長だった人がどういう人だったか。彼らと高橋さんは明確に違うって。この人なら信じれるって。ならば、部長が何を考えているか分かろうとするよりもまず行動してみるのがいいんじゃないか?旭日地区にはこの俺もいるんだぜ。手伝うからよ、共にまず闘ってみようよ。部長を信じてみようよ。」
学がこのように熱く語れる人間だとは思わなかった。なぜか信行の気持ちにも熱いものがこみ上げてくる感覚があった。
「よし、やってみよう。とにかく殻を破る戦いをしなくちゃ。いままでは今までの話。これからはこれからのことだもんな。」
「よっしゃ、兄貴。これから戻って旭日地区の男子部協議会をやろう、この二人でさ。そしてまず、目標を決めようよ。そして明日の朝にでも部長に報告だ。」
信行は先行きに見通しが出来たことを感じていた。こういう弟がいればこそ出来ることもあるもんだなと感じていた。考えてみれば学はいつも自分の後をついてくる弟だった。そして今も自分と同様に男子部の活動家としてともに学会活動を続けている。それが実に頼もしかった。
翌日は轟文化会館で任務のある日だった。会社を終えてバイパスを疾走して文化会館の駐車場に駆け込む。いつものように十分前の着任となった。会館の警備室にはすでに橋立さんがきていた。
「おはようございまーす。今日一日、よろしくです。」
元気良く声をかけると橋立さんからも返事が返ってくる。「おはようっす!早速だけど館内点検をよろしく!」
信行はチェックシートを書類入れから取り出すと警備室を出、館内の点検に回った。
誰も居ない館内を点検するのは実に興味深いものだ。
昼間は婦人部や壮年部の人たちで作る「守る会」と称されるメンバーが警備に当たっており、その際に使っていない部屋でも湿気を防ぐ意味からカーテンや障子等が全開になっているので、窓や通気口などがしまっているかどうか確認してから閉めることになっている。また、倉庫などは常に物の出入りがあるところから、鍵の閉め忘れが多いし、トイレなどは水回りの異常が発生しやすいので確認は重要事項だ。
機械室などは空調機や通信機器などの点検が欠かせない。轟文化のような地方会館では少ないが、中央の会館などで館内電話の端子盤に盗聴器を仕掛けられたというのが過去にあったので、それに対する警戒も怠ることは出来ない。
「機械室、倉庫、異常なし!」
チェックシートには確認しなくてはならない事項がこと細かく記されている。その内容をひとつひとつチェックし、シートに記載する。
各部屋にはそれぞれ大きさの異なる仏壇が設置されているが、信行は部屋に入ると必ず仏壇に手を合わせることを忘れなかった。これは別に牙城会で決められていることではないが、自分の思いとして、ご本尊様に一日の無事故と任務完遂を祈念するために自ら課しているものだ。「おはようございます。今日も無事故で任務完了しますように。」
小声で題目を唱え、祈念して回る様はまるで、規模は小さいが巡礼者のようであった。
「異常ありません。」
警備室に戻ると主任である橋立さんに点検結果の報告をする。主任はそれを踏まえて、中央の会館に着任の報告をfaxで入れることになっている。
「着任報告完了!」
橋立さんはfax用紙をファイリングすると警備室の主任席に座る。あとは一時間に一度、館内を見回るだけである。
「橋立さん。」
ふと、信行は関口一郎君のことを尋ねた。
「一郎君はどうしてます?」
「ああ、この間退院したよ。車椅子がまだ手放せないけどね。いまは、寮でなく実家に戻っているよ。」
「退院ですか、よかったですね。」
「ほぼ毎日、リハビリのために通院しているそうだ。学校は現在休学中だとさ。三ヶ月も入院していたんだからしょうがないよな。」
「寮の方はどうなっているんです?」
「学校の好意で部屋はそのままだって。何しろ仏壇は持って来れないからね。荷物もほとんど置きっぱなしらしいよ。」
そう言いながら橋立さんの顔色が少し曇った。信行はとっさに考えていることが分かった。
「お父さんのことですね。」橋立さんは頷いた。
「お父さんはまだ法華講に?」
「どっぷりさ。実家に行くといつもお父さんが出てきて邪魔をするんだ。学会員は出てけってな。」信行は顔をしかめた。
「一郎は学会員によって障害者にされた、って言うんだよ。お前らが邪教をひろめるからこういうことになるんだって面と向かって言われたよ。」
橋立さんはあっさり言ったが、信行にはカチンときた。
「お父さんはいつも居るんですか?居ないときに行くことは出来ないんですか?」
「善治さんはね、いま失業中なんだよ。だから昼間でも家に居るんだ。よく酒を飲んでいるらしい。たまに日雇いで工事現場に行ったり、大工や左官の仕事の手伝いをやっているだけなんだ。家計はお母さんのパート仕事で何とかやりくりしているのが現状でね。とくに一郎君が怪我をしてからはお金が必要だからね。お母さん一人じゃ大変だろうなあ。」信行は一郎君の状況を思いやってため息をついた。まさに八方塞がりだ。実家に戻っても御本尊が置け無い状態で信心を続けることが出来るのかと思う。題目を上げたくも上げることが出来ないではないか。
まさに学会員が通っている。それだけが救いだ。
「大輔君はどうしています?」
「大したやつだよ、大輔のやつ。」橋立さんは感心していた。
「毎日一度は一郎君の家を訪ねているよ。中学校時代の友達だといってね。外に張り込んで待ち、善治さんの外出確認してから行くんだ。一郎君のお母さんは歓迎してくれているらしい。いまはそれだけが救いとなっているんだ。」
そういえばあの日、大輔君が橋立さんに厳しく突っ込まれていたことを思い出した。
『これは彼の戦いであると同時に君の戦いでもあることを忘れるなよ!なぜなら大輔が折伏したんだぞ。一郎君は。御本尊の素晴らしさを教えたのは君だ。このまま一郎君が不幸になると大輔がウソをついたことになるんだ。一郎君に対しても、御本尊に対してもだ。』
橋立さんは一郎君の問題を大輔君の問題として解決させたかったに違いない。単に他人の問題と捉えさせては、甘えからその問題から逃避してしまう。それは一郎君一人の不幸に終わらず、大輔君自身の不幸にもつながってしまうことになるからだ。
「そうそう、この間用事があって関口地区部長宅に寄ったんだけど、お母さんが言っていたよ。毎晩毎朝、一時間の題目を上げ続けているとさ。仏壇の前に『祈 関口一郎君傷病快癒。所願満足の御為に。』と掲げてね。あいつは本当に戦おうとしているんだよ。」
大輔君はそれだけ必死になっているのだろう。なんとしても一郎君を元気にしたい一心なのだ。自らの全身全霊の祈りを以ってぶつかっていく。これこそ創価学会男子部の戦いなのだと思った。
「大輔君の想いが通じるといいですね。」
信行はこのとき、ふと気付いた。そう言っている自分はどうなのだ?。高橋部長から総括されたのはつい昨日のことではないか?
自分は全身全霊を込めて戦っているのか?あの関口大輔君のように。
『いいか、信行。信心をなめるな!』
高橋部長の一喝が再び聞こえてきそうだった。
全てを自分の問題として捉える。何事もそれがスタートだ。関口大輔君はそのように純粋に捉えて行動をしている。少なくとも橋立さんの話だとそうなる。
じゃ、自分はどうなるのだ?自分は「自分の問題」として記念幹部会結集を考えたのだろうか。いや、少なくとも昨日はそんな感じではなかった。その証拠にまず「言い訳」を考えたのではなかったか。いつもの5人衆が集まればそれでいいと考えなかったか。
信行は着任中、ずっとその事を考えつづけていた。その為、時間はあっという間に過ぎて退館時間となった。
最後の点検は主任の役目だ。その間に喫煙場所の始末をして軽く警備室の掃除をするのが部員の役目。信行は手早く役目をこなすと橋立さんの戻るのを待って「任務完了報告」を中心会館に報告した。
「今日もご苦労さん。さあ、また来月目指して頑張ろう。」
最後に警備室の隣にある小部屋で、仏壇の前に二人で端座して題目三唱をする。これで一日の任務が終了する。そして、それから次の着任日目指して新たな戦いがスタートすることになるのだ。
会館からの帰り道、さらに信行は考えた。あの大輔君が頑張っているんだ。自分も頑張ろうと。理屈ではない。とにかく今は行動をすることなんだと。成果は行動から生まれるものであって理屈からではないのだ。自分はなんて萎縮した考えをしていたのか。
全身全霊の戦いをしてみて結局5人衆しか集まらなかったならばそれはそれでいいではないか。思いつめる必要は無い。とにかく全身全霊で問題にぶつかっていくことが大切なんだと。
遅ればせながらようやく、高橋部長が言いたかったことが見えてきたような気がした。少なくとも信行はそう感じていた。そうだ、明日からだ。いや、明日といわず今日から始めよう。家に戻って一時間の唱題だ。考えてみれば一月の任務指導会参加以来、一時間の唱題をやっていない。関口君は朝一時間、夜一時間の題目を上げている。あいつに出来て自分に出来ないわけが無いではないか。
7.11記念青年部幹部会まであと1週間もない。仕事も忙しいが何とかやりくりをしなくてはならない。出来るだろうか。いや、出来る出来ないではなくやるしかないのだ。
そして、「早乙女宅」の前にやってきた。このあたりに多いアパートの一室だ。腕時計を見ると午後八時を回っている。早乙女さんは会社員という話だからもしかしたら不在かもしれない。外から部屋を伺うと明かりがついている。どうやら人の気配もする。心臓がキュンと縮むような思いがする。口の中も乾き始めていた。
玄関の前に立ち深呼吸をする。思わず題目が口を出る。心を鎮めてドアホンのボタンを押した。
『ピンポーン』
チャイムの音が大きすぎると思った。心臓が既にばくばくと音を立てていた。
『どなたですか?』
ご婦人の声だ。多分、同居している母親の声だろう。「夜分恐れ入ります。私、旭日地区の男子部で川口といいます。将吾さんはいらっしゃいますか?」
しばらくドアホンからは何も返ってこなかった。僅か数秒だったのだろうが信行には永遠に言葉が返ってこないように思えた。
『将吾は居ませんよ。』
「あのう、お仕事なんでしょうか?」また黙ってしまった。辛抱強く待つことにした。
『将吾は家を出ました。』
家を出たって、引越ししてしまったのか?いつの間に?
「どちらに行かれたんでしょう?」
またまた沈黙の時が流れた。なぜか嫌な予感がした。
『隣のアパートに移ったんです。そちらに行かれてください。』
「隣のアパートですか…。」
信行は左右を見回した。すると、このアパートの隣に二階建てのアパートがもう一軒建っているのが目に入った。立てられて間近なのだろう。まだ新しいアパートだった。
『隣のアパートの一階の角の部屋です。そこに将吾は居ると思います。』
それだけ言うとドアホンのスイッチが切れた。母親もついに一度も顔を出さなかった。「ありがとうございます。失礼します。」
切れたドアホンに向かって信行は頭を下げた。
隣のアパートはまだ入居者も少ないようだ。手垢のついていないドアノブが冷たく大きく見える。一階の一番奥にその部屋はあった。玄関に「早乙女」の表札が掲げてある。ここだ、ここに間違いない。台所の窓から中を伺うようにすると、すりガラス越しに灯りが見える。どうやら人が居るようだ。
心臓が再び鼓動を大きくする。ドアにはドアホンがあり、呼び鈴のスイッチもあった。清水の舞台…とまで言ったら大げさかもしれないが、虚空に身をなげうつような感覚で呼び鈴を押した。
「こんばんは。」
声をかけたが何の返事もないようだったので、今度はドアを叩いた。
「夜分遅くにすいません。早乙女さんはいらっしゃいますか?」
やがてドアのロックを解除する音がして、ヒトラーのようなちょび髭を生やした中年のおっさん顔がドアの向こうから出てきた。
「だれだよ、こんな夜遅くに…。」
街頭の明かりでうっすらと見えるその顔には、明らかに迷惑そうな表情が浮かんでいた。
「初めまして。私、男子部の地区リーダーをさせてもらってます川口信行といいます。夜分遅くで恐れ入ります。」信行はそういうと丁寧に頭を下げた。
「実は今日、来週の日曜日に轟文化会館で夜七時から、7.11記念青年部総会がありますので連絡にお伺いしました。」
出来るだけ丁寧に、礼儀正しく。相手に不快感を与えないように話す。
「なんだ。学会か。」
早乙女は思いっきりけだるそうに頭をかくと、有無を言わさないぞといわんばかりの声で、信行に告げた。
「いつも俺は言ってんだけどさ、おれは学会に入ったつもりはないんだよ。」
「事情は伺ってます。前任者からも…。」
信行はさえぎるように言った。こっちも負けていられないと思ったからだ。
「でも、早乙女さんのお母さんが、将吾さんも信心につけたら良いのにと判断されて、名前を登録されたとおもいますから…。」
「勝手なんだよ。お袋は俺の承諾もなく、勝手に名前を登録しただけ。なんで俺がそんなものに縛られなくちゃあならねえんだ?。おれは『宗教』は嫌いなんだよ。」
暗がりである。将悟の言葉自体は大きくなかったのだろうが、妙にきんきんと響いた。
「おれはな、宗教って言うものに頼るような弱虫は大嫌いなんだ。二度と来るなよ。迷惑だ。」
そういうとドアをぴたりと閉めた。全く持って「取り付く島も無い」とはこういうことを指すのだろう。何か言ってやろうと思ったがその暇さえ与えられなかった。
しばらくの間信行は、ドアの前で立ち尽くしていた。さまざまな感情が走馬灯の如く頭の中を駆け巡っている。その中で次第に浮かび上がってきたのは「怒り」と「喜悦」だった。妙なものだ。非常に失礼な態度をされたにもかかわらず、体の奥底からふつふつと笑いたくなるような衝動が沸いてくるのである。しかし、その衝動の上には、人からバカにされたときに感じる「怒り」の感情がまるで「重し」のように乗っかっているのだ。
学会活動で非常に嫌な思いをした直後というのは、こういう複雑な気持ちになるのは良くあること。しかし、今回は体の奥底から沸いてくる「喜悦」の衝動が、「怒り」の感情を激しく刺激しているのだ。非常に妙なものだ。次第にじっとしていられなくなる自分が面白かった。
「分りました!また来ます。」
ほとんど衝撃といっても良い。口から出た言葉がそれだった。信行は頭をぺこりと下げてその場を立ち去ろうとした。そのとき、何を思ったかカバンからメモ用紙を取り出してさらさらと何かを書くとメモ用紙を折りたたみ、玄関のドアの隙間に挟み込んだ。
それにはこのように書かれてあった。
早乙女さんへ。
「信仰」というものは、弱虫では出来ないものです。むしろ、弱虫だからこそ「信仰」は必要なんです。貴方も一緒にやりましょう。そして、自分の思うとおりの人生を、共に歩みましょう。
また、お邪魔します。
旭日地区地区リーダー 川口信行
いずれ捨てられる運命であろうけど、一筆書かなくてはいられない気持ちだった。行くときはあれだけ張り詰めていた気持ちがウソのように、今は軽くなっている。一喝されたことにより、自分の体の中で何かが弾けたのだろう。自転車を漕ぎながら信行は、暗い道を走っていながら自分の周りにスポットライトが当てられているような気分に浸っていた。
第8話 -終-