兄 弟
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その日は寒い日であった。午前中は晴れていたのに、お昼をすぎる頃から曇り始め、由人が弟の孝行を連れて住んでいるアパートを出た時には既に青空はなく、空のほとんどには雲がかぶさっていた。薄い雲を通して太陽が白く弱々しく輝いている。吹く風は冷たかった。
後藤由人(よしひと)は九才。地元の神奈谷小学校の三年生である。弟の孝行(たかゆき)はこの二月、三才になったばかり。まだ幼稚園にもいっていない。二人の間には実に六年もの年の開きがあった。
年が離れているとは言え孝行は、由人にとっては可愛い弟であった。 何しろ生まれて物心がついてからずっとひとりだった由人は、遊ぶにも遊ぶ相手には恵まれてはいなかった。必然的にひとりで遊ぶことが多かった。父も母も生活する為に一生懸命だった。母はたいした金にもならないのに、電気部品の半田付けをする内職をこつこつとやっていた。由人はいつもその後ろ姿を見ながら、子供ごころに大変だな、いつも感じていた。
だから何も文句も言わず、本を読んだり、テレビを見たりして静かにその日を暮らす事が多かった。それでも、たまにかんしゃく玉が破裂するように無性に駄々をこねたくなる時があった。だからいつも、幼い弟が早く大きくなって一緒に遊んでくれるようにならないものかな、と一人さみしく思うのであった。
でも、このごろは実に腹の立つことが多くなった。両親とも、六つも年の離れたこの弟が可愛いらしく、何かにかけて弟を贔屓にしているようにみえるのである。由人にとってはそれが面白くない。不愉快であった。
それも仕方の無いことで、弟の孝行は赤ん坊の頃から、ひとつの病をもっていた。いや、病と言えるほどの大した病では無いが、医者が言うには小児性の痙攣の一種だという。それは一度泣きだすと吸った息を吐ききってしまい、そのままピタッと呼吸が止まってしまうものだ。最後には唇までも紫色になるまで息を吸おうとしないのだ。
まるで、息を止めて自殺でもせんばかり。その姿は実に苦しそうで、親であればうろたえてしまうのも無理はない。いずれ成長すれば良くなると医者がいったとしても、泣くたびに紫色の唇を見せ付けられれば、死んでしまうのではないかと常に心配してしまう。孝行を泣かすわけにはいかなかった。
だから、仕方なく心を鬼にして兄の方を押えよう、我慢して貰おうと親は考える。でも、その様な論理はまだ十分子供である兄・由人に分かるはずがなかった。分かれというのが無理なのだが。
つまりは弟のわがままを通し、兄の方を叱り付けることとなる。兄にすればたまったものではないが、もうおにいちゃんなんでしょ、の言葉で押し切られる。それが、由人にとって妙に説得力の感じられる言葉であったので、どんな不平不満も立ち所に言えなくなってしまう。兄としては泣いて我慢するしかなかった。
その典型的な事件がその数日前にも起きていた。 由人は粘土いじりが好きだった。自分の想像する世界に浸りきって遊べるところが非常に気に入っていた。その日も母より粘土の新しい物を買って貰ったのである。まだ幼い孝行がいるため、いつも使っていた“油ねんど”ではなく、食べても無害であるとの宣伝で売られていた小麦紛を原料とした“コムギねんど”である。
家に帰ってきて早速粘土板を押し入れの奥から取り出してきた。封を開けると赤、青、黄色と実に色がカラフルで創作意欲がそそられるものだった。その時、それを貸せと孝行がぐずったのである。
孝行にもこのコムギ粘土が物珍しく、いじりたくて堪らないらしい。母親は当然、孝行の肩を持った。不満タラタラなのだけれども、母親のいつもの言葉に由人は渋々その枯土を孝行に渡さざるを得なかった。
孝行は機嫌がよかった。自分の思う通りの物を得ることが出来たのだから当り前なのだが、それが由人にとっては面白くない。でも、文句をいえば母覿のカミナリが由人に落ちてくるのは確実である。
それが恐い。だから黙っていた。
しばらく孝行を恨めしそうに睨んでいたが、いくら睨んだとしても獲物が戻るわけではない。ならば潔く諦めようと首を返すと、粘土の板が入っていた箱の中にプラモデルの箱がわずかに顔を覗かせているのに気付いた。そういえば、このプラモデルはまだ完成していなかったっけ…。
由人はプラモデルを作るのも好きだった。好きだと言ってもすぐ飽きがきてそのままになる事が多いのだが、これは当時の人気TVアニメの中に出てくるスーパーカーで、由人のお気に入りでもあった。あと、部品少々を組み立ててシールを貼れば完成となるところまで出来ていた。由人にとって、珍しく完成の日の目を見るプラモデルとなるのである。いかに由人がこのモデルを気に人っているかはその事実ひとつとっても分かろうというものだ。
由人はその箱を取り出した。開けるとまだ何も色が塗られていない、白い地肌の車が顔を出した。由人はコムギ粘土のことなど忘れて、早速仕上げに入った。わずか数分でプラモデルは完成した。 ゼンマイ仕掛けの車は勢い良く走った。考えて見れば完成まで、間に仕舞い込んでいじらない日があったとは言え、一週間が過ぎていた。何かをやり抜いたという爽快感と物を完成させたという満足感に浸っている由人に、地獄の鬼のような孝行の声が掛かったのは、その車が試運転を終えた時だった。
由人は首を振って拒否した。コムギ粘土だけでなくプラモデルまで欲しがるとはなんと欲張りな奴。これだけは親のカミナリが落ちようとも手放すものか。でも、敵もさる者またぐずり出した。よこさないなら泣いてやるぞ、と親をも巻き込んでの強迫である。由人は母親の顔をちらりと見た。母親も欲を張る孝行を戒めるが、べそをかくに至ってはもう何をかいわん。しょうがないから貸してやんなさい、と言った。由人はそれでも首を振って抵抗を見せた。孝行は今度は力一杯泣き出した。母親は慌てた。泣き声を出しきってしまえば呼吸が止まる。今度は情け容赦も無く、叱り付けるように貸してあげなさいと怒鳴った。そして最後にはまた、例の殺し文句をおもむろに言い放った。
“あんたはおにいちゃんでしょ。”
半分べそをかきながら、由人は渋々プラモデルを孝行に渡した。
母親もそんな由人の姿を見て余りにも哀れと思ったのか、孝行からコムギ粘土を取り上げて由人に渡してくれた。あんたも欲張るんじや無いの、とたしなめながら。でもその時すでに、孝行の興味はその動くプラモデルにあったので何も気にかけず、ただうんと答えただけであった。
でも、これだけで終わらなかった。
由人は未練いっぱいだった。ときおり、恨めしそうに孝行の方を見た。孝行はプラモデルの車がゼンマイじかけで勝手に動いて行くのが面白いらしく、実に腹立たしいはど機嫌が良い。反対に由人はおなかの中が掻き回されているようで、心穏やかではいられなかった。早く飽きて放り出してくれることをひそかに願っていた。
ところが孝行は意外な行動をとった。ゼンマイが延びきって動かなくなった車をしばらく弄り回していたかと思うと、いきなり壁に向かって投げ付けたのだ。由人は、あっと叫んだがもう遅い。一週間もの苦労をして、やっと作り上げたプラモデルが目の前で壁にぶち当たってバラバラに壊れてしまった。
孝行はその壊れ方が気に入ったのか、けらけらと無邪気に笑っている。由人はプラモデルの破片を拾いながら慌ててくっつけようといろいろしてみたが、バラバラに砕けたものが元に戻るわけがない。それは由人自身が一番良く分かっていることだが、その時はそうせずにはいられないほどショックを受けていた。それだけじやない。事も有ろうに母親はそんな真似をした孝行を叱ることさえもせず、逆に賛嘆するかの様に手を叩いて大笑いをしていた。涙をこぼしながら破片をいじる兄を見て、ただひたすらにけらけら笑う弟。その何処がおかしいのか、両手を叩きながら笑う母親の姿は、後に大人になった由人の脳裏から消えることがなかった。それは由人にとってそれほど深く傷付いた事件でもあったのである。
それでも由人にとって孝行はたった一人の可愛い弟である。この日も、寒空とは言え孝行を外へ連れ出したのも、母親から掃除をするから外で遊んで来なさいと言われたからだけでなく、退屈そうにしていた孝行と一緒に遊んでやろうという気持ちが由人にあったからである。いつもは近所の同級生と遊ぶことが多くてめったに孝行と遊ぶことはないのだが、その日はどう言うわけか仲間たちはみな用事だとかで家にはいなかった。
寒いときは走り回ると体が暖まるものだ。それを子供たちは経験的に知っている。だからこのときも由人は、孝行を連れて近くの野原で走り回った。孝行が鬼で由人が逃げ回る役だ。孝行はまだ三つであるから足はのろい。それに比べ由人は、クラスでは一・二位を争う鈍足であったにしろ、孝行につかまるほどひどくはない。かと言って本気で走っては孝行がすねるのが目に見えている。だから、適当なところで捕まってやる。追い駆ける時もそうだ。なかなか捕まえないように加減して走ってやった。
孝行は必死に走る。たまに転んで泥だらけになるが気にしない。また思い直して逃げ始めるのだ。
いい加減走り回っているとさすがに息が切れ疲れてくる。そのうちどちらからともなく草むらに寝転がってしまった。息が切れてはあはあ言いながら、それでも笑っている。妙なもので何がおかしいのか分からないが、めたらやたら笑えた。
その時孝行が電車ごっこがしたいと言い始めた。
電車ごっこと言うのは孝行専用の補助車付き自転車に孝行が乗って、由人が後ろからその自転車を押してやるという遊びだ。御丁寧にも、駅を適当に決めてわざわざ行く先表示板までも作り、その間を各駅停車だの急行だの、挙句の果てには特急電車だのと決めて走り回るといった遊びである。
ようするに孝行は運転手兼車掌であり、由人は単なる汽動車のエンジン役に過ぎない。駅はいたるところに立っているコンクリート製の電柱だ。そこにロウ石という白く書ける筆記道具で駅名を書きながら走る。孝行はご機嫌だった。由人はいい加減走り疲れたが、それでも付き合ってやった。
そのうち、水道路(すいどうみち)という細くて真っ直ぐな道に来た。道の名の由来は、実際に見た事はないのだが地下に大きな水道管が埋まっているからと由人は聞いている。ここは車が一台通るのにやっとというほどの細い道で、めったに車が入ってこない。たまに自転車やオートバイが通るだけである。ここ辺りでは子どもたちが思う存分走り回ることが出来る道のひとつとなっていた。
由人は疲れていた。いい加減にエンジン役に飽きも来ていた。孝行も飽きがきていたらしい。そのうち、由人は自転車を押すだけ出なくハンドルも一緒に持って、自転車を左右に揺すりながら走ってやった。孝行にはそれが大ウケだった。無邪気にけらけらと笑っている。右にカーブ、左にカーブと言いながら方向を変えてやると孝行の体は右に左に大きく揺れる。そのスリルが堪らないのだろう。後になって考えれば実に危ない遊びであったが、その時は孝行が余りにも喜ぶので危ないという認識は綺麗さっぱり頭から消えていた。むしろ余裕がでてきて、だんだんと勢いが増していった。孝行はますますもって笑う。由人もそれに釣られてますます暴走していった。
事故はその時起きた。
由人は自転車のハンドルを思い切ってきった。スピンターンをしてやろうと咄嗟に思い付いての行動であった。だが、スピンターンなぞ出来る分けがない。補助付きの自転車は目一杯バランスを崩し、遠心力で孝行の体は外側へ傾いた。咄嗟に傾いた孝行の体を捕まえようとして由人は手を延ばす。すると由人の体は延びきってしまい、バランスが崩れた。そんな体勢では、勢いが付いた孝行の体を引き戻すことなど出来るわけがない。逆に由人の体をも巻き込むようにして、さらに外側へと引っ張っていく形になった。
ついには自転車もろともアスファルトの道に叩き付けられる様にして倒れた。孝行は強かに後頭部を打ったようだ。そのうえに重なるようにして由人の体が倒れた。由人は自分の太ももに激しい痛みを感じていたが、それより孝行が頭から落ちたという事に激しいショックを受け、痛みも忘れて慌てて孝行を抱き上げた。
孝行は激痛とショックで顔を紫色にしていた。例の発作である。由人は打ったと思われる後頭部を摩り、孝行の名前を呼んだ。でも、孝行はのけぞり、引きつったまま呼吸をしようとしない。事の重大さに足が竦む想いがした。由人は初めて自分がした事を悔やんだ。あんな事をしなければよかった。大丈夫か?、大丈夫か?。由人は必死に叫んだ。でも、孝行は呼吸をしない。唇までが紫色に変わっていった。
どれくらいたっただろうか。孝行はやっと息をし始めた。同時に辺りに響き渡るような大きな泣き声を上げ始めたのだ。
痛いよ−。痛いよ−。おか−ちゃん、痛いよ−。
由人はとりあえずほっとした。唇も顔色も赤みが戻って来た。孝行はただひたすら大きい声で泣いていた。ほっとすると同時に今度は由人が泣けてきた。ご免ね、たかちゃん。ご免ね。ひたすら孝行の頭を摩り、泣きじやくりながら謝る由人であった。
天気は明らかに悪くなっていった。何時の間にかどんよりと雲が垂れ篭め、雪でも降るのではないかと思われるほどの空模様だった。
由人と孝行はその空模様の下でとぼとぼと歩いていた。孝行は既に泣き止んでいたが心なしか元気が無く顔色も白く見える。アスファルトの道に打ち付けた後頭部には大きなたんこぶが出来、由人もそのたんこぶが気になっていた。よく見ると髪の毛の根元からうっすらと血が滲んでいる。この事を話したら母親はひどく叱るかもしれない。そんな思いが由人の足取りをより重くしていた。
さっきまで遊んでいた野原まで帰って来ると、近所のおばさんを連れて母親が探しに来ていた。由人はどきりとした。あの事を話したものかどうか迷ったが、話さなければもっとひどく怒られるに違いないと思ったので、思い切って孝行のたんこぶの事を話した。すると由人の思った通り、母親の顔色が見る見るまに変わっていった。
由人は謝った。ただひたすら謝った。しかし、余りの怒りに我を忘れた母親に、そんな由人の言葉が届くはずもない。近所のおばさんはその剣幕をみて、一生懸命になだめるがおさまる気配は見せなかった。そのうち、おばさんが孝行の頭の様子を見ているうちに家に飛んで帰り、長柄の箒を逆さまに持って走って来た。おばさんはその姿をのちに「鬼子母神以上」と表現してくれたが、当時の由人にとってはまさに「鬼」そのもののように見えた。
由人は逃げた。あんな長柄の箒で叩かれるのはいやだった。必死で逃げたが母親はいつまでも追って来た。謝りながら、べそをかきながら逃げるのは苦しかった。でも、許してくれそうもない。待てこの野郎。ふざけやがって、と大きな声で吠えながらどこまでも追って来た。由人は逃げに逃げた。
そのうち息が切れたのか母親は立ち止まった。由人もやや離れてから立ち止まった。由人は泣きながら謝った。ひどいことをしたのは自分であるとじゅうじゅう知っていた。だから、必死に謝った。
しかし、母親はそんな由人を罵った。おまえは孝行を殺すつもりだったのだろう。そんな子はうちの子じゃない。とっとと出てけ。帰って来るな。帰って来たらただじゃ置かない。いいね。それは相当な剣幕でそれだけ言い放つとぷいっときびすを返して帰っていった。
由人はしばらくべそをかきながらその場に立っていた。このまま戻ると何処か物影に母親が隠れていて、戻って来た所を見計らってあの長柄の箒で打ち据えられるのではないかと思ったのだ。
しばらくして恐る恐るさき程の野原まで戻って見た。しかし、だれもいなかった。既に家に帰ったようだ。でも、家のあるアパートに戻ろうとは思わなかった。アパートに近付いて下手に見付かったならば、どの様な仕打ちを受けるか分からなかったからだ。
由人は完全に行く場所を失っていた。野原にしゃがみこんで泣くしかなかった。
そのうち、冷たい物が由人の首筋に落ちてきた。雨粒だ。ついに降り始めたのである。由人はそれでも野原にしゃがみこんだまま動かなかった。
雨は次第に強くなって来た。既に肩の辺りが湿って来ていた。そこに風が吹いて容赦なく体温を奪う。さすがに寒くなって来て由人は立ち上がって体を摩りながら回りを見回した。畑の向こうがわに古い一戸建の家が見える。普段の日にはよく友達と隠れんぼする貸家式の住宅である。人はまだ住んでいない筈だった。雨宿りする場所を求めて由人は、野原から住宅へと歩いて行くことにした。
住宅の裏側に古ぼけた戸棚が捨ててあった。子供一人ぐらいならば入れるくらいの戸棚である。それが一戸建の貸家住宅の壁に立て掛けるようにして捨ててあった。ここならば南側に向いているので、寒い北風を防ぐ事が出来る。うまく行けば野宿も出来そうだった。ここにしよう。由人はその棚の中にもぐり込んだ。
由人はじっと雨を見ていた。もう帰ることが出来ない家の事を考えていた。孝行の頭のたんこぶは大丈夫だろうか。あんなに大きなこぶは生まれて初めて見た。もしかしたらそのたんこぶのせいで、孝行が死んじゃうかもしれない。そんなのはいやだった。でも、確認するすべは由人にはない。
だんだん空は暗くなって来る。もう夕方だ。外の空気もだんだんと冷えてきた。風こそ吹き込んでこないが、それでも寒かったo 自然に体が小刻みに震えてきた。
その時、棚の後ろでガラス窓が開く音がした。人が住んでいる。由人はびっくりしてピタリと息を止めた。だれかが何か話しているのが聞こえたが何を言っているのかよく分からない。最後に、今夜は雪になるんじゃねえか、という声だけがはっきりと聞こえた。
やがて、雨戸を閉める音がして声は聞こえなくなった。もうすっかり辺りは暗くなっている。何か物寂しくなって由人は棚からそっと出て家の方角へ歩いていった。
アパートのそばまで来ると自然と足が止まった。家の明りが眩しい。でも、それ以上近くには寄る事が出来なかった。さっき母親が激しい剣幕で罵った言葉が頭にこびり付いていたからである。
しばらく明りを見ていた。窓に時折人の影が映る。母親の影だろうか。なにか、せわしなく動いているようにも見える。気のせいか、何かとんでもないことが起きて走り回っているようにも見えた。そして、遠くから救急車の音が聞こえ、その音がアパートに近づいて来るようにも思えてならない。
孝行のことが心配だった。でも、こんなに離れていては中を伺うことは無理だ。
そのうち窓が開いて母親の顔がシルエットになって見えた。表情は分からない。でも、このままここにいては見つかってひどい目に合うかもしれない。由人はそこを立ち去らねば為らなかった。
由人は元の戸棚の場所に戻った。寒かった。おなかも空いてきた。でも、家には戻れない。膝小僧を抱いて、寒さに打ち震えていなければならなかった。思い出すのは暖かな部屋と炬燵布団の柔らかさである。由人は一人すすり泣いていた。又どこか遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
冷たい雨がなおも降り続いた。時折、戸棚の中にも雨が吹き込んできた。寒かった。
その時、だれかが呼んでいる声が聞こえた気がした。由人は耳をそばだてた。既に外は夜である。わずかながら雨雲に反射する街の明りで、物が確認出来る程度の明るさしかない。暫く耳を澄ませて声を探した。
確かにだれかが呼んでいる。由人は戸棚から出て道に飛び出した。回りを見回しても暗い道に白い街灯のあかりだけしか見えない。すると今度ははっきりと自分を呼んでいる声が聞こえた。母親の声だ。泣いている。甘いすすり泣きのような声で自分を呼んでいた。一生懸命に探している声だ。由人はおかーさーんと呼んだ。母親を呼ぶと途端に両方の目から止めどもなく涙が溢れて来た。由人はその声の聞こえる方向に向かって走りだした。
最初は由人の声に気付かなかった母親だが、二度目に呼んだ声には気付いた様子で、由人の名を聞き返して来た。そうなると由人はもう声にはならなかった。泣き声を上げると母親の胸の中に飛び込んで思いっ切り泣きじゃくった。母親も泣いていた。怒りに任せて叱ったとは言え、いつまでもかえってこない息子を心配して探していたのだ。
ところが、探せども探せども何処にもいない。だんだん暗くなってきて、遠くで救急車のサイレンが鳴るのを聞くと矢も盾もたまらず、声をあげて探し始めた。するとそれに輪をかけて不安は増し、もしかしたらなどと不吉な予感に襲われるに至って、何故あんなに叱ってしまったのかと悔やまれて悔やまれてついに泣けて来たという。
母親は由人に謝った。ご免ね、ご免ねとべそをかいて謝っていた。由人は泣きながら、そうじやない、僕こそ悪かったんだといって謝っていた。互いに自分の非を認めて泣いていた。
二人は暖かく、明るい部屋へ戻って来た。そこには孝行がやっぱり泣きべそをかきながら、蒲団に横になって待っていた。孝行は頭に白い包帯をしていた。そして、由人の姿を見ると蒲団から出てきて由人にしがみついた。
母親よりも弟の方が兄の事を心配して、親に探して来てと泣きながら頼んだという。怒っていた母親もその健気な弟の姿に胸を打たれ、由人を許す気になったのだろう。
暖かい炬燵の上には暖かい食事が待っていた。由人は炬燵蒲団の中に足を入れて座った。そしてまだ湯気の立っている味噌汁の入ったお腕を取り、一口すすった。暖かい物が喉を過ぎ、胸の奥に染みて行くのが感じられた。
孝行は兄が戻るまで食べないと言い張ったという。由人はその話を聞いて、暖かい味噌汁が今日は一段と暖かい物に感じて、涙が溢れてくるのを止められなかった。
* * * * * * *
ふと気がつくと目の前におでんの具が入った土鍋が見えた。どうやらうたた寝していたらしい。テレビががやがやとうるさく鳴っている。由人は変な夢を見た物だと思っていた。
「何だよ兄貴。もうよっぱらったのかい?。もうそんなトシかい?。」
この声は?。そうか、正月だから家族を連れて遊びに来ていたのか。次第に回りの事が思い出されてきて、由人はなぜかバツが悪そうに頭をかいた。
「いや、そうらしい。ちょっと飲み過ぎたようだ。」
「いくら四十を越えようとしているからと言って、それくらいの酒でそんなに酔っ払うなんて情けねえな兄貴は!。」
「おいおい、そんなボロクソに言うことはないだろ?。そもそもおまえみたいに学生時代から、酒を飲んでは吐き、飲んでは吐きして鍛えているわけじゃないし、それに、それ、そこに寝転がってイビキかいてる男の血を受けついでいるんだから、おれが情ないわけじゃないわい!。」
由人と孝行の父親は酒に弱く、酔うと所かまわず寝てしまう癖があった。
「おまえこそ何処の血だ?。うちの一族にそれほどののんべえはいない筈だぞ。」
「ほっとけ!。おれだって強くなりたくて強くなったわけじやないわい!。」
そういうと視線をずらし、テレビの番組を見る孝行だった。テレビを見ながら由人の嫌いなタバコの煙をぷうぷうと吹き出していた。
いつになっても兄弟と言うのはこう言うものなのかも知れない。由人はふとそう思った。仲が良いのか悪いのか、会えば互いにけなしあい、罵りあうくせに離れてしまうとちょっと寂しくなる。互いに家庭をもったいまでも、そんな気持ちになってしまうから、酒でうたた寝しているわずかの間に、三十年もの昔の事を夢に見てしまうのだろう。
「おい、孝行。」
由人は声を掛けた。
「おう‥・。」孝行はテレビを見たまま返事をする。こいつめ、まともにおれの話を聞こうとはしやがらねえな。由人は少々ムッと来た。でも、孝行も敏感にその事を察知したのか、改めて顔を向けた。「何だよ、なんか用かよ。」
「三十年前の事、覚えているか?。あの、曇空の寒い日に起きた事…。」
「三十年前?。」孝行はきょとんとしていた。
「そうさ。あの時…。」
由人があの事件の事を話そうとした時、二階でドタドタと暴れる音が響いて来て話は中断を余儀なくされた。同時に、小さな子供がべそをかいて階段を駆け降りてきた。
それは小さい頃の孝行によく似た子供だった。
孝行の次男で今年三才になる孝だ。
「こら、泣き虫タカシ。暴れるんじゃない。」孝行は自分の息子をたしなめた。しかし、孝はべそをかいて自分の父親に訴えた。
「ちがわい。達也にいちゃんが意地悪すんだもん。」
達也が?。由人はもう一人の甥の顔を思い浮かべた。今年、小学校四年生になる。弟の孝とは七つ違う。
「おい、達也。ちょっと降りて来なさい。」孝行は二階に声を掛けた。すると、達也が不満そうに口を尖らせ、ブツブツいいながら降りてきた。
「どうしたの?。」台所で料理をしていた義妹と母親が何事かと言わんばかりに部屋をのぞきに来た。「何、また二人とも喧嘩したの?。」
「だって、だって、僕ね、テレビゲームしようと思ったのにね、達也にいちゃんが意地悪して、やらしてくんないんだもん。」
孝はべそをかきかき言った。
「そうか?、達也!。」孝行は責めるように強く言った。「何故やらしてあげないんだ。おまえたちは兄弟同志じゃないか。まして達也、おまえは御兄ちゃんだろ?。仲良くしなきゃ駄目じゃないか!。」
「だって…。」達也は父親の言った事に対して不服そうだった。「孝の奴、僕の大事にしていた超合金ロボット、壁に当てて壊しちゃうんだもの。」
由人はその時一瞬、胸の奥に痛みが走った気がした。やがて由人の目の前に三十年前の光景がありありと思い出されて来た。あのお気に入りの白いプラモデルがバラバラに壊れて飛び散っている姿が…。
「孝!。」孝行がこんどは強い調子で次男に言った。「何でおまえはそんな悪いことをするんだ。いますぐ、達也にいちゃんに“ごめんなさい”しなさい!。」
それは孝にとって予想外の言葉だったらしい。味方になってくれるものとばかり思っていた父親から叱られて、シュンと項垂れてしまった。
「だって、あのロボット。テレビだと壊れてもすぐなおるんだもん。あのロボット、ほんとはもっと強いんだもん。」
孝はそう言って泣いてしまった。単純な答えに由人も孝行も呆れてしまった。
その時笑い声があがった。二人の孫を救おうとする祖母の笑い声だった。
「そうかい、そうかい。それは大変だね、二人とも。」由人は母親が何をしようとしているのか理解出来ないでいた。孝行も多分同じ気持ちだったろう。「よしよし。達也、それだったら今度このバァちゃんがもっと良いものを買ってやるから、孝と仲直りしなさい。孝も、達也にいちゃんに“ごめんなさい”したら、同じもの買ってやるから。」
この効果はてきめんだった。二人ともぴたりと機嫌がよくなった。驚いたのはむしろ、二人の母親の方だった。「おかあさん!。」
「いいの、いいの。どうせ、あたしからもお年玉をやらなきゃならないんだから。その代わり、今回のお年玉は、二人ともなしだよ。いいね?。」
孝は無条件に喜んだが、達也の方は少々不満そうだった。しかし、それ以上は何も起こらず、二人はまた手を取りあって二階に行った。そしてしばらくするとテレビゲームでもやっているのか、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
「いいよなあ、ガキどもは。」孝行はポソッと呟いた。「わがままいえばすぐ買ってもらえるものな。おれもあんな身分になりたいよ。」
由人は口につけた酒を、もう少しのところで吹き出すところだった。
由人はその後、一人静かに階段を登っていった。そして、戸の隙間から中をのぞくと、子供たちが仲良くテレビゲームに夢中になっているのが見えた。孝はなかなかゲームが進まず、失敗するたびに達也に丁寧に教わっている。しかし、孝は非常に物覚えが良さそうだった。もしこのまましばらくたてば達也よりもうまくなるかもしれないな、と思えた。そういえば、孝行もそうだったな。
そう、三十年前の由人と孝行の姿がそこにはあった。
完
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