「先生、キスしたこと、ありますか?」

作 山下泰昌


 上目使いで見上げるその娘の言葉で、僕の頭は真っ白になった。

 というより、あまりに突然で、場違いで、全くの予想外の言葉が発せられた

ので、脳が言葉の演算を拒否したのだと思う。

 ここは僕が家庭教師として勉強を教えている中学三年の女の子の家であり、

はっきり言って僕らの間にはそう云うような浮ついた会話は普段から無く、

なおかつ

 「地震波の種類を答えなさい」

 という問いを彼女に浴びせていた直後の返事だったのだからそれはなおさら

だった。

 「な、なに?」

 間抜けな答えをして僕は隣の椅子にちょこんと座っている高杉ナオの顔を覗

き込んだ。大きな眼鏡に隠されたきらきらした瞳が揺れる。

 「だから、キス。キスですよお」

 中学三年の女の子の家庭教師をすると決まった時から、こういう会話が出る

んじゃないかという不安はあった。だけどナオは今時の娘にしては異様に真面

目で、携帯電話だのシャギイだのルーズソックスだのというそういった流行に

軽く乗るタイプではないので少し油断していたのだ。

 僕は正直に言って大学二年生にしてキスの経験がない。だが、教師というも

のは知識、経験、全てにおいて生徒を上回らなくてはならないのである。

 「もちろん、あるよ」

 僕は偉そうに嘘をついた。

 「え、ほんと。どんな」

 案の定、ナオは話に乗ってきた。ぼろを出さない内に話を変えなくてはなら

ない。

 「あ、さては彼氏でも出来たか?」

 ナオは急に視線を逸らして慌て出す。

 図星だったらしい。

 「うん。実はね」

 軽い、失望感。

 別にナオが「好きだ」という訳ではないのだが、やはり男として年頃の女の

子に恋愛の対象として見られていないというのは少し淋しい。

 とりあえず、ナオのおのろけ話はそれから約三十分たっぷりと続いた。

 その話を要約するとこうだった。

 中学で副生徒会長をしているナオは、新しく一年生の書記になった男子生徒

の面倒を見ることになった。その男子生徒は無口だが、黙々と仕事をこなす方

で、わりと気配りもする方だったらしい。

 あらゆる諸事情のためにナオ一人が会計の書類作りで放課後に残って居た時

などは、その男子生徒は頼みもしないのに何も言わず仕事を手伝ってくれたと

云う。

 無愛想だが、生徒会の仕事をする上で何かと自分を助けてくれるその男子生

徒にナオは好意をもった。

 しばらくしたある日のこと、ナオはその男子生徒から告白を受けた。憎から

ず思っていた相手からの告白にナオは戸惑いながらも受諾した。

 あとは、いかに真面目といえども夢見る女子学生である。好意の蕾が恋の花

に咲き変わるのも時間の問題であった。ところがいざその男子生徒と付き合う

段階になって、恋愛のイニシアティブを取るのは自分の方だということに気が

ついた。一応、自分の方が年上ではあるし、向こうはついこの間、小学校を卒

業したばかりである。ナオのことをどう勘違いしたのか恋愛経験豊富なお姉さ

んだと思っているらしい。しかしナオは幼稚園時の淡い初恋などを除けば、恋

愛経験は皆無に等しい。そこで先ほどの突拍子もない質問が出たという訳であ

る。

 「で、キスってどうするのかなあって思って」

 ナオは独り言のように問いかける。僕はすこし戸惑いながら

 「そいつとしてみたら分かるよ」

 と言ってやった。

 「だけど、キスってうまい下手があるって云うじゃない。もし私が下手なキ

スをしちゃったら彼、キスってこんなものかなんて思っちゃうんじゃないかな

あ」

 「そりゃ考えすぎだ」

 と言おうとした僕はその言葉を出せなかった。実は僕も同じ様なことを考え

ていたからだ。

 ナオの理屈とは少し違うが、もし僕に彼女が出来ていざキスをする段になっ

た時、僕のキスがあまりに下手くそだったら彼女は幻滅してしまうのではない

だろうか。僕に愛想をつかしてしまうのではないだろうか。いや違う、それ以

降、恋愛経験が少ないことで僕を見下すことになるのではないかということが

嫌なのだ。

 それがただでさえ女性経験が少ない僕の行動にブレーキをかけているのだ。

情けないことだが。

 「うだうだ悩むより、やっぱり実践が一番だよ」

 おそらく僕はその言葉は自分に向けて云った。

 そうさ、物事は何事もやってみなくては分からない。そう僕は自分の中で納

得してナオの方に顔を向けた。

 するとナオは顔をやけに紅潮させて落ち着かないでいる。

 「それって、先生とキスをしてみるってこと?」

 僕はぶっとんだ。

 まるでそんな意志を込めて放った言葉ではなかったのだが、思いもよらぬ

解釈をされていたらしい。ナオは緊張しているのか、細かい貧乏ゆすりをしな

がら僕の方を盗み見る。

 可愛かった。確かにナオは美少女の範疇に入る少女だった。僕の心はぐらつ

いた。いいのか?教え子に。しかも相手は中学三年生だぞ。

 普段、何でもなかった部屋の空気がガラスの様に硬質化した。

 心の中に残った二割の理性が危ういところで僕を引き留めていた。だが、何

かの偶然でナオが両目を閉じてしまったことでその二割はあっけなく吹き飛ん

だ。

 何事もやってみなくては分からないんだ!

 という僕の心の中の屁理屈のせいだ。

 否。

 何も知らない無垢な少女ならキスの練習台に丁度良いだろうという下衆な考

えが頭を過ぎったからだ。

 僕はナオの唇に自分の唇を重ねていった。

 やり方は分からなかったが、とりあえず優しく重ねようとは心がけた。

 僕の唇に暖かみが伝わってきた。その慣れない温度に吃驚して思わず目を開

ける。

 すると、至近距離でナオと目があった。

 彼女も吃驚したのだろう。

 ナオは気まずくなったのか、再び目を閉じた。僕もそうした。

 舌は入れなければいけないのだろうか?最近は漫画を見ても、ドラマを見て

も、そうしている。

 僕は少し、舌先だけでナオの唇に軽くノックしてみた。

 彼女の身体がびくっと震えたのが分かった。といっても僕らはおっかなびっ

くりキスをしているので身体は全く触れ合っていない。唇からの振動でそう感

じたのだ。

 舌を入れようとしたのは拙かったかなと思った。だが、その直後にナオの唇

が僕の唇の間で少し開いた。

 OKってことなのか?

 恐る恐る舌をナオの口に中に入れて行く。だが、僕にはせいぜい唇と歯の間

までが精一杯だった。ナオの舌との邂合はなかったが、それでもナオの口の中

の柔らかさと温かさは僕を陶然とさせた。脳の中心部辺りが、つんと麻痺した

ように痺れていた。

 階下で扉が開いた様な音がした。僕らはあわてて唇を離した。恐らくナオの

母親がパートから帰ってきたのだ。

 離れて見たナオの顔は上気していて、少し目が虚ろだった。その表情に今一度

キスをしたいという衝動に駆られたが、それは自分でも信じられない自制心で

押さえつけた。

 少し落ち着いたらしいナオは口を開いた。

 「・・・どうかな。やっぱり、私、キス下手?」

 「いや、初めての割には基本が出来ていると思うよ」

 自分も初めてのくせに何を言っているのだ。大体、キスの基本って何だ。

 「ほんと?」

 ナオは少し嬉しそうだった。

 「やっぱり眼鏡は邪魔だったね。外した方が良かったかな」

 僕はその言葉に驚いた。実はキスしている最中、眼鏡のことなんかまるで気

にしていなかったのだ。いかに自分が舞い上がっていたのかを痛切に感じた。

 「そんなことないよ」

 「ほんとう?」

 そう言って頬を赤く染めるナオに僕は少しずつ女を感じていた。それは性の

対象としての女性という意味ではなく、男の常識では計り知れない存在という

意味でだった。


 それ以降、僕は毎週英語を二時間、物理を一時間、数学を一時間、キスを数

分教えることになった。

 最初にキスをした次の家庭教師の日は気分が重かった。日が経つにつれ気が

変わるということは良くある。好きな男がいるというのに別の男とキスをする

というのは、女子中学生の常識から見たらやはり非道徳的なことだと、ナオが

考え直すということは十分に考えられる。

 憂鬱な思いでナオの部屋の扉を叩いたが、そんな考えは杞憂であった。

 そこには照れ隠しか、いつもより変に明るいナオがいた。

 勉強は妙な緊張感を孕みつつ進み、そして終わり際に放たれた

 「今日もいい?」

 というナオの言葉によって僕らは二度目のキスをした。

 今度はナオの肩に僕は手をかけた。やはりキスの時に相手の身体に触れない

ということは不自然だし、第一やりにくい。今度はナオも探るようにだが舌を

差し出して来た。僕は舌をナオの舌に絡めた。ナオは驚いたのか、すぐに舌を

引き込ませてしまったが、僕はその味と柔らかさに酔った。

 それからしばらくして僕らは少し苦しくなって唇を離した。時計を見た。だ

いたい五分くらい経っている。

 「やっぱり、長いキスは苦しいね」

 「うん」

 ナオは同意した。

 「どうかなあ。今度は眼鏡も邪魔じゃなかったでしょ。ちょっと角度を工夫

してみたんだ」

 「ああ、そうだね」

 もちろん、そんなナオの工夫なんか気付くほどの余裕があるはずもなかった。


 次のキスはそれから三日後の家庭教師の時だった。

 僕はキスの前に聞いた。

 「どう、彼氏にキスした?」

 するとナオは首を横に振って、

 「ううん。まだ」

 と答えた。その表情からは何も読みとれなかった。

 僕は今回はしっかりとナオの身体を抱き寄せて唇を重ねた。ナオは最初、

身体を緊張させていたがすぐに僕に身を任せ、僕の首に手を回してきた。

 ナオの身体の柔らかさと温かさが直に伝わってきて身体が熱くなる。

 僕はだいぶ余裕が出てきた。

 舌を使うだけでなく、自分の唇でナオの下唇や上唇をついばんだりしてみた。

どうせなら、色々試してみようと思ったのだ。

 ナオの方も首の傾け方を変えたりと工夫を凝らしていた。また、舌を入れる

ことも前ほど臆病ではなくなっていた。

 程なくして、僕らは身体を引き剥がした。唇と唇に唾液の糸が張った。

 僕は何か恥ずかしくなって、あわてて口を拭いた。

 ナオは火照った顔で上目使いに微笑み、

 「なんかHね」

 と言った。


 次の家庭教師は中止だった。

 ナオが風邪をひいてしまったのだ。僕は見舞いに行くことにした。本来なら

僕は見舞いなんかする思いやりのある方ではない。じゃあ、なぜ行くんだと聞

かれたら、それはやはりあのナオの柔らかい唇が忘れられなかったとしか言い

ようがない。

 実を云うと最近、家庭教師のない日もナオとのキスのことを考えて身悶えす

る日が続いていた。僕は自分の為にも、見舞いに行かない訳にはいかなかった。

 女の子は男に風邪をひいて寝ているところを見せたくないものだと聞く。僕

は次第に非常識なことをしているのではないかという気持ちになってきた。た

だキスをしたいがために強引に見舞いに行き、それでナオの心を害してしまっ

たら、何にもならないではないか。

 しかし、結局僕はナオの部屋の前に立っていた。

 「だいじょうぶか」

 ノックをした後、そう言いながらゆっくりとナオの部屋の扉を開けた。ナオ

はベッドで漫画を読んでいた。どうやら治りかけのようだ。

 「あ、先生」

 ナオは明るく迎えてくれた。良かった。ナオの気分を害していない。

 ベッドから降りようとしたナオを制して、代わりに僕が近寄って行った。そ

して、机から椅子を引き出してそれに座る。

 「どう、調子は?」

 「うん。もう明日から学校に行くつもり。熱も下がったし」

 「そう」

 僕はそう相づちを打って何気なく彼女を眺めた。いつも三つ編みの髪がロング

になっているせいか、はたまたパジャマをルーズに着ているせいか、いつもよ

り大人っぽく感じる。

 「実は今日も仕事で来たんだ」

 僕は自分の少ない語彙の中から慎重に言葉を選んで話した。

 「え?」

 ナオは問い返した。その困惑した表情から推測するに、やはり意味が伝わら

なかったらしい。慎重に語彙を選んだ甲斐がなかった。

 「キスしにきた」

 僕は直接的に言った。

 ナオは顔を真っ赤にさせた後、うつむいて

 「風邪移っちゃうよ」

 と言ってから目を閉じて上を向いた。

 僕はベッドの上のナオの唇を吸いに行った。

 いつもと同じキスのはずだった。だが、シチュエーションが異なるだけで

こんなにも変わるとは思わなかった。

 初め、上半身だけ起こしていたナオは力が抜けていったのか、次第にベッド

の上に倒れていった。

 僕はナオをベッドの上に押しつけてのキスに非常に興奮した。その興奮した

精神はナオの乱れ髪と、少しはだけたパジャマの胸元という触媒を経て、更に

増幅した。

 頭はある一つのことだけしか考えられなくなっていた。

 ナオを最後まで貪る、そのことだけしか。

 僕はナオのパジャマに手を、かけた。

 その時、階段を誰かが上がってくる音がした。

 恐らくナオの母だ。僕らにお茶を煎れて持ってきたに違いない。

 僕ら、というより僕はあわてて身体を引き剥がした。

 ナオの母親が入って来た時にはお互い何気ない素振りをしていたが、あまり

に不自然で見え見えだろうという気がした。その日はその後は、お茶を飲んで

取り留めのない話をして僕は帰った。

 あの時、沸き上がった欲情をナオは気は付いていただろうか。


 次の家庭教師の時はまるで勉強にならなかった。というのは真面目な本当の

勉強をする前からナオがキスを求めてきたからである。

 そもそもこの日のナオは初めからいつもと調子が違った。無表情で、声にも

抑揚がなかった。どうも雰囲気から察するに落ち込んでいるようにも見えた。

その訳はキスをしてから聞くことにした。

 僕はいきなり唇には行かず、まず彼女の耳たぶにキスをした。自分でも本当

に余裕が出てきたと思う。最近、ようやく唇以外のことに考えが回る様になっ

てきたのだ。

 耳たぶを軽く噛むとナオは軽くうめき声をあげた。いつもは唇を塞いでいる

為にくぐもるその声が明瞭に聞こえてきて僕は新鮮な刺激を受けた。

 僕はその後も唇には向かわず、ナオの首筋にキスをする。首筋の肉の柔らか

いところはやはり弱いらしく、消え入るような声を発した。これはあえぎ声な

のであろうか。首筋をキスしていると胸元が目にはいるが、そこは今回は自制

心が働いた。そしてそれから、ようやく唇に向かう。今日のナオは情熱的だっ

た。今までのキスは一応僕がイニシアティブを取る受動的なキスだったのに対

し、今日はナオの方から積極的に攻めてくる能動的なキスだった。

 最近にしては長い五分近いキスをした。

 唇を離した後、僕は聞いた。

 「どうしたの?」

 ナオは極端に無表情に言った。

 「ふられちゃった」


 

 次の家庭教師の日、僕は結構落ち込んでいた。

 ナオが彼氏に振られたということは、イコールもうキスの練習をしなくても

良い、と云うことではないか。

 もうあの可愛い唇にキスをすることもなくなってしまった訳だ。

 いつの間にかナオの唇のことが忘れられなくなっていた。

 あの、柔らかさ。あの、温かさ。あの、ぎこちない舌の動き。あの、キスを

し終わった後の艶然とした表情。あの、照れている時の無理な明るさ。

 唇ではなかった。僕はナオのことが忘れられなくなっている。

 久しく封じていた恋心を抱きつつナオの部屋に向かっている自分に気が付い

た。それは危険な感情だということは知っている。

 自分で自分を見失い、時には心をずたずたにしてしまうことがある危うい感

情だ。

 でも一度芽生えてしまったその感情を消すことは出来なかった。

 ナオの部屋の扉を開ける。

 「先生、遅ーい」

 ナオは元気に僕を咎めた。明るい。目がきらきらしていた。この前の、光が

全く感じられなかった目ではなかった。

 失恋から立ち直ったんだな。

 少しほっとした。

 「ごめんごめん。すぐ始めよう」


 はっきり言って今日の勉強は全く身が入らなかった。ナオの方ではなく、教

える僕の方がである。数学を教えている間中、ずっとナオの表情を読みとるこ

とだけに終始していた。

 だが、そんなもの分かる訳なかった。

 そして二時間後。今日の家庭教師も終了した。

 意を決してナオの顔を覗き込んだ。

 「あ、あのさ」

 「なに?」

 ナオは不思議そうに首を傾げる。

 「あの、彼氏に振られたってことはさ、もうキスの練習はしなくていいのか

な」

 その瞬間のナオの表情は今でも鮮やかに思い出せる。悲しげにゆがんだその

一瞬後、その瞳から光がすうっと消え失せた。

 「先生が、迷惑だったら、それで、いいよ」

 ナオは下を向いて言った。

 僕はその瞬間、全てを理解した。いや、理解したと思いこんでいるだけかも

知れない。が、とりあえず自分が大馬鹿者だということだけは分かった。

 ナオの気持ちなど考えず、キスすることだけを考えていた自分に。

 ナオの肩を抱いた。

 ナオは驚いたような顔をして僕を見上げた。目には涙が溜まっていた。

 僕はゆっくりとナオの唇に自分の唇を重ねた。自信たっぷりに。

 僕は、いや、僕らはやはりキスが上手くなっていた。なぜなら言葉ではなく、

キスでお互いの気持ちを伝えることが出来るようになっていたのだから。

 僕らのキスの練習は、その日で終わりだった。


あとがき
 赤面ものですが、こういうの結構好きで書いていますw