どぶねずみ

作 山下泰昌


 にぶい音がした。

 肉に包まれた骨が、やはり肉に包まれた骨を激しく打ち付けた音だった。

 数瞬後に何かがゴミの中に倒れる音がした。

 倒れた何かは、それきりぴくりとも動かなかった。

 誰かが立ち去る足音がした。

 そこに残されたのは、殴られて倒れている順一とゴミだけだった。

 ゴミはうずたかく積み上げられていた。別段、ここはゴミ集積場所ではない。

 人が自然とゴミを捨ててしまう。

 そんな場所らしい。

   順一は鼻から、流れ落ちる血を拭こうともせずに、ゴミの中から空を見上げ

ていた。

 空は悲しくなるくらいの灰色だった。

 その灰色の空から水滴が垂れ落ちた。

 雨は順一にもゴミにも、等しく降り注いだ。

 順一は雨を避けるかのように、ゴミの中に身体を潜り込ませた。

 そして順一はそのまま眠りの淵に落ちていった

 ゴミに抱かれたまま。

 雨は激しさを増していった。



 順一は雨の街を歩いていた。

 服もその姿も先刻のままだった。

 血だらけの顔、ぼろぼろの服は他の通行人の中では、あまりにも目立ったが、

道行く人は誰も順一に気付かなかった。

 程なくして順一の目に、幽然と突っ立っている廃工場が写った。

 町工場規模のそれは、ゴミに埋もれていた。そして蒼い埃を深く、その身の

奥まで積もらせていた。

 順一は、その工場の壊れた窓ガラスを見つけると、その隙間に無造作に身体

を放り込んだ。

 中はやはり蒼い埃と蒼い影だけに支配された場所だった。

 窓から入る時に切ったらしい大腿の傷にも処置すらしない順一はその工場の

隅に行くと、おもむろに身体を横たえた。そして胎児の様に身体を丸めると

安心しきった顔をして、眠りについた。

 深い眠りについた。

 雨は依然と降っていた。



 順一は夢を見た。

 それは燦々と照りつける太陽が眩しい、のどかな田園風景だった。

 そこでは時間が緩やかに流れ、村人達は知っている顔のみだけに、純朴そう

に笑いかけていた。

 その場面に神の手によって不意に放り投げ出された順一は、激しい恐慌状態

に陥った。

 がたがたと身体が震え、両手で身体をきつく押さえ込んでも、それは止まら

なかった。

 また、そこは学校だった。

 教師は不登校の学生を熱心に説得し、生徒達は登校してきたその学生を褒め

称えた。

 また、そこは教会だった。

 神父が罪人の懺悔を聞き、神の言葉を教え、罪人は涙を流していた。そして

神父もまた涙を流した。

 また、そこは街頭だった。

 学生が難民の為の募金活動を行っていた。道行く人々は至極満足気に小銭を

募金箱に入れていった。

 また、そこは葬儀場だった。

 遺体を前に泣いている男がいた。あまり親しくない友人の死に泣いた。

 男は他人の目を意識しながら泣いた。

 また、そこはここであった。そして、そこでもあり、あそこでもあった。

 そして、こことそこは、どこまでもそこなのだ。



 雨はまだ降り続いていた。

 辺りは夕闇に包まれ出し、ちらほらとネオンが点りだした。

 光より圧倒的に闇の方が多い時間だった。

 数少ない光も闇の一部であったが。

 順一は、繁華街の路地を歩いていた。

 繁華街の路地はいつも濡れていた。

 小便で濡れていた。

 唾液で濡れていた。

 嘔吐物で濡れていた。

 精液で濡れていた。

 血で濡れていた。

 そして涙で濡れていた。

 順一は雨に濡れながら腹を空かしていた。

 だが何も食べたくはなかった。

 空腹でふらついた足は何かを踏みつけた。

 大きく体勢を崩した順一は思いきり転倒した。

 順一は起き上がろうともしないで、自分が踏んだ物を眺めた。

 酔客が吐瀉した嘔吐物だった。

 それを手ですくう。

 作られたばかりだったらしく、まだ仄かに暖かかった。

 つんとした酸の臭いを保ったまま、粘液質のそれは順一の指に糸を引きなが

ら絡みついていた。

 順一はそれを拭こうともせずに、そのままアスファルトの上に寝転がった。

 そして笑い出した。

 道行く人々はそれに気付いていたが、当たり前のように通り過ぎた。

 順一は満足した。



 順一は大勢の若者が闊歩している夜の街を歩いていた。

 まるで祭りのようなそこで、順一は歩いているだけだった。

 きらびやかに並ぶゴミの様な店々に若者たちは吸い込まれていった。

 順一はただ歩いていた。

 酔った男がいた。

 しなだれかかる女がいた。

 路上で踊る男がいた。

 弦を奏でる女もいた。

 何かを売っている男がいた。

 喧嘩をしている女がいた。

 警官に捕まっている男もいた。

 路上にはゴミが沢山あった。

 ゴミがかさかさと順一の目の前を風に飛ばされていった。

 順一はただ歩いていた。



 闇を湿らした都会の夜には野良犬がゴミを漁り、娼婦は化粧を沈ませる。

 道の裂け目には彼岸花が一輪だけ輝き、悲しい男だけがその首をつむぐ。

 黒猫が空を睨んだ時、闇の人はその白い口だけで笑い、埃が被ったガードレ

ールは錆びた金網と語らい、墓には花が咲き乱れ、夜には赤や橙が飛ぶ。

 ゴミのように街の光。

 この中にいる限り、ゴミは胎児のように安心する。



 順一は歩いていた。

 夜はうっすらと明け始め、人々はアイロンの入った背広に身を固め、険しい

顔で道を急いでいた。

 それは、そこだった。

 順一の身体は震え始めた。寒い訳ではなかった。だが、歯が触れ合う音が止

まらなかった。

 順一の目に駅に駆け込む人の群れが写っていた。順一もその群れに飛び込ん

だ。

 改札は素通りした。

 ラッシュの山手線に乗り込んだ順一は、ようやく身体の震えを止めることが

出来、安堵の顔を見せた。

 そして人ごみの車中で立ったまま眠りの淵に付いた。

 電車は夜までぐるぐると廻り、東京の外へは決して出ない。

 この中にいる限り安心する。



 雨はやんでいた。だが、また降るだろう。
あとがき  

 嘘偽りのないゴミの方がまだ安心出来る、そんなことが書きたかった小説です。

 そういう意味で「ゴミみたいな東京」ってなんか安心でできるのですよね。