恋人レッスン
第六話 ケンカの仕方 後編
作 山下泰昌
次の日。
学校に着くなり隣のクラスに行き、立石の姿を探した。
時間にきっちりしている立石はいつもならこの時間には必ず来ている。
だが、いなかった。
立石の席にも、クラスのどこにもいなかった。
実は俺自身、昨日のことについてはそれほどおおげさには考えていなかった。
だいたい、壬生と保健委員の仕事で遅くなる、と立石には断っているのだし、後ろめたくなるほどや
ましいことをしていた訳でもない。
そんな訳だから電話すらもしなかった。
明日、学校で会った時に軽く話せばいいや。
そんな風に考えていた。
だけど、今、定刻に立石が現れていない現実を把握し、少し動揺する。
「あれ? 珍しいわね」
俺はそう呼びかけられてはっと顔を上げる。
「真美に用? まだ来ていないわよ」
知っているよ。
俺は心の中でそう答えて彼女の顔を見た。
豊かな髪を後ろで軽く束ねている。にっこりと微笑んだその顔には何か精神的な余裕が感じられる。
イメージ的には近所のおばさんという感じだ。
だが、別に老けているということではない。何か懐の深さを思わせるような笑みだということを言い
たいだけなのだ。
彼女の名前は尾花有佳(おばな ゆか)。
最近出来たらしい立石の友達だ。
席が隣同士である二人は性格的にも趣味的にも外見的にも何ら共通点のないのに、奇跡的にウマがあ
ったらしい。
文化祭実行委員をしている尾花は文化祭の仕事の関係で俺とも知り合いなので、立石、俺共通の友人
でもある。
「どうしたのかしら? 飯尾君から来るのって珍しいね」
「そうか?」
考えたら俺が立石のクラスに行くことってあまりなかったかも知れない。
と言っても立石が良く俺のクラスに来るわけでもないけど。
「そういえば真美がこの時間に来ていないってのも珍しいわね」
と言ってから尾花はにやりといやらしい笑いをする。
「どうしたの? 何かあったの?」
ああ。女版北村&本山だ。
俺は天を仰ぐ。
こういうのにはなるべく関わらないに限る。
俺は何も言わずにその場を立ち去ろうとした。
と、その時だ。
「あ」
尾花が俺の後ろを見て声を上げた。
俺もその視線の先を見るべく振り向く。
「立石」
俺は思わず口からその言葉を漏らしていた。
立石はちらりと俺に視線をやると何事もないようにそのまま自分の席に向かう。
俺にも尾花にも挨拶なしだ。
尾花は目を丸くして俺の顔を覗き込んだ。
「何? 本当に何があったっていうのよ」
「だから何にもねえって」
そもそも立石は普段が無愛想なので、今回が特別気に障っているのかそれともたまたま挨拶しなかっ
たのかそれすらも分からない。
俺は一つため息をつく。
ちょうど授業開始の予鈴の音が響きわたる。
まあ、いいや。休み時間にでもまた来よう。
俺はそう考え直し、教室から出た。
尾花はそんな俺を見てあわてて追いすがる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。何かあったんでしょ! 教えてよ!」
俺はダッシュをかまして、その追撃を引き離した。
*****************************************
それから放課後まで長短合わせて計五回の休み時間があったが、その全てにおいて立石に会うことが
出来なかった。
別に何か用事があったからとかではない。
授業終了のチャイムが鳴ると同時に立石のクラスに行くのだが、ことごとく立石がいないのである。
初めは「何か用事だろう」とか「下痢気味なのかな」などと思っていた俺だが、三回目の昼休みの
時、さすがにたまりかねて立石の席の隣の尾花に訊いた。
が、逆に
「だから何かあったの? って訊いてるじゃん!」
と追求されてあわてて逃げたので結局何の手がかりも得られない。
こうなるとチャンスはもう放課後しかなかった。
俺は最後の授業のチャイムが鳴る前に教室を飛び出した。
そして立石のクラスに行く。
―――が。
立石のクラスの教室は閑散としていた。
俺は唖然として辺りを見回す。
教室には帰り支度をしている数人しか残っていない。
俺は今まさに帰ろうとしていた一人に訊いてみた。
「あのさ、何でみんな帰ってんの?」
そいつは胡散くさげな目で俺を見る。
「え? 今日は六限の途中で終わったよ」
「なんで」
「六限の授業がちょうどウチの担任だったんだよ。HRも合わせてやっちゃったから早めに終わった
んだ」
そいつは面倒くさそうにそう言うと、そそくさと帰っていった。
俺は誰もいなくなったその教室に一人で立ちつくしていた。
どうすりゃいいんだよ、おい。
***************************************
走った。
俺は走った。
立石の通学路である学校から駅までの道のりをひたすら走った。
別にそこまで必死に走らなくても良かったのかも知れない。
だけど、基本的に俺って気になり出すとどうにも止まらなくなる性格である。
とりあえず、昨日のことで立石がどう考えているのかどうしても知りたい。
それは電話では駄目だった。
直接会って話したい。
だいたい電話だと立石の微妙な表情の変化が読み取れない。
学校からひたすら走り続けて約五分。
ひょっとしてまだ学校にいるんじゃないか。
ひょっとして今日は違う道で帰ったんじゃないか。
そんな疑念が頭の中を過ぎりかけた時。
俺はついに見慣れた野暮ったい着こなしの制服の後ろ姿を捉えた。
それは駅に渡るため陸橋の階段を上り始めたところだった。
俺は更に足の回転スピードを上げる。そして呼吸の乱れた声で叫んだ。
「立石!」
しかし立石は気が付かなかったのか、無視したのか素知らぬ顔で先を急ぐ。
まだ走らなければならねえの?
俺は最後の力を振り絞って階段を駆け上がる。
「待てったら!」
俺は立石の肩を掴んだ。
立石は身体を緊張させて振り向く。
「なんだ」
「ちょっと、待って」
俺は肩を大きく動かし深呼吸をする。
ひーひーという情けない呼吸音が自分の喉から聞こえてくる。
腹の中がひっくり返るように気持ち悪い。
完全な運動不足だ。
明日からランニングくらいは始めた方がいいかも知れない。
立石は奇跡的に俺の息が整うまで待ってくれた。
「で、何のようだ」
まるまる一分は経ってから、立石は不振そうな表情で詰問した。
「昨日のことだけどさ」
立石の頬がぴくと動いた。
「俺が学校から帰る時、立石いたよ、な」
立石は一瞬下を向き、制服の皺を所在なしに直したかと思うと、俺の目を直視した。
「いた、が?」
「それならさ、何でシカトしたんだよ」
立石はそのまま俺の目をじっと見たあと、ぷいと視線を逸らした。
俺は言葉を継ぐ。
「今朝から態度がおかしいじゃん。何で俺を避けているんだよ」
「避けてなんかいない」
「いいや、今日は俺と一言も話していないじゃないか」
「今までだってそんな日はいくらでもあっただろう」
「ここ最近はそんなことないだろうが!」
そこまで言って俺はっと我に返った。いかん。少し俺、興奮している。
俺は一呼吸して気を落ち着ける。
「とにかく、昨日のことを気にしているんだったら、見当違いだぜ。その、昨日、俺と壬生は、な」
駄目だ。今度は別の意味で興奮している。汗をじっとりとにじませながら大げさな身振りで説明する
俺は、恐らく端から見てもかなり挙動不審だろう。
だが、立石はそんな俺を真っ直ぐな瞳で貫きながら
「保健委員の仕事の帰りなんだろ」
と言い放った。
「……そうなんだけどさ」
「なら、いいじゃないか」
立石はそう言って足早に立ち去ろうとする。
「だから待てって」
俺はすかさず立石の腕を掴んだ。
そして引き寄せる。
「なんだ?」
立石は無表情な顔で俺のことを睨み付けた。
鉄仮面だ。
だが、鉄仮面は鉄仮面でも今までの鉄仮面とは違う。
今までの鉄仮面は立石の素の表情での鉄仮面だった。
だけど今回の鉄仮面はわざとだった。
自分で表情を作っている。文字通り仮面を被っていた。
俺には何となくそれが分かった。
「なんで、今日はそんな突っ慳貪なんだよ!」
「私が不愛想なのは今に始まったことじゃないだろう」
「いいや、いつもの立石はこんなに不愛想じゃないね。いつもはもっと俺に話しかけて来て、もっと
俺の話を聞いて、もっと笑いかけるじゃないか」
「笑う? 私が?」
立石は一瞬目を丸くした。そして何かを飲み込むようにして俯くと再び顔を上げた。
「痛い」
「え?」
「腕」
「あ」
俺はあわてて立石の腕から手を離した。自分でも気が付かない内に必要以上の力で立石の腕を握りし
めていたらしい。
立石は腕をもう一方の手でさすりながら口を開いた。
「あの後輩の子の名前は壬生っていうのか」
「え? ああ」
「つきあっているのか?」
「はあ!?」
俺は思わず声を上げた。
「飯尾は壬生と付き合っているのか、と訊いている」
「そんなわけないだろ! 俺は立石と」
一応、
「付き合っているんだし」
「それなら、さ」
立石の瞳は俺を射抜く。
「なんで、あの時『しまった』という顔をしたんだ?」
え?
俺が、か?
俺はその時のことを頭に思い描いた。
壬生と二人で夜道を歩く俺。そこで偶然出会った立石。そして俺は……
した。
した、と思う。
「しまった」っていう顔をしたような気がする。
その表情は後ろめたいことがなければしない表情だ。
その瞬間、俺は自分の心の中が透けて見えた。
俺は壬生と一緒にいちゃいけない、と心のどこかで思っていたんだ。壬生は俺の恋愛の対象に成り得
ると心の中で思っていたんだ。
そして一緒にいるところを立石に見られたくない、とも思っていたんだ。
「いや、あれは、さ」
俺は急に反論することも出来なくなってしまいうろたえた。
立石は眼鏡の奥から鋭い視線を俺に投げかけていた。
俺は思わず俯く。
だけど、だけどさ。
それのどこが悪いんだ。
俺が壬生と一緒にいることは仕方がないことだし、俺の表情がどうなったったと言ってもそれはあく
まで立石の主観的な意見だ。それにどう客観的に見ても俺は悪いことをした訳じゃない。
そう思い顔を上げたかけた俺は、立石の拳が硬く握られているのを目の端でそれを見てとってぎょっ
とする。
「別に飯尾が誰と一緒にいようが私には関係がない。ただ、な」
声にあわせて右腕が震えた。パワーがその右腕に漲っているようだ。
殴られるのか、俺は。
一瞬の内に立石の槍の様な正拳突きが俺の顔面をひしゃげさす光景が過ぎった。
……覚悟を決めよう。
痛いのは一瞬だ。俺は目を瞑った。
「ただ、さ……」
その時、急に立石の声が揺れた。
俺はその変化に気づき、顔を上げた。そして驚き、目を見開いた。
「ただ、なんで涙が出るんだろうな」
立石の瞳からぼろりと涙が一粒、落ちた。
「本当だったらここは怒るところなんだろう、飯尾? やっぱり私は変なのか? どうなんだ、飯尾
?」
ぼろぼろ、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
俺は。
俺は目を逸らした。
その泣き顔を直視出来なかったからだ。
「立石」
俺は思わず立石の肩を掴もうとした。
立石にすまないという思いからついて出た自然な動きだった。
しかし立石はびくっと身体を震わす。
「や、やめろ」
立石は鋭く俺の手を払った。
そこはさすがは空手家だった。
俺は立石のそのわずかな腕の動きだけで身体のバランスを崩してしまった。
俺は身体の重心を整えるために右足を倒れる先に繰り出す。
が、そこには地面がなかった。
いや、違う。
正確に言おう。
足を繰り出した先には階段があった。
そこから先のことは言いたくない。
だが、俺の脳裏にはその一瞬の光景が実に鮮明に焼き付いている。
一段下の段を捉えようとした右足は見事に滑り、そのままスライドして行く。
長い距離を走ってきて疲労していたせいか左足のフォローが完璧に遅れた。膝を折り畳んで臑を階段
の角に思い切り打ち付ける。
だが、それを軸にして、右足がもう一段下の段を捉えた。
奇跡的に態勢がもとに戻った。
だが、逆にそれがいけなかった。
上半身が直立した俺は落下スピードを止めることが出来ず、宙を飛ぶことしか出来なかったからだ。
俺は十二段下まで落下した。
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……なんてことをこいつらに話してどうするというんだ。
人間の思考は時間を超える。
わずか数秒で全てを回想し、それによって周りにどう影響するか判断した俺はそいつらの顔を見る。
興味津々の目、目、目。
俺はうつむき、ため息を付く。
「いや、立石は関係ないよ。俺が階段から落ちただけだから」
「本当?」
疑わしそうな目つきで俺を覗き込む美奈。
「そりゃねえぜ。つまんねーオチ」
そう言って白けた表情で肩をすくめる北村と本山。
壬生はと言うと興味を失ったような乾いた瞳でしばらく俺のことをじっと見ていたと思うと、「下手
な嘘」とぼそりと呟いた。
俺はぎくりとして壬生の顔を見上げる。
壬生は俺と顔を合わせると、急にぱあっと顔をほころばせた。
「何にしても明日で退院なんですね。良かったですよ。保健委員の仕事もたまっていますからね」
「この状態の人間に仕事をやらせる気か。お前は」
壬生は病室のドアのところまで後ずさる。
「当然ですよ。今までサボっていた分、更に頑張ってもらいますから」
そして「それじゃ」と言い残して壬生は去っていった。
後に残されたのは本山と北村と美奈。
白けた空気が病室の間を流れる。
北村は何かを締めるかのようにぱんと手を叩いた。
「んじゃ、俺たちも帰りますか」
「そうだな」
本山と北村は顔を見合わせた。
「じゃあ、私も」
美奈もそう言って帰り支度をしようとした時、本山が美奈に声をかけた。
「キミ美奈ちゃんって言うんだっけ? お姉さんに似て無くて可愛いね」
「え?」
「帰るんでしょ? 駅まで一緒に行こうよ」
「え? え?」
困惑したような恥ずかしいような嬉しいような実に複雑な表情を見せる美奈。
「おい! 俺の目の前で公然とナンパをするなあ!」
「だってお前は美奈ちゃんの姉貴と付き合ってんだろ。お前は関係ねえじゃん。あ、それとも」
「なんだよ」
「未来の妹の身は心配って奴か?」
俺は思いっきり枕を投げつけてやった。
しかしそこにはすでに本山の姿は無く美奈と北村を引き連れて外に逃げ去った後だった。
病室の床には枕だけが取り残されていた。
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そして日が変わって退院日。
当然のごとく誰も迎えにも来なかった。
北村、本山は言うに及ばず、ウチの家族すら来なかった。
確かに今日は平日だし、こんな真っ昼間に暇な人間というのはそうそういないだろう。
ま、たかが足の骨を折ったくらいで迎えなんか大げさだから俺としてもそれは嬉しかった。
俺は病院で貰った松葉杖で不格好に歩く。
松葉杖なんて初めて使うので実に歩きにくい。
だけど俺もそのうち、これでひょこひょこ歩けるようになるのだろうか。
だけど、あれか。
慣れる頃には直っているかもな、足。
そんなことを考えて苦笑していたその時。
「大丈夫か!」
「うわあああ!」
無警戒のところで突然背後から、しかも至近距離から声をかけられたせいで俺は飛び上がった。そし
てその勢いで大きくバランスを崩す。
「お、おい!」
その声の発生源はとっさに右腕を突き出し、俺の腕を引いた。
そのおかげで体勢を整えることが出来る。
俺は激しく波打つ胸を押さえてそいつを睨み付けた。
「何しやがんだよ」
そいつ、立石真美はきょとんとした目で俺の顔を見返すと、おもむろに口を開く。
「私は声をかけただけだろ。飯尾が勝手に驚いたんじゃないか」
「人の死角から声をかけるのはやめてくれ」
俺は気を落ち着かせるように深く息を吐く。
「とにかく」
きっ、と立石の目を見る。
「学校はどうしたんだよ。今、授業中だろ。サボったのか?」
すると立石は急に目をそらして俯くようにこう言った。
「……まあ、こういう時もある」
何が、こういう時なんだか。
まあ、ともかくも俺は先を急ぐことにした。
立石は相当に鈍い俺の歩調に会わせて、ゆっくりと隣を並んで歩く。
「肩を貸そうか?」
立石のその提案に一瞬ぐらつきかけた俺だが、考えたら松葉杖のある身で肩を借りるわけにもいかな
い。俺はやんわりとそれを断る。
それっきり、しばらくの間、話題が途切れた。
穏やかな午後の日差しが俺らに等しく降り注ぐ。
病院からの裏道は人通りも少なく奇跡的に車も来ない。
都会の日常にこんな静かな時間があるなんてちょっと驚きだった。
のら猫が塀から飛び降りて目の前を横切っていく。
どこからかちり紙交換の宣伝の声が聞こえてくる。
……。
「あのさ」
俺がそう言いかけた時、立石も何かを言いかけたように口を開きかけていた。
俺はそれを察して口をつぐむ。
が、対する立石も同じように口をつぐんでしまう。
俺はその様子を見て、再び口を開きかけた。
が、対する立石も同じように口を開きかける。
機敏に察した、俺は口をつぐむ。
同じように立石も口をつぐむ。
……。
ああ、もう!
これじゃ、全然ラチがあかん!
向こうが話始めようが構わん。こっちから強引に話し始めちゃる!
「あのさ、あの時何を買いに行ったんだ?」
「え?」
立石はきょとんとした目で俺を見返す。
「何の話だ?」
「だからあの時だよ。立石が俺を買い物に誘った時」
すると立石はしばらくして「ああ」と思い出したように声を上げた。
「いや、別に、大したものじゃない」
「でも本来なら俺が買い物に付き合っていた訳じゃん。気になるからさ」
「だから何でもない」
「何でもないってことはないだろ」
俺がそう言うと立石は不必要に視線を泳がせた後、ぼそりと吐き出した。
「水着」
「は?」
俺はもっとも予想外の答えが返ってきたので思わず聞き返していた。頭の中で用意していた答えと実
際耳にした言葉とがとてつもなく乖離していたので、情報がうまく処理されなかったのだ。
「な、なんだって?」
立石は怒っているのか恥ずかしがっているのか分からないが顔を紅潮させる。いや多分その両方なん
だろう。
「だから『水着』だと言っている!」
そしてそのまま大股で歩き出す。
当然のことながら松葉杖の俺は立石に取り残される。
数メートル先に行った立石はそんな俺の状況にようやく気が付き、歩をゆるめた。
俺はなんとか立石に追いつく。
「で、何で水着を?」
「まだその話題か」
「いいだろ。気になるんだから」
「うう」
立石は腹でも痛いのかと思うくらいに、前屈みになり呻くと絞り出すように話し始める。
「前さ、飯尾、暑くなったらプールにでも行こうかって話をしたじゃないか」
え? そんな話したっけかな?
あわててほこりかぶった脳の奥の記憶庫を捜索し出す。
言われてみれば学校の帰りにでも話の流れでそんな話をしたような、しないような。
でも完全な約束という感じじゃない。いつか機会とタイミングと状況がそろえば行こう! といった
感じの『夏になったら』という話題の一部に過ぎなかったはずだ。
それをまともに受け止めていたのか、立石は。
「それで私はまともな水着をもっていないので買いに行こうとしたのだが」
そこで立石は口ごもる。
そう、そこで俺を誘うといったところが実に立石らしくない。立石がもし本当に水着を買いに行くと
したら、美奈か尾花を誘うはずだ。
……。
というところで俺はぴんときた。
そうだ。
美奈と尾花の両方に「水着くらい自分の彼氏に選んでもらえ」とかなんとか言われたのだろう。彼女
らの性格から言ってそれは容易に想像がつく。それでその話をまともに受けた立石は俺のところに話を
持ってきたわけだ。
「何だ?」
訳知り顔に一人で頷いている俺を見て、立石は声を荒らげた。
「なんでもないって」
俺はあわてて首を横に振る。
しばらく疑わしそうな表情で俺の顔を盗み見ていた立石だが、再びぼそりと吐き出すように呟く。
「でもこれじゃプールに行くのはしばらく、おあずけだな」
立石はギブスで固められた俺の右足を見ながら言う。
「そんなこともないぜ。俺は日光浴しているから立石だけ泳いでいればいいじゃん」
「そんなつまらないじゃないか」
「そうかな?」
「そうだ」
そうしてしばらく会話が途切れた。
基本的に俺はこの会話のない状態というのに耐えられないタイプだ。
俺は頭を急いで回転させて話題を探す。
見つけた。
適切な話題じゃなさそうだけど、気になっていたことの一つなんでちょうど良かろう。
「あ、あとさ」
「うん?」
「俺が他の女の子と一緒にいるとやっぱり嫌か?」
「な!」
立石は今までにないくらいの急激な表情の変化を見せた。
身体全体で動揺している。
例えると全身の毛を逆立てて威嚇する猫みたいに。
「別に何の恋愛感情もない女の子と一緒にいてもやっぱり嫌かな?」
「嫌な、訳、ない、だろう!」
動揺が声に出ていた。言葉がスムーズに出てきていない。
「本当?」
「本当だ」
「でもさあ」
俺はしつこくその話題を続ける。
ここまで動揺する立石をもっと見てみたいという考えが心の何処からか湧いてきたからだ。
「壬生と一緒に俺がいて立石が怒った理由ってさ、やっぱり……」
「言うな」
「……嫉」
「それ以上言うな!」
立石は叫んだ。
そして。
「……ぐはあっ」
俺の胴体はくの字型に折れ曲がっていた。
立石のボディーブローが物の見事に俺の鳩尾を捉えていたのだ。
俺は松葉杖にすがりつきながらアスファルトの上に崩れ落ちる。
呼吸が出来ない。
俺は片足を着き、右手で腹を押せた。
鈍痛が脈拍に合わせて何度も内蔵をえぐる。
ちょ、ちょっと待て。ケガ人にこの仕打ちは酷すぎやしないか?
しかし立石は「ふん」と言ったきり俺を残してどんどん先を行く。
だけど。
だけどその背中は少し嬉しそうに見えた。
俺の見間違いかもしれないけど、な。
あとがき
ながらくお待たせ致しました。第六話を実に六ヶ月ぶりにお届けいたします。
今回、もともと飯尾君は骨折するほどの大けがになる予定はなかったのですが、
皆様から頂いたご感想メールの中で
「次回飯尾君が入院しないことを祈ります」のようなご意見があったので
「これだあ!」と思っておもわず使っちゃいました。
以下今回のお遊び
1,今回初登場の立石の友人、尾花の名前は「立石とお友達になれそう」
と言って下さったOHAさんにちなんで付けました。
性格等はご本人さんとは関係ありませんので、なにとぞご了承ください。
2,北村君が持ってきたCDの歌手の名前、『紗悠琴音』は小笠原明葵さんの大人気
恋愛小説『う・そ・な・き』シリーズのヒロインの名前です。
明葵さん、ご使用の件に際して快諾して頂いてありがとうございます。
あ、あとてらおかけんじさんの『白原雪乃』は連続三回目の登場ですね(名前だけですけど)。
こちらもいつも使わせて頂いてありがとうございますー!
さて、いよいよ次回「キスの仕方」。残り三話の中で唯一プロットが固まっていない
話なんですよね。
飯尾と立石って絶対キスなんかしないよな。
どうしよう?
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