恋人レッスン 

第七話 キスの仕方 後編

作 山下泰昌


 「美奈がキス?」

 「あ、聞いていなかったか?」

 俺は隣の座布団に座っている立石に先程仕入れたネタをさりげなく漏らした。

 「なるほど」

 立石は一人で納得して頷いていた。

 「多分、身内には話しづらかったんだろう。それに本山の情報も知りたかったんだろう。それであん

なに強硬にプール行きを主張していたんだな」

 立石はそう言って一瞬笑い掛けた後、すぐに眉を顰めた。

 「しかし……本山とか?」

 それもそうだ。本山はちゃらんぽらんなイメージで通っている。決して良い方のイメージではない。

それに異性関係の噂が絶えない。

 立石が心配するのも当然だ。

 プールからの帰り、俺は立石を俺の家に誘った。

 美奈と本山のことを話したかったからだ。美奈はさすがにそこまで付いてくるのは遠慮したのか――

―というか遠慮してくれないと困ったのだけど―――船橋駅で別れた。

 家には幸いなことにお袋がいなかった。俺は自分の部屋に立石を案内し、とりあえず、BGM代わり

にTVを点ける。

 「正直、本山ってどうなんだ? 友人ならではの視点というのがあるだろう」

 さすがに姉として心配なのか立石は訊いてきた。

 「うーん。いや、その」

 俺は戸惑う。

 「そう言えばあまり女関係の話ってしないな……」

 考えてみると俺達って軽いH話はするけど当人達の恋愛話ってほとんどしたことがないような気がす

る。

 気恥ずかしいってのもあるし、遠慮ってのもあると思う。それに本山はともかく北村と俺は付き合っ

ている女がいないし、好きな女もいないのでわざわざそんな話を持ち出す機会がなかった。立石とはあ

あいう出会いなので、恋愛話の範疇にも入っていない。

 一方、恋多き男本山はどうかというとこれはこれで向こうから話を持ちかけて来ないので全く話題に

ならないのである。普通、「俺、こんな子が好きになっちゃったんだけど」とか「今、彼女とケンカし

てんだよ」とかいう話くらい友人に持ちかけてくるものだろうと思うのだが、本山はその辺は自分の中

で割り切っているらしく、自分の女性関係の話をしたことはほとんどない。多分、『恋愛問題は自分の

中だけで解決すべし』とかいう人生哲学を持っているのだと思う。いや、実際訊いたわけじゃないけど 、

ずっと付き合っているとだいたいそんなことなんじゃないかなあ、と感じるってだけだ。

 「ただ、端から見るほど女に対して不真面目なヤツじゃないよ」

 ―――と思う―――と心の中で付け加えた。

 確かに本山はいろいろな女とは付き合っているし、そのインターバルも短いけど、二股したことはな

かったはずだ。数少ない本山からの情報を総合するとそうだったはずだ。

 だから、もし本山が美奈と付き合うつもりだったら、多分、それはそれで真剣なんだろうと思う。

 ということを立石に言ってやった。

 立石は「ふうん」と頷くと視線をぼんやりとテレビ画面に移す。 

 そして何事か考え込んでいるのか立石はそれきり黙りこくった。

 しかし。

 それにしても、キスか。

 本山の野郎め。あの純真な美奈ちゃんの唇を奪いやがって。

 真面目に付き合うなら良いが、もし遊びならぶん殴ってやる。

 そして本山が美奈にキスしているシーンを一瞬想像し、身体がざわざわしてくるのを感じた。

 ああ、腹が立つ。ん? でも何で腹が立つんだろ。

 これはなんだろう。妹的な存在の美奈が本山に手を付けられたからいらいらしているのだろうか、俺

は。

 それもあるんだろうが、それだけが全てでないような気がする。

 多分、俺は自分がまだキスをしたこともないのに、本山や、まして妹的存在の美奈にまでも先を越さ

れていらいらしているんだと思う。

 そう自分の心を分析して俺は自分を恥じた。

 こういうのって別に先を越した越されたってものじゃあない。相手があって、当人同士が互いを好きで

それで本当にキスしたくてたまらないからするもんだろう。先を越されたから悔しいっていう心は何か

卑しいような気がする。 

 俺はその惨めで黒いものをぐっと心の底に押し込んだ。

 「キス」

 「は?」

 完全に自分の世界に没頭していた俺は、立石のその突然の言葉に飛び上がった。

 よりにもよって、言うに事欠いて放たれた言葉が「キス」。

 キスのことばかり考えていた俺の心が見透かされたのだろうか。

 「キスって何でするんだろうな」

 立石は言葉を続ける。

 「時々思うんだ。映画やドラマとかで恋人達って必ずキスするじゃないか? あれってなぜするんだ

ろうと小さい頃かなり悩んだ覚えがある。ほとんど、お約束の様にするじゃないか? 何か義務みたい

に」

 立石の話を内心焦りながら訊き流し、テレビ画面に目を戻す。

 画面の中には今しがた丁度唇を離した男優と女優がいた。

 ああ、ここから話題が始まったのか。

 俺はほっと安堵のため息をつく。

 「義務ではないだろ? やっぱりしたいからするんじゃないのか?」

 「したい? だって唇なんて気持ち良さを感じる器官じゃないだろ? ほら、自分で触って見ても気

持ち良くもなんともない」

 そう言って立石は自分の唇を人差し指でなぞる。つやつやした唇がそのせいで余計に目立つ。俺はそ

の光景に一瞬見惚れた。

 「でも自分で触るのとキスとはまた違うんじゃないのか? ほら、指圧だって自分で揉んでも気持ち

良くないけど、他人にやって貰うと気持ちいいじゃん」

 そこまで言って俺は頭を傾げた。ん? この例えはなんか違うかも。

 「どうなんだ? 飯尾。キスって好きか?」

 「え?」

 俺はそこでまた驚く。いきなりそういう振られ方をしても困る。

 「いや、好きも何も。まだ……したことないから」

 「そうか。私もしたことがない」

 「え?」

 どきっとした。

 そうか立石はキス未経験か。ということは俺がすればファーストキスになるわけだ。

 ……。

 何を考えている。何を。

 俺はその馬鹿馬鹿しい考えを振り払うように首を振る。

 「恋人同士ってキスしなければならないのか?」

 立石は表情も変えずに言葉を続ける。

 「うーん。前提条件が間違っているよ。恋人は『キスをしなければならない』のじゃなくて『キスを

しても良い』だよ」

 「ああ、なるほど」

 立石は驚いたように俺の方を向く。

 「じゃあ、なんでキスをしても良いんだ?」

 「うーん。だからさあ」

 俺は面倒くさそうに頭を掻く。

 「キスはしたいからするんであって、義務じゃないんだよ」

 「ということは恋人はみんなキスをしたがっているのか?」

 「そうだろ。だから『恋人』なんだろ?」

 ああ、もう。相変わらず、理屈から入るんだから。

 俺はそのやりとりにうんざりしてきた。

 そこで一つ意地の悪い質問をぶつけてみる。

 「そもそも立石はキスに興味がないの?」

 「わ、私がか?」

 まさかそんな質問が振られるとは思っていなかったのか、立石は激しく動揺する。

 「いや。私は、その。どういうものかという知的好奇心はあるのだが」

 何が知的好奇心だ。

 だが、すかさず意地になった立石の反撃を受けた。

 「でもそういう飯尾だって経験がないんだろ。言っていることは全て憶測じゃないのか?」

 「憶測で悪いかよ!」

 カチンと来た。

 そしてその怒りの勢いでそのまま言い返してやった。

 「じゃあ、実際してみるか?」

 俺がうんざりした表情で適当にそう言うと立石は押し黙ってしまった。

 俺は全てを投げ出すように背もたれ代わりにしているベッドに体重をあずける。

 やってられるか。

 立石との理屈の応酬は非常に疲れる。

 言ってやって少しせいせいした。

 いつも立石の理屈に相手してやってんだ。

 たまにこんな風に逃げ出しても良いだろう。

 俺は立石がどんな反応をしているか気になって様子を見る。

 立石は身体を硬くして俯いていた。そして上目遣いでちらと俺の方を盗み見た。

 そして絞り出すようにとんでもない意味の言葉を吐き出した。

 「分かった」

 「は?」

 予想だにしない答えが返ってきたので、俺は間抜けな顔をして聞き返す。

 「だから、……実践を、してみても良い、と言っている」

 立石は顔を真っ赤にしながらうつむき加減で凄まじく言いにくそうに言葉を紡ぎだした。

 なんだって?

 え。あの。

 いや、そんなつもりで言った言葉じゃなかったんだけど。

 俺はきょろきょろと自分の部屋を見渡す。

 立石とキスすべき対象はこの部屋には俺一人。

 しかもキスする相手という立場上でも俺しかいない。

 部屋の空気は一変した。空気がまるでゼリーのような個体に変わってしまったように重苦しくなった 。

 そして音が聞こえなくなった。

 テレビ画面では相変わらず映画が流れ続けている。だが、画面上の光の点滅が交錯しているというだ

けで、それは俺に何の情報も与えてはいなかった。音は聞こえない。ビデオデッキのデジタル時計だけ

が規則正しく進んでいる。

 この状況に怖じ気づいている俺がいる。手を伸ばせばすぐ隣にいる立石との間に大きな見えない壁が

出来たようだ。

 立石の様子を見る。立石は居心地悪そうに俯いている。

 心の中での一瞬の取捨選択。

 このまま何もしない→気まずいままこの場は終わる→後日会った時もやはり気まずい。

 このままキスをする→二択

1、立石とは関係一応はそのまま。

2、立石とは気まずくなる。

 ……。

 結局どちらを選んでも気まずくなる可能性が残っているなら、後者を選んだ方がまだ良いような気が

する。

 ……覚悟を決める時なのかも知れない。

 俺はすうっと大きく息を吸い込んだ。

 そして立石の腕を掴む。

 びくっと立石の身体が感電でもしたように震える。俺は逆にびっくりして思わず手を離してしまった 。

少し焦って強く掴み過ぎたかも知れない。

 「ごめん」謝りの言葉が思わず口をついて出た。

 すると立石は座ったまま後ずさる。そしてあわてるように言った。

 「すまん。やっぱり止めよう」

 「は?」

 俺はその思いもよらぬ言葉に呆然とした。

 俺がこれだけ散々悩んでようやく決断を下したってのに、それをあっさり「やめよう」だって?

 おもわず「そりゃあ、ないよ」と口をついて出た。

 「すまん。正直言って怖い」

 立石は俯きながら、そう言う。

 「怖い? 俺が?」

 「……いや、飯尾が怖いとか、キスが怖いとかそう言う意味じゃない」

 「じゃあ、どういう意味さ」

 俺は少しふてくされたように口を尖らせた。

 「……何か、自分が怖い」

 え?

 俺は一瞬、戸惑う。そして立石のその抽象的表現の意味を読みとろうと頭を巡せ出した時、それは

続く立石の言葉によって遮られる。

 「そもそも、飯尾は……私にキスをしたいのか?」

 俺は立石の顔を真正面から見返した。立石の目は問うように俺を見ていた。

 そしてすぐに俺の視線はそのすぐ下にある口唇に移る。

 艶やかで、柔らかそうで、暖かそうな口唇。

 そしてそれは少し湿っている。

 キスしたい。猛烈にキスしたい。

 だけど、それが単に口唇にキスしたいだけなのか? それとも立石の口唇だからキスしたいのか? 

 分からない。

 俺は頭を軽く横に振る。

 駄目だ。今の俺には分からない。このすがりつくような目つきで俺を見上げている立石を前にしてい

る俺にはそれが判断出来ない。でもキスはしたい。

 「……したいよ」

 俺は不機嫌そうにそう洩らした。

 もし、ここで立石が「どうしてだ?」と訊いたなら俺は口ごもってしまっただろう。だが、立石は

「分かった」とだけ言うとゆっくりと身体を俺の方に近づけ始めた。

 そして最大限の注意を払って身体を寄せて立石の両肩を両手でもって優しく掴んだ。

 はっとしたように立石は顔を上げる。

 眼鏡越しの瞳が潤んでいた。

 夢の中でバタークリームのような瞳の立石を見たと言ったがあれはやっぱり夢だった。

 本当の立石の瞳はスペアミントみたいに涼しげで綺麗な瞳だった。

 俺は顔を次第に近づけていく。互いに目の焦点が合わなくなるので自然と瞳を閉じた。キスをすると

き目を閉じるか、閉じないかという話を昔誰かとしたことがあったが、これはこういうことだったんだ 、

と気が付いた。実際そうなってみないと分からないことって結構多い。

 瞳を閉じたまま顔を更に近づけて行く。

 立石の体温を空気越しに感じるほど近づいているのはずなのだが、唇は一向に触れあわない。

 俺と立石の間には何かワープホールの様なものでも存在するのか? と次第に不安になりだした

その時、俺の唇はそっと何かに触れた。

 その瞬間互いに身体をびくっと反応させた。

 自分の唇に立石の柔らかくて暖かい唇を感じる。それは何か不思議な感覚だった。

 後頭部がつんと痺れるように熱くなった。

 触れた瞬間はこんなもんか、とも思った。

 だけど、そう思ったのもつかの間、胸の奥に何かが生まれた。

 痺れるような、せつないような、苦しいようなものが。

 胸の中でわだかまり始めたそれはとぐろを巻きながら徐々に大きな物に育とうとする。

 今にも俺の胸を食い破って飛び出してきそうなそれに怖くなって思わず唇を離した。

 どれくらい唇に触れていたんだろう。

 自分の感覚では十秒くらいの気がしたが、実際は一分以上は触れていたような気もする。

 身体は密着せずに唇だけ触れた不自然な体勢だったので、首が少し痛かった。

 俺は顔を離した状態で立石の顔を見た。

 立石は熱にうなされた様な瞳で俺を見ていた。その瞳の読みとり方を俺は知らない。少なくとも俺の

経験上その瞳は見たことがない。いろんな感情がブレンドしたような瞳に見える。瞳に垣間見える情報

が断片的過ぎて読みとりづらい。

 眼鏡をしたままキスしていたのに気が付いた。だが、まるで気にならなかった。眼鏡に気にならない

ほど俺が舞い上がっていたのか、それともそういうものなのか。

 「飯尾」

 立石が呻く様に言った。

 「な、なに」

 声がかすれていた。俺は少し気恥ずかしくなってわざとらしく咳をする。

 すると立石は俺の方に体重の全てを預けて来た。立石の身体の柔らかさと暖かさが服を通して感じら

れる。

 俺は緊張した。何だよ、これ。どういうことよ?

 「な、なん!」

 「ご、ごめん。身体に力が……入らなくて」

 立石は俺の胸に顔を埋めたまま戸惑う様にそう言う。

 どうやら立ち上がろうとして、身体をよろけさせてしまったらしい。

 俺はその身体を支えながら立石の顔を覗き込んだ。

 立石は俺の顔を見上げた。

 目と目が合った。

 ―――視線を逸らしたくなかった。

 いつまでもその瞳を見ていたかった。

 胸の奥が締め付けられる様だった。

 腕の中の女性が愛おしくなった。

 『立石に』、キスしたかった。

 そして俺は再び顔を近づけて行く。

 「あ」

 立石が身体を少し固くして一言呻いた。

 だが、それは否定の動作ではない。

 俺の唇と立石の唇は再び触れ合う。

 一度目のキスとは意味が違った。

 とたん、コンピュータにプログラムをインストゥールするように立石の心が唇を通して俺の心に流れ

込んできた。そのプログラムは俺の中で自動解凍する。そしていろいろな感情がそれに応じて起動し始

める。

 俺の心も立石の中に入って行っているだろうか。そうであって欲しい。

 俺は唇に俺の全てを込めた。だが、優しく。

 その時、俺はキスの意味が分かったような気がした。

 口は人間の情報発信器官である。それは空気振動、つまり『言葉』を介して行われる。

 だが、人の感情というのは言葉を介すると正確に伝わらなかったり、嘘に聞こえることが多い。その

為、その口と口との距離を最大限に縮めた情報交換方法が『キス』なのだ。

 ……。

 いやそれもやっぱり理屈だ。

 ただ単に唇を触れあいたいだけなんだ。好きな人と出来るだけ距離をなくしたいだけなんだ。

 好きな人?

 俺は誰のことを言っている?

 俺はこの時点でようやく悟った。

 立石と付き合っていることを『一応』だとか『建前』だとかで修飾することは終わったのだと。

 傾きかけた西日が柔らかく部屋を照らす中、俺達はいつまでも続くかのような時間を漂っていた。


 あとがき

 毎度、お待たせ致しております。『恋人レッスン 第七話キスの仕方』のお届けさせて頂きます。今

回の話はプロット立てが一番苦労しました。だって飯尾と立石、まったくキスしそうに無いんです

もん。仕方がないので当初の構想に無く、六話で偶然生まれた本山×美奈を持ち出してダシに使わせて

頂きました。

   さて次の第八話と最終話ですが、前後編みたいな感じの話になります。なので出来れば八話と九話(

最終話)は間髪あけずに公開したいなあと思っております。

 あ、あと今回美奈の私服についてのご助言を下さった、みまさん。ありがとうございました。

 なにはともあれ、次回『第八話 別れる方法(仮)』をご期待下さい。 




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