恋人レッスン 

第八話 レッスン終了 後編

作 山下泰昌


 誰だ。

 俺は一瞬、そんなことを思った。

 すらりとした長い脚を繰り出し、堂々とした歩調でそいつは現れた。

 息を飲むほどに大胆に肩を露出させたカジュアルなワンピースを颯爽となびかせて。

 黒いシックなそれは、大人っぽくてその女性に滅茶苦茶似合っていた。

 誰だ、こいつは。

 俺は戸惑った視線をステージ上に現れたその女性に向ける。

 大きいストライドで現れたそいつは、どう見てもプロモデルのようだった。多分大きなストライド

なのは照れ隠しなんだろう。さっさと終わらしたい。そんな心情がミエミエだ。でもそれが今回は

やけに格好良い。

 元々身長が高いので舞台でえらく映える。

 素人の照明係りによるスポットライトが遅ればせながら、舞台中央で腰に手を当てて立ち尽くした

立石を照らす。

 立石。

 そう、立石だった。

 紛れもなく、それは立石だった。

 野暮ったいお下げがトレードマークだったはずのその髪は、軽くシャギィに切られて、肩の辺り

になだらかに流れている。色は下品にならない程度に茶色に染められ、軽さを感じさせる。

 眼鏡は当然付けていない。

 そしてその瞳。

 透き通った、真っ直ぐな瞳が虚空を見つめている。

 かなりぶっきらぼうな表情だ。

 どうにかしてくれ、この状況を。

 多分、その表情はそう言っているのだと思う。だけど、そのいかつい表情が更に素人くささを

掻き消していた。挑戦的な視線を会場に向けるプロモデルのようだった。

 スタイリストは良く分かっていた。その素材を活かすような服やヘアスタイルを選んでいる。

 立石はお洒落することはないのだ。

 その素顔をほんのちょっとでも見せれば良いことだった。

 そして今、その素顔を晒している。

 衆目の元に晒している。

 先程まで沸き上がっていた会場はしん、と静まり返っていた。

 恐ろしいほどの静寂が体育館を支配した。

 はっと我に返った増山がステージ下のスタッフにジェスチャーと小声で指示を出す。

 『ばか。何やってんだよ。もっと会場を沸かせろ』

 同じく呆気に取られていたそのスタッフは、手に持っていた『おおげさに驚いて下さい』カードを

大きく振る。

 だが、皆、その指示に従おうとはしなかった。

 絶句。

 まさにその言葉が相応しい。

 誰も一言も発しようとはしなかった。それは俺達も同じだ。本山も、北村も、壬生も、美奈も、口を

半開きにして壇上のその一点を見つめている。

 「……綺麗」

 思わず壬生がそう洩らした。そしてはっと自分の発した言葉の意味に気が付き、複雑な表情で

俯く。それを皮切りに会場中のあちらこちらでぽつりぽつりと言葉が生まれた。

 『嘘』

 そしてその言葉の点は次第に線となり、

 『本当に』『凄え』

 面となり、

 『マジかよ』『誰だ、あれ』『別人』

 空間となり、

 『気付かなかった』『最高』『三年の』『イケてる』『立石』『何で今まで』『真美』

 それは大きなうねりとなった。

 轟――

 と怒号のような歓声が一つの生き物のように沸き上がった。

 「うわあ」

 恭子は呆然とマイクを持ったまま、そう呟く。思わず司会という自分の立場を忘れるほど、それは

凄まじいものだったらしい。

 歓声が体育館の壁に反響し、そしてそれがまた歓声にぶつかり、それは増幅する。途切れること

のないその盛り上がりに体育館の外から何事かと他の生徒達が駆けつける。それがさらに騒ぎを

大きくさせていた。

 壇上の立石はその様子をぽかんと口を開けて傍観していた。ステージ下の煽り担当のスタッフ

はプラカードを振ることすら忘れていた。いや、それはもはや必要が無かった。

 司会の増山がマイクを持って、何事か喋ろうとしていた。だが、それは会場の歓声に掻き消され

て何を話しているかさえも分からない。ステージの両脇に備え付けられた大型スピーカーを持って

してもだ。

 俺は辺りを見回した。

 みんな、立石の美しさを口々に囃し立てている。褒め称えている。好奇の目で声援を送っている。

 そんなこと今更気付くなよ。

 俺はもっと前から知っていたさ。

 ……。

 俺は俯いた。そしてステージの立石に背を向けた。

 「お、おい」

 本山がそんな俺に気付き、声を掛ける。

 「どこ行くんだよ。本番はこれからだろうが」

 だが、俺はそれには答えずそのまま歩き続けた。

 会場の外へと。

 ……この時、ようやく俺はこの企画に気乗りしなかった自分の気持ちに気が付いた。

 立石の本当の姿を他人に知られるのが嫌だったんだ。

 その美しさを宝石のように自分だけの箱に入れて愛でていたかっただけだったんだ。

 俺は衰えることを知らないその歓声を背中に受けながら会場である体育館を後にした。

***************************************

 それから数日後。 

 俺はその日の昼休み、次の授業である英文法の宿題に取り掛かっていた。といってももちろん

自力でやっている訳じゃない。北村の解答を見せて貰っているのだ。その北村も尾花の解答を

見せて貰っている訳で結局、自力でやっているわけじゃない。

 ただ写すだけなので、それはあっと言う間だった。わずか数分でその課題は終了するところだっ

た。

 その時、教室の後ろの扉から誰かが入ってきた。

 正直、昼休みの教室なんて出たり入ったりで、誰がいつ入ってきたなんてことにいちいち気を

付けているヤツはいない。

 だが、独特のオーラでも放っているようなそいつの登場に教室内の全員の視線は一瞬にして

集中した。

 「よう」

 だが、そいつはそんな教室の雰囲気にまるで気付いていないように無頓着に俺に声を掛ける。

 ……言わずと知れた立石だった。

 教室中がかすかにざわめく。

 教室中の注目を浴びているのが分かる。

 羨望、好奇、嫉妬、中傷。いろんな意味の視線が俺と立石に絡みつく。

 文化祭が終わってすぐに、立石の格好は元に戻ってしまった。ださい着こなしのセーラー服に、

無骨な眼鏡。だが髪の色は黒く染め直したもののわずかに茶色が残ってしまい、おまけに少し切

られてしまったので、お下げには出来なくなってしまった。だから髪型はほぼそのままだ。それが

以前の野暮ったさを払拭させている。

 「なに?」

 俺は教室の雰囲気に多少戸惑いながら訊く。

 「飯尾、もう昼食食べたか?」

 俺は首を横に振る。とにかく宿題を書き写すことを優先させていたので飯はその後にしようと思

っていたのだ。購買はもうろくなパンは残っていないだろうから、学食に行こうかな、と思っていた

ところだ。

 「一緒に食べないか?」

 俺は「いいよ」と頷きながら立石が両手でぶら下げているものを見てぎょっとした。

 「それって……」

 俺の視線に気が付いたのか立石は顔を妙に歪ませて、その視線を宙に泳がす。

 「いや、美奈と実験的に作ってみたのだが。慣れないもんだから作り過ぎちゃって」

 その手元に揺れるもの。

 それはどこをどう推理しても弁当箱だった。

 だけど、俺の中で『立石真美』という単語と『自作の弁当』という単語が組み合わない。

 俺がそう戸惑っていると「私の作った弁当は食いたくないか?」と立石がすかさず突っ込む。

 「ああ、そう。いや、なんていうかさ」

 「柄じゃない?」

 俺が思っていることを先回りされた。あわてて否定する。

 「いや、別に」

 だが立石は見透かしたように照れ笑いすると「行こう」と言って俺を促した。俺は調子が狂った

まま立ち上がり、着いていく。


 立石と並んで廊下を歩いていると、すれ違う奴らは皆一様に驚いたような表情をし、そしてにや

にやとした嫌らしい笑いを浮かべて俺達を見送る。

 ……自意識過剰なのかな?

 いや、そうじゃない。なぜなら皆、一度立石の顔を見てそれから俺の顔を見るからだ。

 つまり立石はこの前の文化祭以来、超有名人になってしまっているわけだ。廊下を歩くだけで

振り向かれる人間になってしまったというわけだ。

 俺達は学食へと向かう。別に学食のメニューを食べるのではなくて開いている席で弁当を突っ

つこうという考えだった。

 学食の入り口に入る。

 とたん、入り口近くに居た奴らが俺達の姿を確認すると目を丸くする。そしてそれは次々に伝染

して行く。

 妙な雰囲気が食堂全体を包み込む。

 ……。

 俺は食堂の入り口で立ち尽くした。そして隣の立石にぼそりと呟く。

 「別の場所にしようぜ」

 「ああ」

 立石は即座に頷く。


 俺達は何度か訪れたことのある中庭に来た。だがそこもすでに先客が数人、そして数組いる。

そして見上げると校舎の窓から何者かがちらちらとこちらを見ている。彼らの視線を時折感じる。

 駄目だ、ここも。

 俺が諦めたように肩を竦めると「あ、あそこにしよう」と立石はふっと思いついたように言った。


 グランドの端に行った。

 野球の試合用でボックス状になったベンチがあり、そこの中に入る。

 校舎に背を向けているのでちょっとしたブラインドになっている。それに最も離れたこの野球用

グランドに来る人間はこの時間帯はまずいないので、密会用には最適だ。

 ……いや、俺達は別に密会している訳じゃないけど、さ。

 「よいしょ」

 立石はスカートを抑えてベンチに座る。そしてそそくさとその膝の上で弁当を広げる。

 なんか、仕草が女の子っぽい。

 もともと、こんなだったかな、立石って。

 それとも変わったのかな?

 俺が気付かない内に。

 はたまた俺が知らなかっただけなんだろうか。

 「ほら。飯尾の分だ」

 立石は俺に弁当箱を放った。俺はあわててそれを受け取る。

 小さいプラスチック製の弁当箱だった。可愛い絵が付いている訳でもない。地味で実に立石らし

い弁当箱だ。

 俺はその蓋をぱかっと開ける。

 中からいい匂いが立ち上ってきた。

 ご飯と梅干しと卵焼きと唐揚げと。

 意外そうなおかずは無い。だがそのどれもが丁寧に作られている。

 何か食べるのが勿体ない。俺が箸を持ったまま戸惑っていると立石が「その卵焼き、私が作っ

た。唐揚げは美奈だ」と教える。

 「あ、そう」

 俺は立石が作ったという卵焼きに箸を伸ばした。口に中に放り込む。

 滅茶苦茶まずい、とかそういうお約束な展開はなく、ごくごく普通の卵焼きだった。だけど、立石

が作ったものを身体の中に入れる、ってのは何か嬉しい。

 「うん」

 俺は頷いた。それだけだ。

 「そうか」

 立石は俺の様子を横目で伺いながら嬉しそうにそう言った。

 そしてその直後、その表情を全く変えずにごくごく自然に話し出す。

 「告白された」

 「ふうん」

 俺はその言葉を軽く流し、唐揚げを口に運ぶ。

 うん。美奈ちゃんの唐揚げは良く揚がっている……といっても衣から作ったものじゃないだろう。

恐らく冷凍ものじゃないかな。それでもこれだけのことを朝登校する前にやるってのは大したもん

だ。俺だったら、そんな時間あったら絶対寝る方を選ぶし……

 「な、なにっ!」

 俺は声を張り上げる。

 告白? 立石が告白されただとっ?

 俺はすぐ横で無心に弁当のご飯を口に運んでいる立石を見る。

 この少しあか抜けた髪の色。そして髪型。このせいか。やっぱりこの前の文化祭のせいか。

 「それで。それでどうしたんだよ」

 「断ったに決まっているだろう」

 立石は目を丸くして弁当の卵焼きを口元に運んだ。

 「皆には『付き合っている人がいる』って答えた」

 そして嬉しそうに目を伏せる。

 そうか。思い返せばステージでは司会の増山が『彼氏募集中』とかくだらねえことぬかしやがっ

たんだよな。そうか、そのせいで……

 「おいっ!」

 俺は再び声を張り上げねばならなかった。

 「な、なんだよ、その『皆』ってのは! 何人に告白されたんだよ」

 「いや、まともに言われたのは一人だけど、第三者を介して来たのは他に四人」

 計五人か。俺は背筋が寒くなった。文化祭のお披露目からわずかに三日。それだけですでに

五人だ。この他に潜在的な立石ファンがどれだけいるのかを思うとぞっとする。

 「どうした、飯尾」

 立石はいつのまにか俺の顔をじっと覗き込んでいた。

 「え?」

 「私が『告白された』って訊くの嫌か?」

 「そりゃあ」

 と言いかけて俺は視線を地面に向ける。

 激しい焦燥感が襲う。目の前にいる立石が誰か別の男と仲良く話していると思うだけで、胸の

奥から頭に向かってちりちりしたものが駆け上がってくるような感じがする。

 「立石だって俺が他の女に告白されているのって嫌だろ」

 俺は自分の心の中を立石に説明するのが嫌だったので、ほとんど苦し紛れにそんなことを言う。

付き合っている女性を独占したい、なんてそんな醜い部分を見せたくなかったし、自分で口にして

それを再確認するのも嫌だった。

 だから俺は同じ問いを立石に振った。早い話が卑怯もんだ、俺って。

 だが、立石は口に入れたプチトマトをゆっくりと咀嚼し終わると口元に笑みを浮かべてこう言った。

 「前は、嫌だったけど。でも今は何とも思わない」

 「なんでっ?」

 俺は声を張り上げた。俺のこの心の中と立石の心の中が同一でないと思ってかなり戸惑う。

 だが立石はそんな俺を驚いたように目を見開いて見つめた。

 「だって、私と付き合っているのは飯尾だから」

 え?

 と俺は口をぽかんと開いて、立石の顔を見る。立石はしっかりと背筋を伸ばし、俺の顔を真正面

から見据えていた。

 「だって、他のどの女の子から告白されたって、飯尾は私と付き合っているんだから」

 俺はしばらく弁当を食べることも忘れて立石の顔を見入っていた。

 この瞳から溢れる自信はなんなんだろう。

 俺が他の女の子に心を動かすことなど全く無い、と信じ切っているこの瞳は。

 裏を返せば、俺は立石を信じていなかったのだ。立石が俺以外の男に心を動かすかも知れない

と思っていたってことだ。

 ――そうだ。

 他人がどう思うとそれは俺の知ったこっちゃない。

 立石と付き合っているのは、俺だ。

 立石を好きなのはこの俺であって、この俺を好きでいてくれるのは立石なのだ。

 俺もしっかりと立石の目を見た。そしてにっこりと笑った。

 「そうだな」

 俺は手元の食べかけの弁当箱をベンチの上にことりと置くと立石にそっと近寄る。

 立石は何か予感したように一瞬身体を緊張させ、そしてすぐに弛緩させた。

 右手に持っていた箸はそっと膝上の弁当箱の上に置かれた。

 ゆっくりと俺と立石の唇は重なった。

 立石の想いが流れ込んできて、俺の想いを流し込んだ。

 卵焼きの味がした。

****************************************

 「やっぱ、白原雪乃だよなあ」

 本山が雑誌のグラビアを見ながらぼそりと呟く。

 そこには健康的な水着を身に纏ったアイドル少女が写し出されている。

 俺は横目でそれを盗み見た。

 確かに可愛い。

 身体全身でその楽しさを表現しているその写真は見ているだけで元気になる。

 「何だ、本山。お前、ゆきのん派か?」

 必死に俺のノートを書き写している北村が顔も上げずにそう言った。

 次の六限の宿題を忘れたらしい。ま、この前は俺が見せてもらったし。

 持ちつ持たれつってヤツだ。

 「俺は琴音ちゃん派だね。紗悠琴音。だって可憐じゃん」

 「ばーか」

 本山は雑誌から視線を外すとそう悪態を吐く。

 「琴音ちゃんは彼氏がいるんだよ。やっぱ、フリーのゆきのんだろ。この元気そうな笑顔が

たまらないね」

 「ばかはお前だ」

 北村は手を止めて何かを唱えるかのように空中に視線を泳がし、眉を顰める。

 「彼氏がいようといまいとその美しさは変わらないんだ。だいたい正直にカミングアウトしている

ところがいいじゃん。それにゆきのんだってきっと彼氏くらいいるぜ」

 「いいや、俺の見立てではいないね!」

 「この可愛いさでいねえ訳ねえだろ!」

 俺はその会話の不毛さにため息を吐く。そしておもむろに口を開く。

 「……あのさあ、君らはブタマンに何を付ける?」

 「いきなり、何を言い出す!」

 本山は目を剥いて驚きの声を上げた。

 「俺はソースだけど……」

 北村は戸惑いながらもそう答えた。

 「ソースだあ? お前気持ち悪いなあ。ブタマンには醤油だろ」

 本山は眉を顰めてそう口を挟む。

 「ほら、そこだ!」

 俺はびしっと人差し指を立てた。

 「確かにソース派も醤油派もいるだろう。だけど、ブタマンのおいしさは変わらないだろ? だから

そんなことで争うのは悲しいことだと思わないか?」

 俺が一気にそうまくしたてると、すかさず本山と北村の平手が俺の頭をはたく。

 「琴音ちゃんやゆきのんをブタマンと一緒にするなっ!」

 北村と本山は同時に立ち上がってそう叫んだ。

 ……なんだよ。分かってんじゃん。

 北村は「ふん」と鼻をならすと、気が急いているのか、あわてて着席し、ノートのページをめくる。

 頑張れ。六限が始まるまで後、三分だ。 

 「まあ、お前はいいよなあ。モデルなみの彼女がいるからさあ」

 再び雑誌に目を移しながら、本山は吐き捨てるように言う。

 「何?」

 俺は胡乱な視線を本山に向ける。

 「本当、あれは反則もんだよな」

 北村が言葉を継ぐ。

 「だから、何がだよ」

 「決まってんじゃん。立石だよ、立石」

 本山はおおげさに肩を竦めるような素振りをした。

 「だってよ、あんなにイケてるなんて誰が思うよ」

 「全くだ」

 北村は宿題を黙々と写しながらもそう合いの手を入れる。

 「そうか?」

 俺は努めてポーカーフェイスにそう言ったつもりだったが、顔がにやけていたようだった。すかさ

ず本山に後頭部をはたかれる。

 「ともかくも、飯尾は俺達に感謝しなくちゃ、な」

 にやけっぱなしで、頭の後ろをさすっていた俺はその本山の言葉に首を傾げた。

 「なんで?」

 すると本山は信じられないものを訊いたように、目を丸くして身を乗り出して来た。

 「何? お前、それ本気で言っているの? だいたいお前、何で立石と付き合うことになったと

思ってんだよ。俺と北村が持ちかけた罰ゲームがきっかけだろ?」

 「まあ、そりゃあ」

 「というわけで、この恋のキューピッドの俺達に何か、おごれ。駅前のラーメンで構わねえからさ」

 「ふざけんなよ。お前らがキューピッドって面かよ。だいたい、それを言うんだったら、あの時風邪

を引いた青山がキューピッドだ」

 更に俺は言葉を続ける。

 「それにお前が美奈ちゃんと付き合うきっかけになったのは、俺が罰ゲームで立石と付き合うこ

とになったからだろ。お互い様じゃねえか」

 俺がそこまで言い切った時、妙に沈黙している本山の目が俺の方を見ていないことに気が付いた。

 北村も宿題を写す手を止めてとある一点を見つめて固まっていた。

 その視線は俺を通り越して俺の背後に向けられていた。

 嫌な予感が急激に俺の背骨を這い上ってくる。

 俺はゆっくりと振り返った。

 そこには立石がいた。

 立石が口に手を当てて立ち尽くしていた。

 その無骨な眼鏡の奥の瞳を大きく見開いて立ち尽くしていた。

 その表情を大きく歪ませて立ち尽くしていた。

 ……立石のそんな表情は俺は見たことがない。

 これも激レアな表情だ……だけど、こんな表情は見たくなかった。

 違う。俺、こんな状況の時に何くだらねえこと考えているんだ。

 何か言わなくちゃ。そう、否定しなくちゃ。罰ゲームのことを。

 「立石」

 俺がそう言葉を吐き出した時、張りつめていた空気はガラス細工のように音を立てて壊れた。

 そして立石は俺に背を向けるとすぐさま駆け出す。

 「立石っ!」

 俺は立ち上がる。だが、あわてたのか足をイスにひっかけてしまった。勢いが付いていたので、

その場で景気良く転ぶ。肘をしたたかに打った。だが、そんなことはどうでも良い。俺はすぐに立ち

上がって廊下に飛び出た。廊下にはすでに立石の姿はなかった。

 立石のクラス!

 俺は脊髄反射で走り出していた。

 俺にはその時、走ることしか出来なかったんだ。

 そしてその日、俺は立石と会うことは出来なかったんだ。

 そう、そして次の日も。


あとがき

長らくお待たせ致しました。前作から実に一年二ヶ月ぶりの『恋人レッスン』をお送り致します。

間を空けたせいで大幅に下がってしまったモチベーションを元に戻すのが大変でした。

でもみなさんから頂く感想メールや、大石きつねさんの提案などでようやくモチベーションが

上向きになりました。

次作はいよいよこの『恋人レッスン』も最終回を迎えることとなります。今まで広げた風呂敷をいよいよ

畳まなくてはならなくなりました。はたして飯尾と立石の関係はどうなるのでしょうか。

今しばらく、お待ち頂けたらと存じます。

なお、今回の話を書くにあたって義姉、K女史、チーフ、A女史にご助言を頂いたことをこの場にて感謝

致したいと思います。