最後のドラゴン 後編

オリジナルver.

作 山下泰昌


「……なんだ。諦めた訳じゃねえのか」

 「当たり前だろ。ここまで来て『はい、そうですか』で帰れるわけねえだろ」

 「良かった。一瞬、ミキオのことを見損ないかけた」

 「ぬかせ」

 幹生は水筒の水をぐっと呷った。そしてそのままななみにその水筒を渡す。

 ななみはにっこり笑ってやはり同じように水を呷る。

 二人は先ほどの広場から見えない位置まで戻り、そこから少し森の中に入って休憩をすることに

した。

 今後の作戦会議も兼ねて。

 二人は倒木の上に腰掛けながら話し合う。

 「とりあえず、中腹の山小屋に続く道は押さえられているからこの道は使えないな」

 幹生はななみとの間に地図を広げてそのルートを指でなぞる。

 「森の中の獣道を使うしかないな。さすがに細かい道まで見張っていないだろ」

 「でもドラゴンを探しに来るかも知れないぜ」

 「それは気を付けるしかないな。近くに人間がいないかどうか気を配りながら歩こう」

 「ああ」

 と、その時、一人の男が近づいて来た。

 『気を配りながら』と言った矢先に第三者に接近を許したことに、幹生は舌打ちをする。

 「あ、いたいた。帰っちまったのかと思って心配したんだぜ。良かったよ、見つかって」

 先ほど、幹生たちに帰還を促した男とは別の男であった。

 髪の毛は茶髪。

 年は二十代後半であろうか。

 思慮深い表情の中にも溌剌とした若さが発散されているのを感じる。

 腰にはなにやら特殊な銃とそして剣が佩かれている。

 右腕の腕章には『国立動物保護協会』の文字。

 「あ、それそれ。それを見せて欲しかったんだ」

 茶髪の青年はそう言って幹生の背中にある大剣を指さす。

 幹生は緊張した。

 ドラゴンスレイヤーを奪われるのかと思ったのだ。

 「あ、そんなに硬くならないでくれよ。ただ、単に見せてもらいたいだけだからさ」

 しばらくその青年の顔をじろじろ観察していた幹生は背中に掛けていたそれを、外し、青年の方に

差し出す。

 「お、おい」

 ななみが耳元で囁く。

 「いいのかよ。取られちゃうかも知れないぜ」

 だが、幹生はそれには答えず、無言で剣を青年に渡した。

 はっきり言って幹生には『見せて欲しい』という青年のその願いを断る理由が見つからなかった。

また、何よりも幹生に決心させたのはその青年の『目』だった。

 きらきらして、子供みたいに茶めっ気たっぷりなその目。

 そう、まるで幹生とななみと同じ様な目。

 青年はドラゴンスレイヤーを手に取るとその目を更に輝かせて顔を綻ばせた。

 「へえ。凄ぇ。本物のドラゴンスレイヤーだ。俺、本物を見るのは二回目だよ。バスタードタイプ

……いやツゥ・バイタイプか。こんなでかいの振れるのか?」

 青年の問いかけに幹生は「一応」と答えた。

 「凄ぇな。ドラゴンスレイヤーを持っているってことより、ドラゴンスレイヤーを持ってドラゴン

を倒しに行く、ってその行動力が、さ。ちょっぴり尊敬するね」

 青年はそう言って幹生にドラゴンスレイヤーを返した。

 幹生は無言で受け取り、再び背中に装着した。そして青年の顔を見上げる。

 「おじさん、は?」

 青年は少なからずその幹生の言葉にショックを受けたようだったが、すぐに気を持ち直して口を開

く。

 「おじさんは、やめてくれよ。まだ二十代だぜ。俺は浅田克也。『国立動物保護協会』の人間だ」

 それを訊いて幹生とななみは身を硬くする。

 「あんたもオレたちを帰そうとするのかよ」

 ななみがおいつめられた子猫のような表情をして、その浅田と名乗った青年を睨み付ける。

 浅田はあわてて両手を身体の前で横に振った。

 「あ。いやいや。そんなことはしないよ。俺も君たちと同じようなものだからね」

 幹生たちがその浅田の言葉に訝るような視線を投げかけていると、浅田は言葉を続けた。

 「俺もドラゴンを倒したいと思っているからさ」

「え?」

 疑問の言葉が幹生の口から付いて出た。

 「つまり少年の頃の夢を実現させようと思ったら、大人になるとこういう道を選ぶ以外ないって

こと。君たちだってもしドラゴンを倒す! という夢を持ち続けるのなら俺と同じ職場を選ぶこと

になるかも知れないんだぜ」

 「でも、おじ……浅田さんのところはドラゴンを保護するところだろ」

 浅田はかぶりを振るった。

 「確かにそうさ。だが、ドラゴンは地球上最強にして最凶の動物だぜ。『生け捕り』なんて悠長な

ことを考えていたら、死人を出すかも知れない。身を守るためやむなく倒してしまうってことだって

あり得るだろ」

 そう言って浅田は茶目っ気たっぷりにウインクした。

 「だから、俺は君たちの気持ちが痛いほど分かる。ドラゴンを倒したいという君たちの行動を止め

る気なんてさらさらない。だけどな」

 急に浅田は真剣な表情をした。

 「もし万が一ドラゴンに本当に遭遇したら、戦わずに逃げろ。そして俺たちに知らせるんだ」

 「ちょ、ちょっと!」

 ななみが抗議の意を唱えようとしたが、浅田は次の言葉でそれを制した。

 「ドラゴンの爪は戦車の装甲版さえも切り裂く。ドラゴンの牙は小さなビルくらいであればやすや

すと噛み砕く。ドラゴンの尻尾は一振りで山の形を変えてしまう。そしてドラゴンの息は半径百メー

トルを生きる物のない死の大地に変えてしまう」

 幹生たちは身を小さくしてその言葉を訊いていた。幹生にとってそれは周知の事実であった。だが、

実際にドラゴンについて携わるものからの言葉は幹生の胸にナイフのように突き刺さる。

 「俺は君たちの夢は痛いほど分かる。だがな、それとこれとは話が別だ。ドラゴンと接触するな。

でなければ……」

 浅田はそこで言葉を切った。

 幹生とななみは目を大きく見開く。

 「……死ぬぞ」

*****************************

 「なんかちょっとショックだよな」

 ななみがぼそっと呟く。

 「結局、帰れって言っているようなもんじゃん」

 ななみは浅田が消えていった森の奥を見つめながら言った。

 一方、幹生は浅田が去ってから黙りこくったままだった。

 ななみはそれに気が付き心配そうに幹生の顔を覗き込む。

 「おい。どうしたんだよ。まさか怖じ気づいたんじゃないだろうな」

 幹生は呟いた。

 「ということはさ」

 「え?」

 「奴らより先にドラゴンを見つけなくちゃならないんだ」

 「あ」

 ななみは表情をぱあっと明るくした。

 「浅田さんたちにが先にドラゴンを見つけたら、先に倒されちゃうかも知れないんだ。家を出る

までこんなこと考えたこともなかった。俺と同じようにドラゴンを倒そうと考えている人は一杯い

るんだ。ライバルが一杯いるんだな」

 「良かったぜ。てっきり『帰ろう』とかって言い出すのかと思った」

 「俺がか?」と顔をしかめてななみを見返す。

 「そんなことする訳無いだろう。それこそここまでの時間が無駄骨になるし、それに……」

 「それに?」

 「ドラゴンスレイヤーに申し訳ないしな」

 幹生は背中の大剣を見やった。

 肩にかかる重量は今まで以上に重く感じる。

 「こうしちゃいられない。早速、行こう」

 「ちょ、ちょっと待てよ」

 すぐさま歩きだそうとする幹生に対して、靴下まで脱いで休憩していたななみはあわてて支度を

始める。

 「馬鹿。こんなところに一人で置いて行くな。靴履くだけなんだから、少し待っていろ」って。

おい!」

*****************************

 小一時間も歩いていただろうか。

 町中の整備された平坦な道を歩き慣れている二人にとって、障害物だらけの、しかも上り下り

の激しい山道は厳しいものだった。

 ちょうど辺りも薄暗くなってきた。

 幹生は少し拓けた場所で立ち止まる。

 「今日はここで野営しよう。夜動くのは危ない」

 「ああ、いいよ」

 疲労の色を隠せないななみはあっさり同意する。

 幹生は手慣れた様子でリュックから寝袋や、テント、簡易コンロ、蚊取り線香などを取り出す。

 ななみは地面にへたり込みながらその様子を感心した面もちで見つめる。

 「へえ。慣れているなあ。良く山は来るのか?」

 幹生は作業をしながら答える。

 「ああ。親父と小さい頃から良く一緒に来ていたから。でも登山そのものが目的っていうような

本格的な山じゃないぜ。日帰りや一泊で帰れるような小さい山ばっかりだ」

 「それでも、凄いよ。こういうこと全部、自分で出来るのって、さ」

 「ななみは家事とか、やらないの?」

 幹生に訊かれてななみは恥ずかしそうに顔の前で横に手を振った。

 「たまに手伝うけどさ、基本的に苦手。性格が大ざっぱなんだよね。料理とか一応するけど、盛

りつけなんかうんざりする。腹に入ればいいじゃん、って。掃除も生活に支障をきたさない程度で

いいじゃん、って」

 「……お前と結婚する男は苦労するだろうな。将来の旦那に同情するぜ」

 「へっ?」

 ななみは素っ頓狂な声を出して目を丸くする。

 「結婚? 旦那? オレにぃ?」

 「お前以外に誰がいるんだよ」

 「いや、ちょっとびっくりして。オレが結婚するなんて考えたこともなかった」

 「想像力が貧困なやつだな」

 幹生のその悪態に、ななみは意外にも反論せずにじっと幹生の手元を見ていた。

 「じゃあ、お前と結婚する嫁さんは幸せだな」

 「なんで」

 「いろいろ家事やってくれそうだからさ」

 幹生はしばらく何かを考えていたが、やがて首を振る。

 「そうだなあ。家事は嫌いじゃないからなあ。でも結婚するんだったら、やっぱり一緒に家事や

ってくれる嫁さんの方がいいな」

 するとななみは、ぽんと手を打った。 

 「あ、だったら、オレ、お前と結婚すればいいんじゃん」

 「え?」

 幹生は思わず訊き返す。

 「お前と結婚すれば、オレ、凄ぇ楽出来そうだ。手伝うくらいなら問題ないし」

 何も考えずに話の流れでさらりとそう言ったななみは、言い終わってからのしばらくの沈黙の中

で自分の言ったことの意味に気づき赤面する。

 「いや、その、だからと言って、別に、お前が好きだ、とか、そういう意味じゃあ……」

 「分かっているって」

 と返す幹生だが、やはり赤面する。だが、薄暗くなり始めた辺りのせいで、その表情はお互いに

読めない。

 気まずい空気に耐えられなくなった幹生は急いで話題を探す。

 「ほら、暗くなる前に飯にするぜ。途中にあった川で水を汲んでこよう」

 幹生は飯盒とタオルをななみにつきだした。

 「しばらく風呂なんて入れねえんだからついでに川で身体でも拭いてこいよ」

 「え? ああ」

 ななみは戸惑いながらそれらを受け取る。そして言う。

 「覗きに来るなよ」

 「お前の裸なんかみて何が楽しい」

 情け容赦のないスピードで飯盒が飛んできた。

 すんでのところで頭を横に振ってそれを避けた。

 「おい! 当たったらシャレにならねえぞ!」

 「馬鹿! スケベ!」

 ななみは舌を出して子猫のような俊敏さで立ち去る。

 「おい! 飯盒!」

 幹生はななみのその後ろ姿を見送りながら嘆息した。

*****************************

 朝。

 木漏れ日の中で幹生は目覚める。

 さすがに山の早朝は肌寒い。

 幹生は寝袋から這い出て腕や顔を掻いた。

 蚊取り線香を焚いたというのに肌が露出しているところは軒並み食われている。

 いや、違う。

 蚊取り線香を焚いたからこの程度ですんだのであろう。

 幹生は隣の寝袋のななみを見た。

 昨日の疲れが溜まっているのかだらしなくよだれをたらしながら寝息をたてている。

 あと六日。

 幹生は両親に一週間で帰ると言ってある。

 タイムリミットはあと六日。

 あと六日でドラゴンを見つけ、そして倒せるのだろうか。

 いるかどうかも分からないドラゴンを。

 幹生は頭を振った。

 今は余計なことを考えるのはよそう。

 とりあえず、こういう時は頭より先に身体を動かすのが一番だ。

 幹生はななみを揺すり起こした。

 「ほら、起きろ。朝だぞ」

 「ふぇ」

 ななみは眠そうに目をこする。

 その様子を見て幹生は微笑んだ。

 昨日、一日ななみと妙な雰囲気の時があったが、それは杞憂であったようだ。

 現に昨日一晩は同じテントの中の隣で寝たというのに、別にどうとうも思わなかった。

 幹生は手際よく寝袋を丸め始め出発の準備を始めた。

 それから五日があっと言う間に過ぎていった。

 警察やハンター、保護協会の人間たちに見つからないように捜索しているせいもあるのだろう。

幹生たちのドラゴン探しは遅々として進まなかった。

 その日の昼、二人は座り心地の良さそうな岩の上で休憩をしながら、何度目かの作戦会議を開い

た。

 「しかし、見つからねえな。痕跡すら見つからねえってのは見当違いの方向を探しているんじゃ

ないのか?」

 ななみが水筒の水を呷りながら言う。

 「いや、一応クサイところは全部調べたぜ。巨体を隠せそうな洞窟とか窪地とかはさ。それに一

度通ったところは二度探さないようにちゃんとチェックしていたから大丈夫のはずだ」

 幹生はチェックで真っ赤になっている地図を見せる。

 ななみはそれを横目で見ながら口を拭いた。

 幹生もななみも疲労の色が隠せない。

 無理もない。

 いくら準備してきたとはいえ、慣れない野外生活を六日も続けているのだ。

 疲労が蓄積されるのも道理と言える。

 「今日で最後か。今日で見つからなかったらお終いか……」

 「ええっ!」

 ななみが驚いたように立ち上がる。

 「なんだよ。お前、まだいるつもりか?」

 「だって、まだドラゴン見つかってねえじゃん」

 「しょうがねえだろ、カズとの旅行は一週間って話してあるんだ。これ以上日にちをかけたらカ

ズだってごまかしきれねえよ」

 「だって」

 「それにうっかりしたら家族から捜索願いが出されちまうぞ。新聞沙汰になるぞ」

 「だって」

 「お前だって、いい加減疲れただろ。今日が限界だと思う。日程的にも体力的にも」

 「だって」

 ななみはそう言って下を向いた。そして両腕を小刻みに振るわせたかと思うと、いきなり顔を上

げて幹生を睨み付けた。

 「だって、ドラゴン、まだ倒していねえじゃねえか!」

 幹生は驚いた。そのななみの必死さに。そしてその真剣さに。

 初め、ただ単に自分に付いてきているだけの存在のように思っていた。

 だが、いつの間にかドラゴンを倒すという夢の質量は幹生と同等、いやそれ以上になっていたの

かも知れない。

 「ミキオの夢はその程度なのかよ! オレたちまだ夏休みじゃねえか! 一日や二日延びたって変

わらねえよ!」

 しかし幹生はそれに対して頷くわけにはいかなかった。自分一人ならそれでも良かったが、今は

ななみがいる。仮にも女の子であるななみが一週間以上も一応男である幹生と旅行に出かけていた

ということが分かってしまったら、世間は黙っていないはずだ。

 そしてそれは絶対にななみのこれからの生活に支障を与えるに違いない。

 幹生から何の返事も帰ってこないと分かったななみは憤慨した。

 「ああ、そうか! ミキオはドラゴンには何の興味もないみてえだな! いいさ、疲れたならさっ

さと帰っちまえ! 後はオレ一人で探す!」

 ななみはそう言って森の奥へ駆け出していった。

 「お、おい!」

 幹生はリュックや地図などはそのままに、ドラゴンスレイヤーだけ担いでななみの後を追って森

の奥へ掛けていった。

 すると、そのとたん

 「うわああっ!」

 とななみの叫び声がこだました。

 幹生の身体に緊張が走る。

 幹生は更にスピードを加速させななみの後を追った。

 だが、感覚的にはすでに追いついているはずなのにななみの後ろ姿さえ見えない。

 森の中と言えども、この場所は拓けていて、木々が密生していないので、割と遠くまで見渡せる。

そんな場所でななみを見失ったのだ。

 まさか。

 幹生の脳裏にイヤな予感が過ぎる。

 「ううっ」

 その時、幹生の後方から風に乗ってうめき声が聞こえてきた。

 幹生は急停止して元来た道を辿る。

 ななみのうめき声は断続的に聞こえてくるがその場所がつかめなかった。

 幹生は今まで以上に耳を澄ます。

 近い。

 声は幹生のすぐ近くから聞こえてくる。

 幹生はその声の方に一歩一歩足を繰り出す。

 そして、突き止めた。

 下生えの草が固まっている場所があった。

 幹生は慎重にその草むらを掻き分ける。

 「あ」

 思わず声を上げる。

 草むらに隠れて今まで気が付かなかったがそこには人間の身体大の大きな穴がぽっかりと口を開

いていたのだ。

 ななみのうめき声はその中から聞こえてきた。今は反響してしっかり聞こえる。

 幹生は足場を探りながら慎重にその穴の中に降りていく。

*****************************

 中は予想以上に広い空洞であった。

 目が慣れないせいと光源が少ないせいとで辺りは良く見えなかったが、うめき声のおかげでななみ

の居場所だけは特定出来た。

 「ななみ、大丈夫か」

 「あ、足が」

 ななみは苦悶の表情で右足首を押さえている。

 この時点になるともう目も暗闇に慣れてきた。

 幹生はななみの右足首を見る。

 大きく腫れ上がっている。

 捻挫か骨折か。

 幹生はななみの患部から少し離れた臑を軽く叩いた。

 「どうだ。響くか?」

 ななみは首を振る。

 幹生はほっと安堵のため息を付く。

 よかった。どうやら骨折ではないらしい。骨が折れていれば振動で患部にまで響くはずだ。

 幹生はこの穴から脱出する算段を始めた。

 自分一人ならこの穴は登れる。だが、ななみは足を怪我していて一人では登れそうにない。

 かといって幹生がななみを担いで上に上がるのも無理そうだ。

 ここでしばらく休息してななみの回復を待って上に上がるのがよさそうだ。

 そう判断した幹生はななみの手当をするために、患部をもう一度見ようとした。

 その時である。

 地鳴りがして空洞全体が揺れた。

 地震か。

 幹生はそう思ったがその推測は間違いだったことに気づく。

 揺れているのは大地ではなかった。

 空気が震えているのだ。

 重低音による空気の震えが地面に伝播しているのだ。

 幹生はその振動の発生源が空洞の奥にあることに気が付く。

 幹生は目を凝らした。

 何かがいる。

 空洞の奥のそのまた奥に何かがいる。

 黒々とした大きな固まりがある。

 幹生は近づいていく。

 だが、依然それは見えない。

 それほど闇が濃いのだ。

 その時、空気の振動が続いたせいか、空洞の天井の一部が抜け落ちた。

 嘘のような光の固まりが差し込んでくる。

 急に光源が増えたせいで幹生の目は付いていけず一瞬何も見えなくなる。

 だが、その淡い金色のビロードは闇を鮮やかに駆逐し、底面にいくばくかの光の絨毯を作る。

そしてその絨毯は最奥部の物体の一部を鮮明に写しだした。

 鱗。そして巨大な足。

 「ひっ」

 幹生の目が急速にその明るさに慣れだした。いや、生存本能が強引に慣れさせたのかも知れない。

 ついに幹生はその物体の全貌を把握した。

 空洞の天井まであると思われる巨体。全身を纏う鋼のような鱗。そして殺気しか発していないそ

の目。

 目。

 そう、目。

 『殺。殺。殺。殺。殺』

 その目からはそれしか伝わってこなかった。

 まさか今まで自分の目と鼻の先にこんなに凶悪な物体が潜んでいたとは思わなかった。

 幹生は悲鳴すらあげることも出来なかった。ただわずかに空気の擦過音が喉からもれる。

 とたん、身体が震えてくる。

 かたかたと震えてくる。

 歯が、腕が、足が、震えてくる。

 武者震いなんて格好の良い物ではなかった。

 恐怖。

 死に直面したという動物が根本的に持つ恐怖。

 それが幹生の身体を震わせているのだ。

 『止まれ! 止まれ!』

 幹生は自らの腕で足を押さえる。だが、逆に足の震えは増すばかり。

 どうしちゃったんだよ、俺の身体は!

 幹生は初めてのその経験、自分の意志通りに身体が動かないその状況に驚愕する。

 ドラゴンは身動きせずにじっと幹生を睨み付けたままだ。

 だが、今にも襲いかかって来るように幹生は感じていた。そして幹生が感じていることは間違い

ない。人間が根本的に持つ動物の本能がそう知らせているのだ。

 幹生は知らず知らずに後ずさりをする。

 そして何かに躓いて転倒した。

 「ひっ」

 隙が出来る。食われる!

 そう思って反射的に立ち上がる。

 そして目の端で自分が躓いた物は何だったのかをとらえた。

 それはかなり大きいモノであった。

 長さが百八十センチほどはある細長いモノであった。

 だが、岩ではなく、倒木でもない。

 それは焼け焦げた跡があった。

 そして腕があった。足があった。

 『人!』

 幹生は刹那にそれが何であるか、否、何であったかを悟る。

 それは人であった。人が生きながらに燃やされた跡なのだ。

 そして幹生にはそれが誰であるかまで理解出来た。

 腰に佩かれた剣。そして手に握られたままの対大型獣用の特殊な銃。

 「あ、浅田さん!」

 しかしそれは『浅田』と呼べるモノではないほどに変貌していた。

 幹生は更に後ずさりをしながらドラゴンを見上げる。

 怖い。

 怖くてその目を見ることが出来ない。

 だが。

 幹生は目を瞑った。

 怖い。

 だけど。

 幹生は下を向いて呻いた。

 死ぬかもしれない。

 だけど!

 そしてかっと目を見開いて、背中のドラゴンスレイヤーを引き抜く。

 俺はドラゴンを倒しに来たんだ!

 幹生は剣を青眼に構えて背筋を伸ばしドラゴンに対峙する。

 そう、俺はドラゴンを倒しに来たんだ!

*****************************

 剣を真正面に突きつけられたドラゴンは一瞬、身体の動きを微妙に変えた。

 『少年』

 「え?」

 幹生はいきなり何者かから話しかけられたので、戸惑う。もちろんドラゴンから視線を外さずに

だが。

 『少年』

 また声が聞こえてきた。

 ななみ、ではない。声の質が違う。

 また浅田でもないはずだ。絶命している浅田が声を出せる訳がない。

 とすると。

 幹生はドラゴンの目を見る。

 ドラゴン?

 『なぜ死に急ぐ』

 ドラゴンだ。ドラゴンが直接、頭の中に話しかけてきている。

 だが、幹生はその問いかけに答えることは出来なかった。はっきり言って今の幹生は恐怖のため

立っているだけ、剣を持っているだけで精一杯だった。これで言葉など発したら、精神のバランス

が狂ってしまいそうだった。

 返答がないと察したドラゴンはわずかに身じろぎした。

 『その剣を突きつけられた以上、本気で闘わせてもらうぞ』

 そして。

 動いた。

 その大蛇のような尻尾が。

 丸太のような足が、手が。

 大岩のような胴体が。

 そしてこの世の恐怖の権化のようなその頭部が。

 その全てが現実離れしていた。実際、幹生は夢じゃないかと思ったほどだ。

 幹生の全身の震えは頂点に達した。

 そしてドラゴンは口をかっと開いた。

 毒々しい口内の肉、そして幾千ものナイフのような牙がその中に煌めいている。

 ドラゴンブレスだ。炎が来る!

 死ぬ。俺は焼かれ死ぬ。

 幹生は真っ直ぐにドラゴンを見つめながらそう観念した。

 その時、幹生は後ろ向きで何かに躓いた。

 それはななみだった。

 ここまで下がってきたのか、俺は。

 そう思うとの同時に、

 ななみだけは守らなくては。

 と心のどこかで強く思った。

 そして無意識の内にドラゴンとななみの射線軸上にすっと自分の身体を入れた。

 これでドラゴンがたとえ火炎を吐いたとしても幹生が焼かれるだけで、ななみは助かるはずだ。

 幹生は覚悟を決めた。

 だが、その時

 『これが人間、というものだな』

 幹生の頭の中に声が聞こえてきた。

 「え?」

 ドラゴンは全ての興味を失ったようにその場に座り込んだ。

 座り込んだ際に地面が揺れる。

 そして幹生など初めから、存在しなかったかのように身体を丸めてその目を閉じた。

 「え? え?」

 幹生は一体、何がどうなったのか、理解出来なかった。

 ただ、死の危機から逃れたことだけは分かった。

 からん

 と、幹生はドラゴンスレイヤーを落とす。

 へなへなとその場にへたり込む。

 そして、その場で胃の中の物を全て戻してしまった。

 内容物がなくなるまで。いやなくなってまでも。

*****************************

 『我々ドラゴンは長命種だ。そして単体としての力も強いので繁殖の時以外は群を組まん』

 ななみの右足首を湿った枯れ草を集めて冷やしながら幹生はドラゴンの言葉を訊いた。

 ななみは激痛のためかそれともここ数日の疲労がピークに達していたためか穏やかな寝息を立てて

寝入っている。

 『我々ドラゴンは家族を持たぬ。そして社会を作らぬ。単体では社会は出来ぬ。社会が出来なけ

れば文明も出来ぬ。我々が文明を持たないのは畢竟そういうことだ。それだけに人間の、自分の命

を投げ出して他を救う、という行為は理解出来ぬ。だが理解出来ぬが何かを感じ得ることはある。

―――少年』

 「は、はい」

 『そこに居る雌性体は主の配偶者か? それとも血縁関係なのか?』

 「え?」

 幹生は辺りを見回した。しかし該当するのは、ななみ以外見あたらない。

 「いいえ、違います!」

 幹生はあわてて否定する。

 ドラゴン相手に敬語か、俺は。

 幹生は答えながらもそう思う。だが、そう話してしまう威厳がドラゴンにはあった。

 向こうは何百年も生きているのだから当たり前と言えば当たり前だ。

 『そうか。配偶者でも血縁関係者でもない者にも気を回すことが出来るのだな。人間は』

 ドラゴンはそう言い終わった後、突然、洞窟が揺れるほどの大音響を発した。

 な、なんだ?

 幹生は身体を緊張させる。

 だがドラゴンからは先のような殺気は発せられていない。

 本能的にそれは感じていた幹生は心に余裕があった。

 何があったのかと思い、幹生は目を凝らしてドラゴンを観察する。

 ドラゴンの口から血が出ていた。

 真っ赤な血だった。

 血は滝のようにざぶざぶと地面に滴り落ちる。

 「ど、どうしたんですか!」

 幹生はあわてて近寄る。

 先程まで殺そうとしていた、殺されようとしていた相手だったが、この時点ではそんなことは頭

の中から抜けていた。

 『別種族の儂にも情けをかけるか。不可思議な生命体だ、人間というのは』

 「病気なんですか?」

 幹生は問いかけた。ドラゴンは喉に血が溜まっているのかごろごろと鳴らしながら幹生の頭の中

に話しかける。

 『案ずるな。儂も五百年生きた。もう寿命だ。覚悟は出来ておる』

 幹生は必死に頭を巡らす。そして目の端に浅田の焼死体を捉え、ひらめく。

 「そうだ。この山の麓の方に『保護協会』の人たちがいます。あの人たちだったら手当をしてく

れますよ」

 『少年』

 「はい」

 『主は儂に生き恥をさらせというのか』

 「え? いや」

 『どうやら儂がドラゴンという種族の最後の個体らしいな。そのことについては儂はどうとも思

わぬ。悔しいとも残念とも思わぬ。だが、他種族に憐れみをかけられることは我慢ならぬ。なぜ、

人間は儂を生かそうとするのだ? 主が先程見せた他種族への情けか? 否』

 ドラゴンはそこで言葉を一度切った。そして一呼吸ついて再び言葉をひねり出す。

 『玩具の蒐集家と同じだ。ドラゴンという玩具を地球という親に取り上げられかけて駄々をこね

ている子供と同じだ。そこには情も愛もない』

 「……」

 幹生は俯く。

 軽はずみになんてことを言っちまったんだ、俺は。

 幹生は顔を上げられなかった。

 『少年』

 「はい」

 『気に病むことはない。もうすぐ儂は死ぬ。それだけだ』

 幹生は複雑な表情でドラゴンを見上げた。ドラゴンは目を閉じたままで語り続ける。

 生まれたばかりのこと。繁殖した時のこと。人間たちの争いを間近で見たこと。いろいろな土地

へ旅したこと。初めて空を飛んだ時のこと。何人もの勇者たちと闘ったこと。次第に人間の言葉を

覚えていったこと。台風に巻き込まれたこと。

 まるで今まで得た自分の経験の全てを幹生に託そうとするかのように蕩々と語り続ける。

 それはとても長い時間のように感じられた。幹生はドラゴンと自分がこの洞窟でこのまま永遠に

生き続けるような錯覚に襲われた。

 だが、それはそのドラゴン自身が発した二度目のしわぶきによって唐突に終焉を迎えた。

 『いよいよ、儂も終わりのようだ。少年』

 幹生はドラゴンに駆け寄っていた。

 そしてそのざらざらとした鱗に掌を当てていた。もはや、恐怖はなかった。

 『主は儂を倒して名を上げたかったのだな?』

 「……いや、その」

 幹生は口ごもる。

 ドラゴンは全てを見透かしたような瞳で幹生を見つめる。

 『儂が絶命したら、首の後ろの鱗か口の中の牙を持って帰るが良い。それだけで主は名を上げる

ことになるだろう』

 「……」

 『主の掌は暖かいな。儂は常々思っているのだが、人間が地球の生態系の頂点にたてたのはこの

掌のおかげだと思っているのだ。その証拠に他の獣どもは皆、この温もりを求めるではないか……』

 そう言いかけてドラゴンは首を大きく傾けた。

 幹生はあわててその場から飛び去る。首だけでもとてつもない重量だ。押しつぶされる可能性が

あるからだ。

 ずん

 と大きな音を立ててドラゴンはその場に身を横たえた。

 地球上で最強と呼ばれた種族の最期であった。

*****************************

 「ミキオ?」

 その音で気が付いたのかななみが目を覚ました。

 「ななみ」

 幹生は急いで振り返りその傍らに駆け寄る。

 ななみは目覚めたばかりでしばらく呆然としていたが、辺りの状況に気づき驚愕の声を出す。

 「ミキオ! これはドラゴンか? 倒したのか? やったのか?」

 幹生は後ろを振り返った。『ああ、そうだよ。俺が倒したんだ』と偽ることも出来た。

 名も無きドラゴン。だが誇り高きその精神。

 幹生は首を振った。

 「いいや。比べものにならなかったよ。俺は怖くてまるで動けなかった。ドラゴンは寿命で死んだ

んだ」

 「そうか」

 ななみは残念そうに呟く。そして幹生を見上げた。

 何度か目をしばたたかせ、ななみは幹生の全身をしげしげと眺めた。

 「ミキオ?」

 「ん?」

 「お前、本当にミキオだよな?」

 「え、そうだけど?」

 幹生はななみのその質問に戸惑う。

 「なんか変わったみたいだ」

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 手厚くドラゴンと浅田を弔って、幹生とななみは空洞が外と繋がる穴を全て塞いだ。それがドラゴン

に対する礼儀のような気がしたからだ。

 浅田の死は本来なら警察や協会に伝えなければならないのかも知れない。

 だが、そうするとドラゴンの死体が見つかってしまう。

 それはドラゴンを冒涜する行為のように思えたのだ。

 そして浅田もドラゴンと一緒に葬られることは本望のように思えた。

 幹生はななみにドラゴンスレイヤーとリュックを担がせ、そのななみを背負う。

 「いいよ。やっぱり歩くよ」

 そう背中で抵抗するななみに幹生は一喝した。

 「うるせえ。その足で歩かれたら明日になっても山を下りられねえよ」

 ななみはそれでおとなしくなった。

 ななみはそんな幹生の背中をじっと見つめながらぼそりと呟く。

 「いいのか。あのアンちゃんが死んだことを知らせなくて」

 確かに誤った決断だったのかも知れない。

 浅田の家族や知人は浅田が行方不明になったことで不安、そして悲嘆の日々を送ることになる

のかも知れない。

 だが幹生は敢えてその選択を取った。

 幹生はきっぱりと言った。

 「もし、何かあったら俺が全て責任を取る。だから気にするな」

 ななみはまじまじと幹生の背中を見つめる。

 「やっぱり、なんか変わったな、ミキオ」

 「そんなことねえだろ」

 「ううん」

 ななみは幹生の方の肩に頬を乗せる。

 「強くなったみたいだ。それでもってちょっぴり大人になったみたいだ」

 「気のせいだよ」

 幹生は一歩一歩足を踏みしめながら下山する。

 「それでもって、あともう一つ」

 ななみはまた声をかけた。

 「なんだよ」

 ななみは恥ずかしそうに言う。

 「ほんのちょっとだけど……」

 「ん?」

 「……格好良くなったぞ」

 言ったななみも言われた幹生も真っ赤になった。だが、山を照らす夕暮れの赤でそれは外から

では全く分からなかったが。


 あとがき

 『書いている間にコレットの『青い麦』を読んだ影響がまともに出ていますね。』

 ……と元のあとがきで書いていたのですけど、自分でどの辺りの影響を受けたのか、すでにちんぷんかんぷんですねw

 自分の好きな「冒険譚」と「思春期に差し掛かる頃の淡い恋愛」を盛り込んだ作品です。