火の見櫓(ひのみやぐら)
作 山下泰昌
久しぶりの故郷の駅に降り立って、その変貌ぶりに少なからず驚いた。
平屋建ての駅舎はいつの間に二階建てになっており、瀟洒な駅ビルに併設されていた。
二階のホームからは駅前の様子が見下ろせる。その様相も一変していた。
今まで小汚い店が立体パズルの様に小難しく組み合わさっていた駅前の繁華街は一掃され、白々しい
くらいに整然と並んでいた。
それらを従えて偉そうにそびえ立っている大型百貨店。
僕は頭の中の記憶庫の煤を払いながら、改札口を抜けた。
そしてそれらと目の前にある町並みとの照合を始める。
高校の時、部活が終わった後、先輩と一緒に行ったラーメン屋はそのままだ。
うん。マンガを立ち読みばかりしていた本屋はレンタルビデオ屋になっている。
あれ? あそこの角に大きな時計がなかったか?
しばらくして僕はその異様に手間のかかる間違い探しをやめることにした。
間違いを見つけるごとに僕の心がささくれ立って来たからだ。
それは六年間故郷に一度も帰っていない僕への無言の抗議のように感じられたからだ。
駅前通りを南下し、左手にある薬屋を目印に曲がり、細い路地に入った。
この路地を真っ直ぐ東に歩いていくと、やがて僕の家だった。
家には先程書いたように六年間帰っていない。
実に大学を卒業して以来、一回も帰っていないことになる。
これは今回の帰郷に当たって指折り数えた僕自身が驚いた。
盆も正月も一度も帰っていない。帰る気がなかったというのが正直なところだ。
僕は家族というものが嫌いだった。
裸一貫で仕事を興し、小さいながらも会社の社長である、父。だが、傲慢で自己中心的な言動を繰り
返す父は好きになれなかった。恐らく父にとっては何気ない一言だったのだろうが、学生の頃受けた
「お前には失望した」的発言には未だ心のどこかに黒いものが残っている。
そんな父に追従している母。ほとんど自分の意見を言わず、父の意見をさも自分の考えのように語る
母は好きになれなかった。いつも愛想笑いを仮面のように張り付けており、それでいて父に対する愚痴
を僕にこぼす。まるで義務のように僕を育てた母の曖昧な態度にはいつも僕は憤りを感じていた。
そして大学一年の弟。僕と違って―――というより僕より勉強することに対して執着心があったとい
うべきか―――頭の出来が良かった弟は見事に今年、浪人もせずに最高学府への進学を決めた。弟は昔
から勉強の成績が良く、そして運動能力も並外れていた。性格も僕と違い明るく、人当たりが良いので
誰からも好かれていた。
弟は「兄ちゃん、兄ちゃん」と僕のことを慕ってくれていたが、僕にはそれは当て付けのように感じ
られた。恐らくそれは僕の被害妄想だろう。だが、正直、弟とは一緒にいたくはなかった。優秀な弟と
僕はすぐに比較される。自分の言動を客観的に見ることの出来ない父は何事かに付け僕を弟と比べ、
そして僕を貶した。
はっきり言って大学に入学するまでの十八年間は僕にとって暗黒時代であった。緩慢で些細な精神的
苦痛は長い年月を経て蓄積されて行く。
僕はわざわざ実家から遠距離にある大学を選んだ。そしてその近くにあるアパートに部屋を見つけ、
一人暮らしをすることにした。
学費のことや、家賃のことを言い出した父親に対しては、それらの金は全て自分で稼ぐ、ときっぱり
言い反論を封じた。
実際、親の金など使いたくもなかった。
それからの四年間は至福の時であった。大学に通っている時間以外はほとんどアルバイトで潰された
が、自分で自由に生活を組み立てることの出来る幸福に酔っていた。
大学四年の時、就職の報告に一度帰っている。そして今回の帰郷がそれから六年ぶりというわけだ。
つまり十年間で一度しか帰っていない計算である。
だから、どうした。
僕は自分自身に対してそう吐き捨てた。
気が付くといつの間にか消防小屋の前を歩いていた。
この消防小屋を通り過ぎると家まではあとわずかだ。
必然、僕の歩みは遅くなる。僕は消防小屋の隣にある神社で一服することにした。
小さい神社だ。僕が小学生の頃、良く遊んだ覚えがある。だが、何をして遊んだのかは覚えがない。
鬼ごっこだったろうか。それとも隠れん坊か。
神社は小さいのでとても鬼ごっこが出来たとは思えないし、障害物は社と物置小屋と隣の消防小屋関連
の施設、火の見櫓ぐらいであるから隠れん坊も出来たとは思えない。
―――火の見櫓。
高さは十メートルはあろうか。送電線を小さくしたような鉄塔だ。鉄の梯子が備え付けられおり、
中段に一度足を休めさせる場所が、そして最上段にそれを一回り小さくしたような場所がもう一つある。
次第に記憶が蘇りだした。
幼い頃、近所の友人たちと一緒にこの鉄塔を登った覚えがあった。
そして、ついでにもう一つ思い出した。
僕は怖くてこの鉄塔に登ることが出来なかったのだ。
なぜ今こんなことを思い出したのか不思議でたまらなかった。思い出す機会なら今まで何回もあった
はずだ。この火の見櫓の脇はそれこそ何千回と往復しているのだから、今でなく中学、高校時代に同じ
様な感慨に耽ったとしてもおかしくはないはずだった。
「あれ、吉村?」
僕は突然自分の名前を呼ばれたので思わず振り返った。
そこには僕より少し背丈の低い女性がいた。
少し茶色がかった髪の毛は肩の辺りで縮れている。
僕の名前を知っているからには恐らく僕の知り合いなのだろう。
僕は再び駅のホームに着いたときと同じ様に間違い探しを始めなければならなかった。
だが、誰であるか思い出せない。
「忘れちゃった? 明石、清美。ほら中学の時」
その女性は自分で自分を指さしてそう言った。
そこでやっと合点がいった。
頭の中で「明石」という名の記憶ファイルが取り出され、目の前にある実物の明石の照合が高速で行
われた。目元、口調、笑ったときの口元の皺、仕草などが強烈に記憶にあった。
明石は僕の中学二年の時の同級生だった。同じクラスだったが、二学期前に東京の学校に転校して行
った。それ以来、会ったことも連絡を取り合ったこともない。
僕の故郷への帰還が六年ぶりだとすれば、明石との再会は十五年ぶりだということになる。
全く今日は僕の記憶力を試すような日だった。
「久しぶりだね、吉村。何してるの」
明石は久しぶりに出会う旧友が必ず話すであろう話題を振ってくる。
「サラリーマン。菓子メーカーの営業だよ」
明石は「へえ」と言って目を好奇心の光で一杯にして覗き込んで来た。
この仕草も覚えがある。
「じゃあ、お菓子食べ放題だね」
その短絡的な返答に少し失笑した後、だが、こういうありきたりな会話なしには日常会話は成立しな
いと心のどこかで思って、首を横に振った。
「ウチはキャンディーのメーカーなんだ。そんなに毎日飴ばっかり舐めていたら糖尿病になるよ」
「でも風邪ひいても喉は絶対痛くなりそうにないね」
また、思い出した。そう、明石はこういう返しづらい言動をする娘だった。でもそのおかげで僕は
懐かしい中学時代の気持ちを呼び覚ますことが出来た。今、この瞬間は周りの風景は中学時代色に染ま
っていた。
「で、結婚は?」
この質問も定番だ。僕は頭を振った。
「まだ」
そう言ってから僕は余計な一言を付け加える。
「結婚に価値が見出せない」
明石は肩を震わせて小さく笑った。言わなければ良かったと思った。
「そう理屈っぽいところ、変わっていないわね」
今度は僕が目を丸くする番だった。
そうか? と言いかけてやめた。自分では大分変わったつもりだったが、他人の目では大して変化が
ないようだ。期せずして旧友に新しいモノを教えてもらった。
「それとも彼女がいないだけ、なんじゃないの?」
それは違う、と言いかけてやはりやめた。そんなことを明石に話してどうなる。どうせ、明石とは今
この時、わずか数分だけの関係だ。明日になれば僕はまた東京に行き、日々の生活の中に埋没して行く
ことになる。恐らくもう明石と
はこの先お互いの生活がふれあうことはないだろう。そんな女性に対して、見栄を張ってどうする。
自分の主義主張を語ってどうなる。
僕は沈黙した。こういう時、明石のような性格が羨ましくなる。何の考えもなしでもとりあえず、
定番の挨拶でも口に出せる明石が。
「……明石はどうなの? あ、まだか。名前が変わっていないもんな」
とりあえず、言葉をひねり出した僕はすぐに自分の過ちに気づき、質問は自己完結した。
だが、明石は口元に特徴的な笑みを浮かべながら寂しそうに首を縦に振った。
「結婚しているわよ。旧姓で言ったのは吉村が思い出せないと思ったから。これでも一児の母なのよ。
今の名字は石井」
「そう」僕はそれだけ言って視線を逸らした。僕と明石の間の空気が尖鋭化したような気がして、
後悔した。やっぱりこんな質問をしなければ良かったのだ。
会話はそこで途切れた。僕は心の中でこの場をやり過ごすいくつかの言葉を思案していた。だがその
沈黙を次に打ち破ったのは明石だった。
「ねえ、この火の見櫓さ」
「え」
戸惑う僕を余所に明石は言葉を続ける。
「もうすぐ取り壊すんだってよ」
明石の向けている視線の先を僕も辿った。所々錆びて腐食しかかった鉄骨がむき出しになった火の見櫓。
そうか。考えたら、全市態勢で出火情報が監視されているこの時代に、火の見櫓なんて代物は時代錯誤
なのかも知れない。
僕は逆行で目を眇めなくてはならない中、その一度も登ったことのない鉄塔を眩しそうに見上げるだ
けだった。
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久しぶりに帰った実家は妙な違和感があった。
他人の家に行くとその家独特の匂いが染みついていて落ち着かない。
それと同様の違和感だった。
僕は挨拶もせずに玄関を上がると、すぐにそれに気が付いた母がスリッパの音を立てて現れた。
何か小言を言われるのだろうと身構えていた僕の予想に反して、母は穏やかな微笑みで迎えてくれた。
母は何か二言三言、気遣うような言葉を投げかけると僕を父の部屋に促した。
いざ父の部屋の前に立つ。
緊張した。
どんな展開が待っているか予想出来なかったからだ。
今回、帰郷した理由がここ、父の部屋にある。
父が病に倒れたのだ。消化器系の病気らしい。一時は入院したほどの大騒ぎだったらしいが現在は
落ち着いて退院し、自宅で療養している。入院した時に駆けつけなかったのは理由がある。いろいろと
下手な嘘をついて僕を呼び寄せようとしているのかと勘ぐったからだ。だが、数日後、弟から連絡を貰
い、病で倒れたことは事実だったことを知ら
された。実は事実と知らされてもまだ、帰郷する気はなかった。
正直、顰蹙を覚悟で言わせてもらうと、家族の誰が死のうとも僕は戻るつもりはなかったのだ。
だが、弟の強硬な主張に折れた。僕も仕事でちょうどミスをやらかした時であり、心に隙が出来てた
のかも知れない。僕は弟の意見を素直に受けてしまったのだ。
そういう訳で僕は今、父の部屋の前にいる。
僕は覚悟を決めて扉を開けた。生きているからには覚悟を決めなければならない時が何回かは訪れる。
扉を開けるとちょうど正面にベッドがあった。ベッドの上で老人が横になっていた。
その老人は扉の音に気が付いたのか、機械人形のように首を傾けると僕を見た。
目と目が合った。
僕はその目を覚えている。
だが、一概に信じられなかった。
父? これが父か?
僕は信じられない物を見るかのように目の前の物体を端から端まで眺めた。
布団の中身は驚くほど厚みが無く、想像をするのが怖いほどだ。僕の顔を焼き切るかのように凝視し
ているその目には鋭さはあるが輝きがなく、頬には何年もの時を経てきたような皺が刻印されている。
あの傍若無人なまで傲慢な父はどこに行ってしまったのだろうか。
僕が東京に行っている間に、母は離婚して別の男と結婚して、目の前に居るのはその男ではないのだ
ろうか?
そんなくだらないことを考えるまでに目の前の父は変わり果てていた。
「ただいま」
僕はその言葉をひねり出すのが精一杯だった。
父は顔を顰めて―――恐らく笑ったのだと思う―――口元を粘液質に動かすと「おかえり」と言った。
父が僕に対して「おかえり」と言ったのは少年時代から数えても初めてだった。
生気のなかった顔に少し赤みが差していた。
だが、すぐにまるで重労働でもしたように真上を向くと深くため息を付いた。
長いため息だった。
身体の中身の全てを空中に放出するかのようなため息だった。
僕はこの見ている前で父が魂までも吐き出してしまうのではないかと思って心配した。
そう、僕は初めて父に対して『心配』したのだ。
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その夜、僕は居間で母と弟と夕食を取った。父は当然ごとくベッドから起きあがれないので先に母が
食べさせてやっていた。
母は僕に対して何の詮索も、また希望も語らなかった。弟は今の仕事について訊いてきた。それはご
くごく一般的な大学生の社会人に対する純粋な好奇心による質問だ。
そして僕は十年ぶりに自分の部屋で寝た。
父と母は何もいじらなかったのか、机も本棚の配置もそのままだった。
仰向けになると窓から大きな月が見えるのもそのままだった。
僕は窓から差し込む青白い光の中で今までの二十八年間を振り返っていた。
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次の日の朝早く、僕は出立した。玄関で見送る母は名残惜しそうな顔をしたが、特に何も言わなかっ
た。父には出る前に一度会ったが、寝ていた。死んだように寝ていた。
僕は起こすのも悪いと思い、寝ている父に「さよなら」とだけ言って部屋を去った。僕が父に別れの
挨拶をするのもこれが初めてだった。
そして、多分それは最後になるのではないかという気がした。
僕は家を出てから何をするでもなく、街をぶらついていた。
子供の頃遊んだ横丁の路地。川縁の遊歩道。神社の境内。
思い出の場所を歩く度に、傷口の瘡蓋が剥がれ落ちるように一つ一つ記憶が戻ってくる。
そう。この路地に立てかけてあった廃材から落ちて僕は怪我をしたんだ。
そう。この駐車場の裏手の壁の一部分は剥がれるようになっているので、いつもそこから出入りして
いたんだ。
そう。この空きビルの廊下で僕は友人の浩二と出会ったんだ。
そう。この公園で野球をして僕は負けたんだ。
そう。この本屋で初めて僕はポルノ雑誌を買ったんだ。
今まで入ったことのなかった中華料理やで昼食を取り、僕はまた当て所もなく彷徨いた。
初めて煙草を買った自動販売機。
初めてデートで行った映画館。
初めて振り込みというものを経験した銀行。
そして開放感に包まれて東京に旅立った駅の改札口。
いつの間にかあたりは夕闇に包まれていた。
僕は今まで入ったことのなかった居酒屋で酒を飲んだ。
考えてみると地元で酒を飲むという記憶がないのに気が付く。
それもそうだ。この地に居たのは高校時代までなのだから。
年に一回の祭りの時に友人達と公園で缶ビールを飲んだりしたくらいで、腰を落ち着けて酒を飲む、
ということはなかった。
僕は二十年来の宿題をやっとこなしたような気になっている自分に気が付き一人苦笑した。店で出さ
れた突き出しは不味かった。
店から出るとすっかり闇に包まれていた。店々の電飾同士が集い、迫り来る闇に抵抗しているように
見えた。
もうそろそろ戻らないと、東京行きの電車がなくなる。
だが、足は駅とは反対側に向いていた。
もう一つ宿題を終わらしておかなければ。
駅前通りを南下して、左手に曲がり細い路地に入る。その道をひたすら真っ直ぐ進むとそれはやがて
左手に見えてきた。
神社の境内の中にそびえ立つ火の見櫓は月の光を反射していささか幻想的に見えた。
僕は酒臭い息を夜気に紛れさせながら、神社の階段を登った。
いざ、境内に入ってみると幼い頃感じたより狭いことに驚く。
これは自分の身体が大きくなったからそう感じるのだろうか。
それとも幼い頃の、隅にある雑草や、蟻の巣など細かい物に目を向けていた集中的な視点を失ってし
まったからそう思うのだろうか。
僕は上着を脱いで火の見櫓の下までたどり着いた。ここまでは幼い頃も来た事はある。問題はここか
ら先だった。
僕はひんやりと冷たい鉄梯子に手を掛け、上を見上げた。
昔ほどの恐怖心は感じないがそれでも高く感じる。
掴んだ右手に力を込め、いざ登ろうとしたその時、
「何やってんの」
と声を掛けられた。
悪いことをしているところを見つかったような気がして僕は少しからだをびくつかせて振り向いた。
見覚えのある顔がそこに居た。
明石だった。
明石はコンビニエンスの袋を右手に提げ、野暮ったい男性物の上着を来ていた。
恐らく急にどうしても必要な日用品が出来てしまい、それをあわてて買いに来たという図だろう。
僕が黙っていると、明石は目をかやかやとさせて神社の階段を登ってきた。
そして僕の目の前で立ち止まると口を開いた。
「何? それに登ろうっていうの?」
僕はその真っ直ぐな視線に耐えられなくなって少し視線を逸らし気味に「うん」と答えた。
「面白そうじゃない。私も登る」
そう。明石はこういう奴だった。中学時代クラスで悪友達と悪巧みを始めるといつも好奇心に輝いた
目をして割り込んで来るのが明石だった。
夏休み前に夜の学校に忍び込んで肝試しをやろうという話になった時も「何? 何? 面白そうじゃ
ない。私も混ぜて」と言って強引に割り込んで来たのを思い出す。
僕は明石の言葉に対して肯定も否定もせずに、あきらめたように肩を竦めた。そして再び鉄梯子に手
を掛けた。
そして一段目を登った。
明石はそれを肯定の意味と受け取ったようだ。僕が二段目、三段目と足を掛けて行くと明石は買い物
袋を地面に置いて一段目に手を掛けた。
鉄梯子を登りだして、幼い頃これに登ることが出来なかった理由の一つが分かった。
一段目が高い所にあるので背が届かなかったのだ。やはり火の見櫓を作る側も子供の遊び場になって
しまう事を危惧したのだろう。一段目は子供の背丈以上のところに作ってあったのだ。だが、それは創
意工夫に富んでいて好奇心に勝った子供達の前では無意味であったようだ。子供達は当然の様に肩車を
したり踏み台を持ってきたり―――もちろん猿のように鉄塔づたいにするすると登る奴もいたが―――
して代わる代わる火の見櫓に登っていた。
だから一段目が高すぎて登ることが出来なかったというのは言い訳だった。ただ、恐怖心に捕らわれ
ていた僕の心を更に後ろ向きに後押しするには十分な理由だった。
強い衝撃が僕を襲った。
右足が梯子を踏み抜いたのだ。だが、両手がしっかりと梯子を掴んでいたおかげで落下は免れた。
梯子の端が腐食していたらしい。大人になった僕の体重を支えきれなかったようだ。
子供の頃同じ様な事態に遭遇していたら僕は間違いなく落下していたはずだ。昔の僕は自分の身体を支
えきれるほどの握力を持ち合わせて居なかったからだ。
僕は下から着いてくる明石を振り返った。
「大丈夫か」
明石はしきりに髪の毛をはたいていた。
「大丈夫。でも鉄のかけらが髪の毛にかかっちゃった」
僕はその言葉ににっこりと微笑んだ。
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中段まで来た。僕は一つ息を吐き、そこで足を休めた。
意外に高く感じる。大人になった僕でもわずかながらの恐怖を感じるほどの俯瞰だった。
やがて明石も追いつき、僕の隣に収まった。
「あともう一息ね」
明石は上を見つめそう言った。
ガラスの破片のように降り注ぐ月光の中、僕たちは火の見櫓の上を目指した。
当然のことながら火の見櫓は上へ行くごとに細くなっている。それが視覚的に僕に高所の恐怖感を与
えていた。
だが、僕はすでに子供ではない。恐怖を押し殺す術は心得ているし、情動が身体に直結しないほどに
心は傷を受け続けてきた。
僕は一段一段、確かめるように上へと登って行った。
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最上段は人一人が佇むスペースしかなかった。落下を防止するための手すりもあってないようなもの
で本当に機能重視で作られた施設だったようだ。
そして良くこれで今まで子供が怪我をするなどの事故が起きなかったものだと、妙な感慨を抱いた。
「うわ。怖い」
一呼吸置いて、明石が上がって来た。
僕は少し動いて明石が留まる為のスペースを作った。そのせいでバランスを崩して一瞬肝を冷やす。
眼下には故郷の町並みが広がっていた。一戸建ての家の屋根はほぼ下に見ることが出来る。最近増え
てきたと思しき中規模のビルはその所々から頭を出していた。確かにこの傾向がこの先進めば火の見櫓
の必要性は無きに等しい。
風が強かった。明石の肩まである髪は横向きになびき、乱れた。明石はその度に手すりから右手を放
し髪をかきあげなければならなかった。
僕は少し寒くなって開け放していた襟元のボタンを一つ閉めた。
登り切った感慨は正直、達成感と失望感がない交ぜになったようなものだった。登る前はもう少し
至福のような達成感が全身を襲うものばかりと想像していたのだが、実際は想像していたものを十だと
すると一ぐらいのものだった。
こんなものか。
幼い頃見るはずだった景色はこの程度のものだったのか。
僕は片手で懐から煙草を取り出すと口にくわえ、そして再びその手でライターを取り出し、火を付け
た。
だが、強風のためなかなか火がつかない。かといってもう片方で風避けを作るわけにもいかない。
そのとたん僕はバランスを崩して落ちてしまうだろう。
すると目の前に突然風避けが現れた。
明石の左手だった。
明石はにっこり笑い「私にも頂戴」と言って来た。
僕は火を付け終わった後、煙草を一つ取りだし、明石に差し出した。そして同じように風避けを作っ
てやった。
火の見櫓の上に赤い火の点が二つ浮かんだ。だが、それは弱々しくて地上からでは判別出来ない程度
のものだ。
一服してようやく落ち着いてきた。
横を向くと明石が僕の顔をじっと凝視しているのに気が付く。
「何?」
「どうしてここに登ったの?」
僕は煙を吐き出してから言った。
「別に」
明石はしばらく訝しむような視線を僕に向けていたがすぐに自分の手元の煙草に意識を戻した。特に
追求はない。
「この火の見櫓、小さい頃登れなかったんだ」
求められないと与えたくなるものだ。僕は唐突に話し出す。
「ふうん。それで? 満足した?」
僕は首を横に振る。それは肯定の意味でも否定の意味でもない。
明石はちらと一度僕の方に目をやると興味をなくしたように再び眼下の町並みに目を向ける。
「あのさ」
僕は再び口を開いた。
実は昨日、明石に再会して思い出したことがあった。
僕は中学時代、明石に告白を受けていた。
昼休みに唐突に呼び出された僕は二年来の友人のつもりであったはずの明石から告白されて戸惑って
いた。いつもの強気の明石と違い、小刻みに身体を揺すり不安そうな明石を見て、僕は「考えさせて欲
しい」と言った。そして「明日答える」とも言った。
僕はその日一晩、悩み抜いた。今から考えると馬鹿馬鹿しいことだ。そんなことで悩むなんて時間と
精神の無駄だと今なら一笑に付しただろう。だが、その時は天地がひっくり返るほどの大問題だったの
だ。
友人のつもりで付き合ってきた明石は好きだった。純粋に好意を持っていた。だが、恋人として付き
合うには、どうだろうか。友人としてなら一生付き合って行ける。だが、恋人になってしまうと一度切
れたらもう二度と修復がきかなくなるのではないだろうか。そもそも僕は明石のことを異性として好き
なんだろうか。年頃の青年であるから、異性に対して並々ならぬ興味がある。友人としての明石がそう
いう対象になったとしても頭をすぐそちらに切り替えることは出来る。だが、そんな理由だけで明石と
付き合っていいのだろうか。そもそも『好き』とはどういう意味なのだろうか。友人としての『好き』
と恋人としての『好き』には何か違いがあるのだろうか。それはつまるところ性行為が付随するかしな
いかの違いなのだろうか。
そんな青臭いことでしばらく悩んでいた僕は、約束の次の日、学校を休んだ。
学生服のまま本屋で立ち読みをし、ゲームセンターで奇跡的に補導もされず過ごし、そして家に帰っ
た。
次の日、学校に行くと明石はいなかった。
父親の仕事の都合で転校したという。それは前から決まっていたことであって、別れが辛くなるから
クラスメイトには伝えなかったということだ。
僕は激しく後悔した。
明石の告白を受けるにしろ、断るにしろ、明石と別れる前に何かしら意志表示をするべきだった。二
度と連絡が取れなくなるなら。
これらのこと昨日明石に会った時に思い出した、というのは嘘だ。
本当は今まで十五年間ずっと心のどこかにわだかまっていたのだ。そしてそれは事あるごとに僕の行
動に影響を及ぼしていた。だから僕はあの出来事以来、どのようなことに対しても先延ばししないよう
にしている。恋愛であっても仕事であってもだ。僕の行動規範になっていたのだ。
昨日再会した時、明石を明石と認識した直後僕の頭にはそのことが真っ先に浮かんでいた。
当然、明石もそのことは覚えているだろう。
僕は言葉を継いだ。
「ごめん」
明石はこちらをちらとも見ずに、煙草をふかしている。
「答えを出すのが怖かった。それで僕は逃げ出したんだ」
「謝って満足?」
明石はそう言って煙草をもみ消した。そして狭いスペースで身体を器用にひねると僕の方に身体を
正対させた。
僕は首を横に振った。本当は満足していた。というより満足しようとしていた。今、この場所で心の
中のわだかまりを全て精算しようとしていた。だが、明石は容易にはそれをさせてくれなかった。
「で、あの時何て答えようとしたの?」
僕は俯いた。そして心の中の事柄を言葉にしようとした時、明石が僕の目の前で掌を広げた。
「待って。答えがどっちでも気分悪いわ。言わないでいい」
吐き出し掛けた言葉が喉の途中で止まった。僕はその時かなり複雑な表情をしたに違いない。
「もうどうでもいいわ。あんな昔のこと。そりゃ、あの時は凄い落ち込んだりしたけど、今じゃいい
思い出の一つよ」
右手で持っている煙草の先がいつの間にか灰になっていた。
僕はあわててもみ消した。
「一応、気にはしていたんだ?」
「……まあ、ね」
そう言うと明石は軽く微笑んだ。
そして寒そうに上着の襟を押さえると、一度身体を震わせて絞り出すように呟いた。
「ごめん。私そろそろ行くわ。旦那が待っているし」
「ああ」
明石はそろそろと後ろ向きで梯子を降りていく。その時動こうとしない僕に気が付いて明石は目を丸
くした。
「あんた行かないの?」
「ああ」
僕は頭を振った。
「もう少しここにいる」
明石は一瞬悲しそうな表情をしたがすぐに柔らかな笑顔を満面に浮かべた。そう口の両脇にあの印象
的な皺を作って。
「じゃあ、またね」
「ああ」
そうして一段一段明石は下に降りて行き、姿を消していった。
梯子を降りる音が聞こえなくなるとやがて辺りは静寂に包まれた。
月の光だけがにぎやかに降り注いでいた。
恐らく明石ともこの先会うことはないだろう。だが、会えて良かった。
僕はまた故郷の町並みを見渡した。
繁華街の照明やネオンは一軒一軒消えて行き、次第に光の領域は駆逐され出した。
街は静かに眠り始めたようだ。
そして僕はいつまでもその街を眺めていた。
あとがき
この火の見櫓があった神社は、近所にある道祖神社です。神社は今でもありますが、火の見櫓はもう取り壊されてしまいました。
もう幼い頃にやり残したことを、取り返すことは出来ません。悲しい……。