この娘は一体誰なんだ?
作 山下泰昌
さっきから何度も頭の中をひっくり返して記憶を漁っているんだけど、全く思い出せない。
普段から物忘れは多い方だと自認しているけど、さすがにここまで致命的な記憶喪失は初めてだった。
昨日、駅のホームで看板に頭をぶつけた時に記憶を無くしてしまったのだろうか。
それとも気付かないウチにUFOにでも連れ去られて記憶を操作されたのだろうか。
クラスメイトであるはずの俺の隣の席に座っているこの娘。
だけど、不思議なことに全く見覚えがない。
……この娘は一体誰なんだ?
ここは私立界城高校一年B組の教室。
つい今し方、四時限目を利用して開かれた臨時ホームルームで、一ヶ月後に迫っている文化祭の出し物や仕事の割り当てなどが決まったところだ。
で、昼休みまでわずかながら空き時間となったので、その時間をめいめいが思い思いの過ごし方をしているってわけだ。
たった今決まった文化祭の出し物について熱く意見を交わす奴。友人と楽しく談笑する奴。猛然と弁当をパクつく奴。宿題を友達から借りて丸写ししている奴……
で、この俺の隣の席に陣取っているこの娘は同じくクラスメイトの女子、神野と久賀と一体どんな楽しい話をしているのか、しきりに嬌声を上げている。
人気者なのか、時々通りかかる他のクラスメイトが気さくに話し掛けていく。
……。
俺はその娘をじっくりと観察する。
髪の毛は肩に届くか届かないかのショートカット。校則に引っかからない程度の茶色で少しくせっ毛なのか適当に外側にはねている。
背は低い。百四十五センチくらいか。目がくりくりしていて愛嬌がある顔立ちだ。
正直、可愛い女の子だ。時々聞こえてくる声は、はきはきして明るい。身振り手振りを加えて話す様子はその性格を忍ばせる。
だけど。
だけど、俺はこの娘を知らない。
そりゃ俺だってクラスメイトの全員を知っているわけじゃない。あまり好きじゃない奴もいるし、一言も会話しない奴だっている。名前もすんなり出てこない奴すらもいる。
だからといってその顔を見て「ああ、こいつはクラスメイトだ」と分からない奴は一人もいない。
そりゃそうだ。
今はもう九月。互いに同じクラスになってすでに五ヶ月になるのだ。話したことがない奴はいても知らない奴はいない。
……だけど、俺の隣の席に配されているこの娘は何だ?
いくらなんでも隣の席の人間を覚えていないわけがない。
自分が健忘症になったのかと思うのも無理はないだろう。
ん。ひょっとすると転校生か?
今日、俺は遅刻したから朝のホームルームは欠席していた。ひょっとするとその時、紹介された転校生なのかも知れない。
……でも仮にそうだとすると他のクラスメイトたちとのこの親しげな様子はなんだ? まるで中学時代からの親友の様に付き合っているじゃないか。この神野や久賀の馴れ馴れしい話しぶりはとても今日転校してきたような人間には思えない。
そんなことを考えながらどうやら俺はかなり長い時間、その娘を見ていたらしい。その娘は俺の視線に気付いたのか俺の方を向き、にこりと微笑んだ。
子猫のような可愛らしい笑みだった。
「なあに、曽我くん?」
「え。え?」
俺はみっともないくらいにあわててしまった。その様子に神野や久賀もくすくすと笑う。
「なんなの。じっとこっちを見て。何か話しでもあるの?」
その(俺にとって)正体不明の娘は小首を傾げる。
「見とれちゃったんじゃないの?」
神野が余計な一言を言う。
「いや、その」
俺は突然話し掛けられて虚を突かれていた。そのせいかも知れない。自分でも驚くほどのあまりに直球な言葉が俺の口から飛び出てしまった。
「……君は誰なの?」と。
言ってから「しまった!」と思った。そして口を覆う。
案の定、神野と久賀は「何を莫迦な」という顔でぽかんと俺の顔を見つめている。
俺は自己嫌悪に陥った。きっとこれで明日から『一人ロズウェル野郎』とか『若年性痴呆症』とか嬉しくない称号で呼ばれるに違いない。
しかし呆け顔の神野と久賀とは対照的にその娘は似つかわしくない厳しい顔で俺のことを睨み付けた。
「なに? あなた、あたしのこと分からないの!」
その厳しい詰問調に少し俺は怖じ気づく。
そうだよな。普通、五ヶ月も過ごしたクラスメイトから「君、誰?」なんて聞かれたら誰だって気分を悪くするに決まっている。
だが、その後、その娘から飛び出た言葉は俺の予想を遙かに上回っていた。
「そんな。私の幻撞(ゲド)が効かなかったなんて」
「は?」
俺の口からはそんな間抜けな言葉が漏れる。その娘が放った言葉の意味が全く分からなかったからだ。
その娘は射抜くような視線で俺のことを見つめると、吐き捨てるように言った。
「曽我君。ちょっと私に着いてきてくれないかしら?」
そして呆けている神野たちを後目にいきなり立ち上がり、すたすたと教室を後にしようとする。
「お、おいおい」
教師が居ない自習時間とはいえ、いきなり教室を抜けようとするその行為にクラス中の視線が集まる。さすがにここで彼女をほっとくわけにもいかず、俺はクラス中の生徒の好奇の視線を浴びつつ、彼女の後を追いかけた。
俺がその娘に促されるまま着いて行った先は裏庭のゴミ捨て場前だった。当然の事ながら愛の告白をするような場所ではない。どちらかというと上級生に呼び出されてボコボコにされるような場所だ。
俺は多少緊張しながらその娘の後を着いて行っていた。その背中からは怒りのオーラが炎のように発散してるのがアリアリと分かった。
その娘は突然くるりと振り向くと挑み掛かるような瞳で俺のことを睨み付けた。
あ、怒った顔も可愛い。
俺は緊張感あふれる場面だというの悠長にそんなことを考える。
「どうして、あなた、私のことが分からないの?」
その可愛い口から咎めるように強い口調の言葉が飛び出した。
そんなこと言われたって。
俺は少し戸惑う。だって分からないものは分からない。これは俺の頭の中の問題であって、俺の努力や根性とは何の関係もない。
だが、あんな失礼な言葉を放ってしまった人間としては一応謝っておくのが筋というものかも知れない。
俺はぺこりと頭を下げる。
「ごめん。なぜだか分からないんだけど、君のことだけ記憶がないんだ」
頭を下げたまま更に言葉を続ける。
「どうしても思い出せないんだ。多分、ちょっと俺、健忘症の気があるのかも知れない。気を悪くしてたらごめん」
そこまで言って、頭を下げたままちらりと上目遣いで様子を覗く。
だが、相変わらず鬼の形相で俺の事を睨み続けていた。ちっとも怖くなかったけど。
すると
「はあー」
とその娘は大きくため息を付いて頭を軽く振る。
「気ぃ悪くしているわよ!」
やっぱり。
俺は更に深々と頭を下げる。
「一クラス分の人間の記憶操作も出来ないなんて、私も能力が不完全ってことじゃない!」
……
「は?」
俺は思わず顔を上げた。
なに? なんて言った?
きおくそうさ?
なんだ、それ?
その娘は両の口元をにやりとつり上げると意気込むように口を開いた。
「というわけで、やり直しさせて貰うわ!」
そして右手の人差し指と中指を揃えて、びしっと俺の顔に突きつけるように向ける。
なんだあ!
俺はびっくりして目の前に突きつけられた指先に集中する。そしてその先にある挑戦的に微笑んでいる可愛らしい顔を見る。
その状態のまま数秒が過ぎた。
俺も一体、何が起こるんだろうとドキドキして身じろぎもしなかった。
だが、何にも起こる様子がない。
しかし二人はじっとその状態で固まったままだ。
多分、今の俺たち二人は端から見たらかなりおまぬけな二人だろう。
そのまま更に十数秒が過ぎた辺りでふっとその娘は弛緩した。
「ねえ、本当にかかっていないの?」
「何が?」
「だから、私の事が分からないの? って訊いているの!」
こくこく。
俺は首を縦に振る。
その娘は頭を抱えて座り込む。どうやら落ち込んだらしい。
……この場合、俺はどういう態度を取れば良いのだろうか? 大体、状況が全く把握出来ていないこの状態で態度も何も無い。だが古今東西、女の子がこういう状態になった時に男の取るべき行動は決まっている。
「大丈夫?」
俺はその娘の肩に手を置いた。だが、その娘は邪険に俺の掌を振り払う。
うーん。
意味も分からずに勝手に落ち込まれている女の子は本当に手に負えない。せめて理由だけでも示してくれれば。
そんなことを思いながら俺は途方に暮れていた。
その時だ。
「どうやらこの殿方にはお嬢様の能力は効かないようですな」
「うわああっ!」
突然、俺の背後で、しかも耳元で男の低い、そして嗄れた声で囁かれたので俺は飛び上がるほど驚いた。いや、それは比喩じゃない。本当に飛び上がったのだ。マジで。
俺は大きく態勢を崩しながら後ろを振り返った。
そこには黒いスーツに身を纏った初老の男性が居る。頭や口元に蓄えている髭は真っ白だが鋭い眼光と恐らく何か格闘技を身につけているのだろうと思われる身のこなしは青年のそれと同等だ。
「だ、誰だ! あんた!」
俺はみっともない位に腰を抜かしながらやっとのことでそれだけ言った。
するとその初老の男性は深々と腰から折り曲げて丁寧なお辞儀をする。
「お初にお目に掛かりますな。―――と言ってもずっとあなた様の教室の一番後ろにおったのですが―――小塚と申します。お嬢様の護衛役でございます。以後お見知り置きを」
「は、はあ」
俺も条件反射で思わず頭を下げる。
しかし未だ、状況が把握出来ていない。当然だ。というか、さっきより更に訳が分からなくなって来ている。この突然現れた爺は一体何者だ。そしてこの娘との関係は?
事態はますます混迷を極める。
「なんで、こいつには能力が効かないのよう」
呻くように呟く。
こいつ呼ばわりはないだろう。こいつは。
するとその小塚と名乗った男が口を開いた。
「能力にも相性というものがあります。この広い世界です。何人かはお嬢様の能力が全く効かない人間がおるのは必定。この殿方は恐らくそんな一人なのでしょう」
「そんなあ」
さっきからお嬢様と呼ばれているこの娘はそう言ってかくりと肩を落とした。
「この殿方には本当のことをお話しした方が」
「ええ!」
お嬢様は飛び上がった。そしてまるでいやいやするように首を振る。
「駄目! そんなことしたらお婆さまに……」
「大丈夫ですよ。大奥様には私から話は通しておきます。それに一人くらいは協力者が居た方がやりやすいのですよ。先代もそうでしたし」
「お母様も?」
……どうも複雑な話がなされているらしいが俺には何の事やらさっぱり分からない。
そろそろお暇しようと、こそこそヌケだそうとしたらあっさり小塚に捕まった。
「ここまで来たらあなたを帰すわけには行きません。話を聞いて貰い協力者となって頂きます」
「いや、話も何も。俺、現時点で何が何だか分からないんだけど」
しかし小塚の腕は見事に俺の関節を極めていた。身動きすら出来ない。
俺はため息を吐いた。
同時にお嬢様もため息を付いていた。
「仕方がないわね」
そして何か決意したように俺の顔を直視する。
「小塚がそういうのなら……」
俺の関節を極めながら小塚は満足そうに頷いた。
「こちらは観月眞姫(みづき まき)様。観月家の次期頭首です」
小塚がお嬢様をそう紹介した。だが僕は
「はあ」
と頷くことしか出来ない。
「五大家の一つ、観月家は代々女性筋に強い能力者を出す血筋でして。その中でも眞姫様は歴代類を見ない強大な幻撞(ゲド)をお持ちになっております。しかし、その力を秘めた逸材を一般人の中で育てるのは愚策中の愚策。その為、お嬢様は十五歳まで山奥深い観月家の屋敷内で英才教育を受けておりました」
「本当、息苦しくて困っちゃったわ」
眞姫、と紹介されたその子がうんざりするように肩を竦めた。
「観月家の女子は十六歳になると俗世界に慣れるようにと一般人と同じ学校に通うことになります。ここで一般人の社会的常識や幻撞(ゲド)の使い時などを覚えるのですが……」
小塚は一度言葉を切ってこほんと咳をする。
「……その一般社会に潜入したその矢先にあなた様―――曽我様に見つかってしまったのですな」
話がいきなり俺に振られたが、俺の頭の中には疑問符が所狭しと飛び交っている。とりあえず、この頭の中を飛び交っているこいつらを片っ端から消していくのが常道だろう。
「あのさ、『ゲド』って何なの?」
俺のその質問に小塚と眞姫は顔を見合わせた。そしてしばらくして眞姫はぷっと吹き出す。そりゃ、ないだろう。物を知らない人間を蔑む行為は恥ずべき事だって習わなかったか。
対してさすがに小塚の方は人格者らしく鷹揚に頷き俺の疑問に答えてくれる。
「幻撞というのはですな。人が大なり小なり誰しも持つ力のことです。ただ一般人の多くはこの力が発現せずに一生を終えていく者が多い。ところが観月家は生まれつきこの力が発現しているのです」
小塚は満足したように頷く。
ちょっと待て。それだけじゃ何にも分からないぞ。
「だからさ。『力』ってどういうこと?」
「うーん、つまりですなあ」
小塚がそう言ってどう説明したものかと頭を傾げたその時、眞姫が話に割って入った。
「論より証拠よ!」
眞姫は先刻と同様人差し指と中指を揃えて首の横で構えたかと思うと、いきなり俺の脇にあったゴミ捨て場に向かってその二本指を突きつけた。
……俺は夢でも見たのだろうか。健忘症だけでは飽きたらず、幻覚まで見えるようになってしまったのだろうか。俺の横に山と積まれていたゴミはいきなり空中に浮かび上がった。そしてそれぞれが意志を持つかのように思い思いのまま宙を飛び回る。
ハリウッドのSFXやCGなどこれに比べれば子供だましに感じる。作り物を見るのと、実際にそれを目の当たりにするのとがこれほど心に与える衝撃度が異なるとは思わなかった。
「どう? これが幻撞よ」
ぱちんと指を鳴らす。そのとたん、ゴミは意志を無くしたように音を立てて降って来た。
「いててて」
俺たちはゴミの攻撃を避けるために逃げまどう。
ようやく一通りのゴミが落ちてきて、もうもうとわき起こる埃が落ち着いてきたところを見計らって俺は口を開いた。
「凄いことは分かったよ。つまり幻撞って超能力のことか」
俺がそう言うと眞姫は埃にげほげほと咳き込みつつ首を横に振った。
「じゃあ、魔法?」
やっぱり首を横に振る。
じゃあ、一体何だ。
するとようやく咳込みから解放された眞姫が口を開いた。
「超能力でも魔法でもない。これはあくまでも幻撞。分かりやすく言うと幻覚よ」
「え?」
これが幻覚? あのゴミが宙に浮いたのが幻覚? だって上から音を立てて降り注いだじゃないか。埃まで立てて。
俺のそんな戸惑いを察したのか小塚がその後の言葉を継いだ。
「幻覚といっても何種類もあります。人の知覚に訴える幻覚、視覚に訴える幻覚、聴覚に訴える幻覚、触覚に訴える幻覚。お嬢様の今行った幻撞は曽我様に対して行った幻撞ではありません。なにせ曽我様にはなぜかお嬢様の能力は効かないようですからな」
小塚はそう言って楽しそうに眞姫を見やる。眞姫はなぜか不機嫌そうにそっぽを向く。
「今、お嬢様は『ゴミ』に対して幻覚を掛けたのです」
「ゴミに?」
俺は思わず聞き返していた。そんな莫迦な。ゴミは物質だ。意識も感覚も持たない。そんなモノに対して幻覚など掛けられるわけがない。
しかし小塚は楽しそうに頭を振り、話を続ける。
「曽我様の疑問もごもっともです。ですが、ゴミはゴミだと自覚しております。ゴミは汚く、自ら動くことは無い。だからゴミなのです。だがお嬢様はそのゴミに幻覚をもたらしたのです。『ゴミは空を飛ぶモノ』だと」
……驚きの連続だ。こうまで驚くことが続くと実感が無くなって来る。なんだって? ゴミに幻覚を掛ける? 物質にまで幻覚を掛けることが出来たら何だって出来るじゃないか。
「その通りです。それだからこそ観月家の女性たち、特にその中でも傑出した力を持つお嬢様が取り立たされる理由なのです」
眞姫が自信たっぷりに俺の顔を覗き込んだ。
「ね? これで分かった? 私がこの学校に入った時も幻撞を使ったの。クラスメイトや教師の知覚、つまり記憶に対して幻覚をもたらせたのね」
そら恐ろしくなって来る。こんな人間が側にいたら何をされるか分からない。唯一の救いは眞姫の幻撞は俺に対しては使えない、ということだ。
眞姫はそんな俺の心を知ってか知らずか俺の背中をぱあんと叩く。
「こうなった以上、あんたとは一蓮托生。私が無事高校生活を終了するまで頼むわよ!」
俺はへなへなと地面に座り込んだ。
真実は時として追求しない方が良いこともある。あの時、こいつに対して「君、誰?」なんて訊かなきゃ良かった。そうすればこんなことに巻き込まれず、幻撞なんて言葉も知らずに幸せな高校生活が送れたんだ。
こうして俺は人生に必要なモノを一つ学んだ。
ウチのクラス、一年B組は文化祭で演劇をやることに決まった。しかもそれは恋愛モノだったりする。というのもウチの男性陣にまるでやる気がなく、逆に女性陣がイケイケだったというのに起因している。またクラスの中に全国大会出場演劇部のシナリオライター神田美鈴がたまたま在籍していたというのもその理由の一つであったりする。
男性陣がやる気はないといっても仕事の役割はクラスのほぼ全員割り当てられることになる。
やる気のない男性陣の一人である俺は舞台を作るための材料買い出し部隊となった。そして俺と共にその役割に就いたのは……
「あっついわねー。ね、あそこの喫茶店で冷たいモノでも飲もうよー」
「この時間に制服のまま喫茶店に入ったら補導されんだろうが」
俺は吐き捨てるように言う。
「あー、もう! じゃあさ。少しそこのコンビニで涼むってのは?」
俺は冷たく「駄目」と言い放つ。くそ。眞姫と一緒にいると暑さが倍増する。
ん? 暑さ?
暑いというのは皮膚の感覚、つまり触覚だろ? ということはその触覚に対して幻覚を起こさせる、つまり幻撞を使うことは出来るんじゃないか?
俺がこのナイスアイデアを早速語ると、眞姫は事も無げにあっさりと却下した。
「幻撞は自分に使うことは出来ないの。だってそうでしょ。自分で自分に幻覚を見せたら私は何を信じたら良いのかしら? それは精神崩壊の危機をもたらすこともあるわ。だから幻撞使いが自分に対して幻撞を使うことは禁忌なのね」
「じゃあ、俺に使ってくれよ」
「莫迦ねえ。あんたには私の能力が効かないんじゃないの」
「あっ、そうか」
せっかくのアイデアが退けられますます暑さが倍増した。
と、その時だ。
横手の路地からいきなり子供が飛び出してきたのだ。
暑さに呆けていたせいもあったのか眞姫はその子を避けきれなかった。
まともに子供の顔がどんと眞姫の膝の辺りにぶつかる。
子供はその反動で派手に仰向けに倒れた。
「あらあら」
子供はぶつかった衝撃と転んだことに驚いて大きく泣き出していた。鼻からは眞姫の膝に衝突した時にやったのか血が滴り落ちている。
「わー、ごめんねー。大丈夫ー?」
しかし子供は眞姫の言葉など耳に入っていなかった。痛さと悲しさ。それがショックだったのだろう。大きく泣き叫ぶだけだった。
「しょうがないなあ。じゃあ、お姉ちゃんが治してあげよう。えい!」
そう言って中指と人差し指を揃えて、その二本の指を子供に向ける。
とたん。
子供はぽかんとした顔をして泣きやんだ。おまけに鼻血も止まっている。
「大丈夫? さ、行ってらっしゃい」
こどもは訳も分からず眞姫に送り出されて再び走り出した。眞姫はその後ろ姿を手を振って見送る。
「記憶をいじったのか?」
「うん。ぶつかった記憶と、破砕した鼻の血管の細胞に幻覚を見せたの。二回分も幻撞を使ったから少し疲れちゃった」
……。
「ふうん。便利なモンだな」
俺はそう相づちを打ちながらも、何か釈然としないものを感じていた。
それは何だったか。
その時の俺にはまだ分かりもしなかった。
それから文化祭までの数週間、舞台制作にああでもないこうでもない、と取り組みつつ俺たちは普通に学園生活を過ごした。
と言っても当然世間慣れのしていない眞姫の突拍子もない行動に振り回されっぱなしだったが、それはまた別の機会に話そう。
まあ、とにかくそれ以外はごくごく平凡な学園生活を送れたってことだ。
初めはやる気がなかった俺を含めた男性陣もやり始めると興が乗るらしく、全ては順調だった。
そして文化祭当日。
一年B組の教室では、シナリオ担当の神田や監督の日野が熱く俳優役たちに陣頭指揮をしている。背景や照明、音響係なども最終チェックに入り、いよいよ始まるんだな、という気が高ぶってくる。
その高揚感は眞姫にも伝染しているらしくいつになく―――いや、いつもに輪を掛けてハイだ。
「ねえ、曽我君! 舞台の前袖、あれで良かったかしら? あんな暖色系じゃなくてもっと涼しい色の方が良かったかなあ!」
「良いんじゃねえの?」
俺はそう適当に答える。だって仕方がないじゃん。本番が後十分後に控えているってのに今更直せる訳がない―――
―――ってことは無いか。眞姫だったら今からでも視覚に対する幻覚を見せれば思いのままの色にすることも可能だ。
だけど面倒くさいからそんなことは言わない。
「ばっちりだって。良い色だよ」
「本当?」
眞姫はきらきらした目で俺のことを覗き込んだ。俺はその目を見て思った。
ああ、きっとこういうことをするのも初めてなんだな、と。複数人で力を合わせて一つのことを為しえるということを。俺は眞姫の肩に手を置いて優しく語りかけた。
「もうやるべきことはやったんだから、後は舞台を見守ろうよ」
「うん」
眞姫は上目遣いで俺を見上げる。
舞台は思いもよらず順調に進んだ。
初め素人が行う演劇、しかも恋愛モノなど恥ずかしくて見てられないんじゃないかと思ったけど、そこはさすがに全国大会の腕前、神田のシナリオはなかなかのものだった。
おまけに嫌々やっているはずの男性陣が逆にノリまくっており、迫真の演技を見せている。
これは問題ないや、と思って教室最後方から肩の力を抜いてゆっくり見ていると、隣の眞姫が気になることを呟いた。
「ねえ、曽我君。私、最後のビス止め、やったっけ?」
「なに?」
俺は思わず聞き返す。
「ビス止めはお前の担当だろ。俺に訊かれても分からないだろ」
眞姫は不安そうに顔を歪める。
「どうしよう。私、舞台後方のビス止め、やっていないような気がする」
「マジかよ!」
俺はあわてた。ビス止めは最後に舞台を組み上げる時に行ったものだ。縦横に通してある角材と舞台上部の天板との支えに必要なものだ。そのビスが無いとするとその場所は人間が立っただけで床が抜けることになってしまう。
「おい、とにかく確認しに行こう! 事故が起きてしまってからじゃ事だ!」
眞姫は不安げな表情のまま頷いた。
と、その時だ。
恐れていたことは起こってしまった。
舞台で悲鳴が上がった。男のうめき声が聞こえる。声から察するに牛島のようだ。他の連中は当然事ながら演技は全員中断し、皆、その光景に食い入るように見入っている。
その視線の集中しているのは舞台後方。
ビンゴだ。
俺は瞳を閉じた。ビスの止まっていない床を踏んだ牛島が落ちてしまったのだ。
舞台制作の俺たちの責任だ。
俺はあわててその事故現場に向かおうとする。
と、その時俺の隣で意外にあっけらかんとしている眞姫に気が付いた。自分のしでかしたことの責任に真っ青になっているのとばかり思っていたのだけど。
「とにかく行こう!」
俺はそんな眞姫を促して教室前方に設えてある舞台へと向かった。
俺たちが着いた時にはもう牛島は引き上げられたところだった。
牛島は苦痛に顔を歪めながらうめき声を上げている。右足を伸ばしたままそちらを庇っていることから推測するに、どうやら右足を骨折したらしい。
俺は暗澹とした。牛島は主役級だ。代役など当然いない。それにこの牛島の落下のショックで破砕された舞台。これだって修復するのにまる一日はかかる。
実質、一年B組の出し物は中止になったのも同然だった。俺たちのミスによって今まで約一ヶ月かかってクラス全員が築き上げてきたものは水泡に期してしまったのだ。
俺は重い足をのろのろと動かし、みんなの前に立った。そして俺たちがしでかしてしまったことを謝ろうとした、その時。
「待って。曽我君」
眞姫が自信たっぷりな微笑みを顔に浮かべて俺を制止した。そしてお得意の右手の二本指を振り上げると何かを瞬間的に念じた。
次の瞬間、信じられないことが起きていた。
牛島は怪我などしていないかのように立ち上がり、そして舞台の抜け落ちている床は一瞬にして再現される。
「あ、そう。記憶も消して、と」
眞姫がそう言ったとたん、生徒たちは皆、元通りの自分の役割の定位置に戻り、劇の続きを再開した。そして客席のお客も何事もなかったようにその劇を見入る。
俺は呆然とした。
これも幻撞の力か。
「つまり牛島の足の組織に幻覚を掛けて、更に舞台に穴など無いかのようにみんなに触覚と視覚の幻覚を掛けて、で仕上げにみんなの記憶に幻覚を掛けたってわけか」
「そう! さすがに分かって来たわね。同時に三つの幻撞はさすがに疲れたわ」
眞姫はそう言って額に汗してその場に座り込む。
俺は何事もなく進行するその演劇を見ながら、空恐ろしくなってくるのを感じていた。
これは違うだろ。
何か間違っている。
「まるで神様気取りだな」
俺は思わず声に出して言っていた。自分でも何で声に出したか理由は分からない。でも言わずにはいられなかった。
「え?」
眞姫が目を丸くして俺の顔を見返す。
「仮にもクラスメイト、友達だぜ。その頭の中を間違ったら消しゴムで消すように何度も何度もいじること、それって何か違うと思わねえか」
これだ。前、眞姫が子供の記憶を消した時に感じたものは。
眞姫は驚いたように俺の顔を見入る。
「何か間違いを冒したら幻撞。何かミスをしたら幻撞。それじゃあさ、幻撞さえ使えばいくらミスしても良いってことか? 反省すらしないってことか?」
「だって」
眞姫は唇を噛みしめ下を向いた。
「人が生きるってそういうことじゃないだろ。ミスしたらその責任を取って、それで『もうしないようにしよう』と自分で反省して。それが、人だろ」
「だって」
「それに都合が悪いことは友達の頭から記憶を消すってのも歓迎しないな。そもそもお前、友達も幻撞で作ったんだろ? そんなのって友達って言うか? それにそんなやり方で友達作って嬉しいか?」
「だって!」
眞姫は怒鳴った。
「だってしょうがないじゃない! こうでもしなきゃ、大事件になっちゃうじゃない! こうでもしなきゃ、みんな私のこと受け入れてくれないじゃない!」
その通りだ。眞姫の言う通りだ。俺はたぶん、今どうしようもない無茶なことを言っている。
眞姫は射抜くような視線で俺のことを見ていた。激しい怒りを秘めた瞳だった。
……だけど。
その瞳には今にも溢れそうな涙が溜まっていた。
「じゃあ、どうしろっていうのよ! 私に山に帰れっていうの! 曽我君はそれがいいのね!」
「いや、それは」
「私のことが気に入らないんでしょ! だからそんなこと言うのよ! 分かったわ! 今すぐにでも消えて上げる!」
そう言って眞姫は脱兎のように教室から駆け出して行く。
俺はあわてて追った。だが、数秒しか経っていないと言うのに、すでに廊下には眞姫の姿形も無かった。まるで風の中に溶け込んでしまったようだ。俺はそのまま廊下を走った。
「眞姫! 眞姫!」
廊下を走りながら何度も叫んだ。だが眞姫は見つかりもしないし、返事もしなかった。
言葉通り消えてしまったのだ。現れたときと同じ唐突さで。
俺の胸は激しく痛んだ。このどうしようもない痛み。俺はこの痛みの理由を知っている。
……。
俺はきっと眞姫にとある幻撞を掛けられたのだ。
次の日から眞姫の痕跡は完全に消え失せた。
クラスメイトは誰一人として眞姫の事を覚えている者は居らず、念のため神野に「眞姫はどうした?」と訊いてみたら「誰よそれ?」と凄まじく変な顔で睨み付けられてしまった。
試しに教室の後の壁に向かって「小塚?」と声を掛けてみたが、何の反応も無かった。眞姫と共に引き払ってしまったようだ。当然か。小塚は眞姫の護衛の為だけに来ていたんだから。
この辺りになって俺はクラスメイトから『壁と対話をする男』という訳の分からないあだ名を頂戴することになるが、この時点ではそれはまだ俺の耳に入ってきてはいなかった。
何か自分の胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。凄まじい空虚感。あまりの空しさに頭がどうにかなりそうだった。その穴を埋める為に一体どれだけのエネルギーを俺は費やしたらいいのだろうか。
クラスメイトたちはそんな俺のことなど気もせず、そして眞姫のことなど全て忘れて楽しそうに学園生活を楽しんでいるようだった。
もはや俺の方から眞姫に連絡を取ることは不可能だった。住んでいる場所やまして電話番号など全てがシークレットだったのだから。せめて観月家があるという山の場所さえ訊いておけば良かったと思ったが、よくよく考えてみればそれこそシークレットなはずだ。
……とここまでつらつら考えているとあの出来事は現実だったのだろうか、とさえ思えてくる。
眞姫という美少女。小塚。幻撞。記憶改竄。幻覚。
まるでお話の中から抜け出してきたような非現実なことばかりだった。ひょっとすると幻覚を見ていたのはクラスメイトたちではなく、俺の方だったのかも知れない。
そんな風に陰々滅々と自問自答してようやく、自分の中でなんらかの解決を見ようとしていたある日の朝のホームルーム。
担任の教師がいつもよりも清々しい笑みを浮かべて登場した。その変化に気が付く者は少なかった。それに気付いたとしても敢えてそれを取り立てようとする生徒は皆無だった。
だが、俺はその時点で気が付くべきだったのだ。眞姫を知っている人間として。
「一年B組に転校生が来ました。さ、入りなさい」
「はい!」
担任の促す声に続いて聞こえてきたのは聞き慣れた元気の良いはきはきした女子の声。
俺は思わず顔を上げた。
まさか。まさか。
「観月眞姫といいます。この年までずっと山奥で生活していたので、ちょっと慣れない点があるとは思いますが、よろしくお願いいたします」
そういってその娘、眞姫はぺこりと頭を下げた。
教室のそこかしこから新しいクラスメイトを品評する声が聞こえてくる。その中でも俺が一番はらはらしたのは男子生徒どもの「おい、結構可愛いじゃん」という声だった。
「じゃあ、席は、うーん、そうだな。曽我の隣が空いていたか」
俺の心臓は飛び跳ねた。眞姫は教壇から降りて少しずつ近づいてくる。俺と眞姫の距離が縮まるにつれ俺の鼓動は激しく、大きくなった。もしこのまま接触したら俺の心臓は破裂するに違いない。
だが、眞姫は俺の手前で右に折れ、俺の隣の席に腰を下ろした。
そしてあの特徴的な挑むような笑みで俺の方を一瞥するとぼそりと呟いた。
「どう? 今度は幻撞は使ってないわよ。これなら問題ないでしょ」
「そんな、お礼だなんて。俺は何にもやっていないよ」
「そんなことはありません。大奥様や若奥様も今回のことは感激しておられました。そして曽我様にはぜひお礼を申し上げて来いと」
俺は三時限目の授業中に校舎裏で小塚と会っていた。眞姫には内緒ということでこんな時間のこんな場所で会っている。今、眞姫は女子の体育の授業中のはずだ。
「お嬢様はその強大な力ゆえ、他の人間と調和するということが無いままにここまで来てしまいました。そのお嬢様が我を曲げて他人の意見を受け入れるなんて」
小塚はそっと目頭を袖で拭う。
「重ね重ねお礼を申し上げます」
「もういいって」
俺はさすがに居心地が悪くなって深々と頭を下げる小塚を後目にその場から逃げ去ろうとした。すると小塚はそんな俺の背中に声を掛ける。
「おっと言い忘れておりました、曽我様」
「何だよ。お礼はもういいよ」
「いえいえ、そうではありません。一つお教え致したいことが。代々観月家の女性頭首の幻撞が通じない人間はどんな相手だと知っておりますか?」
俺は目を丸くして首を横に振った。そんなもの知るわけがない。何だろう。血液型の相性だろうか。それとも星座の違いみたいなものだろうか?
すると小塚は何が楽しいのかにやりと口元をつり上げるとこんなことを言い放った。
「意中の殿方には幻撞は通じないのですよ。それゆえ代々の観月家の頭首の旦那様は皆幻撞が通じなかった殿方です」
は?
ってことは、どういうこと?
「今後ともよろしくお願いいたしますよ、曽我様」
あとがき
TVでぼけっと『ロズウェル』を観ていて急にアイデアが浮かんだので三日の突貫で書きました。
昔から「奥様は魔女」の女子高生版を書いてみたかったのですが、「魔法」や「超能力」とは異なる
もので書こうと思ったらこんな流れになってしまいました。
間違いなく、HP『タイトル未定』の管理人、てらおかけんじさんの影響は大きく受けてますね。