親愛なる女王陛下

作 山下泰昌

2003年1月3日公開
1月5日 数行程度の改稿 


 「せんせい! こっちこっち!」
 シロップのような甘い声が午後の日差しの中を跳ね回る。
 中庭に敷き詰められた芝生の上には彼女と僕、その二人の影しか存在しない。
 気が遠くなるように晴れ渡った青い空には雲一つない。その周縁には緑の山々が連なっている。
 僕と彼女以外は時が止まったような、それでいていつまでも続くような午後の濃密なひととき。
 僕は彼女の声に頷いて手に持ったヘシャムバスケットを大きく振った。
 とたん、バスケットからは円錐状のものが射出される。それは高く上空まで舞い上がると突然、大きく羽根を開いた。彼女は手をかざしてまぶしそうにそれを見上げた。
 特殊な配列の羽根で作られたそれは予測不可能な動きをしながら滑空しだす。
 「きゃ、こっち? いや、あっち?」
 彼女は受け取り用のバスケットを右手に持ちながら芝生の上を不格好に右往左往する。
 僕は苦笑してその様子を眺めていた。ヘシャムバスケットはここ数年流行りだした簡易なスポーツだ。競技会があるような本格的なスポーツではない。言ってみればキャッチボールの延長線上にあるような二人で行うたわいもないスポーツ。僕と彼女は今、それに興じている。
 彼女はきらめく長い髪を楽しそうに揺らしながら植え込みの影に落ちた羽根を拾いに行く。僕はそんな彼女の元にゆっくりと歩み寄った。
 「もうこの辺で終わりにしましょう。午後からは歴史学の勉強をしなければなりませんから」
 「ええー」
 頬を膨らませて彼女は不平を口にした。身体全身でそれを表現する姿は実に愛らしい。だが彼女はすぐに諦めたように平素の表情に戻り、そして口元に堅固な笑みを浮かべた。
 「分かりました。戻りましょう」
 僕は彼女を屋敷へと促しつつその後ろ姿を眺める。
 弱冠十五歳の彼女のプロポーションはまだ幼さが残る。抱き締めたら粉々に崩れそうな程に華奢な身体。
 この女性の将来が、剛腕を持ってこの国の経済を、軍事を、一人で取り仕切ることになるとはにわかに信じがたい。
 僕は五年前、彼女と初めて出会った時のことを思い出して妙な感慨に囚われた。
 五年前、当時十歳の彼女はお付きのメイドと共に現れた。
 大きな目と黒く艶やかな長い髪が印象的な可愛らしい子だった。
 僕は彼女の目の高さまで背を屈めてにっこり笑った。
 「初めまして」
 しかし彼女は怯えたようにメイドの後ろにその姿を隠す。
 僕は苦笑した。
 メイドは「駄目なんですよ、この子。人見知りが激しくて」と後ろに隠れた少女をあやしながら言う。
 先が思いやられるな、とその時の僕は嘆息した。
 そんな彼女も今ではこんな風に僕と遊びに興じるほどに親しくなった。
 「ん? どうしたのですか」
 僕の視線に気が付いたのか彼女は立ち止まり、頬を赤らめて僕の方を振り向いた。
 「いえ、別に。何でもありませんよ」
 僕は戸惑ったように両手を振る。
 「そう」
 彼女は一瞬、何か悲しそうな色を瞳に浮かべてそしてまた屋敷への歩を軽やかに踏み出した。
 実際、抜きんでて美しい子になった。揺れるような光を湛える大きな瞳。緑なす黒髪。幼さを残すものの女性らしさを示す緩やかな曲線。
 恐らく彼女がこんな身分ではなかったら男どもが放っておかないだろう。僕自身、こんな立場でなければ口説いていたかも知れない。いや、実際、僕は彼女に惹かれている。だが、彼女にこの心の内を打ち明けることは未来永劫あり得ないだろう。
 なぜなら、彼女の名前はアリシア・ロイ・ヘイルダール。このヘイルダール王朝の現女王と同姓同名である。
 それもそのはず、彼女こそアリシア女王と同じ名前だけでなく同じ遺伝子を持つ女性だからだ。
 つまり彼女は女王の複製、クローンなのである。

 ヘイルダール王朝は絶対君主制。ほとんどの権力がそのトップに集中するようになっている。つまり独裁国家と言うわけだ。独裁国家はその強い響きを持つ語感から誤解を受けるが、決して悪い統治法というわけではない。トップの位置にいわゆる名君、または賢帝が居座ればこれほど合理的なシステムはないのだ。すなわち必要な改革や法令が会議を通す事なしに、そしてタイムラグなしに実行出来る。この身軽さ、行動力は民主主義にはない。ただ必ずしも名君を頂くことはあり得ないというリスクを背負うことになるわけだが。
 ヘイルダール第十四代国王、アリシア女王はその名君であった。わずか二十四歳で戴冠するとその先鋭的なセンスと卓抜した洞察力で次々に改革を成し遂げ、旧弊で爛れきったこの国の政治と経済をわずか数年で復興させた。また強国ぞろいの隣国と互角に渡りきっている外交手腕はまるで永遠に続く綱渡りのようで、そのテンションを持続させている精神力は並大抵のものではない。
 まさにパックス・ヘイルダール。恐らくその名は後世の歴史家から『中興の祖』と讃えられることであろうことは間違いない。そんな女王の遺伝子を複製しようという進言が議会から出たのも当然と言えば当然であった。
 その理由には三つある。女王の伴侶、ガスパル王――強国の軍事国家シセの元第二王子――の生殖能力に欠陥があり、子を為せないことがその一つ。二つ目はここ数年我が国を含めてこの大陸の国々には謀略、暗殺が横行しており、有事の際の為に影武者を用意しておくため。三つ目はともかくも女王の能力が群を抜いて優れているので国のためを思えばこの君主で長期治めて頂きたいという願望だった。
 女王はしばらく熟孝した後、自らの複製を五体作ることを許可した。家臣たちの願望は理解出来たが、同一人物による長期統治は恐らくなんらかの弊害を生むとの理由で五体だけの複製となった。
 女王が三十歳の時にクローン計画は開始された。そのため第一クローンも女王とは三十歳の年齢の違いを生む。クローンたちはそれぞれ五年の年齢差を持ちつつ産み落とされた。つまり現時点で十五歳、十歳、五歳、ゼロ歳の四体の女王のクローンが存在することになる。最後のクローンは五年後に生誕の予定だ。
 クローンたちは現在の女王の才能、センスなどを受け継がなくてはならないので、極力女王が辿った環境と同じように育てられることになる。その為、王宮を模した疑似宮殿がクローン一人につき一つずつ割り当てられ、またそこで働く使用人や、料理人なども特別に雇われることになった。そしてかく言うこの僕もその第一クローンの家庭教師役に雇われた一人だった。
 女王が少女時代に受けた家庭教師の性格、容姿、能力などとほぼ同じだったという理由で約三百人ほどの候補の中から選ばれたのが僕だった。
 光栄だった。僕の教えたことがいずれこの国の血となり肉となるのだ。これほどやりがいのある仕事はない。仕官中は秘密保持のため、この疑似宮殿である屋敷と自分の宿舎から外に出ることすらままならないが、偉大なるアリシア女王の為ならば、それすらも苦ではない。

 「……というわけで別働隊によりその兵站を突かれたワスワンズ騎馬隊は大陸最強を誇っていたのにも関わらずあっけなく壊滅したのです」
 僕の話を黙って聞いていたアリシア女王の第一クローン、アリシアU――煩わしいので今後アリシアとだけ表記する。彼女と女王が同時に出現する事態はあり得ないし、なにより、彼女は女王本人であるといっても相違ない複製でもあるのだから――は頬杖をついて深くため息を吐いた。
 「……結局、戦も食べ物ってことなんですね」
 「そういうことです。兵站こそは戦の要。遠征になればその重要性は否が応にも増します。つまりこのことから言えることは――」
 「ロボットに闘わせれば良いのですね?」
 「はあ?」
 僕は思わず教科書として使っていた隣国の歴史書を取り落とし、アリシアの顔をまじまじと見た。彼女は瞳を輝かせてまるで自分の頭の中を探索でもしているかのように視線を天井に向けている。
 「だってロボットを最前線に投入すれば食料は必要ないじゃないですか。それに自軍の人的資源を損なうこともない。一石二鳥です」
 そう。アリシアはこういう子であった。一を知って十を知るという子ではない。一を知ってAを知るという子であった。頭の中でどういうシナプスの繋がり方をしているのか覗いてみたくなるほど独特な考え方、発想の飛躍をする子であった。
 僕はすぐに気を取り直して優しく語りかける。
 「それは素晴らしい考えです。ですが、現時点ではロボットは最前線に投入出来るほど性能が優れておりませんし、ロボットにしたって燃料というものが必要なんですよ。別の意味で兵站は必要になります。それにロボットに指令を出す、人間も幾人かは同行しなければなりません。アリシアのその考えは問題点が山積みです」
 「うーん。難しいものですね」
 アリシアは頭を抱えて唸った。だがその表情は決して沈んではいなかった。それどころか玩具を与えられた子供のように喜々としていた。
 その時、勉強部屋の時計がこもるような音を立てた。定刻だった。僕は教材を手早くまとめると静かに椅子を立つ。
 「今日はここまでです」
 「ええー」
 案の定、アリシアは不満の表情を露わにした。こういうところがいかにもお姫様らしい。
 「明日は試験の日ですので、軽く本に目を通すだけでもして来て下さい。それでは失礼します」
 そう言って部屋から出ようとした時、アリシアは僕の腕をぎゅっと引っ張った。
 「え?」
 僕は思わず振り返る。アリシアは恥ずかしそうに目を伏せながら、何か決意でもするかのように言葉を吐き出した。
 「あ、あの。私、これから夕食なんです。もしよろしければ先生もご一緒にいかがですか? 今のお話の続きを訊きたくて」
 そして上目遣いで僕の顔を覗き込む。
 僕は何かに感電でもしたかのように硬直する。アリシアは子供のくせに時々、心臓が止まるような光をその瞳に宿す。視線が僕の目から入り込み、蛇のように僕の心を喰らおうとする。脳髄をその毒で麻痺させようとする。
 だが、それはあくまで時々だ。
 すぐに幼い表情に戻ったアリシアに安堵し、僕は急いで頭の中に記憶されている、『仕事をするにあたっての禁止条項』をさらった。アリシアの個人的な領域に踏み込むことは僕には禁止されている。なぜならそれはアリシアの人間形成に影響を与える可能性があり、現女王のような人間に育たなくなってしまう可能性があるからだ。だが、確か一緒に食事をとることは場合によっては良いとされていたことを思い出した。
 僕はあらためてアリシアの方を向き、優しく微笑んだ。
 「よろこんで」
 「良かった」
 アリシアはほっと安堵の息を付き、胸をなで下ろした。

 かちゃかちゃと食器がこすれる音が聞こえてくる。だがその音は二カ所からしか聞こえて来ない。つまり僕とアリシアのところだ。
 僕とアリシアは大きなテーブルを挟んで向き合って食事を取っていた。僕らの他に現れるのは給仕役の初老の男性だけだ。彼とは初対面だった。そもそも僕は今までアリシアに勉強を教えるだけだったので屋敷の入り口からアリシアの勉強部屋、そして中庭への往復くらいしか屋敷の中を歩いたことはないのだ。当然といえば当然だった。
 辺りを見回し、アリシアはいつもこんな寂しい食事をしているのか、と思い哀れになる。一人暮らしの僕も当然のことながらたった一人で食事を取ることはいくらでもある。
 だが、こんな寒々しくて薄暗くてだだっ広い食堂で一人だけで食事をすることはない。
 今回だけでなく、今後も何回かアリシアの食事に付き合ってあげようか。僕はそんなことを思った。
 アリシアは僕が驚くくらい、食事をしながら饒舌にお喋りをした。そして会話の途切れたときに、ときおり悲しそうな表情をする。その落差が激しい。
 「先生は」
 そして突然問いかけて来る。ちょっと今日のアリシアは情緒不安定のようだ。その心の中は僕には読めない。楽しいのか、悲しいのか、悩み事があるのか、ないのか、全く分からない。僕はグラスの中に満たされた赤いアルコールをわずかに口に含みながら「うん?」とそれに応じた。
 「先生はなぜ先生をやっているんですか?」
 「え?」
 ちょっとむせた。相変わらずこの子の思考が読めない。僕はしばらく咳き込み、それがようやく落ち着いて来た後、ゆっくりと諭すように語りかけた。
 「僕はね、話すのが好きなんですよ。人に物語を話すのがね。だから先生をやっているんです」
 「それだったら吟遊詩人になれば良かったのに」
 アリシアのその言葉に僕は目を見開いた。そしてわずかながら昔を思い出す。
 「……吟遊詩人はね。暮らして行くのが大変なんですよ。それに専ら酔客相手。まともに話を聴いてくれる人はほとんどいません」
 「それで先生になったんですか? じゃあ、本当は先生にはなりたくなかったんですね。不満ではありませんか?」
 「そんなことはありませんよ。だって今は僕の話をしっかりと聴いてくれる人が少なくとも一人はいますからね。それで十分です」
 そう言って僕はアリシアの瞳をじっと見つめた。アリシアは顔を真っ赤にしてあわてて目の前の食べ物と格闘するフリをする。
 「……私は。私は先生の話が、好き、です。歴史だけでなく、数学や国語もまるで物語の様に優しく、暖かく話してくれるので、大好きです」
 「光栄ですね」
 僕はにっこり笑った。アリシアは上目遣いに僕の顔を覗き込んで嬉しそうに笑った。
 まただ。
 この瞳の光。違和感がある。一瞬の少女らしくないその視線。それを感じる度に僕は平衡感覚を無くすような気持ちに囚われる。彼女を今すぐ抱き締めたくなる焦燥感にかられる。
 だが、それは僕が絶対にしてはいけないことだ。クローンの正しい成長を妨げることになる。僕は喉から出かけていた悪魔のようなその想いを意志の力で飲み込んだ。
 そう、これでいい。僕の行動にはこの国の未来がかかっているのだ。 

 夕食後には暖かい茶が出た。
 僕が今まで飲んでいたのは一体なんだったのかと思い返してしまうほどの高級な茶だった。それをあらかた飲み干すと僕は時計を見た。もう夜も遅い。僕はアリシアに退出の意を伝えるとゆっくりと立ち上がる。
 「あ、まだ……大丈夫じゃ」
 アリシアは引き留めるように言う。僕はゆっくりと首を横に振った。
 「すみません。僕は、その決まった時間に就寝しないと身体の調子が悪くなるタイプなんです」
 「あ、そうですか……」
 もちろん、嘘だ。この時間以降にアリシアと接触することは条項違反なのだ。
 「じゃあ、明日は先程も言った通り簡単なテストをしますよ。僕が来るまでおさらいをしておいて下さいね。それでは」
 「あ、あのちょっと」
 僕は首を傾げた。少し彼女らしくない。外套を身に纏いつつもその場に踏みとどまり、アリシアの次の言葉を待つ。
 「あの、もし明日のそのテスト、満点の解答をしたらご褒美を頂けませんか?」
 「え?」
 「いえ、おこがましい申し出ですが……駄目ですか?」
 僕は心の中で苦笑した。飛び抜けた思考回路の裏に意外に子供っぽいところがある。教育にはこういう遊びも必要だろう。僕は大きく頷いた。
 「いいですよ。じゃあ、こういうのはどうです。明日あなたが私の出題する五十問の問題を満点解答をしたら、一つだけあなたの言うことを聞いてあげましょう」
 「本当ですか」
 「ええ、ただ、僕に出来る範囲のことですけどね」
 アリシアは全身で喜びを表現していた。
 「本当ですね! ようし、明日は頑張ります。見てて下さい!」
 
 「おはようございます、アリシア」
 僕はいつもの朝と同じようにアリシアの勉強部屋の扉を開けた。アリシアはいつもの通り、突き当たりの勉強机の前の椅子に座っていた。そしてくるりと振り向いた。
 「おはようございます」
 アリシアは質量のある視線で僕を見据える。
 誰だ。
 そこにいるのはアリシア以外あり得ないはずなのに、一瞬そんなことを思ったほど発散されている空気はいつもと違った。
 そこにいるのはまるで十五歳の少女ではない。
 僕とヘシャムバスケットに興じて不格好に右往左往している少女の姿は微塵も感じられなかった。
 確固たる自信がその声の色に見て取れる。揺らぎ無き自信がその瞳の光に見て取れる。
 そこに居るのは絶対の存在だった。
 僕はアリシアから醸し出される空気に気圧されていた。ただの雰囲気の違いがこれほど人間に対する印象すらも変化させるのか。
 「さ、先生。始めましょう」
 アリシアは強い語調で言い放つ。僕はその言葉にようやく我に返り、あわてて教材をアリシアの机の上に並べ始めた。
 アリシアのこの自信に満ちた表情は何なんだ。
 だが、僕のその疑問はすぐに解き明かされることになる。   

 「イングバード=ケンペルとは」
 「2369年船舶医としてクライバに渡来。その後我が国の歴史、政治、宗教を研究。著者に『クライバ記』」
 「オーカイルとはどのような都市か」
 「ベクトム南方にあるゴーガン共和国の都市。人口約十四万七千人。約五部族の人種に分かれ過去内戦の火種となった。東西南北に重要な幹線道路が伸びており、守るに難く攻めるに易し」
 嘘だろう。
 僕は教科書から顔を上げてアリシアの顔を覗き込み、舌を巻いていた。これがいつも僕の講義で素っ頓狂な質問をして困らせているアリシアなんだろうか。その答えは完璧だった。まるで僕の講義をレコーダで録音してそれをそのまま再生しているような完璧さだ。論理力、応用力などには疑いのない力を持っているアリシアだが、記憶力がこれほどとは思わなかった。
 「八教を全部上げよ」
 「すなわちこの大陸に広く伝播している孝教、ノールト、ベスラムイト、円法、カムダズン、ゲスタビア、ヘイグ、ゼシャームの宗教のことを言う。円法の代わりにスバークダ教を組み込む場合もある」
 「一般に要塞攻略には防御側の何倍の兵力が必要とされているか」
 「三倍から五倍。ただし、周到な攻城兵器や謀略などを用いればこれに及ばず」
 僕は次々に繰り出す質問に淀みなくしかも完璧に答えていくその姿に恐怖した。初めは自分の専攻である歴史・戦略戦術学のみだけのテストにするつもりだったが、その圧倒的な姿に圧された僕はノージャンルで問題を出して行く。 
 「ノブツカタを精製するには何が必要か」
 「ビクトムスとミキネアムス」
 「専らループ地方で食用とされている香りの強い草花は」
 「レドウン。葉は微少な鱗片状で枝が卵形の葉状となる。夏、白色の小花を枝の上部で開く」
 ――すでにアリシアは僕のランダムに出題する問題に四十六問正答している。ということはあと四問で全問正答だ。別に全問正答されてアリシアの言うことが聞く事が嫌なわけではない。ただ、アリシアから発せられるその異様な雰囲気に当てられたとでも言えば良いのか、僕の出す問題は更にエスカレートして行った。
 「ベキニアの三十三神を全て述べよ」
 「ヨウリ・リュウズ・ジケ・エンコ・ユウ・ハクイン・レンガ・タキミス・セヤ・ギョラル・トクノス・スゲン・ヒトハ・セイケイ・イト・エンミョ・スーホー・ガンプ・ノウレン・アブ・アシャーティ・ハイン・リルウ・タラント・ガリンシャ・ムツドブ・フヒ・バローフ・ガッテイソ・イチノ・フジ・ジレン・レイン」
 ―――四十七問正答。自分で無茶な問題を出していると分かっている。だがそれを止めることが出来ない。僕は額に汗を滲ませ質問を続ける。
 「敵を撃滅させず、降伏させるのが上策とされる理由を二つ上げよ」
 「一、どのように上手く闘っても味方に損害は出るため。二、その当座の敵は近い未来には味方になるという可能性もなきにしもあらず。その場合、彼我戦力をまるまる温存しておくのは良策」
四十八問正答。僕は少し意地になってきたのかも知れない。教師の威厳を賭けて何としても全問正答は阻止してやる。
 「……現時点で、我が国と隣国クライバが開戦することになったとする。それは避けることが出来ない。この場合、どのような戦略を取れば良いか。なお、開戦を回避する方法は無いと仮定する」
 「……それは」
 アリシアは少し眉に皺を寄せて言い淀んだ。だがすぐにその可愛らしい唇を快活に開いた。
 「現時点でいきなりのクライバへの侵攻は国際社会からの反発は免れません。まずは開戦前に我が国の王女をクライバへ嫁がせます。その後に暗殺者を用いて嫁がせた王女を殺害し、それを理由に宣戦布告をします。クライバと戦うにあたってはシセとの連携を密接に取らなければなりません。恐らくシセは中立の立場を取るでしょうが、それならそれで良し。とにかくシセに口出しをださせないことが肝要です。クライバの回りにはシセを除くと同盟国はありません。これでクライバを孤立させることが出来ます。さてクライバへの侵攻ですが、南と北の主要幹線道路二本しか在りません。ですが、もう一本、大回りになりますが、レマ川を利用しての侵攻路も描けます。これを利用すれば別働隊をクライバ首都エアグの背後、ラグ港を急襲することが出来ます。ここから先は細かい戦術になるので申しませんがこれが大方の戦略になると思われます」
 ……なんて解答だ。
 唖然としてしばらく何も考えられなかった。『我が国の王女を嫁がせ、更にそれを殺害』と簡単に言ったが、それはつまり自分のことじゃないか。クライバ攻略にそんな戦略は道義的に考えもしなかった。後の侵攻路や同盟工作はほぼ同じ考えだが、開戦の発端はまるで予想外の答えだった。だが、それは僕が考えたどの策よりも理に適っている。恐らく、これは現女王の思考と同じなのだろう。女王は有事の際、この策を実行に移すに違いない。
 アリシアは小首を傾げた。
 「いかがでしょう? まだ答えを聞いておりませんが」
 「せ、正解でしょう」
 僕は自信が持てないままそう答えた。少なくとも僕にはアリシア以上の考えが思い浮かばない。否定することが出来ない。すなわちそれは正解というしかない。
 遂に。
 遂に四十九問正答だ。
 次の質問でアリシアが答えれば全問正答ということになる。僕は用意して来た問題を頭の中で全て打ち消した。きっとどの問題を出しても答えられてしまう。今のアリシアにはそんな圧倒的な雰囲気があった。
 何かないか。アリシアに答えられない質問は。
 その時僕の脳裏にとある問題が浮かんだ。だが、僕の良心がそれをすぐさま取り消した。
 それこそ卑怯な問題だった。とても親しみを持っている教え子に出す問題ではない。
 だが。
 この目の前の堂々としたアリシアはなんだ。教師すら凌ぐような威圧感で座っているアリシアはどういうことだ。こんな子に、そしてこの時期に全問正答させるような自信を付けさせたら今後のために絶対に良くない。
 僕は舌で唇を湿らした。そして最後の問題を口にする。
 「僕。つまり、今、君の目の前にいるこの僕の現在の心情を簡潔に述べよ」
 アリシアは目を見開いた。そして幽かにその瞳に絶望の色を浮かべる。
 そう、アリシアはこの問題の意味が分かっている。
 つまりアリシアがどう答えようとも、本当に僕の心情を当てたとしても、僕が「違う」と言えばそれまでなのだ。つまりこの問題は絶対に正解を当てることの出来ない問題なのだ。僕の心の中で達成感と虚無感が同時に襲ってきた。
 やはり、こんな問題出すべきではなかった。
 僕がそう後悔し、わずかに俯き、そしてその顔を上げた時、まるで僕を射竦めるように真正面から見つめているアリシアがいた。先程、見て取れた絶望感はその瞳からは完全に払拭されている。その瞳からは絶対の自信が伝わってきた。そして何か見えない力でも帯びているのではないかと思われるその視線は僕の目から体内に進入し、心を鷲掴みにした。僕の足が震えてくる。両手で力を入れてそれを押さえようとするが、その手さえも震えてくる。暑くもないのに汗が滴り落ちる。頭の中が真っ白になる。
 「先生は――」
 アリシアが口を開いた。その口内の深遠には神秘の暗黒が見える。
 「――先生は、今、私に恐怖しています。それと同時に今、こんな問題を出したことを後悔しています」
 そして僕から視線を逸らすことなくそのまま言葉を続ける。
 「そして、……私に惹かれていますね」
 「そ、それは」
 僕は思わず言葉に出していた。
 読まれていたのか。僕がアリシアに好意以上のものを持っていたということを。僕の毎日の言動はそんなに分かりやすいものだったのだろうか。いや、そんなことはない。これは目の前にいる女性の洞察力が桁外れなだけだ。
 僕は気を取り直す。駄目だ。こんなことで動揺しては。すぐさまアリシアの言葉を否定すれば良いことじゃないか。第一こんな想いは
 「条項により御法度であると考えているのですね」
 「え?」
 再びアリシアを見返した。どういうことだ。ひょっとするとアリシアは心を読むことが出来る異能力者なのか。それとも催眠術師なのか。
 「そのどちらも違うと思います」
 ――これが今のこの国を支えている女王の能力の一端なのか。その場にいる人間を圧倒するようなオーラ。そしてまるで読心術のような洞察力。これがアリシア女王の能力なのだ。
 僕はがっくりと肩を落とした。
 そして諦めたように呟く。
 「……正解です」
 その瞬間、アリシアから放たれていた押しつぶされそうな空気はふっと掻き消えた。
 「嘘? 本当に?」
 そして目の前にはいつもの陽気なアリシアが出現する。アリシアは椅子から立ち上がり喜びを全身で表現していた。僕は呆然とその光景を眺めていた。本当にこれが数秒前の女性と同一人物なんだろうか。そしてアリシアはその可愛らしい唇からとんでもないことを宣った。
 「本当に……先生は私のことが好きなんですか?」
 「え?」
 僕は目を丸くした。
 「だって、君は僕の心を読み切ったのでは?」
 「そんな。先生の心を読むなんて問題に正解はありえません。ですから、せっかくだから気になっていることを訊こうか、と思ったのです」
 アリシアははにかむように顔を俯ける。そして言いづらそうに口を開く。
 「先生、私のお願いを覚えていますか」
 ああ、全問正解したらなんでも言うことを聞く、というヤツか。僕は戸惑いながらも頷く。
 するとアリシアは意を決したように近づいてくると僕の身体にそっと触れた。
 「な、なに?」
 僕があわてているとアリシアはゆっくりと顔を上に向け、そして瞳を閉じた。
 だ、駄目だ。アリシア。それだけは受け入れることは出来ない。それは完璧に条項違反だ。
 僕が身体を硬直させどうすることも出来ずに戸惑っていると、アリシアは閉じていた目をわずかに開いた。
 「!」
 僕は見た。開いた瞳にいっぱいの透明な液体を溜めているのを。そしてそこからぼろぼろと頬に伝わらせているのを。
 「私も、先生のこと、好き、です」
 僕の心と言う名のダムはそれで決壊した。ダムは契約条項。そしてその奥に湛えられていたなみなみとした水はアリシアへの想いだった。
 僕の唇は優しくアリシアの唇を覆った。
 アリシアは僕に触れていた手にぎゅっと力を込めた。
 その手がなぜか微妙に痛かった。

 その日から僕の苦悩の日々が始まった。
 毎日アリシアと逢う度に心がぎゅっと締め付けられる。愛するアリシアと逢うことは嬉しい。
 だが、その度、契約条項に違反している、未来の女王を間違った道に歩ませているという後ろめたさが僕の心を苛めるのだ。
 今日もそんな心情でアリシアへの講義を終了すると僕は教材をまとめて立ち上がった。
 するとアリシアは何も言わず、立ち上がって僕に身を寄せた。僕はその身体を強く抱き締めながら唇を寄せた。
 最近、毎日のように行われている儀式。
 胸が締め付けられる。
 日々膨れ上がるアリシアへの想いと、国を裏切っているという背徳感が僕の胸を責め続ける。
 「どうしました?」
 唇を離した後、アリシアは不思議そうに僕の顔を覗き込んで来た。
 心の中で舌打ちをする。こういう動揺は唇を通してダイレクトに伝わるのだろうか。
 僕は精一杯の笑顔を浮かべ答えた。
 「いえ。何でもありませんよ」
 アリシアは不安な表情のまま僕の顔を見つめ続ける。
 「先生が悪いことなんて、何もありません。悪いのは私です」
 参った。全て読まれている。
 「もし先生が裁かれることになっても私が証言します。私が誘ったのだ、と」
 アリシアは僕の胸の中にその顔を埋めた。僕は腕の中の髪をやさしく撫でる。
 「アリシアは悪くありませんよ。それに私も悪くはありません。そもそも人が人を愛することがなぜ悪いのですか」
 それは詭弁だ。自分で分かっている。アリシアもそれは分かっている。事の善悪を判断するのは人ではない。社会であり文明である。それに、アリシアがいくら証言したって裁かれるのは僕だ。
 僕らは見つめ合い、そして再び唇を合わせた。
 知るものか。
 いずれ裁かれることになろうと、アリシアと離ればなれになることがあろうと。
 今この時、だけアリシアと抱き合うことが出来れば、今この時だけキスをすることが出来れば。
 それでいい。

 その日、アリシアの様子がおかしかった。
 「おはようございます」
 と僕が挨拶をすると一瞬、何かを請うような瞳で僕を見た。
 だが、すぐに顔を伏せるとか細い声で挨拶を返した。
 「どうしたのですか? どこかお身体が……?」
 「なんでもありません」
 しかしアリシアは俯いたままだ。明らかに何か、ある。
 だが、これ以上、今ここで詮索しても仕方がないだろう。
 僕はいつも通り教科書を開いて講義を始めた。だが、当然のことながら平素と異なるアリシア相手ではいつも通りの講義にはならなかった。
 アリシアの反応が悪いし、そして何よりも僕の気分が乗らなかった。
 僕は肩をすくめると手早く教材をまとめた。アリシアはそんな僕を不審そうに見る。
 「どうしたんですか? まだ途中……」
 「こんな状態で勉強しても何もなりません。どうしたんですか? 何を悩んでいるのですか?」
 身を乗り出してそう訪ねると、アリシアは顔を背けた。そして言う。
 「何でもありません」
 「僕にも話せないこと?」
 するとアリシアはその瞳にいっぱいの涙を浮かべて僕に抱きついてきた。
 「私、私、先生と離れなくちゃいけないの!」

 アリシアが結婚するという。
 相手は隣国クライバの第三王子。早い話が政略結婚だ。我が国のような新進の国家が列強国と渡り合っていくためにはこのような政略結婚は必要だ。アリシアU〜Yのクローンたちは女王とわずかな側近以外には体外受精により出産されたアリシア女王の娘、(クローン本人たちにも娘という説明がなされている)ということになっている。政略結婚の駒にされるのは当然のことだ。
 しかし偶然にもアリシアが試験の時に予想した通りになったのだ。まさか女王は隣国クライバへの侵攻を決意したのだろうか。まさかアリシアが考えた通り、嫁がせたとたんに暗殺するつもりでいるのだろうか。
 「断れない、のですね」
 アリシアは涙を拭きながら頷いた。
 「お母様の命令は絶対ですもの。それに私自身それが国益になることは痛いほど分かるし」
 僕も無茶な質問をしたものだ。女王の命令に例え娘――この場合はクローンであるが――でも逆らえることが出来ようか。
 「婚礼の儀はいつなのですか?」
 「半年後です。でも私は婚約の準備のためもう来週には王宮に移らなくてはならないのです」
 「ということはアリシアと会えるのは今日と明日だけ、ということになりますね」
 「そんなの嫌です!」
 アリシアは僕に抱きついた。
 僕は腕の中にアリシアの質量を感じながら、来るべき時が来たという感慨に囚われていた。
 予感はあった。現アリシア女王が結婚したのは十五歳。ちょうど今のアリシアと同じ年なのだ。現女王と同じ様な足跡の人生を辿らせるのなら、この時期に結婚していなければならない。それに女王が家庭教師からの勉学を修了したのも同時期。そう冷静に推理してみると僕はもともとアリシアが十五歳になるまでの契約という訳だったのだ。
 「先生、最後のお願い、聞いて頂けますか」
 涙で一杯の瞳でアリシアは僕を見上げた。その目には決意と恐れと思慕が入り交じっていた。
 「先生、私、私……」
 アリシアは僕に己の身体を密着させた。そして僕の手を自分の胸に誘う。柔らかな隆起が僕の右手にすっぽり収まった。
 狼狽する。
 「だ、駄目だよ、アリシア。そんなことは!」
 「契約違反だからですか?」
 ぐっと僕は詰まる。契約はイコール国の未来のためだ。正しいアリシアを育てることは未来の我が国の繁栄を意味する。僕がアリシアに過ちを犯してしまってその未来の繁栄を摘み取って良いものなのか。
 「先生は私と契約、どちらが大切なんですか? 先生にとって私は職を投げ出すほどの価値すらもない、ということなんですか?」
射抜くような視線と挑むような荒い語調でアリシアは僕に問いつめていた。
 僕は自分の心の中を彷徨っていた。
 僕は、この前こう思ったはずじゃないのか。
 今、この時にアリシアと抱き合うことが出来れば、今この時だけキスをすることが出来ればそれでいいと。それは決してその場の感情に流されただけの想いではないはずだ。それは決して嘘ではないはずだ。
 それにもしこの犯罪行為が露呈したとしても僕のこのちっぽけな命が散らされるだけの話だ。それならば、アリシアを愛したい。だが、問題はこの国の未来がかかっているということなのだ。アリシアへの愛とこの国の全国民の未来と。どちらも天秤にかけられない。
 僕のその戸惑いはアリシアにすぐに伝わったようだ。一瞬、憤りかけたアリシアだったが、すぐに何かを思ったらしく、すっと身を引いた。
 「ごめんなさい。こんなことしたって、何にもならないのに。こんなことしたって先生の心をいつまでも繋いでおくことは出来ないのに。先生といつまでも愛し合うことが出来ないのに」
 俯き、身体を小さくして嗚咽しているそんなアリシアを見て、僕は妙な感慨に囚われていた。
 この幼子のように泣いているのもアリシアだし、陽気な少女もアリシアであるし、凄まじい威厳で周囲を圧倒するのもアリシアなのだ。多面性を持つ、本当に普通の女の子なのだ。クローンでも、王女でもない。ただの女なのだ。
 アリシアの手を優しく握った。アリシアは驚いたよう僕の顔を見上げる。そして僕はゆっくりとそして噛みしめるように言葉を紡いだ。 
 「アリシア。僕と一緒に逃げましょう」
 「え?」
 「この国から逃げましょう」
 「そんなこと」
 アリシアは悲しそうに視線を逸らす。
 「僕らの身体の回りには余計な物が付き過ぎています。だけどそれが無くなればただの男と女ですよ」
 「先生」
 アリシアは僕の首にその両腕を強く巻き付けてきた。そして激しく僕の唇を求めてくる。
僕はその熱い唇から僕のありったけの想いを注ぎ込んだ。

 その夜、アリシアは屋敷から抜け出した。今までの十五年間、彼女はそんなことをしたことがないので警戒は緩かった。そもそも屋敷の警備は外部侵入者に対してのものなので中から抜け出す、ということの対策は全くと言っていいほど取られていなかった。
 屋敷の敷地から少し離れたところに僕の宿舎がある。一介の家庭教師に対してとしてはとんでもないほどの好待遇だ。小さい家だがまるまる一つの一軒家が僕の宿舎として割り当てられているのだ。
 深夜、その僕の宿舎の扉がこん、こん、と二回ノックされた。
 僕は慎重に扉を開ける。
 「……来ました」
 一応それなりな変装をしたつもりだろうか。黒いショールを頭からかぶっている。
 「どうぞ」
 僕はアリシアを中に迎え入れた。
 アリシアは僕の家の中に入ってショールを脱ぐとしばらく辺りを見回していた。そして「先生の匂いがします」と言って、にっこりと微笑んだ。
 「狭いけど。こちらに座って。今、暖かいお茶を出します。といってもお屋敷で出されるほどの良いものではありませんがね」
 僕がそう肩を竦めると彼女はくすっと笑った。僕はお湯の沸いたポットを暖炉から降ろして手早くお茶の用意を始める。お茶の用意をしながら時々アリシアの方を盗み見る。アリシアは所在なさ気に椅子の上で小さくなっている。
 「不安ですか?」
 「え?」
 僕のその突然の問いにアリシアは驚いたように声を上げた。そして一息付いてからゆっくりと口を開いた。
 「全然……といったら嘘になります。今までと全く異なった世界に出るのですから。正直、少し怖いです。でも」
 そう言ってアリシアは僕の顔を見た。
 ちょうどお茶が入った。なみなみに注がれたカップを二つ、アリシアの前と僕の前に置く。
 「どうです? お屋敷のお茶とは、全く別の飲み物みたいでしょう?」
 アリシアはそれを一口啜って頷いた。
 「はい。でも暖かいです」
 僕はそんなアリシアを見つめながら、言葉を探した。
 今、僕はここで何を話したら良いのだろうか。
 今までのこと。アリシアへの想い。これからのこと。いろいろなことが頭の中を渦巻いて正直、僕も混乱している。本来ならこれからの逃走経路についての説明をするべきなのだろうが、ここでそんな現実的なことを話してアリシアの不安を増大させても仕方がないことだ。僕は少し未来のことを話すことにした。
 「僕は……吟遊詩人をやって暮らそうかな、と思います」
 「あ、先生の夢、ですね」
 「はい。一カ所に住み着かなければ追手も捜索がしづらいでしょう。貴族の家や王宮は発見される可能性が高いから避けなければなりませんね。専ら酒場回りでしょうか」
 僕は昔を思い出した。アリシアの家庭教師の任に就く前にやっていたことを思い出す。酔客相手の語りにはそれなりに大変だったけど、それなりに楽しかった覚えもある。その日限りの刹那的な毎日。
 「じゃあ、私も何か楽器を覚えます。先生がお話を語っている後ろで伴奏をするんです」
 そう言ってアリシアは弦楽器を奏でるような手つきをした。僕はあわててそれを否定した。
 「駄目ですよ。アリシアをあんな場末の酔客の前に出すわけには行きません。アリシアは僕が稼いでくるから、宿かどこかで待っていて下さい」
 するとアリシアは悲しげに俯いた。そして絞り出すように声を出す。
 「……ですが、たぶん、私、一人では耐えられそうにありません。いつも先生と一緒に居たいんです」
 「でもその日暮らしの厳しい毎日が続くと思います。アリシア、それでも私と一緒に付いてきてくれますか?」
 アリシアは一文字一文字噛みしめるように答えた。
 「先生と一緒なら」
 そして熱っぽい潤んだ瞳で僕を見つめた。暖炉の炎がその瞳に反射してそれは幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 「アリシア……」
 僕は彼女を引き寄せ、強く抱き締めた。
 
 僕はアリシアをベッドに寝かせ、精一杯の優しいキスをした。
 そしてその服に手を掛けた。
 アリシアは子犬のように身体を震わせて僕のその手を留めるように握った。目には戸惑いの色が隠せない。僕は安心させるようにその瞳を見つめ返し、そして力強く握りしめているその手の甲にキスをする。それは固く閉じられた錠前を開ける鍵となった。
 とたん、アリシアの手から、全身から力が抜けた。
 そして心と身体の全てを僕に預けてきてくれた。
 僕はアリシアの服のボタンをゆっくりと外していった。
 まだ誰にも踏み荒らされていない新雪のごとき柔肌が現れる。
 僕はその白い肌を溶かすような熱いキスをし、抱き締めた。
 そして

 深夜、僕は唐突に目を覚ました。
 喉が痛い。少し空気が乾燥しているようだ。僕は水を飲もうとベッドから這い出した。その時僕の傍らで半裸で規則正しい寝息を立てているアリシアに気が付いた。
 強烈な充足感が湧いてきて、思わず微笑む。
 そうだ。今日からこのアリシアと一緒なのだ。厳しい逃避行が始まるかも知れないがこのアリシアと一緒の日々が始まるのだ。
 僕はアリシアを起こさないようにそっとベッドを抜けだし、テーブルの上に置いてあったポットを持ち上げた。予想以上に軽い。
 舌打ちをする。
 からっぽだった。とすると水を飲むためには表の井戸まで汲みにいかなくてはならない。僕は厚手の上着を羽織るとポットを片手に家の外に出た。

 当然のことながら外は漆黒の闇だった。雲に隠れてはいるがわずかに漏れてくる月光を頼りに井戸の位置を確認する。僕は寒い外気に長く触れているのが嫌だったので、足早に井戸に向かった、その時、井戸端に誰かが立っているのを確認した。
 僕の身体はとたん緊張した。
 追手か。早すぎる。
 追手が差し向けられるとしても明日のアリシアの起床時間の後のはずだ。明日は安息日なので起床時間が若干遅く、捜索が開始されるとしてもその後になる。だいたい現時点で僕らの逃亡を予測出来る人間などいるはずがない。僕らはそんな素振りすらも見せなかったのだから。
 僕は目を細めて井戸端に佇んでいるその人物を透かし見ようとした。だが闇のせいでその人物が何者なのか判断出来ない。だが、誰かいるのは間違いない。
 僕の中で二者択一を迫られた。このまま静かに家に引き返し、アリシアとすぐさま逃げ出すか。それとも目の前の人物と対峙するか。どう考えても前者の策は後手に回りすぎている。それに井戸端に佇んでいる人間はどうやら僕に気が付いているようだ。それは雰囲気で分かる。
 とすると後者か。僕はぎりっとポットを持つ手に自然と力を込め、井戸端に近づいていった。
 近づくにつれ、その人物の輪郭が分かってきた。動きやすい軽装の格好をした女性のようだ。
 更に近づく。段々とその女性の顔が判別出来るようになってくる。
 ……見覚えがある女性のような気がする。だが、僕の身の回りで見覚えのある女性とは一体誰だ。頭の中で急速に記憶の検索が始まる。だが、目の前、わずか十歩ほどの所にいる女性の記憶は掘り起こせなかった。僕は更に近づかなくてはならない。
 その時、雲が動いた。と同時に光量を増した月光が辺りを照らす。
 目の前の女性の顔がいきなり霧が晴れたように露わになる。
 「アリシア」
 僕は思わず声を上げていた。いや、違う。アリシアではない。全てのアリシアを構成するパーツと似てはいるが、微妙に異なる。目元や口元の皺、そして経験から裏打ちされるその自信がその顔に刻まれている。そう、それはまるで年を取ったアリシアだ。……ということはまさか。
 「――女王」
 「その通りです」
 聞き慣れた低い声が目の前の女性から聞こえてきた。僕は自分で意識もせずに片膝を付き恭順の礼を取る。そうせざるを得ない威圧感が女王から発せられていた。アリシアから感じたことのある威圧感の何十倍もの圧力だった。
 すると女王は低く笑ったかと思うとゆっくりと口を開いた。
 「今、まさに国家に背こうとしている人間が、私に対して恭順の礼とは奇妙なこと」
 僕は激しい焦燥感にかられながら顔を上げた。そして上目遣いで女王を見上げる。その表情は読むことが出来ない。さすがに百戦錬磨の女傑だ。僕のような青二才に表情を読ませるようなことはしない。だが、それは何となく楽しそうな表情に感じられた。
 「もう、見抜かれた、のですね」
 僕が絞り出すようにそう言うと女王はそれを肯定も否定もしなかった。
 「面を上げなさい。そのままでは話辛い」
 僕は頷いてのろのろと立ち上がった。
 僕が立ち上がるのを見届けると女王は満足そうに頷いた。
 「アリシアUはあなたと一緒に逃亡は致しません」
 それは、そうだろう。計画がばれてしまったのだから、逃亡は無意味だ。
 「なぜなら昔の私がそうだったからです」
 「え?」
 僕は間抜けな声を上げた。にわかに理解し難い。それは一体どういう意味だ。僕がそう訊こうとすると女王は僕のことなど無視して話を続ける。
 「安息日を利用しての逃亡計画はなかなかに良い考えでした。これなら逃亡時間を捻出出来る。ですが、せっかく捻出した貴重な時間をこんなところで睦言に興じるために消費したのは無駄でしたね。若い二人には無理だったのでしょうが」
 そして女王は唇を舌で湿らすと射抜くような視線で僕を貫いた。
 「で、いかがでしたか? 若い私の身体は?」
 僕の身体は震えた。視線を逸らそうとしても逸らせない。まるで見えない槍に串刺しにされたかのように僕は立ち尽くしていた。
 「申し訳、ございません」
 低頭することも出来ず僕がそう答えると女王は首をゆっくりと横に振った。
 「謝られてはアリシアUが可愛そうです。もとよりあなたは覚悟を決めてここにいるのでしょう」
 その通りだ。だが、この女王を前にして誰が反抗することが出来ようか。周囲の者、全てを圧倒するこの女王を前にして誰が反駁出来ようか。
 女王はふと蒼白く光り輝いている月を見上げ、懐かしそうな目で何かを思いだすように話し出す。
 「昔、そう今のアリシアUと同じ十五歳の時、私は一人の家庭教師に師事しておりました。本当にあなたそっくりの先生でした。それはあなたも知っていることでしょう」
 僕は頷く。その時と同じ環境にするために僕は雇われたのだ。知らなくてどうする。
 「その方は本当に、優しく、暖かく、私に接してくれました。そして何より、私を愛してくれた」
 なに?
 それはどういうことだ?
 「当然のごとくそんな楽しい日々は長く続きませんでした。私は強国シセの第二王子と婚姻を結ばなくてはならなくなってしまったのです。それは国を存続していくには大切なこと。ですが分かっていたとしても私たちの心は止めることは出来ませんでした。そんなとき、あの人はこう言ったのです。『一緒に逃げよう』と」
 莫迦な。
 そんな莫迦な。まるで今の僕とアリシアのようではないか。
 「私たちは宮殿の外にあるあの人の宿舎で一旦身を潜めました。そして愛し合いました。求め合いました。貪り合いました。そして永遠の愛を誓い合いました。ですが、次の日、私は彼の元から逃げ出したのです。私は彼が寝ている間を見計らってベッドを抜けだし王宮に戻ったのです」
 女王は大げさに頭を振ってため息を付く。
 「後はあなたも知っての通りの歴史です。私はシセの第二王子と結婚し、我が国とシセは同盟関係に。そして父が崩御した後、私はその玉座を継いだのです。逃亡計画は表面上はなかったことになり、その家庭教師も罪を問われることはありませんでした。ですが、その後二度と彼と出会うことはありませんでした」
 「ということは」
 僕は呻くように言葉を紡いだ。
 「僕らがこういうことをするのも予想の範疇だったということですか」
 女王は静かに頷いた。
 「その通りです。思春期のその出来事が今の私の人間形成に大きな役割を与えております。ですからアリシアUにも同じ経験をさせなければならなかったのです。あなたは実に理想的な家庭教師でした」
 結局、僕らは、いや僕は女王の掌の上で踊らされていただけだったのだ。あれほどのアリシアへの情熱も激しい葛藤も全てクローン計画のスケジュールをなぞっていただけだったのだ。
 だけど、僕は一つだけ質問しなければならなかった。自分の心を納得させるために一つだけ質問しなければならなかった。
 「なぜ」
 僕は内臓を絞られるかのような苦悶の表情を浮かべて問うた。
 「なぜ、あなたはその家庭教師を裏切ったのですか」
 すると女王は悲しい表情を浮かべて首を横に振る。
 「裏切ったなどという言葉を使わないで下さい。あの時永遠の愛を誓ったのは嘘ではないのです。その時、私は彼の腕に抱かれながらこう思ったのです。私はこの国の第一王女、王位第一継承者。その身体は私の物ではなく国の物、民の物。ならば『私』としてのわがままは今日、この日で最後にしようと。『私』は今日ここで燃やし尽くしてしまおうと」
 アリシアもあの時、そう考えながら僕に抱かれていたのだろうか。
 女王は激しい感情を瞳に宿して僕を見据えている。それは怒りなのか、後悔なのか、それとも全く別のものなのか分からない。
 「本当の私はあの場所で死にました。私の心は愛と絶望の中で死に絶えました。だから睦言葉も永遠に一緒に居たいと語ったあの言葉も嘘ではありません。なぜならその後の私は私ではないのですから」
 女王は誰に話しているのだろう。僕に話しているのだろうか。それとも昔の『あの人』に語りかけているのだろうか。
 そして目の前にいるのは女王なのだろうか。それともアリシアなのだろうか。
 「ですから、言うのです。あの子が私の複製である以上、私と同じ考え、同じ行動を取るでしょう。あの子は私が何も言わなくても、ここから抜けだし屋敷に戻るでしょう。そして表面上逃亡計画は無かったことになります。あなたへの罪も不問となります」
 「そんなことは。そんなことは、ない。あの子はあなたとは違う。僕と一緒に逃げるんだ」
 僕は誰にその言葉を放ったのだろう。僕はたぶん自分に言い聞かせていたのだ。
 女王は悲しげな瞳で僕を見つめた。
 「あなたも、驚くほどあの人と似ていますね。やはり血というのは争えないものです」
 僕は目を見開く。
 「それは、どういうことですか? 僕も先代の家庭教師のクローンだとでも言うのですか?」
 「いえ、あなたはあの人の息子です。恐らく。細かい調査はしておりませんが、出身地、姓名などから察して間違いないでしょう。それになにより約三百余名の候補の中から、あなたを見たとき私は直感致しました。私の子宮がそう告げました。あなたが彼の息子であると」
 女王はゆっくりと僕に近づいて来た。そして懐かしそうな表情で僕の頬に触る。
 「契約ではあなたの任は今年で終わりですが、もう少し引き続けてもらいたいと思います。次の候補がまだ見つからないのです」
 そして女王はゆっくりと僕に口づけをした。
 「期待していますよ」
 そしてそれだけ言うと僕のことを振り向きもせずに闇の中に消えていった。
 アリシアのキスと同じ味がした。
 
あわてて宿舎に戻った僕は急いでアリシアの姿を探した。
 すでにベッドの中にはアリシアはいなかった。アリシアの服も頭から被っていた黒いショールもない。アリシアの形にくしゃくしゃになったシーツの上にあったのはただ一枚の紙。
 その紙は水の中にでも浸したように文字が滲んでいた。でもどうにか判別出来た。
 その紙にはアリシアの字で『ごめんなさい』とだけ書かれていた。
 僕はその紙を両手に抱いたまま頭を押しつけた。知らずに固く閉じた瞳から涙が溢れてきた。もうアリシアには逢えないのだと思い、その莫大な空虚感に押しつぶされそうだった。
 実際、それからアリシア――アリシアUとは逢うことはなかった。
 更に一年後、我がヘイルダール王国が隣国クライバへの侵攻を開始した。それがどのような意味を持つか当然のごとく僕には分かっていた。

 「アリシア? こちらがあなたにいろいろなことを教えてくれる新しい先生ですよ?」
 するとアリシアはまるで猛獣を見るような目つきで僕を見据え、彼女を連れてきたメイドの背後にその身体を隠した。
 僕は苦笑した。仕方がない。幼い彼女、まだ十歳のアリシアは人見知りが激しいのだから。僕はとりあえず腰を屈め、彼女と同じ目線になり、にっこりと笑った。
 「はじめまして、アリシア」
 彼女はぎゅっとメイドの身体に抱きつき、僕から距離を取ろうとする。僕はため息をつく。
 だけど、彼女はすぐに慣れるはずだ。だって彼女はアリシアなのだから。
 僕はそのアリシアVから目を逸らすと、ゆっくりと腰を伸ばした。
 そして空を見上げる。
 青い空には雲が千々に浮かび、そして遠くには緑の山々が見える。ふっとアリシアUと興じたヘシャムバスケットが頭に浮かぶ。
 僕は――
 僕はまたこのアリシアVを愛することになるのだろうか。
 青空の中にアリシアUの面影を探しながら、僕の頬にはいつのまにか涙が伝っていた。




あとがき
クローンものです。
書いているちょうど同じ時期に「世界初のクローン誕生?」騒ぎが起きて、なんか流行りに便乗したようでやだなあ、と思いつつ書いていました。
でもいつも僕はクローンの話を読む度に不思議に思っていたのですよ。クローンって何の問題もなく、突然、現れるじゃあないですか。
培養液の中で成長させていたクローンがいきなり現れるじゃないですか。
そんなはずはないですよね。同一人物のクローンを育てるのなら、どこかで同じような環境で同じ歳月をかけて同じように育てないといけないはずです。これはそんなところから浮かんだ話です。
壁井ユカコさんの短編「カスタムチャイルド」の影響もちょっと受けてます。
話の設定は一つの技術だけが突出した近世ヨーロッパ世界という感じです。「オネアミスの翼」っぽい感じかな?