作 山下泰昌
県大会一回戦。対戦相手の前年度優勝校である国府大学付属船橋(こくぶだいがくふぞくふなばし)高校を前に神室北(かむろきた)高校ナインは浮き足立っていた。国府大船橋側の観客席はその全校生徒で埋め尽くされており、そして本格的な応援団がそれを統率している。目の前で繰り広げている守備練習は精密機械のようで一糸の乱れもない。部員は全てきっちりとアイロン掛けされた試合用ユニホームを身につけ、バットやグローブなどはベンチに整然と並べてある。
対する俺達はどうだ。
神室北高校の一年生、正木純一(まさきじゅんいち)はそう自問自答した。野球のスキルは言うまでもなく、まだ一回戦だというのによれよれの試合用ユニホーム、試合前だというのに莫迦話で大笑いしているベンチ。そして子供部屋の玩具のようにベンチで散乱している野球用具。
試合前から負けだ。
正木はそう嘆息した。しかしそれは神室北ナイン全てがそう思っていることだった。この試合に勝とうなどとは思っていない。この試合に賭けるものもない。相手の国府大船橋のように優勝を目指しているチームではない。神室北は野球をプレイすることを楽しんでいるチームだった。放課後の数時間、ボールを握ったりバットを振ったりしているだけのチームだった。ただ楽しく試合が出来ればそれでいいのだ。
やがて国府大船橋の守備練習が終わり、主審が両チームに集まるように呼びかけた。
正木は観念した。そして自分に言い聞かせる。
どうせ大敗を喫するだろう。でも楽しく野球をやろう、と。
――約一時間後試合は決着した。二十五対ゼロ。五回コールド。
守備のミスを連発する神室北に対して国府大船橋はまるで詰るかのように情け容赦のない攻撃を仕掛けてきた。
投げて、打たれて、エラーして、点が入って。その繰り返しのルーチンワーク。
その試合は楽しくなかった。
試合後、他の部員が早々と帰り支度をする中、正木はグランドで一人呆けていた。
勝つ、って何なんだろう、な。
正木は嘘臭いくらいに透き通った青空を見上げながらそんなことを考えていた。
県大会二回戦。強豪、国府大船橋高校を前に冨貴島(ふきしま)高校ナインは思ったより冷静だった。
国府大船橋に引けを取らぬ、と言っては嘘になるがそれでも人前に出しても恥ずかしくないくらいの守備練習を冨貴島高校ナインは繰り広げる。
国府大船橋は真剣な目でその練習を見つめている。侮りや偽りなど何一つない真剣な目だった。
最後の試合に相応しい。
冨貴島高校キャプテン、神臣聡(かみおみさとし)は最後のノックをキャッチャーに高く打ち上げ、晴れ渡った空を見上げながらそう思った。
冨貴島高校は折しもの少子化のあおりを喰らい、今年度で廃校が決まった県立校である。来年度から近隣の喜多野(きたの)高校と合併がなされる予定だ。秋からは野球部も喜多野高校と合同の練習を始めることになる。だから冨貴島高校としての公式戦はこれが最後になる。冨貴島高校二十三年の歴史に終止符が打たれることになるのだ。
神臣はスタンドを見上げる。そこには今まで合宿などで顔を見たことのあるOBの姿がある。複雑な表情をしているものもいる。晴れやかな表情のOBもいる。神臣自身、その気持ちは良く分かった。この最後の公式戦を前にして神臣は今までの三年間が脳裏に蘇ってくるのを感じていた。長い年月を掛けて熟成された発酵酒の樽底に溜まる澱のように重く、充実したその思い出は神臣の心をわずかに感傷的にさせた。
だが、神臣は頭を振って、その思いを一瞬にして振り払った。
違う。今はそんな思い出に浸っている時じゃあない。この目の前にいる敵を倒すことだけを考えるんだ。
神臣の目は野獣のような光を湛えて国府大船橋のベンチを睨み付ける。キャプテンのその姿勢はやがて他の部員達に伝染していった。レギュラーから控え、そしてマネージャーまでもが戦闘態勢に入る。
やがて主審が両チームに集まるように呼びかけた。
いよいよだ。
神臣は何かを念じるように瞳を閉じた。そしてかっと見開く。
試合開始だった。
――約二時間後、試合は決着する。九対一。冨貴島高校の野球部の歴史はその大敗によってあっけなく幕を閉じた。
県大会三回戦。孔河(あながわ)高校エース、二年の三島敬太(みしまけいた)は試合前、ベンチ裏で一年マネージャー香西美佳(こうざいみか)を前にしてその想いを伝えていた。
「でも」と美佳は顔を俯かせて戸惑っていた。三島のことは嫌いではない。好感も持っている。手製のまくらカバーなんて物を誕生日にプレゼントしたこともある。だが恋人として付き合うなどということは考えたこともなかった。だから試合前のこの時に、それを口出されても困るし、戸惑う。
だが三島は試合前だからこそ美佳に想いを伝えたかった。相手が県内最強と呼ばれる国府大船橋が相手だけにそれを伝えたかった。
しかし、答えをいつまで経っても決めかね、それどころか戸惑いの余り、断りを入れようと困惑した表情で口を開き掛けている美佳を見て、三島はあわててそれを遮った。
「今日」
美佳はその突然の言葉に驚いたように三島を見上げる。
「今日、俺は国府大船橋打線を0点に抑える」
三島は熱を帯びた目でそう語る。
「もし0点に抑えることが出来たら。その時は俺と付き合ってくれるか?」
自分を愛するということと国府大船橋の完封とが一体どういう繋がりがあるのかと、その理屈の不整合さに首を傾げたくもなったが、三島の情熱と、問題を先送りに出来ることと、それがチームの勝利に直結するという考えが瞬時に浮かび、美佳は思わず頷く。
三島はそれを見て破顔した。そして自分に言い聞かせるように呟いた。
「頑張るよ。そしてもし負けた時にはもう君の前には現れない」
――初回、味方のエラーで動揺した三島はいきなり失点を喫した。そしてその後モチベーションを維持出来なくなった三島は五回まで三点を奪われ降板。結局八対二で孔河高校はあえなく二回戦で敗退した。そして三島はこの試合で野球部を退部し、そして言葉通り美佳の前に二度と現れることは無かった。退部したことを知った時、美佳の頬にはなぜか涙が伝った。その理由は美佳自身にも分からなかった。
四回戦。柿崎健一(かきざきけんいち)は浅く被った野球帽から見え隠れするその茶髪を隠すこともなく、国府大船橋打線に渾身の力でボールを放っていた。髪は一応黒く染め直したのだが、なかなか上手くいかなかった。柿崎はストレートを中心にカーブを混ぜてテンポ良くキャッチャーミットに球を放り込む。その度に国府大船橋の選手たちのバットは空を切り、凡打を重ねる。その様子を見守りながら岡田工業(おかだこうぎょう)高校監督、皆川清(みながわきよし)は満足そうに頷いていた。
数ヶ月前まで柿崎はどうしようもない不良であった。喫煙、飲酒、不登校なのは当たり前のこと、暴力事件や恐喝事件で警察の世話になること度々だった。その度に担任でもある皆川も呼び出された。柿崎には手を焼かされ続け、ほとほと困り果てていた。そんなある日、皆川は偶然、誰もいない校舎裏で壁に向かって球を放る柿崎の姿を目撃する。
その姿を見て驚愕した。理想的な投球フォーム。そしてしなやかな右腕から繰り出されるキレのある速球。皆川は次の瞬間何の躊躇もなく柿崎を野球部にスカウトした。
よくよく訊いてみると柿崎は少年時代リトルリーグのチームに入っていたらしい。だが中学で野球より楽しいことを見つけてしまった。友人達と夜な夜な街に繰り出している方が楽しかったのだ。やがて柿崎の歯車が少しずつ狂い始めた。
その天性の素質は磨いている内に徐々に輝き始めた。ストレートのスピードは増していき、打者の手元で微妙に変化した。弱小校相手の練習試合では三振の山を次々に築き上げて行った。初め練習をすることを面倒くさがった柿崎であったが、次第にその成果が目に見えるように現れてくると強制せずとも自ら積極的に行うようになっていった。喫煙、飲酒もいつの間にか止めていた。
こいつが国府大船橋相手にどれだけ食いついて行けるか。
皆川は不安と期待を胸に試合の経過を見守っていた。
――国府大船橋打線は打者一巡目はそのクセのあるストレートに手こずるも、二巡目以降すぐに順応していった。四回以降は毎回安打で計五点を奪取。五対一だった。戦前には苦戦を予想されたが、終わってみれば国府大船橋の圧勝であった。
翌日から柿崎は野球部の練習に来なくなった。学校にも現れなくなってしまった。皆川には、もう一度柿崎を説得するための自信は持っていなかった。
県大会準々決勝。今大会屈指の強打者との呼び声高い坂井大学付属(さかいだいがくふぞく)高校三年の四番バッター漆原政志(うるしはらまさし)は今日三度目のバッターボックスで焦りを感じていた。二回に回ってきた打順では国府船橋のエース嘉藤(かとう)の前に空振りの三振。そして四回、死球で得たランナー一塁の場面で回ってきた時には平凡なサードゴロ。
そして三度目に訪れた七回ノーアウトランナー二塁で回ってきたこのチャンスに自分が何とかしなくてはもうこの国府船橋高校から点を奪うことは出来なくなってしまう。そしてプロへの道が閉ざされてしまう。
漆原はちらりとその視線を観客席のとある場所に向けた。そこにはこの暑いのにスーツをびっしりと着込んだ男と、こちらはラフなポロシャツとサングラスを云う出で立ちの二人の中年の男がいた。公にされてはいないがそれはとあるプロ球団のスカウトだった。県内一と噂をされるその打棒を見に来ており、今日の結果次第ではドラフトの下位での指名もあり得るということだった。
じっとりとバットを握る掌に汗が滲む。
今は七回。敵エース嘉藤は調子良く、ここまで一安打しか喫していない。この回に結果を残さないと次の打順は無い可能性がある。
ぶち込んでやる。特大のホームランをスタンドにぶち込んでやる。そしてスカウトどもに強烈に俺の印象を焼き付けてやる。
ぎり、と漆原は歯を食いしばった。急速に精神が集中しているのが自分でも分かった。
だが、次の瞬間漆原は己の目を疑うことになる。
国府大船橋のキャッチャーがおもむろに立ち上がったのだ。そして大きく外側にそのミットの位置を配する。嘉藤も緩いボールを漆原の手の届かない所に投げ込んだ。
敬遠――
漆原は顔面を悲痛に歪ませ声にならない叫びをあげた。そして主審に一塁への進塁をコールさせられ、ゆっくりと向かったとき、腰を上げて帰ろうとするスカウト二人の姿が目に入った。目の前の光景が溶けだした飴細工のように歪んでいった。そして漆原はそれから後、試合終了まで自分が何をしたかの記憶すらなかった。
――県大会準々決勝国府大船橋対坂井大付属の試合は国府大船橋のエース嘉藤が坂井大付属の主砲漆原を上手く抑え、四対0で国府船橋が勝利した。そして漆原のプロ入りの話は消失し、とある運送会社に就職することになった。
県大会準決勝。明野学園(あけのがくえん)ナインはベンチ前で円陣を組んだ。そしてキャプテンの掛け声とともに全員が吼えた。
ベンチには遺影が飾られている。つい三日前まで病魔に冒されながらもグランドで陣頭指揮をしていた明野学園野球部監督、神代浩三(かみしろこうぞう)のものだった。神代は厳しい監督であった。打倒国府大船橋を掲げ、朝は日の出前から、そして夜は自分の車のヘッドライトを照明代わりにして激しい守備練習を行った。日曜も試験休みも盆も正月もなく練習は続いた。そして遠征試合を繰り返した。当然のごとくその厳しい、というより激烈な練習の為に辞める部員は後を絶たなかった。だが、それだけにこの残った部員の実力は信じられないくらい増していた。下馬評でも国府大船橋を倒す最右翼に挙げられていた。
だが、その直前になって神代は逝った。
長年の監督業の無理が祟ったのであろうか。選手たちに休みのないということは必然的に監督にも休みが無いということである。まして神代はプライベートの時間も全て野球部の為に費やしていた。そしてその私財すらも野球部のために費やしていた。そしていつも必ず陣頭指揮。それが神代の持論であった。自ら動かなくては選手たちも着いては来ない。そう考えていた神代は自らが率先してグランドに降り立っていた。
神代の死に選手たちは涙した。いつも厳しく優しい言葉など掛けられたこともない監督だった。憎くていなくなってしまえばいいのにと思うこともあった。だが、まさか本当にいなくなってしまうとは誰一人思わなかった。それに本当に野球部のことや選手のことを優先で考えてくれていることは肌で分かっていた。
だから。だから、今日は負けられない。
明野学園ナインは今、一つの意志で統一されていた。
今日、天国の神代監督に勝利を贈る。それだけだった。
――国府大船橋高校の戦力の充実度は関係者の予測を遙かに越えていた。エースの疲労と控えの投手の故障で急遽この大舞台で初登板した新戦力の一年生投手、風間俊(かざましゅん)がその高校生離れをした速球を武器に三振の山を築きだしたのだ。明野学園ナインのバットはくるくると空を切った。面白いように空を切った。涙を流しながら空を切った。今までの練習は何だったんだと呪詛を込めながら空を切った。
結果、国府大船橋は主力を温存したまま三対0でもう一つの優勝候補と呼ばれた明野学園を一蹴した。明野学園ナインはグランドの真ん中で試合後、人目も憚らずに号泣した。
――県大会決勝戦。国府大船橋高校打線は沈黙していた。超高校級という触れ込みの大沢商業(おおさわしょうぎょう)高校の左腕、森仁政(もりじんせい)の前に完璧に抑えられていたのだ。ときおり百五十キロを越す速球と大きく落ちるフォークを武器に森は三振の山を築いていった。だが、国府大船橋も森の死球をチャンスとし、単打を重ね、八回に虎の子の一点を奪取。そしてその充実した投手陣で、大沢商業打線を0点に抑えていた。そして迎えた九回裏。ツーアウトを取ったところで国府大船橋エース嘉藤の四球とワイルドピッチで大沢商業は走者を二塁に進めた。
一打同点のチャンス。
ここで大沢商業監督は代打に岬庄一(みさきしょういち)の名前を告げた。
岬は三年だった。そして三年間常に補欠であった。だからこれが公式戦に出る初めての機会だった。バッターボックスに入る前に数回鋭く素振りをする。胸が高鳴る。緊張する。だが不思議と心は落ち着いていた。そして腹の底にどっしりとしたものが溜まっているのを感じていた。
いける。俺はこの投手の球を打てる。
岬はそう予感、いや確信していた。この土壇場にしてこの落ち着きようは自分でも驚いていた。監督もそれを見込んでの代打起用であったのだろう。
バッターボックスに入る。構えがびしっと決まり不動のまま敵投手嘉藤を見据える。嘉藤はわずかに動揺した。こういう雰囲気というものは対峙すると伝わるものだ。
いける。俺は今日、この一打席の為に今までの三年間厳しい練習をしていたんだ。
岬はマウンドに立つ嘉藤を睨み付け意気込んだ。その気合いは完全に嘉藤を飲んでいた。
その時、突然国府大船橋のセカンド木下が大きくリードしている大沢商業二塁走者にゆっくりとそのグラブをタッチした。
二塁走者も岬も一瞬、何が行われたのか判らなかった。だが直後に塁審が大きくポーズを取りアウトの申告をする。
それはいわゆる隠し球という行為だった――
「試合終了」
主審の声が高らかに響く。国府大船橋ナインは歓喜に湧く。優勝だった。
岬は天を仰いだ。
岬の高校三年間の野球人生は結局、公式戦でバットの一振りもせずに終わった。
国府大船橋セカンド木下はたった今アウトを奪ったそのグラブを見つめながら複雑な思いを胸に漂わせていた。
勝つ、って何なんだろう、な。
大沢商業の最後のバッター岬の涙がグランドの砂に吸収されていく様を呆然と眺めながらそんなことを思っていた。
オンライン文芸雑誌『文華』さんの『トライアングル掌編文学賞』に投稿した同名小説のバージョン違いです。ラストの一戦だけが異なっております。
こちらの方が投稿したものより、面白い切り口になったかなあ、と思っておりますがどうでしょう。
どっちが良いですかねえ。
負ける、ということを徹底的に書きたかったマゾ的な話ですね。