作 山下泰昌
仕事が終わって帰宅すると、すでに夜十一時を回っていた。暗闇に包まれた街を突き進み、自宅の玄関の前に立つ。
少しずれた眼鏡を直して自宅を見上げる。
自宅にはただの一つも灯りが点いていなかった。
窓からこぼれる光もなかった。
花島正樹(はなしま まさき)はわずかに項垂れると、気を取り直して玄関の鍵を開けた。
「ただいま」
真っ暗な玄関に佇むと正樹はそう小さく呟く。だが、小さく呟いただけなのに、その言葉はやけに大きく聞こえた。家中に響いた気がした。
正樹はすかさず、玄関の灯りを点けた。光が目を刺して一瞬目が眩む。
靴を脱ぐと、そのまま歩を進め、廊下、階段に次々と灯りを点けていく。そして二階に上がり、すぐ上がり際にある部屋の扉の前に立った。
扉のノブに手を掛け、正樹は一瞬、躊躇した。だが気を取り直し扉の向こうに声を掛ける。
「茉莉(まり)。入るよ」
返事はない。
正樹はそれを了承の意味と取った。
力を入れてノブを回し、扉を押し開く。
中の部屋は闇に包まれていた。だが、窓辺から差し込む蒼い光が優しく部屋を照らしていた。
正樹は反射的に月光の差し込む窓辺を見る。
そしてそこにある光景を目にし、心を痛ませた。
窓際にぴったりと付けられたベッドの上に、立て膝を突いて背中を見せている少女。
少女の姿は逆光で陰になっていたが、そのピンクのパジャマと見慣れた小柄な姿は確認出来た。
茉莉――
正樹はそう声を掛けようとして躊躇う。
その後ろ姿があまりに切なかったから。
その後ろ姿が消えて無くなりそうだったから。
まるで額縁で夜空を切り取ったような窓から茉莉は月を見上げていた。
そんな茉莉の顔は月の光で蒼白く照らされている。
「茉莉」
正樹はゆっくりと歩み寄り、その存在を確かめるように小さな肩にそっと手を置いた。
茉莉は正樹の存在に気が付いたように小さく後ろを振り仰いだ。
目と目が合ったことで、ようやく正樹は安堵し、小さく頷く。
茉莉は再び、視線を窓の外に移した。
視線の先には大きな月。
柔らかな光を放つ満月があった。
正樹はその月を見ていると、何か引きずりこまれそうな思いに囚われた。
何かに魅入られそうな思いに。
「茉莉」
正樹はもう一度少女の名前を読んだ。
「あまり月を見続けてはいけないよ」
正樹は大した根拠もなく、そんなことを口走っていた。
なぜだろう。
正樹は自問自答する。
茉莉はそんな正樹の呼びかけに応ずることもなく、ひたすら月を見続けていた。
その目には何かを追い求めるような、思慕するような柔らかさが見てとれた。
正樹はその瞳と月とを交互に見比べる。
そしてようやく、何かが判った気がした。
ああ、美由紀(みゆき)か。
正樹は月を見上げる。
物静かで、柔らかな光を放つ月は美由紀に似ている。
そういえば、美由紀は月夜のデートが好きだったな。
正樹はそんなことを思い出す。
月の光をいっぱいに浴びて、そしてあなたと一緒に歩いていると、昔読んだ童話のお姫様になったような気がするの。
そんなことを恥ずかしそうに月夜のデートの度に言っていた。
美由紀――
正樹は月を見上げる。
僕は。
僕はどうしたら、良いんだろう。
正樹は月の中にある妻、美由紀の面影にそう問い掛けたが、月は相変わらず柔らかな蒼い光を放ち続けるだけだった。
八歳年が離れている正樹と美由紀が出会ったのは、やはりこんな満月の夜だった。
正樹がまだ入社したての頃、上司と付き合いの酒を飲み、したたかに酔って家路についていた。
真面目過ぎるほどに真面目な正樹は他の同僚と同じように上手い断り文句を考えることも出来ずに正直に最後まで付き合っての帰宅だった。
帰宅途中にある公園を横切った時、制服姿の女生徒がベンチに座っているのが目に留まった。
いつもならベンチに座っている人間なんて、なんということなく見過ごすはずなのだが、その時は思わず、足を止めて見入ってしまう程気になってしまった。
三つ編みにまとめた艶のある長い髪。
透き通るような白い肌。
そしてその瞳は月光に反射してきらきらと輝いていた。
その制服は近くにある女子校のものだ。
こんな時間にどうしたんだろう。
塾の帰りだろうか。
彼氏と待ち合わせだろうか。
……ともかく。何より物騒だ。この辺はつい最近もろくでもない事件があったところだ。
こんな、奇蹟のように可憐な娘をそんな事件に巻き込ませたくない。
酔いのせいもあっただろうか。正樹は自分でも思いも寄らぬ行動力で美由紀に近づく。そして話し掛ける。
「あの……。どうしました? こんな時間にこんなところで一人でいると物騒ですよ」
突然、見知らぬ男に声を掛けられた美由紀はきょとんとしてその淡い瞳を正樹に向けた。
その真っ直ぐな瞳を向けられて正樹は急に客観的になる。
すうっと酔いが覚める。
どう見てもこれはナンパだ。もしくは援助交際目的の危ないオヤジの手口だ。
そう後悔して美由紀の返事を待たずに立ち去ろうとした時、美由紀の口が開いた。
「夜の空気を吸っていました」
「え?」
正樹は驚いたように歩を止めた。そして振り返る。
「昼間の空気って騒々しくて。ゆっくりと空気を味わうことも出来ない。でも夜はそれが出来ます」
そう言って美由紀はにっこりと笑った。
「は、はあ」
正樹は毒気を抜かれたように頷く。美由紀はゆっくりと目を瞑る。
「そして星や月を見上げるんです。何か平面上に配置されたように見えるけど、星って何万光年も離れているんでしょう? だから夜空って飛んでもなく奥行きがあるんですね。そう考えると自分が宇宙の彼方に吸い込まれそうになるというか、落下しそうになるというか、どっちが上か下か判らなくなるというか」
美由紀は再び、瞳を開き、夜空を見上げる。喉元の白さが危うい。
正樹はわずかに狼狽えて視線を逸らす。
美由紀は幼子のように星空に見入っている。
「……つまり」
正樹は自信なさげに言葉を選ぶように声を絞り出した。
「……それがたまらなく楽しいんですね」
「え?」
正樹の言葉に一瞬、目を丸くしていた美由紀だったが、すぐに相好を崩すと小さく頷いた。
「はい」
美由紀はますます嬉しそうに夜空を眺める。
「あの月が欲しいなあ。そしてポケットの中にしまい込みたいです。きっとポケットの中に入れたままでもぼおっと光って辺りを照らし出すのでしょう」
正樹は美由紀のその言葉に驚いたように言葉を挟む。
「でも月はそんなに小さくはないですよ。直径1738キロメートルもある天体なんです。ポケットには入りきらないですよ」
美由紀はぷっと吹き出した。
「……なんで、月の直径なんて覚えているんですか」
「え、いや……」
正樹は馬鹿正直に返答してしまった自分を恥じた。そして顔を真っ赤にして俯く。
そんな正樹を面白そうに観察していた美由紀はおもむろに口を開いた。
「その眼鏡を貸してもらえますか?」
「え?」
「その真面目そうな眼鏡越しに月を見たらどんな風に見えるのかと思って」
戸惑う正樹を後目に美由紀はゆっくりと立ち上がり、両腕を伸ばした。そして正樹の眼鏡を静かに外す。
美由紀の匂いが夜の闇に紛れて漂って来て正樹は戸惑う。
「よいしょ」
美由紀は正樹の眼鏡をまるで高価な宝石を手にしたように扱う。
そして掛けた。
無骨な正樹の眼鏡は美由紀には合わないと思った。だが、それは意外に美由紀の新たな魅力を引き出しているようにも思えた。
美由紀は正樹の眼鏡を付けたまま、しばらく月を見ていたかと思うと、やがて満足したようにその眼鏡を外し、丁寧に畳んで正樹に手渡した。
「ど、どうでしたか? 眼鏡越しの月は?」
正樹は眼鏡を掛け直すと美由紀に問う。
すると美由紀はにっこりと笑って、
「二つ判ったことがありました」
と楽しそうに言った。
「なんです?」
「一つは真面目そうなあなたが掛けている眼鏡越しに見た月は、ぼんにゃりとしていてファンタジックだったということ」
「もう一つは?」
「もう一つは眼鏡を外したあなたの瞳がとても綺麗だったということです」
美由紀はその時は初めて恥ずかしそうに肩を竦めた。
美由紀はこんな風に浮き世離れした女性だった。
真面目すぎるほどに真面目な正樹にはそれがたまらなく魅力的に見えた。ほどなくして二人は恋に落ち、美由紀が高校を卒業して二年後に結婚した。
その二年後、茉莉が産まれ、正樹は愛する妻と娘のためにと今まで以上に仕事に没頭した。朝は日が出ていない内に出勤し、帰りは必ず午前様だった。たまの休日も普段の疲労のため泥のように眠り込むだけだった。その為、美由紀や茉莉と会話することも少しずつ減っていった。
そんな矢先だった。
美由紀が事故に遭って永遠に還らぬ人となったのは――
正樹は悲嘆に暮れた。
そして自分を苛む日々が続いた。
僕は一体、何をやっていたんだろう、と。
もっと話すことがあったのに、と。
もっと一緒に見たい景色があったのに、と。
もっとその存在を感じていたかったのに、と――
だが、いつまでも落ち込んではいられなかった。
彼には茉莉という娘がいたからだ。
正樹と茉莉の二人っきりだけになった家はどこか寂しげで広すぎるような感じがした。
仕事は大幅に減らした。そして家事でやりきれない所は週に一度家政婦を雇った。どうしても仕事で間に合わない時には母――茉莉にとっては祖母――に夕御飯を作って貰った。
出来る限り家に居るようにした。
だが、正樹は茉莉とどう接して良いのか判らなかった。
それまで仕事という隠れ蓑で茉莉のことはほとんど美由紀に任せっきりだった。
正樹は実直であるがゆえに子供とは嘘をつかずに真正面で心から付き合いたいと思っている。だが、いざ、何の疑いもないような子供を前にすると、何を話したらよいか戸惑ってしまうのだ。
澄んだ瞳で心を覗き込まれるように見つめられると、どう接したら良いか躊躇してしまう。
だから、美由紀がいなくなった今、茉莉と何を話したら良いのか判らない。どういう態度を取ったら良いか判らない。どう、心の支えになったら良いか判らない。
悲しみの縁に暮れている茉莉にどう触れたら良いか判らない。間違った触れ方をしてしまったら、ぱあんと泡のように弾けてしまうのではないか。
正樹は小さい茉莉の後ろ姿を見ながら、いつもそんな思いに囚われていた。
美由紀、僕はどうしたら良いんだろうね。
正樹は何気なく月を見上げる。
同時に美由紀の思い出が蘇る。
茉莉が産まれた時のこと、新婚時代のこと、結婚した時のこと、毎日のようにデートしていた時のこと、出逢った時のこと――
ああ、そうか。
正樹は頷いた。
そうだよね、そうしよう美由紀。
茉莉、あなたはね、お母さんとお父さんの大切な宝石なの。
そう、あの月みたいにね、いつまでも輝きを絶やさない宝石なの。
だから、泣かないでね。悲しくなったらいつでもお母さんやお父さんがそのポケットの中で慰めてあげるから。守ってあげるから。
うそつき。
茉莉は今夜も月を見上げる。
私はこんなに悲しいのに、私はこんなに寂しいのに。
いつでも慰めてくれると言ったお母さんはもういない。
一筋の涙が頬を伝う。
いつか悲しくなくなる時が来るのかとも思ったが、そんな日はまだまだ訪れてこなかった。
父親の正樹とはどう接したら良いか判らなかった。普段話したことが無いだけに、何を話したら良いのかも判らなかった。
正樹が茉莉に対して臆病な壁を作っていることを茉莉は子供ながらの敏感な感性で感じていた。それだけに接し辛かった。
「茉莉」
なに? と茉莉は涙を拭いつつ、後ろを振り仰ぐ。
その父だった。
大きな掌が茉莉の右肩を優しく覆うように載せられる。
正樹が微笑んでいた。そして眼鏡越しのその瞳が優しく茉莉を見つめていた。
この眼鏡越し瞳は何を語ろうとしているんだろう。
正樹の心が眼鏡というフィルターで緩衝されているようで、それが茉莉には歯がゆかった。
だけど、肩に置かれた手の温もりは安心出来た。
「行こう、か」
「え?」
なにが?
どこへ?
茉莉はその言葉を捉えかねていた。だが、すぐにその意味は正樹の口から明らかになる。
「月を捕まえに行こうか」
正樹は茉莉にそう言って優しく微笑み掛けるとおもむろに上着を身に纏った。
そして部屋の扉の方に歩いていく。
茉莉は呆然とその正樹の様子を見入る。
「どうした? あの月を取りに行こうよ」
茉莉はふるふると首を横に振る。
「……無理。だって、月は宇宙にあって、もの凄く遠いところにあって、直径1738キロメートルもあって」
だが正樹は茉莉のそのセリフに目を丸くすると、思わず、吹き出した。
「月の直径を覚えているんだね?」
茉莉は戸惑いながらも小さく頷く。
「この前、図書室で借りた本に……」
正樹は茉莉の部屋を見回す。
そう言えば本棚には本がいっぱいだ。そうか茉莉は読書が好きなのか。
僕と同じく。
「月はね、西に向かって落ちて行くんだ。だから僕らも西に向かって行けば捕まえられるかも知れない。さあ、行こうよ」
「う、うん」
茉莉は促されるまま、パジャマの上に上着を羽織り、部屋を出ていった。
正樹はキーを回し、アクセルをふかし車を走らす。
夜の街の空気を割って滑るように発進した。
助手席の茉莉は居心地悪そうに身体を小刻みに動かす。
街灯が糸を引くように後方に流れていく。
ネオンが煌めいては消え、後方に流れていく。
夜の湿った空気の海を街の灯りという名の魚が泳ぎ去って行く。
初め緊張していた茉莉は思わずその光景に見入って行った。
半分開いた窓から心地よい夜の空気が流れ込んで来る。
茉莉は窓から顔を半分覗かせた。
「茉莉。危ないから窓の外には顔を出しちゃいけないよ」
茉莉は正樹を振り返る。そしてその姿を確かめるように正樹を見る。
車は夜の街を行く。
西へ、西へと。
途中でガソリンを給油して、とてとてと行く。
西へ、西へと。
だが、月はその鏡のような淡い光を放ったまま、一向に近づいている様子はない。
手の届くところに近寄って来ている様子はない。
「……」
茉莉が何か言いたそうに正樹の方を向く。
その視線に気が付いた正樹は茉莉に顔を向ける。
「どうした?」
「……無理だよ。月には追いつけないよ」
無念そうな表情でそう言う茉莉に正樹は頷いた。
正樹はゆっくりと車を路肩に止め、ハザードランプを点ける。そして助手席の茉莉に話し掛けた。
「そうだね。今日はこの辺で帰ろうか」
さらりと放たれたその言葉の意味に、茉莉は戸惑った。
「……『今日は』って?」
「そう。明日また追いかけてやろう。そしてまた次の日もね。そしていつか捕まえてやろう」
茉莉は初め驚いたように目を見開いていたが、すぐに相好を崩した。
そしてその言葉を噛みしめるように頷く。
「……うん」
正樹は車を再び発進させる。そしてUターンさせ、今度は東へと進路を取る。
車はのろのろと帰途への路を辿る。
「明日はさ。水筒にお茶を入れて、サンドイッチ作って来ようよ。そうすれば、もう少し長く追いかけられるかも知れない」
正樹のその言葉に嬉しそうにしながら、茉莉は小さく吹き出した。
「……お腹、すいたんだ」
「うん。茉莉は?」
「少し」
茉莉は恥ずかしそうに呟いた。
車はさらにとてとてと東へ向かう。行きに同じ道を通って来たはずなのに、月の光に照らされた夜の街はまるで違う顔を見せていた。
それは茉莉にとってもの凄く新鮮だった。
窓から流れ込んでくる空気は昼間の空気と異なり、わずかに湿っぽい。
その湿り気は胸一杯に吸い込むと何か懐かしいものを感じさせてくれて茉莉にとって心地よかった。
ふと運転席の正樹を見上げる。
前から思っていたことがあった。
……。
今だったら言える気がする。
逆に今しかチャンスがないような気がする。
口と心がむずむずとする。
そして気が付いたら意図せずに初めの言葉が口をついて出ていた。
「あの……」
「なに?」
茉莉は躊躇った。自分の放とうとしている言葉の意味とその唐突さに改めて気が付いたからだ。
だが、次の言葉を待つ正樹の優しい瞳を見つけ、力を得る。
茉莉は緊張しつつも、そして恐る恐るその言葉を発する。
「……その眼鏡、掛けてみて、いい?」
茉莉のその問いに正樹はわずかに驚く。そして好奇心一杯のその瞳に美由紀の姿が重なった。
正樹は頷いた。
優しい笑みを口元に浮かべて。
そしてその瞳を潤ませて。
再び路肩へ車を駐車させた正樹は眼鏡を外し、茉莉に手渡した。
茉莉は嬉しそうにその眼鏡を顔に当てる。サイズは大きすぎたので、手で支えないとずり落ちてしまいそうだった。
茉莉は目をしょぼつかせて窓越しに月を見上げる。
そしてすぐに眼鏡を外すと目をこすりながら正樹に返した。
「どうだった?」
「……ぼんにゃりして、良く見えない」
「そうだね。僕の眼鏡は度が強いから」
正樹は眼鏡を掛け直しながらその言葉を噛みしめるように聞いた。
「あと、ね」
「ん?」
すると茉莉は顔をみっともないくらいにくしゃくしゃにして笑った。そして顔を真っ赤にした。
「……ごめんなさい。なんでもない」
そして拗ねたようにそっぽを向くと何か宝物でも見つけたように楽しそうにくすくす笑うのだった。
正樹はそんな茉莉を嬉しそうに横目で見ながら車を発進させる。
――月の光はそんな二人を優しく照らし続けていた。
moricaさんなりやさん共同企画「メガネを外したら可愛いオヤジ小説競作(仮)」の参加作品です。
純粋なラブコメで参加する手もあったのですが、どうせなら自分のネタ帳にあるネタを使った話を書きたいな、と思ったのでこういう柄でもない話になってしまいました。
僕自身、夜の街を一人で歩くのは大好きです。夜の空気を胸一杯に吸って歩いていると時々なんだかせつなくなる時がありますね。それが好きなんですが。