とても不思議なお話〜輪廻転生

作 山下泰昌


 いつもの昼休みのいつもの社会科準備室。
 実用性皆無に等しいその狭く細長い部屋の一番奥で、机を間にして社会科教諭の大弓泰旻(おおゆみやすふみ)とその生徒清水佳代(きよみずかよ)は互いに向き合っていた。
 その机の上には今食べ終わったばかりの弁当と湯気を上げているコーヒーカップが載っている。
 コーヒーを一口含み、昼食を平らげたその興奮から一息付いた佳代はふっと何かを思いついたように口を開いた。
 「ね、先生。さっきの歴史の授業で何か途中で言いかけて止めたでしょ。何を話そうとしたんですか?」
 「え?」
 午後の日溜まりの中で一瞬、我を忘れて呆けていた大弓は、その佳代の一言で現実に引き戻される。
 「なんだっけ? 僕、何か言いかけて止めたかなあ?」
 「ほら。授業の最後に豊臣秀吉の小田原攻めの話になって。それで先生、何か話そうとしたらチャイムがなっちゃって」
 「ああ」
 しばらく自分の脳内を検索していた大弓はその佳代の説明でようやく合点が行った。
 「伊達政宗の話をしようとしたんだ。どうも駄目だね。戦国時代は語りたいエピソードがたくさんあって困るね。絶対受験には必要ないっていうのに」
 佳代は大弓のその弁解めいた口調をくすりと笑う。
 脱線先生。
 それがこの大弓に付けられたあだ名だ。物語好きな大弓は別に戦国時代を問わず、すぐに話の筋を逸れてそれに纏わるエピソードを語り出す癖がある。真剣に勉強をしようとしている生徒には敬遠されがちだが、そんな生徒はまずいないので、生徒達の間では愛されている。
 「『だてまさむね』って。確か東北地方の武将ですよね」
 佳代はその可愛らしい顎を小さく上に向けて思い出すように眉をしかめた。
 「そう。あと二十年早く生まれていれば信長、秀吉、家康と天下取りを争えたのに、と惜しまれた名将だね。でも逆に二十年早く生まれたら今度は逆に上杉、武田、今川が南で全盛だったわけだからそれも眉唾ものだけどね。つい最近NHKの大河ドラマでもやったから有名だよね。『梵天丸もかくありたい』は名セリフだったなあ」
 すると佳代は小首を傾げて
 「つい、最近ですか?」
 と訊き返した。
 そこで大弓は初めて「あ」と声を上げた。
 「そうか。もう最近じゃないんだ」
 社会人になると年月の感覚が麻痺してしまう。自分が青春時代に経験したものは常に『最近』のつもりでいた。おまけに佳代は自分より十四歳も年下なのだ。自分が数年前だと思っているものはもう全て『物心付く』前であることが大半なのだ。
 「ごめん、ごめん。伊達政宗ってのはね、『独眼竜』の異名を取った名将でね。片倉小十郎を右腕にして東北地方の覇権を握った大名だよ。それで」
 「すみません。ちょっといいですか? 『どくがんりゅう』、ってなんですか」
 気持ちよく語りだした大弓の言葉を遮るように佳代は問うた。
 「『独眼竜』? それはね」
 と答えかけて大弓は
 しまった
 と激しく後悔した。
 莫迦か、僕は。
 あわてて話をすりかえようと佳代の表情を盗み見たが、佳代は大弓の次の説明を待ち望んでいるかのように静かに耳を傾けている。
 仕方が無く大弓は絞り出すように話を再開した。
 「……ええと。正宗はね、幼少の頃疱瘡を煩ったんだ。そして生命の境を彷徨った。数日後奇跡的に正宗は回復したんだけど、その代償として右目を失ったんだ。だから満海上人生まれ変わりと言われたりもしたんだ」
 「満海上人って?」
 「ええとね。もの凄く徳の高いお坊さんで正宗と同じく右目を失っている……」
 説明しながら次第に自己嫌悪に陥る自分を感じていた。
 本当に莫迦だ。僕は。
 正宗の話を始めた辺りでこういう展開になりそうなのは分かっていたことじゃないか。いや、そうじゃない。『独眼竜』なんて単語を誇らしげに語りだしたのがいけないんだ。
 だが、佳代はそんな大弓の内心を知ってか知らずか楽しそうにその小さな口を開いた。
「……そう。でも片目だけで済んで良かったですね」 
 佳代は努めて明るくそう言った。
 ごめん、佳代君。
 大弓は心の中で謝った。そして机を挟んで真向かいに座っている佳代の表情を不躾に探る。
 だが、大弓のその視線を佳代は感ずることは出来ない。
 なぜなら佳代の両の目は光学的に画像を結ぶことはもう出来ないからだ。
 佳代の両目が開くことは未来永劫あり得ないからだ。
 大弓は必然的に五年前の出来事を思い出す。
 大弓がまだこの学校の講師ではなかった時の話、そして佳代の家庭教師をしていた頃の話だ。そして佳代が永遠に光を失ってしまった時の話でもある。
 僕の所為だ。
 大弓は深く俯く。
 「先生?」
 向かいの大弓が沈黙してしまったことで、佳代が不安気に呼び掛ける。大弓はその声にようやく我に返った。
 視覚が無い佳代にとって、言葉は大事な外界の情報源なのだ。いつまでも落ち込んではいられない。何か話を探さなくては。何か言葉を繋げなくては。 
 「あ、そうだ。生まれ変わりと言えばね。昨日見たテレビの番組でこんな話を見たんだ」
 大弓の話が再開されたことと、どうも話の主題から脱線しそうなことで佳代は瞳を閉じたまま、嬉しそうに微笑んだ。
 佳代は大弓の話を聞くのが好きだった。それもとりとめもなく展開していくその脱線話が。
 「どんな話ですか?」
 佳代は先を促す。
 「うん、とても不思議な話なんだ。それはね――」

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 インドの首都デリーに貧しいながらも仲睦まじい家族がいた。
 四十一歳の父、三十八歳の母、そして十二歳の兄ラダと八歳の妹ラジェシェの四人の家族だった。
 ラダとラジェシェはとても仲の良い兄妹で、食べ物はいつも互いに分け合って食べ、遊びに行く時もいつも一緒に行く程だった。ある時、デリー郊外に住む叔母からそれは綺麗な石で作られたネックレスをラジェシェが貰った時だ。ラジェシェは次の日、それを解き組み替え、もう一つのネックレスを作って兄にプレゼントした。自分が抱いた喜びを兄にも分かち合いたいと思ったからだ。
 それほどに仲の良い兄妹だった。
 そんなある日のこと。
 その日のデリーは激しい突風が吹き荒れていた。
 普段、家の前の細い路地で遊ぶ兄妹は屋内で遊ぶことを強いられることになった。
 初めインドの伝統的な言葉遊びで戯れていた二人は、それに飽きると追い駆けっこを始めた。二人の自宅は石造りの二階建てだった。両親が仕事のため不在であることを利用して二人はその全てを使って追い駆けっこをしていた。
 悲劇はその時に起こった。
 二階から兄の猛追を避けるため足早に階段に差し掛かったラジェシェはその最上段でふいにバランスを崩した。手すりにあわてて寄りかかる。だがラジェシェにとって不運だったのはその手すりにヒビが入っていたということだった。
 事故というものは不運がいくつも重なって起こるものだ。階段が折り返し式であったということも不運だった。
 何か信じられないものを見るようなラダをそこに残して、砕けた手すりとともにラジェシェは階下へ落下した。
 そして石の階段に激しく頭を打ち付けたラジェシェはもう二度と両親に会うこともなく、ラダに笑い掛けることもなかった。
 ラジェシェは還らぬ人となったのだ。

 それ以来、ラダは笑うことがなくなった。ラジェシェが死んだのは自分のせいだと考えたのだ。ラジェシェの死の全てを自分の肩に背負ったのだ。
 悲嘆に暮れていた両親も、その顔に笑顔が宿らないラダの様子に次第に心配になってきた。
 歳月は過ぎ、それから五年が経った時のこと。
 ラジェシェの死以降感情を亡くしたようなラダも学校を卒業し、近くの繊維工場で仕事をするようになった。だが毎日、仕事場と自宅への往復だけに終始する毎日でラダは趣味も、友人も持つことはなかった。そしてその首にラジェシェがくれた首飾りを必ず掛けて。
 ラダが仕事を終え、夜遅く帰宅すると、パンジャーブ州の州都チャンデガールの出張から帰って来ていた父が興奮した面持ちでラダを迎えた。
 その説明はとんと要領を得なかった。とにかく分かったことはチャンデガールまで一緒に来て欲しいということだった。
 次の休日、ラダと父は隣人の車を借りてチャンデガールへと向かった。父の案内で向かったところは町外れの何の変哲もない普通の一軒家だった。
 戸惑いつつも、父が促すままその家の中に入るとそこには柔和そうな中年の夫婦が居た。親しみ易い笑顔を浮かべていたが、どこか緊張した面持ちだった。
 ラダたち二人を迎えると中年の夫婦はおもむろに家の奥に声を掛けた。すると奥から小走り気味に一人の少女が現れた。
 ラダの困惑は更に深まっていく。この少女が一体なんだというのだろうか。この何の特徴もない少女に会うためだけにこのチャンデガールくんだりまで来たというのだろうか。
 するとその少女はラダの前ゆっくりと進むと
 「階段から落ちたのは私の所為だから。だから気にしないで」
 え?
 ラダは一瞬何を言われたのか分からなかった。だが少女の次の言葉で驚愕することになる。
 「私の作った首飾り、まだ掛けていてくれているんだね。叔母さんは新しいのプレゼントしてくれないのかな」
 その少女、マルシュはそう言ってにっこりと笑った。ラジェシェとそっくりの笑い方で。
 その後、ラダはマルシュといろいろなことを話した。家族しか知らないようなラジェシェのことをいくつも質問したがマルシュはその全てを即答した。
 目の前にいるのはラジェシェなのだ。
 外見は違うがラジェシェの魂を持っている少女なのだ。
 ラジェシェはこの少女の元に転生したのだ。
 ラダは滂沱した。
 ラジェシェが死んでから初めて湧き起こった感情の起伏であり、そして流した涙だった。

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 「……という話なんだ。で付け加えるとこの少女マルシュが生まれたのはちょうどラジェシェが亡くなった日なんだ。輪廻転生って本当にあるんだね。どうだい? とっても」
 不思議な話だろう? と続けようとした大弓の言葉は次の佳代の言葉によって遮られた。
 「とっても素敵な話ですね」
 佳代はそう言って嬉しそうにコーヒーを啜る。
 ……。
 大弓は聞き間違えたのかな? と首を傾げた。
 確かに今「素敵な話」と聞こえた。まあ、素敵な物語であることは間違いではないと思うが、でも「不思議さ」が先に来るはずではないだろうか。
 ああ、大したことじゃない。単なる言葉のアヤだろう。だけど佳代の言葉のニュアンスに何か異質な物を感じた。それは頭の片隅をちくちくと刺激している。これはそのままにしておきたくはない。出来ればこの昼休みが終わるまでに取り去りたい。
 大弓は満足気な表情を浮かべている佳代に問い掛ける。
 「ええと、あのさ。『不思議』ではなくて『素敵』?」
 「え?」
 佳代は「何でそんなことを訊くのか」とでも言いたげな表情で小さく顔を上げた。
 「ええ。とても素敵なお話です。登場している方々の思いやりが伝わってくるお話ですね」
 ……そんな話だったかな?
 大弓が自分が話した物語を頭の中でリプレイを始めようとした時、佳代は付け加えた。
 「……あの、ひょっとして先生、本当にラジェシェが生まれ変わったと思っています?」
 「は?」
 その佳代の問いかけに大弓は間抜けな声を上げていた。

 「先生は前提条件が大きく間違っています」
 佳代ははっきりした口調で言い切った。
 「何の前提条件、だい?」
 「先生、何でもかんでも不思議なことは不思議で受け入れちゃうでしょう? それじゃ決して答えにたどり着けませんよ」
 「でも、確かにラジェシェはマルシュの身体に生まれ変わって……」
 「それが第一の間違いです」
 佳代は机に肘を乗せて前屈みになって説明する。
 「きっと現在の人間には解明することの出来ない計り知れないこともあるでしょう。だけどそういうものを全て『不思議だね』で片づけていては分かるものも分からなくなってしまいますよ」
 「……じゃあ、どうすればいいんだい」
 「ですからこの場合は『輪廻転生など無い』という前提条件が必要です。今のところ人類には輪廻転生が存在することを証明出来ないのですから、これは手持ちの大事な条件です」
 「うーん、でもそれじゃつまらないよ」
 「つまるつまらないはこの際関係無いんです。とにかく先生が今お話なさった物語をこの『輪廻転生など無い』という前提条件に沿って読み解いて見てください。先生が今まで見えなかった事実が見えてきます」
 「え、というと……」
 大弓は頭の中の巻き戻しボタンを押す。
 「つまりラジェシェはマルシュに生まれ変わっているわけではないとすると、ええと、じゃあラジェシェは実際は死んでいないってこと?」
 佳代は首を横に振る。
 「どうも、先生混乱してらっしゃるようなので私が説明しましょう。これは実際にはこういう話なんですよ。不慮の事故で最愛の妹を亡くしてしまい、感情もなくすほどに落ち込んでしまったラダをなぐさめるために両親が画策したシナリオなんですよ。ラジェシェの亡くなった日と同じ日に生まれた少女マルシュを捜し出したラダの父親はマルシュとその両親に事情を話して一芝居を打ってもらうことにしたんです。だからマルシュの知っているラジェシェ情報は全てラダの父親から教えて貰った情報なんでしょう。どうです。こう考えると不思議なことなんて一つもないと思いませんか?」
 大弓は口を間抜けに半開きにして何も言い返すことが出来ない。構わず佳代は話し続ける。
 「だからとても素晴らしいお話なんです。感情を亡くすほど妹を想っていたラダ。落ち込んでいるラダの心を救うために苦心した両親の思いやり。ラダの両親の願いを快く受けたマルシュとその両親。みんなの互いを思いやる心が伝わってきて涙が出そうになりました。……そしてこれは推測ですが、恐らくラダが最後に泣いたのはラジェシェがマルシュに転生したことを知ったから泣いたのではなく、周囲の暖かい思いやりを感じたからなんじゃないでしょうか」
 佳代はそこまで言い切ってから喉が乾いたのか、コーヒーを一口飲んだ。
 しんとした空気が辺りを包んだ。
 大弓は言葉もなかった。
 そして自分の間抜けさを呪うとともに、佳代の聡明さに驚嘆する。
 この子が、この子の両目が見えていたら、きっと素晴らしい未来が拓けていたんだろうな。何のハンデも無しにこの頭脳が活かされればこの子はきっと何でも出来ただろう。
 僕の所為だ。
 大弓は五年前から続けている何万回目かの自問自答をまた行った。

 「うーん、先生? 前々から言おうと思っていたんですけど、先生はもう一つ前提条件を間違っています」
 「え?」
 いつの間にか己の心の深みに沈んでいた大弓はその言葉に我に返った。
 その時、タイミング良く昼休みの終わりを告げるチャイムが校舎内に鳴り響く。
 「あ、もうこんな時間ですね。楽しいと時が経つのって本当に早い」
 佳代はそう言って立ち上がると目が見えないというのに、社会科準備室内を器用に渡り歩き出口まで辿り着いた。
 「ちょ、ちょっと。その僕が間違っている前提条件ってなんだい?」
 大弓はあわてて佳代の背中に声を投げ掛けた。
 すると佳代は口元に可愛らしい笑みを浮かべて扉を開くと、ゆっくり振り向いてこう言った。

 「私、目が見えなくなったこと、先生の所為なんて思ってないってことです」

 



あとがき

ええと、挿入話となっているインドの転生の話は僕がテレビで実際に「不思議な話」として観たものです。名前とか細かいエピソードは異なりますがだいたいこんな具合だったと思います。というか僕はふつーに「ああ、なんて感動する話なんだ」と涙ぼろぼろ流しながら観ていたら「不思議な話」に括られていたので、「それはないだろう」と思ってこの話を書いたのです。だからきっと視点の異なる方が読んでいたら初めの方でもうラストが透けて見えると思います。「推理小説」まで行きませんね。「ちょこっと推理小説」ってな感じかなあ?

あとかなり引っ張りまくっている「五年前の事件」ですが、まだしばらく書く予定はございませんので、何卒、ご了承くださいませー。