“私のインドネシア”

東京 井内わか (わかちゃん)
パソコン入力&写真&写真の説明:コキリ

カット:椰子の木 ヒッポのメンバー22名(幼児〜熟年までの男女)と一緒に’95.8.16〜8.24まで、赤道直下、灼熱の国インドネシア(実際には、今年の夏は日本の方が暑かったのですが‥‥‥)へ行ってきました。

 ジャカルタのホテルで1泊し、その後ホームステイ5泊をした場所は、“ボゴール”というジャカルタから高速道路で1時間走った避暑地。昨年、APEC国際会議の開かれたボゴール宮殿を含む植物園、世界一大きな花の咲いていることで有名な学園都市でした。
 ’95年はインドネシア共和国建国以来50年の“独立50周年記念”の年。その上、ホームステイ第1日目は、そのまさに独立記念の日8月17日ということでした。(私は、この日を目指して、この国へ来たわけでも何でもなく、まだ行ったことのない国だし、インドネシア語の中へ飛び込んでみたくて何となく申込みをしただけなのにラッキーでした)
 その為、インドネシア中がこのお祝いで湧いていて、メインの道路にはまるでヨーロッパのクリスマスの時のようなキラキラとしたネオンの飾りつけがいっぱい。テレビは連日“デリガハユー・・・・・・インドネシア”(インドネシア独立50周年おめでとう!!)と叫びながら特別番組を組んでいました。

 さて、ヒッポの私たちはそんなまわりの状態のことはつゆしらず、ただ、どんなホスト家族の中へ入れるのだろうと、少しの不安と沢山の期待で一杯でした。というのも今年はボゴールとの交流が初めての上、受け入れ家族がなかなか決まらず、ホストの名前が解ったのが出発の2日前で、家族のことも何も解らず出発したのです。ただ、情報としては、“ボゴール農科大学の先生が中心になってコーディネイトして下さっていて、受け入れしたい人が多すぎて、2軒にホームステイをすることになった人が半数いる”というだけのものでした。
 そして、ジャカルタの“スカルノ・ハッタ空港”へ着いて(往路のガルーダ航空はとても快適で機内食もウナギやおそばが出て驚きでした)外へ出てみると、満面笑顔のサレーさん夫妻や他にAOTSの人達2人が、ヒッポの旗をふって待っていて下さり、すべての不安は吹き飛びました。
 受け入れ団体はAOTSといって、日本でよくみんなが1泊ホームステイで受け入れをしているTKC(東京研修センター)KKC(関西‥‥)YKC(横浜‥‥)CKC(中部‥‥)etc.などの人達が、自分の国へ帰って作っている同窓会で、その有志達が全くのボランティアでやってくれているのです。

ジャカルタ夜景写真:ホテルインドネシアの近くにて。独立50周年できれいに飾り付けられたジャカルタのメインストリートをバックに記念撮影。向かって左から3番目が、わかちゃん。 (photo by コキリ)

 

−最初の日の夜−

 ジャカルタのホテルインドネシアでの夕食は、50周年記念日の前夜ということで、民族音楽の生演奏や踊りが入り、料理もエナック・スカリーで、“インドネシアの匂い”にどっぷりつかり、旅の疲れもフッとんで子供達も皆、活き活きとしていました。

 その後ホテルの一室に皆で集まり、明日の対面式と、ホームステイ最後の日のThank’sPartyをどうするかの相談をしました。このグループはインドネシアへ来る前から何回か本部に集まっていろいろ話をしたり、お互いのファミリー活動の所を往ったり来たりしていた人が多かったので、大体気心も知り合っていて気楽な感じでした。
 さて、対面式をどうする?
 インドネシアとの交流は第4回目だけど、今までヒッポをしたことがなく、いつもカラオケ大会と食べるだけになってしまっているとか‥‥‥今回は何とかしたい‥‥‥
 まず、初めての人達とSADAをやりたいのでオープンスペースの作れる部屋でカセットデッキを用意して欲しいということをサレーさんに伝えたところ、会場がボゴール大学なのでOK、デッキも私が持ってゆきましょう、との事。みんな“やっぱり、SADAをやるだけですぐに仲良しになれるもんネー”とホッとした感じ。
 次に、ヒッポ活動をどう伝えるか?ということになって、いろいろ考えた結果、皆でソノ子のTapeの最初のタイトルのところのヒッポ カサブランラウを言って、その後、1人1人が自分の大好きなことば(中国語でもフランス語でも何でもOK、勿論日本語も、歌を唱ってもOK)を言って、その時何かひとこと、インドネシア語を言おう(ヒッポの場合、Tapeがマレーシア語なので、そのことばで)、ということになった。
 すると、小学生のナミちゃんは、“サヤ スカ クチン”(私、ネコが好き)が言える、とか、皆口々にボクはアンボーイ、バグース!!でいこう、とか、マリキタマイマイだけでいいかな?マッチャントゥーはどう?など大いに盛り上がって、今度は対面式が楽しみになってきた。
 そして、ホームステイ最後の日のThank’sPartyでは、ゆかたを持ってきた人はそれを着たり、小学生のジュンとケイは合気道のカタ(型)が披露できる、とか、コキリとヤッチャン、ピンプの3人でタテ笛(リコーダー)を吹こう、そして、もし日本料理を作って持ち寄ることができたら、各自作ってくること、又、ホストと一緒に何かできることがあれば、その時に即席でやってみよう。あとはSADAをしたり、自分でできる限りのインドネシア語をつかって、身振り、手振り、日本語も入れてもOKだから“ありがとう”の言葉や、感想を言い合おうetc.‥‥‥‥。
 みんなで頭を寄せ会って、チエを出し合うのがとても楽しかった。

−対面式の時−

 バスが着いて案内された部屋はナント大学の階段教室だった。それに到着が遅れたので、ホスト家族との対面が終わったらすぐ家路に着くことになり、昨晩の皆で考えたSADAとか挨拶大会は残念ながらお流れとなった。でも取り敢えず私はヒッポのみんなを代表して、受け入れて頂いてありがとう、と、ヒッポは赤ちゃんのようにことばを習得して多言語活動をしているグループだということ、そして私達も精一杯がんばるのでよろしく!!という意味のことを、ヒッポのTapeの中から、そして活動の時にみんなから聞いた音をたよりにインドネシア語で挨拶した。(後でホストのパパから“わかちゃんのはマレーシア語”と言われたけど、自分ではインドネシア語のつもり!!)
 その時、ひと言“アパカバール.カバルバイク?”と言っただけで、ホストファミリーの人達の顔がパッと明るく笑顔になり、どんなに勇気づけられ、嬉しかったことか‥‥‥。
 ところが驚いたことに、ホストファミリーの人達はほぼ全員、以前日本へ行ったことがある人達で(それも20〜30年前、5〜6年日本に住んだとか‥‥‥)とても日本語の上手な人が家族の中に1人は居るという感じでした。でも、私のカタコトのインドネシア語に大きな声援を送ってくれて、暖かい気持がビンビン伝わってくる、うれしい対面式でした。
階段教室写真(左):対面式をしたボゴール大学の階段教室(photo by コキリ)
わかちゃん写真(右):中央:わかちゃん、左:サレーさん、右:ボゴール大学のビントロ先生(video by コキリ)

−私のホスト−

 初めて出会った私のホストはスラマトさんという67才のお父さんで、30年前日本へ来て、6年間勉強したという、日本人のような日本語を話す最年長の人でした。
 そして、対面式の最後に参加者全員に対して、“今夜、ウチの家でパーティをするので、ぜひ日本の人達も連れて来て欲しい。夕食も出します”と呼びかけていて、この言葉を聞いた時“スゴイ人だなあ、こんなに沢山の人を自分の家へ呼ぶなんて‥‥‥私も家に着いたらすぐにお料理を作るお手伝いをしなくては‥‥‥etc.”思っていました。そして、外へ出て迎えに来ていた自動車を見ると、何とドイツ製の新車“BMW”!!
 うわ〜この人は何者?と思い、車の中で “家族は何人?” “息子2人で1人は結婚していて1才のBéBéがいる、次男は大学生、妻とは離婚した、家には女中(メイド)が2人いて、それ以外はいない”とのこと。(私は久し振りに“女中”という日本語を聞いてびっくりした)
 “お仕事は?” “23年前に作った会社で、従業員が約2000人、布地を作っていて、3交代で働いている工場” とのこと。あ〜そ〜!!私のお父さんはこんなに大きな会社の社長さんだったのだ!!だから、あんなに沢山の人を招待できるんだな、と納得した。
 そして車の中から、全くソノ子の様な状態で“家はどこかな?(ディマナ ルマーヤ?)”と思って見ていると、車がスーッと会社の門の中へ入って行って止まった。すると、すぐにパパに“アッ、わかさん。向こうから日本人の夫妻がくるので、ちょっと紹介しておきたいから”と言われて、私もすぐに車から下り、その夫妻に“こんにちは!!ついさっき、このスラマトさんの家にホームステイに入ることになって‥‥‥昨日ジャカルタに着いたばかりなんですけど‥‥‥この方はここの会社の社長さんだったんですね!!”と挨拶したところ、即座に“ボクが社長です!!”という返事がかえってきて、 “エッ!?そうだったんですか!!すみません、よろしくお願いしまーす!!” と深々と頭を下げている自分がいました。
 一体、どうなっているんだろう?といろいろきいている内に解ったことは、“ユニテックス”という会社で23年前にユニチカと丸紅が一緒に作った合併会社で、社長以下8名は日本人であとの従業員は全員インドネシア人。私のホストのパパのスラマトさんは、この会社の設立の前年、24年前からかかわって作ってきた人で、インドネシア人の中では一番エライ人だったのです。
 あ〜なるほど‥‥‥パパがボクの会社、ボクの会社と言っているのは当然で、この社長さんは1年前に日本から赴任してきたばかりだったのです。
でも、“ボクが社長です!!”と言われた時、私とパパは一緒になって一瞬背が低くなってしまったような気がしたのです。
 そして、その日の夜はパーティ。それは、ユニテックス主催で、2000人の人が入る体育館で独立50周年記念の祭典が盛大に行われたのです。私の家は会社の中の社宅で、前庭にその体育館があり、この日の夕方からボゴール中のサテー屋さん(ヤキトリ屋さん)が集まり、煙といい匂いをプンプンさせながら、皆の夕食の用意をしていました。
 そして夜7時すぎからお祝いの式典が始まり、皆大変な盛装で集まってきて、まず式の最初にスラマトパパが戦没者に対する感謝のお祈りをして、次に社長さんが紙を見ながらインドネシア語で挨拶をされ、次々と歌や踊り、クジ引きゲーム等のプログラムが進行してゆきました。
 その間、ついこの2〜3時間前にホームステイに入ったばかりのヒッポのメンバー達がその家族に連れられて続々と参加してきました。でも、その顔と姿を見た時、私はアッケにとられてしまったのです。みんなまるで、これは日本人とは思えない様にきれいにお化粧をしたり、民族衣装に身をつつんで(まるで花嫁さんか花ムコさんの様!!)なんだか嬉しそうにペチャクチャ家族とおしゃべりしているではありませんか!!この光景を見た時、本当に心から凄い!!と思って感動しました。何しろ、数時間前までは家族の名前も何も知らない人達同志だったのですから‥‥‥。
 そして、フッと横を見ると、社長夫人がまるでコケシ人形のように身動きもせず黙って坐っておられたり、日本からのユニテックスのエライ人達が高い席に坐ってしっかり気をつかいながら頑張っておられる姿に会い、この異いは何だろう?!と思ったのです。
 確かに、私達ヒッポの交流というのは、まず最初からガーンと“腹わた”の中へ入りこんでしまうのだという実感!!これはとりもなおさず“ことばを外側から見るのではなく、内側から見つけてゆくのだ”ということを目で見てしまった気がしたのです。そして、私“コケシ人形”の人生でなくて良かった!!もしヒッポに出会っていなかったら‥‥‥きっとアチラの席に坐っていたにちがいないと思うのです。(昔、私の主人は三菱電機の海外事業部にいたことがあるので)
 倖せな気分で、夜、家に帰ってみると、大学生の息子のビンビンが笑顔で“スラマ マラン!!”と快活に話しかけてくれ、メイドのミラーちゃんが“チャッペー?”(疲れた?) “アパアパ マッカン?”(何か食べる?)とやさしい声で言いながら、“チャー”といってお茶を持ってきてくれる‥‥‥ホントに家族!!‥‥‥

パーティ写真:わかちゃんの家で行われた盛大なパーティ。これは体育館の客席ですが、舞台では華やかな民族衣装に身を包んだ人達が歌ったり踊ったりしていました。前列向かって右から4人目がわかちゃん、その左がホストのスラマトさん。ちなみに、一番右はつくばのモリタンで隣はホストです。(photo by コキリ)

 

−ホームステイの始まり−

イスラム寺院 ニワトリ 朝まだ暗い頃(午前4時半頃)大きな音のコーランで目が覚める。すると、コーランにあわせた様に鶏がハッキリとした声で“コケコッコー!!”と何度も鳴く。そして暫くすると隣の部屋で、手桶に水を汲んで“パシャ!パシャ!”と身体にかけているマンディの音が聴こえてくる。そして、今日が始まるよーという空気の流れが動きはじめる。
 95%の人がイスラム教のインドネシアでは5回のお祈りの時間がある(暁、正午、午後3時頃、日没、夜8時頃)我が家もイスラム教なのでパパもビンビンもちゃんとお祈りをする。
 いったん目が覚めるけど、私は又眠って朝7時半〜8時頃に自分の部屋から出ていくと、既にパパは会社、ビンビンは大学へ行っていて、ミラーちゃんだけがニコニコしながら“スラマ パギ!!”と言ってタロイモのふかしたのとか、バナナの揚げた朝食を用意してくれ、“パパ パギ パギ ブックルジャ カントール”(パパは朝早くから会社なのよ) “プラン ジャム ドゥアプラス”(12時に帰るからね)と、やさしく何度も言ってくれる。最初はボヤーとしか解らないけど、何度も言ってくれるので、段々細かい所まで解ってくる。そして、私が何か言うと、“ワカチャン バハサ インドネシア ピンタール!!”と言って“バグースャ!!”とほめてくれる。そのうち、ユニテックスへ3交代で働きに行く人達が我が家に立ち寄って少し私と話をしたり、折り紙をしたり、漢字トランプで遊んだり‥‥‥
 皆がいなくなると、TVをつける、すると相変わらず“デリガハユー・・・・・・インドネシア!!”と叫んでいる番組ばかりで、時々ドラマをしているので見ていると、男と女の行きちがいの話のようで、“クナパカ?!”という音がヤケに耳につく感じがする。そして、パパも時々会社の仕事の合間を縫って様子を見に家に帰ってきてくれるのが嬉しい。でもすぐに会社に戻る。
〜そう、ホームステイというのは結構ヒマなのです〜
 外へ散歩に出たついでに、社長さんの家に行ってみようと思った。我が家の社宅と近いし、突然変な日本人がホームステイにとびこんできて、きっと不思議に思っていらっしゃるにちがいないので、アルバムとヒッポのパンフレットと、つい最近記事になった毎日新聞の榊原さんの記事のコピーを持って出かけた。
 ご主人は会社だったけれど、奥様1人で心よく家の中へ招き入れて下さり、大阪の高槻に住んでいて、今までヒッポのことはきいたことがなかった、とか、1年間ここに住んでいるけれど、もう主人だけ残して自分は日本へ帰りたい(息子が結婚するのでetc.‥‥‥)・・・・ところで、スラマトさんのこと、ご存じですか?とたづねると、すぐ近くに住んでいても何も知らないとのこと(奥さんと離婚されたイキサツは日本人からきいてウンヌン‥‥‥)なる程、企業(社長夫人)というワク、日本人というワクの中で生きているわけだから、そう簡単に、自由に“自分”を出すわけにはいかないのです。
 改めて、ヒッポで“赤ちゃんのようにことばと人間に出会っていく”ということ、“ことばを内側からみつけてゆく”ということ、ヒッポは何をしようとしているのか、どういう環境を作ろうとしているのか−−−ということを考えさせられたのです。

−マタハリのこと−

カット:マタハリ インドネシアへ行く前から、ひっぽのメタ活の時にTapeの中のマタハリという音が面白くて、皆で股を広げて“マタハリ!!”と遊んでいたけれど(ソノコの“今、夜の8時なのにお日様なんか‥‥‥”とか、カバジンの“もうお日様も山のむこう‥‥‥”の所etc.)パパと話をしている時に、“目はマタだよ”と教えてもらった時、アレ?!それじゃマタハリは目+ハリ。ハリイニは今日だから、太陽(マタハリ)というのは、日(今日という日)の目だったのだ!!そう思った途端に赤道直下の、この太陽と海の国に住んでいる人は、太陽とはその日の目のことで、朝は太陽が登るとその目が輝き始め、夕方になると目は静かに閉じる。そして夕闇になり、夜は眠りにつく。何という壮大な発想で“ことば”を創ってゆく人達なんだろう。これぞ天と地を結びながら毎日を生きている人達の集団!!
 そう思った途端に“枕詞千年の謎”の中の“そらみつ”が想い出された。饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天孫光臨の時に、大空を天盤船(アマノイワフネ)に乗って、こぎめぐりながら、光り輝くやまと盆地に下りたという、壮大な天と地を舞台にした古代の光の物語が目に浮かび、この“そらみつ”を読んだ時の感動と同じものが再びわき上がり、なんだ、ここにも同じものがあった!!と思った時、思わず“サヤ スカ(好) バハサ(語) インドネシア” “サヤ スカ オラン(人) インドネシア!”と言っていた。
 こういう目で見てこの国に住んでいると、何て豊かな国なんだろうと嬉しさがいっぱい、こみあげてきて、つい、“ことば”のこと、“ヒッポ”のことを沢山話していると、そんな時パパも同時に“サヤ スカ ヒッポ!!”と言っていたのです‥‥‥不思議!!‥‥‥そして以来、パパは自分の友達がたづねてくるたびにヒッポのことを紹介して、私にもアルバムを持ってきていろいろ話しなさい!と言うのです。

−ハティハティのこと−

 “気をつけて!”の時、“ハティハティ!”と言われていたので、ハティハティは何となく暖かさの伝わってくる音としてあったのですが、ハティはだよ、と聞いた時、“エッ、そうかあ、気をつけるということは、をかけることだったのだ”
 そういえば、中国語もシャオシンア!(小 心 ロ阿)といって心が入っているし、韓国語だってチョーシメー(操心()の中に心が入っているな、とすぐに連想している自分がいるのです。
 そして、マカン ハティって何の意味か知ってる?ときかれて、“エッ?心を食べるの?!”ウーン、そんな表現はあまり聞いたことがないので答えられずに考え込んでいると、“それは本当に悲しい時、たとえば恋人に去られた時とか‥‥‥”なるほど、解る様な気がする‥‥‥。やっぱり、こんな表現を創ってゆくバハサ インドネシアもオラン インドネシアもサヤ スカ バニャ!!なのです。

 

−パンギランのこと−

 スーパーマーケット(何と、マタハリというスーパーもある)に行った時、放送で“パンギラン‥‥パンギラン‥‥”と何度もきこえてくる。何だか聞いたことのある親しみを覚える音なんだけど、何を言っているのかな?とボヤーっと考えながら歩いていると、突然自己紹介が想い出され、そうかあ!解った!!これは、きっと“お呼び出し致します。お呼び出し致します‥‥”と言っているのだと自分で解った時、思わず嬉しくてスキップしてしまいそうだった。
 自己紹介の時、アパカバール? カバル バイク? −バイクバイク− ナマ サヤ ワカ イノウチ. パンギラン サヤ ワカチャン. スラマブクナラン.と、みんなが言う真似をして適当に言っていた。マレーシア語ではナマテマカンだけど、インドネシア語ではパンギランというらしい、というだけで別に何も考えないで言っていた音だった。でも、何かの状況が起こった時、身体の中からよみがえってくるものだと我ながら感心してしまった。
 その上、不思議なことに、帰国してTapeをきいていると、マレーシア語のTapeの中にパンギランというのがアチコチにあるのが聞こえてくるのです。同じTapeをいつものようにBGMで聞いているだけなのに‥‥‥やっぱり、不思議だなあと思うのです。(これは私だけでなく沢山の人がいつも言っていることなんだけど‥‥)
 ホームステイ中、パパは忙しい中を会社から早く帰宅して、息子のビンビンの運転でタマンサファリ(動物園)へ連れて行ってくれたり(そこではコキリが象に乗っていて、思わず“ウワー!ゾウが象に乗ってるゾー”と叫び、私もサンガジャ(象)に乗っけてもらったけど、歩くたびに象の背中の皮が前後にズレてタープットスカリー!!(コワかった!!))、プンチャックという峠までドライブしたり、その車の中では日本の軍歌を大声で唱って、自分は15才の時故郷のスラバヤでオランダ兵として日本兵と戦い、日本が負けたあと、今度は日本兵から銃をもらい戦い方を教わって今度はオランダ兵に銃をむけた(独立戦争のため)そして、自分の家族、親類、友人は沢山死んだ‥‥‥etc.‥‥‥まさしく、“オラン 歴史”のパパだった。
 でも、日本が好き、日本語も大好き、息子のビンビンをどうしても日本へ行かせたい。‥‥‥ビンビンはとってもやさしいいい子で、パパの健康のことをいつも気づかってよくお手伝いをする子です‥‥‥
 パパは糖尿病で、毎日病院から看護士が注射を打ちにくる。歩くのが大変で、足をひきづって歩いているのです。それなのに受け入れをして、私の為に自分の精一杯をやってくれているのです。  “ボクは沢山のことを日本人にしてもらったから‥‥‥(戦後補償で日本政府から留学させてもらい、いい日本人に出会ってきたetc.‥‥‥)”と言っていました。

象に乗るわかちゃん1写真(左):タマンサファリ(ボゴールの近くの動物園)で、僕(コキリ)が象に乗っている時、偶然わかちゃんが来ました。(photo by コキリ)
象に乗るわかちゃん2写真(右):同上。手前にいる3人は、一緒に行ったヒッポのメンバーです。今回のホームステイでは、日本人どうしが顔を合わせることが本当に多かったのでした。(photo by コキリ)

−Thank’s Partyのこと−

 ジャカルタへ戻る前日の夜はボゴール大学でヒッポ主催のThank’s Party。ヒッポ主催とはいえ、全てAOTSのペースで事が運ばれる。とりあえずビントロ先生(ボゴール大学の先生で今回のホームステイ責任者でもあり、アッコさんのホストパパでもある)に今度こそ、歌ったり踊ったりのヒッポをやりたいので、ぜひオープンスペースのある部屋を!!と頼んでおいた。
 さて、集まってみると‥‥‥立派な舞台があり、ビッシリと椅子が並んでいる。(でも移動できる椅子だったので安心した)ジャカルタからAOTS会長のイズマジさん、専務のバスキさん、サレーさん他2人の人が参加して下さり、とても正式な感じでみんな盛装している。
 夕食のあと、挨拶が始まった。まず最初はビントロ先生、いつになく緊張した顔で固い真面目な講義調の話が長く続き、少し日本語も入れて終わった。彼には今回受け入れ家族を決めるのにずい分苦労して頂いたので、心からご苦労様、ありがとう!!の気持が湧いた。司会はサレーさんと日本語の上手な大学生の2人。  次に、バスキさんの挨拶、この人は押し出しも立派で堂々とAOTSがどんなことをしているか、とか、何だか解らないけどエンエンと演説をなさって、この人はエライんだという印象だけが残った‥‥‥一体、このパーティはどうなってしまうのかな?こんなに立派なご挨拶ばかりで‥‥‥と、段々ヒッポのメンバーの身体が椅子に沈んでいくような気がした。でもバスキさんが日本語で話し始めたと時、上手な日本語だけどチョッとヘンなところがあって、何かホッとした気分になった。
 これで終わりかな、と思っていると、次にイズマジ会長が立って、又演説が始まった。やっぱり、この人もエライんだな!という印象だった。でも、日本語になった時、やはり少しヘンな所があってホッとした。
 もう、こうなってくると会場はすっかり固い会議の雰囲気になっていた。そこへ突然サレーさんが“次はヒッポを代表してワカ イノウチさんに挨拶を!!”と言われて本当に驚いてしまった。  こんなに立派なスピーチのあとで“この私が?”という気持だった。でも、もうサイは投げられたのでモタモタしているわけにもいかない。とりあえず前に出て、パパにも私の横に立ってもらうことにした。そして、マイクをにぎった途端、いつもの調子でしか、ものの言えない自分に気がついた。(日常というものがこうも強いものなのだ、ということを認識させられた一瞬だった)
 何とか自分の持っている限りのインドネシア語で言いたかったので、まず自己紹介から。“アパカバール! カバルバイク? ナマサヤ ワカ イノウチ.パンギランサヤ ワカチャン.スラマブクナラン‥‥‥カミスモア スダ ダタン ク インドネシア プルタマカリ‥‥‥エーっと”‥‥‥思わずパパの方を向いて、“はじめは、どんな人に出会えるのか、とても心配で胸がドキドキしましたが‥‥‥”って何て言うの?と、たづねるとパパが耳もとで、ムルムルー−−−−−−−−−−−−”と言ってくれた。そのムルムルを聞いたとたんに、コキリがいつもヒッポの時に言っていた空港の場面がパッと浮かび、100ワット電球がついたように嬉しくなって思わずコキリのほうをむいて“ムルムルだって!!”と叫んでしまった。そして、そのあと、パパの言ってくれた通りを、いつものメタ活のように真似して言ったところ、会場中が大爆笑になり、いっきにHIPPOの雰囲気になった。そして、そのあとからはパパとメタ活しながらの挨拶で、終わった時には全体がはじけた様に笑っていた。
 こんなにラクで楽しい挨拶だったら、誰でもやれるな、と嬉しくなってしまったのです。そして次々に3家族位がホームステイの感想を言っていった時、又、突然サレーさんに“ワカチャン、アトラクションにうつりましょう!!”と言われ、あわててコキリ達に“笛、笛!!”と言うと、すぐに3人でインドネシア民謡の“可愛いあの娘はだれのもの”を吹いてくれ、又、会場中にさわやかな空気が流れた。次に“荒城の月”の時にはハイハイのママがとび入りで上手な日本語で唱って日本とインドネシアが融合したような気がした。そして次にジュンとケイに“合気道”と言ったけれど、昼間の疲れもでて2人共椅子に坐ったまま眠りこんでいてパスということになった。
カット:SADA では、みんなでSADAをやろう!!ということになり、椅子を片付け、Sing Along Dance Alongから始まった。私は何といっても、まずバスキさんやイズマジ会長と仲良しになりたいと思ったので、率先して彼らとHow are you my friend?やThe farmer in the Dellをやり始めると、他のインドネシアの人達もどんどん入ってきて、ふっと見るとパパもニコニコしながら、でも歩きにくい足をひきずってSeven stepsをやっていたり、どの人も数を言っては大笑い、全くいつもの場所(東京の)でいつものメンバーとヒッポをやっているのと同じ雰囲気。(イスラム教でヴェールをしている人もナリフリ構わず!!)
 それにしても、さすがだと思ったのは、ヒッポのメンバーの動き方。誰に言われるわけでなく、さっとTape係している人、気の弱そうな人を引っぱり出している人、写真を撮っている人etc.‥‥‥みんなの気持の集まった嬉しい嬉しい会になり、“再見”の歌を唱って帰る時にはどの顔も活き活きしてピッカピッカだったのです。ああ、良かった!!インドネシアへ来て一番嬉しかったし、一番楽しい時間だったなぁと心から思ったのです。

バスキーさん写真(左):Thank’sPartyは、こんな感じで始まりました。前で演説しているのはバスキーさん。客席では、ジュンとケイが熟睡していました。(photo by コキリ)
スラマトさん写真(右):挨拶するわかちゃんと、スラマトパパ。はじめ、って何て言うんだっけ?(photo by コキリ)

笛写真(左):笛(リコーダ)を演奏する3人。左から、やっちゃん、ピンプ、僕。(photo by コキリ)
SADA1写真(右):SA!DA!をしているところ。まるで日本にいるみたいです。誰が日本人で誰がインドネシア人だか、わかりません。(photo by コキリ)

SADA2写真(左):Seven Stepsで盛り上がる人達。(photo by コキリ)
集合写真写真(右):最後にみんなで記念撮影。(photo by コキリ)

−ミラーちゃんとミニーちゃんのこと−

 パパから紹介されたのは“女中”という今の日本では死語になっているミラーちゃんとミニーちゃん。
 ミラーちゃんはバリ島で生まれて、そのすぐ近くのバンユワンギという所に夫と息子、娘、親族がいる。でも、いろいろな家庭の事情で今、ミラーちゃんはここに住んで食事、洗濯、掃除の他、パパの足のマッサージもしている、40代のやさしい私のママ。
 ミニーちゃんはユニテックスで3交替で働きながら、家事も手伝っている27才の可愛い女の子。日本語も大好きで、少し解る。時間のある時は、いつも私のそばで折紙や料理を一緒に作ったり、買物に行ったり、歌を唱ったりで、まるで姉妹。
 でも2人共、普段は私と一緒に同じテーブルで食事をしたことはなく、私がスキヤキPartyをした時や茶道をした時だけは一番のお客さんのようにしていた。
 彼女達がいつも唱ってくれた歌は、“私の帽子は丸い”という
トッピー サヤー ブンダール、 ブンダール トッピー サヤー
カロー ティダー ブンダール、 ブカン トッピー サヤー

とか、“可愛いあの子は誰のもの”という

ノーナ マニス シアパ ヤンプーニャー
ノーナ マニス シアパ ヤンプーニャー
ノーナ マニス シアパ ヤンプーニャー
ティダ アーダ ヤーンプニャー
という歌で、いつのまにか口づさみ唄えるようになってしまった。
 帰る日(日本へ)の朝、ミニーちゃんとミラーちゃんが私のそばに来て、今まで聞いたことのない歌を何度も唱ってくれる。なんだかカッパン カッパンばかりきこえて、あとはお経のようだった。でも2人が何度もそして真剣に唱うので、アパ イトゥ カッパン?とかたづねると、この歌の意味が段々と解明されてきて、その意味は大体“今日ワカチャンは帰ってしまうけど、私達は一緒にジャランジャラン(散歩)もしたし、一緒に料理も作ったし、一緒に唱ったし、沢山のことを一緒にしたね!!ワカチャンは明日から、もうここにはいないけど、でもワカチャンはずーっと私達と一緒にここにいるからね。いつかきっと、又帰ってきてね。又、きっと会えるよね!!”ということだったのです。この意味が解った時、ドッと涙が溢れてきてミニーちゃんもミラーちゃんもみんな泣きました。

−ジャカルタへ出発‥‥‥それから−

 大泣きしながらホストと別れている人や、明るい笑顔で手を振っている人などさまざまだけれど、心の中は皆同じ想いでいっぱいだった。
それは、“ テリマカシー バニャク ”

 さて、ジャカルタはボゴールからきた人にとっては大都会。ウィサタホテルに到着後、サレーさん夫妻を先頭にみんなでサリーナデパート(国営なのでバティック他何でも安い)へジャランジャラン。
 自分達の足で歩き、危険じゃないように五感全部を働かせながら買物をするのも楽しいけれど、誰もがホストファミリーと一緒の時の居心地の良さを懐かしんでいた。
 私にとってジャカルタで一番嬉しかったことは、サレーさんやバスキさん、イズマジさんとの再会のこと。  “AOTSのカンムリの人達(イズマジ会長やバスキさん達)は、あまりヒッポのことを心底から解ろうとしないし、あまりかかわってくれない人達だから、ヒッポからのお土産(クッキーetc.)も、実際にもっと献身的にやってくれているAOTSの人がいればその人に渡して欲しい”と、ポッキーに言われてきたのだけれど、昨晩ボゴールでのPartyのおかげで、イズマジ会長もバスキさんもジャカルタで私達を待ちかまえていて、何と私の顔を見るなり“ワカチャン!”と叫んで手を振って、一緒に食事をした時には、もう何年も前からの友達のような親しさで、ほんとうに驚いてしまった。(あの1回のHIPPO Partyでこんなにも近くなれる!!)
 そして、自分達も日本へ行ったらホームステイをしたい。ぜひ、自分達の息子や娘をホームステイさせたいetc.‥‥‥
 その時、イズマジ会長に“観光ではなく、ヒッポの活動をシェアーするホームステイに来て下さいね。ヒッポはどの言葉も同じ人間のことば‥‥‥インドネシア語もフランス語も英語も日本語も‥‥‥みんな赤ちゃんがことばを見つけてゆくところを通って、そのことばを通して人に出会っていった時、ホントに同じ人間同志ということがよく解るし、とっても仲良しになれるんです。”と言ったところ、彼はじっと私の目を見ながら“それは美しい!!まず自分の娘を送りましょう!!”と言ったのです。
 そして、私達のバスが空港へ向かって見えなくなるまで、バスキさんは奥様と息子も連れて一緒に、サレーさんは空港まで一緒に、他AOTSの人達3人がずーっと手を振って見送って下さったのです。
 その時私は、“上手にしゃべる”(みんなよく、もっと上手にしゃべりたいって言うけど‥‥‥)ということと、“人と人をつなぐことば”のことを考えさせられていたのです。

ショッピング写真(左):ジャカルタの街を歩く。ホテルからサリーナデパートへ向かう面々。(photo by コキリ)
ショッピング2写真(右):ここは、SOGOデパート。わぁー、近代的。なんでもあるや・・・。(photo by コキリ)

夜のジャカルタ写真(左):夜のジャカルタの街。SOGOデパートで買い物をしてホテルへ帰る面々。ジャカルタはさすがに大都会を感じるけど、ボゴールがなつかしかった。(photo by コキリ)

−帰国してから、今、思っていること−

 帰国してから上斗米正子さんと電話で話していた。赤瀬川隼さんが先日直木賞を受けられ、その祝賀会に行ってきたけど、すごく沢山の人、有名人がいっぱいでびっくりしてしまったとこのこと。
 一番印象に残ったことは?とたづねると、即座に“井上ひさし氏の祝辞の中で、隼さんの作品は野球のことを通して人間のことが書かれていて、ドロドロしたこともあるけど、その野球をしている中に“いつもそこには青空が見える”と言われたこと!!”と言ってくれた、その言葉をきいた時、パッと私の頭にヒラめいたのはイズマジ会長の“それは美しい!!”という言葉だった。
 隼さんはヒッポ創立以前からこの活動に関わっておられた方だし、長女は藤村由加の1人で私達の仲間。何か私達が賞を受けた様な気がして、ことのほか嬉しかった。そう、ヒッポも同じことをずーっとやってきているな、と思ったのです。

 帰国後、多言語Tapeを聞いていて、不思議なこと‥‥‥インドネシアでは1度も使わなかったことば、韓国語、スペイン語、ロシア語etc.がクッキリしてきこえてくるのです。・・・・これは、どのことばも人間のことばだから、全細胞を開いて、ことばと人間にむかってきたインドネシアの体験は、全てのことばに影響を与え、全体を創りかえている様な気がするのです。  1つ1つのことばの積み重ねでなく、丸ごと全てを同時にやってゆく、その多言語活動がまた1つ見えた様な気がします。そして、このことを通して発見したことは、チビちゃんがよくSingAlongを歌ったり、ヒッポー ツァイ ハイ ワイ!と言っているけれど、このひとことの中に全ての多言語が含まれていることに気がついたのです。
 ヒッポの活動を通して、そのことばの音を言うことは、単に英語とか中国語を言っているのではなくて、11ヶ国語全てに影響を与えていくことばだったのだ!!ということです。確かに、“全体”は“部分”に作用するのですね。そして、その部分の中にはいつも“全体”が含まれている。  ふと考えてみると、このことは毎週のファミリー活動そのものその場だったのだ、と気づかされたのです。
 わけの解らないことばばかり‥‥‥と言って、大人は時々逃げたり落ち込んだりするけれど‥‥‥とりあえず丸ごと受け入れて、赤ちゃんのようにアーとかウーとか言いながら人に出会い、楽しくやっているこの空間こそ、まさしく“ことば”を育ててくれる最高の場所だったのですね。
 でも、大切なことは赤ちゃん(0〜2才位)のように!!というところ。(誰でも環境さえあればことばができるようになるという秘密はここにあるのです。)
赤ちゃんは (1)決して他人とくらべない。
そして、   (2)どんな中からも同じを見つけている。
そうですよね。2才位の男の子と道を歩いていて、どこにも自動車がないのにブーブーという。よく見るとポスターの中の豆つぶのような自動車の絵だったりするでしょ!そう、大人はすぐ、他人と比べたり異いばかり見つけてしまうのだけれど、それって、ことばができる方向ではなく逆方向。どこへ行っても、どんな人に出会っても、いつも(1)と(2)を忘れない様にしようと、私も肝に銘じて‥‥‥と思っています。

 たった1週間のインドネシア交流でしたが、こんなにいっぱいの宝物がころがっていました。(私の宝石箱にはまた1つ大きな宝石が入ってきたのです。)
 そして、つい先日ミニーちゃんとミラーちゃんが2人で電話をかけてきました。受話器のむこうから独特のイントネーションで“ワカチャン”がきこえた時、そのひとことで全てが解る気がしたのです。そして、お互いにテリマカシ バニャばかり言い合っているだけなのに、沢山話した気になるのも不思議!!
 また、先達パパから手紙が届き、その宛名を見て驚きました。何と、TO:Mrs WAKA−chanと書いてあるのです!!今まで沢山の人から手紙がきますが、WAKA INOUCHIの代りにこんな宛名で送ってきた人はパパが初めてです。(67才の、あの真面目なパパが‥‥‥)何となくみんなの真似をして言っていただけの パンギラン サヤ ワカチャン が、バスキさんやイズマジ会長がワカチャンと呼んでくれたり、こんなに力のあることばだったとは思いもよらないことでした。

 みんなの力で創ってゆくこの活動。これからもよろしく!!
   私も生命ある限り続けられたら嬉しいなぁ、と思っています。

テリマカシ バニャ スモア!!

1995.10.28.


わかちゃんの「私のインドネシア」ついての補足事項です。(by コッキリ)

もとの文章は、わかちゃんが1995年の10月に書いたものです。今回、僕(コッキリ)がインターネット向けに書き直しました。できるだけ原文に忠実にしたつもりですが、パソコンで表現できない部分は、他の表現にしたりしています。また、わかちゃんが筆を加えた部分もあります。

イラストは、わかちゃんが書いたものを原文から取り込んで、同じ場所にレイアウトしました。写真に関しては、僕が後から勝手に追加したものです。

なお、僕の名前が「コキリ」だったり「コッキリ」だったりしますが、もとがハングルなので、カタカナではどっちでもいいのです。
1996.6.28
東京・西武線・井内ファミリー コッキリ


この文章は、インターネットでは以下のところで読むことができます。
http://www2h.meshnet.or.jp/~zou/


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