我が家のHippo−’96〜’97

井内ファミリー・ベベ(カバジンの母)
’97.8.25

 私は今、とてもくやしくて、悲しくて、涙が止まらない。韓国から来た「いいお父さんになろう会」のOHさん一家の前で、自分の言いたい事を一言も言えず、聞きたい事も聞けず、別れてきた。非常に距離を感じ、ことばのできない自分が、本当に情けなかった。とても今、落ち込んでいるのです。私はいったいHippoに何年入っているのだろう‥‥

 私がHippoを知ったのは、バンビーノ(コッキリ注:ベベの長男。カバジンの兄。)やカバジンが保育園に行っていた頃‥‥黄色のポスターを見て、いいな‥‥と思っていた。でもその頃は、仕事が忙しすぎてとても入る事はできなかった。やがて世の中はバブル崩壊。それまで山のようにあった仕事があまりこなくなり、時間ができてきた。そこで今までできなかった事をやろうと思い、家族でできること‥‥Hippoを選んだのです。私自身は仕事でフランスやイギリスへ数回行った事はあったけれど、まったくことばはできなかった。話したい気持ちは山ほどあっても、英語にしても、フランス語にしてもまったくのアレルギーだったのです。自分はそうだったとしても、子ども達はそうなってもらいたくない。どんどん外へむかって出て行ってほしいと願って入会したのです。今考えると、その時の「自分はそうだったとしても」と、自分のことをもう捨てているところの気持ちが、今の自分を作ってしまったのだろう‥‥と思う。

 Hippoというのは、異様な活気が有り、中で活動している人は、何とも言えないエネルギッシュな行動力を持っている。何、何、何なんだ、これは!!ちょっとのけぞる思いがしたものでした。何といっても小さい頃からの人間アレルギーの私。人と目を合わせる事もにがてとする私には、あのすごい人・人・人の中にいるというだけで、ほとんど恐怖感に似たものを感じてしまったのです。それでも、何だかわからないけど、何かにしがみつくようにしてファミリーへ出たものでした。

 ファミリーへ行っても、子ども達はただ遊び回っているだけで、ことばを言うわけでも、テープもろくに聞くわけでもない。このまま続けていてもやっぱり我家には無理なのかもしれない‥‥と思ったのは一昨年の暮れ頃だった。長い、長ーーーいトンネルの中から最初に外へ飛び出したのは、何と長男バンビーノだった。お正月頃、もうこれでダメだったらおしまい‥‥と思いながら、彼に投げかけたことばは、「何年か前にアトムが行ったみたいに、あなたも今年の夏はいよいよ韓国へ行ける年になったんだよ!」という事。

 そう、アトムは我家のスターでした。我が家が入会して1年か2年か忘れたけど、子ども達を上手に遊ばせてくれていた少年アトムが韓国へ行くという話は、すごいナ!!かっこいいナ!!うちの子もあの子のようにHippoで育ってくれればいいナ・・・と思ったものでした。我家の目標は、いつしかキラキラ輝いてみえるアトムになっていたのです。今、バンビーノがその頃のアトムの年になった。はたしてうちの子は、同じ気持ちになってくれるのだろうか‥‥。日頃のファミリーでの行動を見ていて、あきらめの気持ちが98%位占めていたと思います。「自分でよく考えて決めなさい」と言ってから2〜3日だったと思います。残りの2%はゼロではなかった。あの子は自分で決断して行く!と言ったのです。

 言ってみれば、我家のHippoはバンビーノの行く!ということばからようやく始まったといえるのです。本当に長い長いトンネルでした。出口のわからない我家は、目がさめたように、手さぐりHippoが始まったのです。テープを聞いてみたり、ハングル講座を見てみたり‥‥。長年Hippoに入っていたとはいえ、全く友人のいない我家は、誰にも相談できず、どうすればいいのかわからないまま、日にちは過ぎていきます。去年は、井内Fからは結局バンビーノだけという事で、いよいよ孤独でした。そんな中、あの子は本当によく頑張ったと思う。親の方がオロオロ、ウロウロしていてだらしなかった。とにかくカチンコチンの親子でした。

 そんな春休み、子ども達同士の1泊ホームステイというのが企画されました。バンビーノに「どうする?」と聞いてみると、少し考えてから行ってみるとの答え。あの子としても、挑戦だったのだろうと思う。今では笑い話だけれど、それはもう夏のホームステイのように、本当にカチコチでした。ステイの相手はテスティモ家。だいたいHippoの中で、まったく話すこともなかった私です。カチコチのままのバンビーノをあずけ、逃げるように帰る親と、それを必死に目で追おうとする子ども‥‥。何ともこっけいで頼りない親の姿だったと思う。今では、そのテスティモ一家が我家のHippoの一番の友人となったわけだから、バンビーノには感謝、感謝だ。

 日にちはアッという間に過ぎて、出発を目前にするといよいよ家中のテンションは上がり、パニック状態だった。前日などは、エレファンテ(コッキリ注:ベベのご主人。バンビーノとカバジンの父。)までもオロオロとしていて、あせりまくっていた。夜9時頃、ステイ先のオンマーから「モシモシ‥‥カンコクデス‥‥!」という電話。少し日本語が話せるオンマーでよかった!それでもすべてが通じる訳ではない。韓国語混じりなのだ。心臓が飛び出るほどドギマギしながら少しだけ話した私。ところが、同じドギマギしているだろうバンビーノは、何か話を聞きながら、「‥‥ネー‥‥ネー」と受け答えをしている。ス・ゴ・イ・ゾ・コレハ!!! −おどろきでした。親の方がタジタジでした。この夜寝られなかったのは、本人よりもエレファンテと私の方だったかもしれません。

 さあ!!朝です!!
 夢と希望とたくさんの不安をスーツケースにパンパンに詰め込んで、バンビーノは旅立ちました。
 思いっきり楽しんでおいでよ!!!

 あれから1年が経ちました。今年同じように弟のカバジンが旅立ちました。去年、お兄ちゃんが行くまでは、「僕は絶対に行かない」と言っていたあの子が、お兄ちゃんが帰ってきて、ピカピカの笑顔で韓国に帰りたーい!!と言っているのを聞いたり、写真を見たりしているうちに、気持ちが変わったようだ。
 いつの間にか「ぼくも行く」ということになってしまった。弟の目にお兄ちゃんはかっこよく、キラキラに写ったのだろう。ただ、お兄ちゃんの時のような不安な様子はなく、ただ楽しかったという表面だけを見て、行くと言っているようで、親にしてみれば、それがかえって不安でした。ともあれ、去年のようにまた家族中での準備が始まったわけです。

 まず、お兄ちゃんの時にやったように、テープを聞いてみたり、ハングル講座を見てみたり‥‥という事から始まった。ハングル講座は、勉強するということではなくて、ただ韓国語を聞くという目的だったのだけど、不思議な事に去年よりことばが聞き取れるような感じがして、私自身少しワクワクする思いでした。去年はヒッポテープを聞いてもチンプンカンプンで、ちっともひっかかってこなかったのだけど、ハングル講座の中の会話に出て来ることばはヒッポにあったぞ、と思う事がずい分と出てきて、そんなのをみつけては家中でキャーキャー言って喜んでいた。そのことばは、ヒッポテープの中だけのことばではなくて、韓国の人が普通に使っていることばなんだなーなんて、バカみたいな事を感じたりしていた。

 そうそう、去年のお兄ちゃんが行った頃と違ってきたのは、この頃だったかもしれない。去年はあくまでも息子を旅立たせるだけの親だったこの私が、お兄ちゃんを見ていて、すごいと思った事がある。帰ってきてから、それほど韓国語を出さないこの子が、テレビニュースなんかを聞いていて、何となく意味がわかるらしい。何で?むこうのオンマーは日本語を話せたという事で、あんまり韓国語を覚えて来なかったらしい息子が、何でわかるの?何だかくやしいじゃない!!そう思っていた私なので、今年はカバジンと一緒に韓国へ行く気持ちになってみようという思いがあった。そう思っていると、気持ちが自然になって、韓国語が耳に入って来る。いいぞいいぞ ワクワク‥‥

 今年は井内Fから5人も行く事になり、何だかすごい盛り上がりとなった。誰が言い出したか忘れたけれど、みんなで準備会をしようという事になった。去年長かったトンネルの外へ出たとはいえ、まだ出口のベンチにチョコンとすわったままの私が、この時をきっかけに少し歩き出した。何と私の事務所に、アンニョンハセヨ〜で始まるHippo独特のメッセージが入ってきたのだ。ただのインフォメ−ションなのだけど、何だか、どうしよう、どうしよう、こんなのがFAXされちゃった!!ってな感じ。バッカみたい!それがどうしたの?と人は思うかもしれないけれど、Hippoで他の人と交流がなかった我家としては、ドギマギするものなのです。それでもどこかうれしい気持ちがあって、私からもFAXしたり、TELしたり‥‥という事ができるようになり、楽しくなってきたのです。

  ・5年生になったら、誰でも韓国へ行ける。
  ・5年生になったら、誰でも韓国へ行けると思うな。

 去年バンビーノ達を韓国へ連れて行ってくれたノコちゃんのことばです。このことばは、私とカバジンの中に重ーくのしかかっていたのだけれど、みんなで話をしたり、自己紹介アルバムや、名刺作りで集まったり・・・いろいろ準備していくうち、少しずつ力バジンですら真剣になる場面も出てきて、わんぱくで、すっとびのカバジンの中で、その努力が見え隠れするようになってきた。ヤッタ!ヤッタ!

 5月頃、6月末の韓国大学生受入れの募集があった。私は何も考えず申し込みをした。自分でも不思議なくらい、自然だった。今までなら、せいぜい1泊受入れまでで、仕事やら、太鼓やら‥‥24時間、秒刻みで忙しく動いている我家としては、それ以上は無理だったのです。
 ところがこの時は、韓国だし−−ことば知りたいし−−カバジンも行くし−−(この頃はカバジンの事よりも、自分が遊びたいという気持ちが結構強かった。これ、息子にないしょ!)という事で、すんなり申し込んでしまった。他にノラのところと、マコチャンのところが一緒に受入れをする事になった。何だかワクワク、ドキドキだった。

 その日が近づくにつれて、私はもうパニック。
 何をしたらいいのか、どう迎えればいいのか‥‥韓国語はいくらか耳慣れはしてきていたものの、ファミリーで他の人が話すように私の中からことばはまったく出てこない。ことばが通じなかったら、18歳の男の子と顔をつきをわせながら、どんな事になってしまうのかしら‥‥!!ものすごーく不安な気持ちだった。そんな時、テステイモなどは、ケンチャナヨーなんて、のんびりした口調で言って、すずしい顔をしている。何なのよ、ケンチャナヨって?クヤシー!!私が一人で騒ぎまくっていると、ワカチャンも、他の人も、やっぱりニチボ・ニチボとかケンチャナヨーとか言うのが聞こえて来る。それって、大丈夫ってこと?じょうだんじゃないわよ、私はちっとも大丈夫なんかじゃないの。だから手伝ってネ!ってな事で、テスティモとマロンを引っ張り込んでしまった。彼女達はともに、韓国へ子どもを送り出すオンマーなので自分達も受入れする気持ちになってくれて、日程をあけてくれたり、本部の対面式にも駆け付けてくれた。何てすばらしいことでしょう。どれだけ心強かったことでしょう。一緒にいたマコチャンが、いつも積極的にガンガン活動している姿を見て、すごいな、うらやましいなと感じていた私。今そのマコチャンの存在が、テンションが上がり過ぎてひっくり返りそうになっている私を支えてくれている。優しい顔のベアーにも、今まで話しかけた事などなかったのに、仲間という感じで話ができて、とてもうれしい。ともあれ、ハラハラ、ドキドキ、ワクワクの中のスタートでした。

 ムン・チャンイル 18歳
 彼が我家にやって来た!

 あんなに不安だったのに、あんなにパニックだったのに‥‥ひとこと、ふたこと‥‥話したりしていくうちに、随分落ち着く事ができた。はじめ不安そうだった彼も、一生懸命私達の方を向いてくれた。つたない韓国語のやりとりも、ジェスチャーも、お互いけっこう楽しみながらできたと思う。彼は、随分日本語もわかっていて、私が書くカタカナの間違いなども直してもらったりして、大笑いをした。

 次の日は、何とコッキリが会社をお休みしてくれた!!何てすごいことでしょう!!!コッキリばんざ〜い!!!もう感激!!
 この日はノラの所は2人共お仕事という事だったので、お昼頃までマコチャンとマンモといっしょに3人を小学校の見学につれて行った。午後は、コッキリと私で3人を連れて池袋へ出てみた。チャンイルは、トプタ、トプタ‥‥と言っている。手をうちわのようにあおぐ真似をして‥‥。そうか、これは暑いって言ってるんだ。本当に、この日は暑かった。
 トプ夕ー、トプター。
 サンシャイン近くのアムラックスへ行って、スポーツカ−を前に写真を撮ったりしてしばらく遊び、ゲームセンターでゲームをしたり、買物をしたりして帰ってきた。夜は、マコチャンの家で一品持ち寄り歓迎パーティー。
 すごい 人 ・ 人 ・ 人 ・ 人 ・ 人‥‥
 マコチャンの人柄で、集まる人の輪のすごさにまたビックリ!!チャンイルも、スンジュもジョンスンも、とても楽しそう。よかったね! カバジンはずつとチャンイルのそばにいる。積極的に自分を出していくカバジンに比べて、お兄ちゃんのバンビーノは一歩引いてしまう。見ていてちょっとかわいそうだった。
 ここでは、一緒に韓国に行く子どもたちが皆集まった。子どもたちは、3人の韓国から来たお兄さん、お姉さんと写真を撮ったりして親しんでいる。そんな楽しい雰囲気の中に、私と私の家族もいる。よかったナ、受入れをしてみて‥‥と思った。すっごく幸せな気分だった。

 次の日は、和太鼓の練習を見せようという事になり、皆が集まってくれた。和太鼓は、私とバンビーノとカバジンでやっているのです。この日は、会のメンバーが少なかったので、迫力には欠けたけれど、3曲くらい叩いて見せてあげた。午後は、今度は私が動けなかったので、ベアーとマコチャンにチャンイルをあずけた。夜はHippo。ひょうきんで、おちゃらけで、とても明るくていたずらっ子のチャンイルは、もうすっかりリラックスしていて、ワカチャンと話をしたり、歌ったり踊ったりして、皆と一緒に大騒ぎしていた。楽しかった。Hippoの後、どこか飲みに行きたいという彼等。我家は子ども達を寝かせなくてはならないので、誰か連れて行って!!!と騒ぐと、マコチャンのところのテツさんが引き受けてくれた。すごいナ、Hippoって!!チャンイルもHippoの仲間のあたたかさに感激したようだった。
 夜中になって、エレファンテに迎えに行ってもらい、帰って来た時、ベロリと舌を出して茶目っ気たっぷりの笑顔の彼は、もう私の息子でした。翌日の日曜日は、お昼近くまで寝ていた。疲れもドーと出たのだろう。

 すっかり家族のようになって、かってに寝て、かってに起きて、かってにシャワーをし、かってにCDをかけてかってにテレビを見る。私が買物をして帰ってくると、荷物をごく自然に持ってくれる。自分が食べた食器を片付けてくれる。私がいいヨーというと、ヤッター!という顔をする。はじめの頃はそうではなくて、‥‥でも‥‥ぼく‥‥やります‥‥という感じだったのが、この頃になると、ニコ〜としてヤッター!!という顔。随分ちがう。その顔の明るさに、私もまたヤッター!!と思ってニコー!!
 たった2、3日だというのに、何日も何日も一緒のような感じがする。

 チャンイルは又、我家のわんぱく坊主2人とも遊んでくれた。韓国にもあるらしいけど、人生ゲームというのを一緒にやっていて、けっこう盛り上がっていた。カバジンは、もうチャンイル、チャンイルと、うるさいくらい。それに対し一歩遅れてしまうバンビーノ。心の中では自分もいっぱいチャンイルと話をしたいと思っているのに、すぐ横からカバジンが入ってきてしまう。兄の心の中がモヤモヤしている様子が、私にはわかった。

 日曜日は、夕方に日曜Hippoへ行き、帰りはカラオケへ行くことになった。Hippoってすごいと感じたのはまたこの時なのだけど、だれか彼等をカラオケに連れて行って!!Help!!と騒ぎまくると、チョルムニ達がそれじゃ行こうって言ってくれる。これってすごいナって思った。私の知らない人達なのに、いろいろな人に話しかけたら、皆こちらを向いてくれた。私のまわりの厚くて高い力べが、少しずつだけど確実に崩れていく感じだった。
 Hippoのみんな、ありがとう!!心からそう思った。

 夜、もう明日で終りだね・・と、ポツンと言ってしまった私。その瞬間からカバジンの声がなくなってしまった。
 シ〜ン
 夜遅く、カバジンは寝られず、泣いた。カバジンはすなおなので、本当に彼の気持ちのまま泣いていた。朝になっても泣いていた。学校へも行きたくないらしい。チャンイルにもカバジンの気持ちはよーくわかってもらえたことでしょう。

 Hippoの仲間のすごいことは、まだ続く。
 何と、朝の保谷駅のプラットホ−ムで、ノラやマコチャンを待っていると、向かいの道から声がする。何と、2人の小さな子を自転車にのせて、マンモがそこにいるのだ。韓国から来た3人を見送りに来てくれた。本当にうれしかった。すごいと思った。
 Hippoって何なの?
 ノラもすばらしい。その日の朝、ノラのところにステイしていたジョンスンが書いた感想文と、楽しかったというお手紙を、私とマコチャンにそっと渡してくれた。この封筒を開けた時は、とても感激してしまった。私と同じ気持ちをノラも感じていたと思うと、もう胸が熱くなって涙があふれてきてしまう。ジョンスンの感想文にあった「ありがとう」のことば、一生懸命日本語で書いてあって、彼女の思いが伝わってくる。そして、それをコピーしてくれたノラの心の中に、皆で一緒にこの3人を受入れしたんだという気持ちがあってとてもうれしく、涙がとまらない。

 私は、今回の受入れをきっと忘れないと思う。
 今回はたくさんの人に助けてもらって、自分から話しかける事のできなかった私が、少し変わる事ができた。私か話しかけたら、皆こちらを向いてくれた。何だかそれもとても自然なのです。
 何のためらいもなくコッキリにチャンイルのハングルでぎっしり書かれた感想文をFAXしてしまった私に対して、次のファミリーの時にきちんと訳して書いてくれたコッキリ!コッキリは本当に何者!?
 本当に本当にありがとう。ベル、ノラ、テスティモ、マロン、マコチャン、その他たくさんの皆。本当に楽しかったよね。ありがとう。エレファンテは、仕事が忙しく、あまり一緒に騒げなかったけれど、それでもとても楽しかった、このような受入れができれば何度でもいいよね、と話していた。我家が大きく一歩前進した瞬間でした。この日、風がさわやかで、とても心地良かった。チャンイルの余韻が、とても心地良かった。‥‥でも‥‥疲れた‥‥

 さてさて、いつまでも楽しかった余韻に酔いしれている暇はない。、もう目の前にカバジンの韓国行きがひかえているのだ。まだアルバム作りも完成していない。大変だ。大変だ!1日1ページを目標にテーマに合わせて写真をはり、ことばや絵を入れていく。ちょっとやるとすぐに気が散ってしまうカバジン。それでもことばは、調べられる所は、自分で辞書をひいて書いてみたり、ファミリーへ行ってコッキリに教えてもりったりしながら、完成させていった。何でもきちんとできる子に比べて、いろいろな思いは山ほどあっても上手に表現する事のできないカバジンにとって、大変な作業だったと思う。親も大変だった。どこまで手出しをせずにいられるか。我慢、我慢、という感じだった。でも、こうやって親子で一緒になって韓国行きの準備をしていくうちに、カバジンの気持ちの中にもいよいよ行くんだという自覚が出てきたと思う。自分勝手で、わんぱくで‥‥とくに人の話を最後まで聞くことの苦手な多動児、カバジン。それはそれは心配でした。あちらへ行って、迷子にでもなったらどうしよう、とか、家族の人にいやがられはしないかとか、Hippoの人の話がきちんと聞けずに、勝手な行動ばかりとるのではないか‥‥etc‥‥etc‥‥etc‥‥本当に、本当に、心配でした。

 カバジンの受入れ団体が決まった。!何と“いいお父さんになろう会”という所。何とな〜くカバジンにピッタリのような予感がした。何だか楽しそうな団体に思えた。いいかもしれない。うまくいくかもしれない‥‥そう思った。
 ホストファミリーの写真が届いた!何という事!アッパーが、我家のアッパーとそっくり!!髪の毛がちょっと違うけど、体つきから、ひげから、そっくり!!大笑いです。これは本当にいいかもしれない。きっと楽しんでこられるだろうと、思えました。
 この頃になると、さすがのカバジンもドキドキしてきたらしい。心臓が飛び出しちゃう感じだと話していた。

 7月25日
 たくさんのおみやげと、不安と、期待をスーツケースに詰め込んで、箱崎からバスに乗って行きました。
 ヤレヤレ、行った、行った。フー!
 心配は心配だけど、もうここまできてしまえば、カバジンの持つ素材で勝負。何とかなるでしょう。
 ようやくゆっくり仕事ができるようになった。ちょうどバンビーノもボーイスカウトのキャンプでいなくなり、私は事務所に泊まり込んで、片付けやら仕事やらグチャグチャとやっていた。

 6月に引越しをしたので、整理しなくてはならない事も山ほどあった。この時ふと電話を見た。そうだ、この電話、留守録できるんだよね。もう何年も使っているものだけれど、ここのところ仕事の方もいろいろあって、留守録にする必要もなかったので、すっかり忘れていた。そうそう、そういえばオートダイヤルもできたよね、あれそうだ、短縮ダイヤルもできたんだ‥‥
 説明書をみつけて、座り込んで見ているうちに今まで知らなかったいろいろな機能がある事を発見。何だ、これってまるで私のHippoじゃない!我家に古いHippoって大きいものがあるけれど、何だかよくわからない。かといって説明書を隅から隅まで読んでみようという気にもあまりなれない。でも、ちょっとボタンを1つ押してみたら、人と話ができたし、また違うのを押してみたら、韓国へバンビーノやカバジンが行けた。面白がっていたら、受入れをして楽しむ事もできた!もうこうなってくると、いろいろ他にも何かできることがあるのかもしれないと思えてくる。そしてまた、いろいろといじってみていると、すばらしい事が何倍にもなってわかってくる。きっと、まだまだ他にも私の知らないボタンがHippoにはたくさんあるのだろう。ウ〜ン これは本当に大発見だ!ここ数年、Hippo以外の事でも、すべてネガティブな回転をしていた自分が、ポジティブに変わる瞬間、そんな感じがした。私は、そろそろ飽きて来て、新しく取り替えたいと思っていた電話に感謝しなければならない。
 カバジンがいない間の、大きな収穫でした。

 8月8日
 カバジンが帰って来る。空港で迎える予定だったが、思わぬ渋滞で行き着かず、途中で本部に電話を入れて箱崎で迎える事にした。この日は渋滞がひどく、バスも箱崎へ着くのがすごく遅れた。
 着いた!バスに子どもたちの顔!
 1番のりでおりてきたのがカバジン。その顔を見た途端、ホームステイがどれだけ楽しかったかすぐにわかった。プールにでも行ったのか、黒くやけた顔。ピカピカしている彼は、一回り大きく感じられた。ホッとした。他の子もそうだったけど、みんな自信を持っていて、堂々としていて、とってもいい顔だった。

 それからしばらくは、カバジンのことだから、ペラペラペラペラしゃべり通し。韓国海苔がおいしくて毎日食べてたら、オンマーがいっぱい御土産にくれたこと。ことばにはまったく困らなかったこと。アッパーが優しかったこと、犬のこと、etc‥‥中でもやっぱりロッテワールドへ連れて行ってもらった事が一番うれしかったようで、まるであの子の韓国行きは、ロッテワールドがすべてのよう。バ・力・ヤ・ロ・ウ!!イ・イ・力・ゲ・ン・ニ・シ・ロ!!!!と叱りながら、まあ仕方無いか、カバジンじゃ‥‥というあきらめの気持ち。とにかく2週間頑張って行ってきたのだし。あちらのアッパーが作ってくれた、すばらしい日記のアルバムをいただいて、どれだけ大切にされ、愛されてきたかよくわかり、やっと安心させられた。本当にあちらの家族の方にはお礼の言いようもない。

 それにしても感心した事は、自分勝手にしないよう気をつける事、人の話をきちんと聞く事という私との約束が、ず〜と彼の頭の中にあったという事。ああ、この子も結局あまりことばを覚えるという事はできなかったかもしれないけど、この夏はすっごくいい体験をして、一回りも、二回りも成長したんだなーと思った。本当に良かった。

 170名韓国へ行った中で、カバジンだけが体験できた事がある。何と帰る日に、OHさん一家が、今度は日本へホームステイで来たのだ!すごい事だ!榊原さんのお宅での家族交流パーティーに特別招待され、私もOHさんご家族にお会いすることができた。ラッキーなことだ。入口を入ろうとすると、チャンスーらしい子がカバジンを見つけて、ユーヤー!!(カバジンは悠也といいます)と飛びついてきた。ヨドンセンのウンジもオッパー!!と言って駆け寄って来る。オンマーも出てきて、ユーヤ、ユーヤと大騒ぎ。私はろくに挨拶も出来ないまま、あっけにとられてしまった。ウンウン、我家のアッパーにそっくりな人がいる、いる。あの人こそ〜あの写真のアッパーだ!本当に2人並ぶと兄弟のよう。”いいお父さんになろう会の方でも話題だったようで、2人を見て皆で大喜び!大笑い!我家のアッパーも、人の多い所でしゃべる事が苦手なのですが、すっかり雰囲気にのまれてしまったよう。

 すごいことが起きたのです。家族紹介の中で、画期的な事が起きたのです。ファミリーでも、一言もことばを出さなかったアッパーが、まわりの雰囲気に押されて、
 アニョンハセヨ〜 !!!!!!
 そう、たった一言だったけれど、私は一瞬耳をうたがってしまった。しゃべった、しゃべった!お父さんがべロリとしゃべっちゃった。これはすごい事だゾ!多分、言ってしまって自分でもびっくりしたのではないでしょうか。
 まあ、それだけの事‥‥と思わないでほしい。長い、長〜いアッパーのトンネルにも、少し光が差し込んできているというという事なのです。よかったね!と思った。

 それにしても、この部屋の中のどの人が韓国の人で、どの人が日本人なのか、まったくわからないほど普通に韓国語が飛び交っているのだ。あっHippoナープにあったことばだ。あれはたしか歌にあったとか・・・聞き取れる部分がたくさんあった。ハングル講座の中で覚えたサランへという歌も大合唱。私も一緒に歌える事ができて、とてもうれしかった。でも、まわりの人達は皆お喋りができる。私は話せない、せっかくあちらの家族の人がいるのに、カバジンの事を聞きたいのに、お礼もきちんと言いたいのに、全然しゃべれない。本当に悲しかった。悔しかった。

 その日のその思いがあった事と、カバジンをもう一度チャンスウと会わせておいてあげたいと思い、OHさん達“いいお父さんになろう会”のメンバーが帰国してしまう日に箱崎へ行ってみる事にした。
 チャンスウは、またカバジンをみつけて抱きついて来た。大騒ぎ。韓国へ行っている間に、ボーボーに伸びた力バジンの髪の毛を、その日の朝切ってやって行ったところ、オンマーが「まあユーヤー、髪の毛切ったのネー」ってな事を(たぶん)言っていた。手でハサミのまねをして、カバジンの髪の毛をなでてくれた。何となく、ソノコがジャネットの写真を見て言う時のことぱが、ポロポロオンマーの口から出てきたので、そんな事をいっているのだろうという事がわかった。私も、ネー、ネー、と返事をしながらハサミの真似をして、あちらのオンマーと一緒にカバジンの髪の毛をなでた。何となくホンワカリンとあったかい会話だった。
 そして、あとは何も結局話せずにいるうち、OHさん一家は帰って行ってしまった。帰りの電車の中で、私は本当に落ち込んだ。自分からことばが出ない事が、くやしくて悲しくて、とても残念で涙が出てしまった。

 カバジンは、結局箱崎でもおちつかずに遊んでいた。あのバカ!‥‥カバジンのホームステイが終わった‥‥そう思った。お別れだというのに、なんで行っちゃいやだとか、悲しい‥‥とか何とか、言ってみたりしないの? と、私が言うと、ヘラヘラのカバジンが、「ホームステイは終わらないよ。だって手紙書くからずっと終わらないよ。」とのこと。
 ガーン!!
 そうか・・・去年、バンビーノが帰ってきた時に、ワカチャンに言われたことばを思い出した。あの時ワカチャンは私に、これからが始まりなんだよね、と言ったのです。何となくわかるような、わからないような感じだったけれど、まさかカバジンに教えられるとは思わなかった。ショックでした。

 でもネ、今の私はとにかくあの時何も話せなかった自分が、悲しくて、くやしくて、その事だけでいっぱいなのです。

 本部のチャコチャンに、どうすれば話せるようになるの?どうしたらハングルが読めるようになるの?と聞いたら、一言「Hippoのテープを聞けばいいんだヨ!テープを聞いて、たくさんファミリーに行って話す事だよ。」という答え。

 人よりずっと進むのは遅いけれど、私と私の家族のHippoは、確実に実りつつある。少しずつ・・・少しずつ・・・
 恐る恐るだけど、何かあるたびに前へ進んでいると思う。
 いつの日か、カバジンの韓国のアッパーが作ってくれたアルバムのハングルを読める日がくるまで、あせらず、ゆっくり、楽しみながらHippoを続けよう。もう我家には仲間がいる。一緒に楽しめるすばらしい友達がいる。すてきな事だと思う。
 Hippo!!チャイプタカムニダ!!


この文章は、ベベが書いて文集に掲載されたものを、僕(コッキリ)がパソコンに入力しなおしました。イラストは省略しました。

後日談ですが、このすぐあとの冬休み(1997年12月〜1998年1月)に、チャンスーはカバジンの家にホームステイにやってきました。
1998.2.20

さらに後日談ですが、1998年の夏、僕はチャンスーの家に遊びに行ってきました。九里市という自然が美しいところで、家族も素晴らしくて、ここにホームステイしたカバジンは幸せ者だと思いました。
そして同じく1998年夏、バンビーノはアメリカへ1ヶ月のホームステイに行きました。カバジンは韓国の時と同じように、「僕はアメリカには行かない。」と言っていましたが、お兄ちゃんが帰ってきてからすぐ「来年はアメリカに行く!」と宣言し、もう準備を始めています‥‥。
1999.1.14

西武線地域・井内F・コッキリ

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