マロン(ドングリの母)
1997.9.6
“ああ、もう一回ヒッポさがしてみようかな、やっぱり子供のためには英語塾よりヒッポだよなあ”とぼんやり思っている時、偶然テスティモがヒッポに入っていると知り、その日にワカちゃん宅のtea partyへ。“あー、この人知ってる、本部でこの人の話を聞いて感動したんだよなあ、いつも後ろばかり見ていた私に、前を向くと楽しいよって心にストンと落としてくれたんだよなあ、ワカちゃんのFなんて子供のためになるかもしれない・・・。”だめもとで夫に話してみるとナント、「いいんじゃない、やれば」「えっ?いいの?」で即入会。Fの勢いにフラフラ流され、なんとなくできるかと思ったけれどやっぱり足が消えかかっていた。 そんな時期、ドングリの青少年交流の話。“そういえば以前のFでも5年になったら韓国だ、行った行かないって言ってたっけ・・・ドングリもそんな年になったのかあ”
「あずさ、どうするの?」
「行きた一い、行きたい、ロシア行きたい、メヒコ行きたい、アメリカ行きたい」
「う一ん、軽いやつだ、でも行くならやっぱり大勢行く韓国にしな」
「え一っ、いやだなあ、メヒコがいいよ、ロシアもいいなあ」
「韓国でなきゃ行かしてやんない、皆な韓国なんだから韓国にしておいてよ」
「ふ一ん」
そんなこんなで半分幽霊のまま4月の準備会へ。
そのうちテスティモと準備会の話がでて、韓国へ行く他の3人にも呼びかけようということになった。知らない人たちだったけれど、子供が参加できなくても親が参加してくれた。回数は2・3回しか出来なかったけれど、本部準備会へ行く時や合宿の送迎など一緒になることが多く、だんだん私自身が楽しくなっていった。でも、まだ子供ありきだった。7月もまたたく間にすぎていった。
出発も迫った7月23日、なんと受入先のオンマーから電話があった。しかも私が留守のうちに2回もあった。1回目はドングリに「手紙届いたよ、会えるのを楽しみにしているからね。」とやさしい言葉。2回目は「お母さんいる?」。うーんこれはこちらから電話せねば・・・。国際電話なんて初体験。どうしよう、だって行くのはドングリで私じゃないのに、なんで私の出番がきてしまったの?このところテープ聴いてたつもりだけど、何て言えばいいのかなあ、こんな事ならちゃんとヒッポしとげばよかった。後悔を胸に思いきってかけてみる。
「ヨボセヨ」
「ヨ、ヨボセヨ、チョ、チョヌン、○○○ラゴハムニダ」
「あー、あずさちゃんのお母さんですか」・・・
受話器を置くと心の中がじわぁっと温かくなった。話が通じてホッとしたのと、やさしい声とあたたかい言葉。行くのは私ではないのに、私の事のようにうれしかった。
私はこの時初めてわかった。ドングリだけが行くんじゃない。私やトトリも一緒なんだ。よくヒッポで、行く人の後ろにはヒッポのみんながいるというけれど、いつもそういう時、“でも、私は行ってない”と心の中でつぶやいていたが、行く人の後ろにいる自分がはっきりわかった。行かないけど一緒。行かないけど行く。そうなんだ、いつもいつもヒッポに入った時から、これは子供のため、私がやるものじゃないと自分を第三者の立場においていた。だから楽しめなかった。だから挫折した。心がじわぁっとなった時、支度を始めて4カ月間、私も当事者だったんだ。単なるサポートではなかったんだ。“あー、私もヒッポしてるのかもしれない、私も韓国だあ!”と、思いに酔いしれる時間もせわしなく流れ、出発前日。
それまでドングリは心配や不安をほとんど口にすることなく「楽しみ、楽しみ」と言い続けてきた。それはやはりどこかで「あんたのためにがんばっているのよ、お母さんは」という心が伝わって、淋しいとか心細いとか言えなかったのだろう。夜、ドングリに「淋しいのがあたりまえ、泣いてもいいんだよ、がまんするとつらいからね。」と声をかけた途端、おいおい泣きだした。「なんだかこわいよぉ、不安だよぉ・・・」そっと抱きしめて寝た。
出発当日の朝も泣いていた。外に出るとドングリは一生懸命涙をぬぐう。でも、ボロボロこぼれてくる涙。駅まで手をつないで歩いた。
箱崎に着いて受付をすませると、一人一人が自分のことは自分でしようと説明を受ける。“あずさもこれから2週間一人なんだなあ・・・”。説明も終わり、行ってらっしゃいはあっけなく終わってしまった。箱崎のエスカレーターにさっさとのり、振りむこうとしないドングリ。声をかける私。ドングリは振りむいて私を見つけ、にこっと笑った。
27日(ステイ2日目)夜。
プルルルルル・・・
「はい、○○です。」
「○○さんですか。韓国です。あずさと替わります。」
「お母さん、淋しいよう。」
「がんばれ、今日は何をしたの?」
「昼は水遊びをして楽しかったけど、夜は淋しくてたまらない、お母さんに会いたいよぉ、ぐすん、ぐすん・・・」
「よかったね、昼間楽しくて。淋しいのは一緒だよ。昨日も言ったでしょ。よーく考えて。」
「うん。」ガチャ。
夫は「あずさはすごい大変なんだぞ。明日泣いて電話があったら、オレは韓国へ迎えにいくぞ。」「えっ? お父さんのパスポート、期限が切れてるから申請してるうちに帰ってくるよ。」 夫「・・・・・」。ドングリがんばれ!
28日(ステイ3日目)
プルルルルル・・・
「はい、○○です。」
「○○さんですか?韓国です。あずさは今日は泣いていない。電話するか聞いてもいらないって言ってる。今、オジンと遊んでる。心配しないでね。」ガチャ。
“オンマーありがとう、本当にありがとう” ドングリえらいぞ、がんばれ!
29日(ステイ4日目)夜。
・・・・・・・電話がこない。
・・・・・・・電話がこない。
・・・・・・・“淋しいよぉ、あずさの声が聞きたい、淋しい”、26日以来固まっていた心臓がいっきにつぶれた豆腐のようになった。ただひたすら淋しかった。ステイ5日目も6日目も、もう電話はなかった。そんな私を見ていた夫、「オレは平気だよ」。
なんだかんだで8月8日。
朝から落ちつかず、箱崎到着予定より1時間半近くも早く箱崎へ。バスは遅れ、3時間以上も待って、待って、待って、やっと到着。”どこだ、どこだ、あずさはどこだ、あー、いたいた。ちゃんと歩いてる、あっ、笑ってる、少し疲れてるかな”バスから待合所の入口まで、ほんの2,30mなのに待ち遠しい。早くさわりたい、声を聞きたい。ついに私のところへ帰ってきた。
「お帰り、あずさ」。
ドングリが韓国へ行ったことで私自身、ヒッポに入ってよかったと初めて思えた。長い時間かかったけれど、何か離れられずにいたその理由を体でわかることができた。ヒッポにいなければ出会えなかった韓国の家族。人間を信頼し、勇気を持って飛び出せば、きっと何か自分に響くものがある。ワカちゃんが言っていた。「韓国へ行った子供たちはみんな、困ったことはなんにもなかったって言ってるよ、赤ちゃんに、困ったことはなんて悩むことって全然ないでしょ。周り全てを信頼してるから何もできなくても生きていけるんだ。」って。
人は1人では生きていけなくて、人だからこそ言葉があって、言葉は1人では生きていけない人を結び合う。私も肩の力をぬいて私のヒッポを楽しもう。“ニチボニチボ、ケンチャナヨ”だ。
それにしても韓国へ飛び立った171人の子供たちは大したものだ。そして、その171人の子供たちを受け入れてくれた韓国の人たちはすごい。
ありがとう、そして、これからもよろしく。
後日談ですが、このすぐあとの冬休み(1997年12月〜1998年1月)に、オジンはドングリの家にホームステイにやってきました。
1998.3.3
西武線地域・井内F・コッキリ