テスティモ(タクトの母)
7月25日、子供以上に眠れない夜を数日過ごした後、とうとうこの日が来てしまったという感じで朝を迎えた。洗面、朝食、着替え.・・何一つふだんと変わりないようで3人(この日は韓国に行かない方の双子の片割れ、マサトは林間学校で留守だった。)はそれぞれの思いを胸に抱きながら、しかし言葉数は少なくタクシーがくる時間となった。
今度タクトがこの玄関から入ってくるのは2週間もあとなんだ。これから2週間、どんな日々を過ごしてくるのだろうと思っただけで胸がつぶれそうになる。つい涙腺がゆるむ。だめだめ!ここで私が泣いたりしたらタクトが行けなくなってしまう!
さあ、出発!と自分自身に言い聞かせるようにしてタクシーに乗り込んだ。駅からは同じファミリーのドングリの家族と一緒だったしT−CATでは、たくさんの人に会って私の気持ちも紛れていき、笑顔でタクトにバイバイができた自分にちよつとびっくりしたのだが、みんな(子供たちを送り出した母親たち)と別れるとだめだった。涙がとめどもなく澄れ、それと同時に私たち家族がヒッポに入ってからのことがきのうのことのように思い出された。
私たちの家族(夫、双子の子供、私)がヒッポに入ったのは子供たちが幼稚図の年少組の時だから、もう7年も前のことだ。入ってまもなくこの韓国青少年交流のことを知るが、うちには関係のない事だと思っていた。うちの子達はとても内気で恥ずかしがりやでとてもそんな大それた事はできないとしか思えなかった。2年ほど過ぎた頃、多摩から高校生の男の子が2人いるという人が引つ越してきて、2人とも韓国に行った、という話を聞いた。小5位でどうして1人で韓国に行こうと思えるのか、それが当時の私には疑問でそのお母さんに聞いてみたところ、そのファミリーでは「5年生になったら韓国に行くのが当たり前」という雰囲気があり、子供達もその年齢になると今度は自分の番だと心待ちにしているという話だった。そう聞いて、羨ましいなと思えるまで私も成長していた。でも、まだやっぱり自分の家には起こり得ない事だという思いはあったし、もしそういう環境にあったとしてもうちの子達は行くとは言わないだろうなァ、と漠然と思っていた。
子供達が小学校に入るころ、当時住んでいた中野の社宅が手狭になり引っ越し先を探し始めたが、何よりもヒッポの環境を優先させ、わかちゃんのファミリーに歩いて行けるところに家を買った。たくさんの家族がいると聞いていたので、小学生もさぞかしたくさんいて多摩のファミリーのような空気があるものと勝手に思いこんでいた。
ところが何回かファミリーに行ってはみたが、たくさんいるはずの小学生が殆どいない。子供はたくさんいるにはいたが、ほとんど幼児たった。ここでも私が夢に見ていた様な環境はないのかなーと少しがっかりした。でも環境という物は自然とそこにある物ではなく自分の手で作っていくものだ、と気がついたのは去年のことたった。子供達ももう小4になっていたし、せっかくある素晴らしいプログラムにぜひ参加してほしいと思い、環境づくりに乗り出した。
まず、春休みに同じファミリーの子でほとんと面識がなかったバンビーノを受け入れした。彼はうちの子より1年上の5年生で、その年に韓国に行くのを決めていた。心密かに彼の影響を受けてくれることを望んだ。しかしこの段階では自分たちも韓国に行くとは言ってくれなかった。でもバンビーノと、その弟で同い年のカバジンとはすごく仲良くなれ、そのことが今回の韓国行きに大きな影蟹を与えたことは間違いない。
その次にした環境づくりは、夏の韓国青少年受け入れだつた。2週間のホームステイがどんなものなのかを目の前で見ておいて欲しかったからだった。段階を踏んで、という私の勝手な準備行動だった。
しかし、私の意図とは反対に、この受け入れは彼らに「僕は絶対に韓国に行かない」という気持ちを抱かせてしまった。原因はいろいろあると思う。ホームシックにかかって泣き出した姿を目の当たりにしたせいもあるだろう、言葉の問題でうまくコミュニケーションできなかったことも心のどこかに引っかかっていたのかもしれない。とにかく本
人運がそういう気持ちになってしまったので.私もぜひ行って欲しいと言うよりは行く行かないは本人が決めることだ、という風に変わってきた。
そういう経緯があったので「行こうかな」と言いだしたときは正直言って半信半疑たった。彼らの中でもいろいろ思い悩んでいたのだろう。しばらくは気持ちが揺らいでいたようだが、はっきりと決めてからは、タクトの日記にもあるように前向きに準備を進めていた。ただ残念なことに、この段階で2人のうち1人(マサト)は行きたくないと言う気持が強くなり、周りの執勘とも思える説得にも応じずキャンセルしてしまった。ふと私の中に一つの不安がよぎった。それは、マサトが行かないことでタクトまでがやめると言い出さないか、ということだった。この不安は見事に裏切られ、私はタクトの事を少し見直した。
今年は同じファミリーから5人もの子供が韓国へ行った。何とも心強いことだが、子供達が、ただ漫然と行って、訳もわからず帰ってくるというようなことは絶対して欲しくなかった。行くからには、自分なりの準備をしっかりして行って欲しかった。そのことをドングリのお母さんのマロンちゃんに伝えたところ、同じ思いでいるということが判り、全員で集まって一緒に準備会をしようということになった。とにかく、マロンちゃんと私は、初めて子供を送り出すので、常に行動していていないと不安で、毎日のように会ったり電話したりしていたように思う。
この準備会は子供達にとっては勿論、不安いっぱいの親の方にも有意義な集まりとなり、今考えると本当にやって良かった、と心から思える。どんな些細な不安も、それを口にし、それを受け止めてくれる仲間がいる。もしこれがヒッポの交流ではなく単なる旅行だったら、きっと行く本人も親の私もその不安やプレッシャーに耐えられなかっただろう。この活動の中に身も置いていて、本当に良かった。素晴らしい仲間と出会えて幸せ!!この環境を、私は生涯の宝としてずっと持ち続けたい。
そして、更なる出会いを求めて、新たな一歩を踏み出したい。できることなら今度は家族全員で・・・
1997年9月
1998.2.24
西武線地域・井内F・コッキリ