14時40分、出発。途中、Shah Alamという世界最大規模のモスクを見る(外から見ただけ。)。
Shar Alam★写真左:Shar Alamをバックに記念撮影。★

そしてFarewell Partyの会場に到着。ほぼ予定どおり、17時頃開始。出し物が始まる。マレーシアの人のギター演奏、僕とパペール、メトロのリコーダー演奏、バイクの空手、みんなで歌を歌ったり。そして、えらい人の長い話、ヒッポを代表してドラえもん、こと愛知のたいぞうさんのホームステイの感想。
リコーダー演奏★写真左:リコーダーを演奏する僕とパペール。★
バイクの空手★写真右:空手のカタを披露するバイク(朝霞・アサンテFの奈良さん)。★
歌をうたう★歌をうたう。向かって左端はおしょう(朝霞・アサンテFの袖山さん)、右端はタイゾウさん、右から2番目はたねちゃん(千葉・マリンキーFの千葉さん)★

その後軽い食事があり、対面式の時と同じように、Ibuは僕のために料理を持ってきてくれた。「Sila makan!」・・・これが最後の「Sila makan!」だった。

・・・そして、お別れ。涙が出てきて、どうしようもなかった。何か言おうと思ってもことばにならず、言えたのは「Terima kasih.」だけだった。Saya boleh cakap(話) satu bahasa 「Terima kasih」・・・

記念写真★最後にみんなで記念撮影。この写真の大きなものは、ここにあります。(600×400ドット・59Kバイト)★

それから空港までのバスの中でも、いろいろな思いがうずまいていた。
海に行った日の夜、足が痛い、と言っていたIbu。孫に足を踏ませている姿を見ながら、僕は「足、痛いの?さすってあげようか?」が言い出せず、何もしてあげられなかった。
食事のあと、子供達がそれぞれ自分の皿を台所に持っていったり、後かたづけをするのを見て、僕も手伝おうかな、と思いながらも、何もしなかった。
そんなことが、心残りだった。いつもみんなが言っているように、普段日本でやっていないことは、ホームステイ先の家でもできないんだ、ということを実感した。

空港に着いてからは、おみやげを買ったり、ステイ中に書いた絵はがきを出したり、ちょっと軽食をとったりで忙しかった。帰りの飛行機は、予定通り22時15分に離陸。しばらくすると機内の電灯も消えて、みな眠りについた。2時間位寝ただろうか、ふと目をさまして窓から外を見ると、外は満天の星。飛行機から見る夜空がこんなにきれいだとは知らなかった。星を見ながらマレーシアの僕の家族のことを想うと、また胸が熱くなり、眠れなかった。家についたらすぐに電話しようと思った。Saya mau telefon ke ibu di Malaysia.

やがて空が白み始め、早朝に成田到着。成田からはフリオが運転するレンタカーで家まで送ってもらった。
飛行機・夜明け★飛行機の中で夜明けを迎えました。★

家に着いて、電話に手をのばす。
RRRR・・・ガチャッ
???? 「Hello?」
Saya 「Hello.」
???? 「Siapa?」
Saya 「Saya Yuji di Jepun.」
???? 「Eh,Yuji.」
Saya 「Siapa?」
???? 「Aizat.」(孫の1人の名前)
Saya 「Ibu ada?」
Aizat「Ibu‥○△×□◇☆‥ pergi Tg.Karang.」
Saya 「Sekarang,Tidak ada rumah?」
Aizat「Ya・・・」
・・・そうか、昼食の買い物にでも行っているのだろう。
Saya 「Cakap ibu,Telefon dari Yuji di Jepun.Jumpa lagi! Bye,bye.」
Aizat「Bye bye.」

そして、2時間後。電話がかかってきた。
RRRR・・・
Saya 「もしもし。」
???  「Hello?Eh?Yuji?」
Saya 「Ya,Yuji.」
???  「Saya,Ibu,ya?!」
なんと、Ibuからの電話だった。
Saya 「Ya,faham(解).」
Ibu  「Sampai(到着) rumah?」
Saya 「ya,sampai rumah saya di Jepun.」
Ibu  「Bila(いつ) datang(来) ke Malaysia lagi(再)?」
Saya 「(笑)」
Ibu  「‥‥○△×□◇☆‥‥Nadia.」
(わからないが、Nadiaにかわると言ったらしい)
Nadia「Hello,Yuji?」
Saya 「Nadia?」
Nadia「OGENKIDESUKA?」
(一瞬、何を言われたのかわからなかった。が、すぐにわかった。)
Saya 「Ya,GENKIDESU.」
Nadia「Pukul(時) berapa(何) sampai?」
Saya 「Duabelas(12).」
Nadia「‥○△×□◇☆‥(わからないけど、Ibuにかわる、だろう)‥‥」
Ibu  「Yuji,‥○△×□◇☆‥Kahwin(結婚)‥○△×□◇☆‥」
Kahwinだけ聞き取れたので、たぶん、「結婚するときは知らせるんだよ」、と言っているんだと思い、きいた。
Saya 「Kalau saya kahwin?」
Ibu  「Ya.‥○△×□◇☆‥mau‥○△×□◇☆‥」
ちょっとの沈黙があってから、Ibuが言った。
Ibu  「Yuji,○△×□◇☆‥Menangis?」
その時は、まだこのことばの意味がわからなかった。
Saya 「Menangis?」
Ibu  「‥○△×□◇☆‥Cry!‥‥」
ああ、そうか、昨日のお別れの時のことだな、と思った。
Saya 「Ya・・・」
Ibu  「Ibu,menangis semalam(昨晩).」
そのことばを聞いて、また胸がいっぱいになった。こんな時に僕が言えることばは、ひとつしかない・・・
Saya 「Terima kasih・・・」
Ibu  「Yuji,Ada apa apa,telefon ibu,Ya?」
Saya 「Ya,ya,ya・・・Jumpa lagi.」
Ibu  「Jumpa lagi.」
Saya 「Bye.」
Ibu  「Bye.」

(終わり)

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HIPPOのホームステイに参加したのは9回目なんだけど、別れる時に泣いてしまったのも、帰ってきてすぐに電話をしたのも、初めてだった。それだけ、今回のホームステイがIstimewa(特別)だったのか?・・・Tidak・・・ホームステイそのものは、ごく自然なものだったんだけど、それを受け入れる僕が、以前と違っていたのかもしれない。

実は、泣くという行為自体、20年以上縁が無かった。普段から親が死んだって泣かないだろう、と思っていた。ところが実際に今年の5月に父が他界した時、ただただ、泣けた。頭の中で何かを考えるでもなく、自然に泣けて、それ以来、涙もろくなってきていた。
そして、今回の家族。Ibuの年齢は、僕の母とほぼ同じ。Ayaがいないのも同じ。何かにつけて、Ibuと母の姿がダブった。

そんなことがあったから、今回のホームステイが僕にとって、Istimewaだったのだと思う。

1996年9月
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