テキスト版 第4版
1996年12月5日
東京・西武線地域・井内F コッキリ
Ogos 16,Jumaat(8月16日 金曜日)
−−− 成田からクアラルンプールへ。ホテル泊。 −−−
残暑の中、10時40分成田空港集合。今回のメンバーは28名。うち、コーディネーターで去年の交流にも参加したピロちゃんは途中で帰ってしまうので、最後までホームステイするのは27名。家族で参加が3家族11名、4人の子供連れのお母さんが1名、単身で参加の男性6名、女性5名という構成。名古屋から国内線に乗ってきたメンバーや、金沢から寝台列車で来たメンバーもいた。最年少は1才。
出国審査後に、時間があったのと、たまたまそこに銀行があったのとで、日本円をマレーシアのお金(マレーシアドルとも、リンギットとも言う)に両替した。日本で替えられるのはお札だけなので、10000円を出すと、200リンギット分のお札と、374円のお釣りが返ってきた。(1リンギットが48.13円だった。)
13時10分、予定通り飛行機は離陸。飛行機はヒッポの交流にはめずらしくJAL。クアラルンプールまでは7時間。時差が1時間あるので、現地時間19時10分到着。空港のロビーには、現地の観光会社のガイドさんが待っていた。ホテルまでの道は渋滞しており、1時間ほどかかった。バスやホテルの中は冷房がきいていたが、外は日本と同じくらい蒸し暑い。
ヒッポの交流で海外に行く楽しみのひとつに、日本で出会った人達との再会、というのがあると思う。今回のマレーシア交流でも、僕とパペール・フリオ・メトロ・ルナの家族(東京・小川まるきんファミリーの高木一家)は、メイさんという女性と、Cheeさん夫妻に会うのを楽しみにしていた。(連絡は高木さんのほうでしてくれていて、僕は何もしてなかったんだけど。)
メイさんは昨年の初め頃、日本語の勉強をするため日本に来ていた女の子で、東京・小平市のチェミッソFのメンバーを中心にホームステイしていた。マレーシア語、英語、中国語、日本語をたくみに操る素敵な女性。そのメイさんが、すでにホテルに先回りして待っていてくれた。部屋に荷物をおいて、すぐにパペールの家族、メイさん、メイさんの恋人と夕食を食べに行く。明日からのホームステイではマレーシア料理ばかりになりそうなので、今夜は中華料理、ということでホテルの近くのチャイニーズレストランへ。メイさんがウェイターと話す時、相手によって中国語だったり英語だったりマレーシア語だったりするのがおもしろい。長旅でちょっと疲れていたけど、楽しいひとときだった。
ホテルに戻ってから、ピロちゃんの部屋に集まって、対面式やThank’s Partyの打合せや雑談をした。寝たのは夜中の2時。
(続く)
Ogos 17,Sabtu(8月17日 土曜日)
−−− ホストと対面。ステイ地、Tg.Karangへ。 −−−
8時起床。ホテルで朝食をとり、10時15分バスで対面式をするAOTSの事務所へ。そこにはすでにホストファミリー達が集まってきていたが、まだどの人が僕のホストだか、わからなかった。出発前に渡された調査表には、ホストの名前はArbaiyah、58才のおばあちゃん、家族は孫が3人で、全員女の子と書かれていた。でも僕は、この調査表は間違いで、きっと書かれていないけど同い年位の男の人がいるんだろうと思っていた。が、しかし・・・
AOTSの人やピロちゃんの話があってから、いよいよ対面。名前を呼ばれた順に前に出て、お互い満面の笑みで対面していったのであるが・・・。僕の番になって出ていくと、小柄なIbuはめちゃくちゃびっくりした顔で、言葉も出ず、握手もしようとしないではありませんか。
実は、ステイが始まって2、3日してIbuから聞いたのだが、Ibuはステイに来るのは女性だと思っていたそうだ。どういうわけだかIbuが知っていたのは僕の名前だけで、その名前が、マレーシアでは女性の名前を連想させるらしい。だから対面式で、ごつい男が出現して、びっくり仰天したというわけ。
そのあと、皆で一緒に食事となった。Ibuは、僕のために料理を皿に取ってくれて、「Sila makan(食)!」と言ってくれた。これが最初の「Sila makan!」だった。そして、「うちには女の子しかいないけど、かまわないか」、とAOTS事務局の人の通訳をとおしてきいてきた。僕のほうは問題ないから「Tidak Apa Apa」と答えたけど(笑)・・・いいんだろうか。
対面式には、Cheeさん夫妻もきてくれた。ほんの2週間前にパペールの家にステイしていた人達だ。マレーシアでまた会えて、嬉しかった。
13時30分、いよいよTanjong Karang(略称はTg.Karang)に向けてバスで出発。ビルが立ち並ぶ大都市クアラルンプールから離れるにつれ、景色がかわっていく。椰子などの大きな木が並ぶなかに、高床式の家が出現してくる。(高床式といっても、数十センチから1m位のものだけど。)
15時20分、Tanjong Karangの中心地に到着。事前にピロちゃんの話で聞いていたより立派な町で、ケンタッキーフライドチキンだってあるし、銀行だってある。店の看板がマレーシア語のほかに中国語でも書いてあるのが不思議な感じがする。(後から聞いたら、商店経営はほとんどOrang(人) China(中国)だそうだ。)
ここでバスの旅はおしまい。メンバーはそれぞれのホストファミリーと共に自家用車で散っていった。
僕は同じ町、Sg.Sireh Utaraにステイするオスカー(仙台の久保君)の家の車に乗せてもらって移動。うちはTidak(不) ada(在) kereta(自動車)だったので、この時だけでなく、ステイ中もよくお世話になった。僕のIbuはMotor(オートバイ)で先に家へ。走っていく姿は58才には見えない。
市街地からちょっと離れるとPokok(木) Kelapa(椰子)がしげる細い道になり、10分程で家の前に止まった。僕の家かな、オスカーの家かな、と思って「Turun(降)?」と聞いたら、「Ya.」と言って、全員降りた。実はどちらの家でもなく、ちょうど結婚式をしている家だったのだ。ここでも「Sila makan! Sila makan!」の攻撃。去年のインドネシア交流と違い、日本語で話しかけてくる人はおらず、みんなBahasa Malaysia。食事も手で食べるのが当たり前で、日本人だからといって箸やスプーンは出てこない。手で食べる。
(去年のインドネシア交流では、ホストファミリーは日本に研修に来たことのある人が多く、日本語が達者で日本での生活をよく知っている人が多かった。)
花嫁花婿さんと一緒に写真を撮ったり、家の中を見せてもらったりしてから、いよいよRumah(家) saya(私)へ。そこからほんの5分ほどのところだった。Sg.Sireh Utaraのメインストリート(と言っても、車がすれ違いできる幅で、舗装されているというだけ。途中イスラム教の寺院(モスク)と、小さな店が2軒ほどある。道の片側は水田が続き、もう片側には木に囲まれた家がゆったりと建っている。)から車1台が通れる細いでこぼこ道に入り、1km位行ったところだった。家のまわりにはKelapa(椰子)やPisang(バナナ)の木が繁っていて、100m位先にあると思われる隣の家は見えない。家に着いた時刻は16時50分、まだまだ明るい。先に着いていたIbuが出迎えてくれた。
玄関で靴を脱いですぐに階段を上って部屋に入ったので、その時は高床式だと思ったのだが、翌日見たら1階は天井が低い(1m50cm位)部屋になっていた。2階は大きな部屋(40畳くらい?)と寝室が3つ。赤いジュウタンがしいてあって、かたすみにソファーセット、反対側にサイドボードとカラーテレビがあった。調査表には電話番号が書いてなかったので電話は無いと思っていたら、電話機もあった。1階にもソファーセットとテーブル、ミシンなどがおかれていた。
「Sila duduk(座).」と言われ、ソファーにすわっていると、Ibuが「Sila minum(飲)!」とTeh(紅茶)を持ってきてくれた。Gula(砂糖)がたっぷり入っていてManis(甘)! そして「Sila makan!」とビスケットを出してくれる。「Panas(暑)?」と聞かれ、「Ya.」と答えると、天井についている大きな扇風機を回してくれた。
ソファーにすわってお茶を飲んでいると、実にのんびりした気分になる。でも足下のじゅうたんをよく見るとSemut(蟻)がたくさん歩いているし、Nyamuk(蚊)も多いし、Kuching(猫)にはノミがいるし、ちょっと虫が嫌いな僕としては、くつろぎきれない(笑)。
そして、家族と対面・・・。調査表では、14才、10才、7才と3人の女の子のCucu(孫)がいる、と書いてあったけど・・・1人多い。10才位の女の子がもう1人いた。一番上の14才の子はNadiaという名前で、Ibuを手伝って料理をしたり、Motorに乗って買い物に行ったりする、しっかりものだった。イスラム教のお祈りも毎日しっかりとしていて、家の中でも髪の毛を見せないよう、布をかぶったままだった。彼女以外の孫達は、お祈りもしないし、頭にも何もかぶっていなかった。
19時を過ぎる頃から、次第に暗くなってくる。食事前に「Mau mandi(水浴)?」ときかれ、「Ya.」と答えると、Bilik(部屋) mandiに案内してくれた。2階から、玄関とは別の階段で1階の台所(これまた20畳くらいあって広い)に降りて、さらに先にあった。僕は、去年のインドネシアと同じようなものだろう、と想像していたのだが、実際Mandiとトイレが別々の部屋になっていること以外はほとんど同じだった。
まずMandiをしようと思い、電灯のスイッチを探していたら、Ibuが携帯用のランプ(充電式バッテリーの蛍光灯)をもってきた。なんと、この部屋には電灯が無かったのだ。(居間や台所には電灯があったし、Bilik Mandiの前には電気洗濯機も置いてあるのに!) Mandiは、プラスチックの手桶で水を汲んでかぶる。インドネシアと同じ。水道から出てくる水がとても冷たいのも、同じ。
トイレはBilik Mandiの隣で、ここも真っ暗だった。やはり紙はなくて、バケツに入っている水を手桶で汲んで洗うのだった。それはインドネシアで経験済みなので、なんとかなった。ところが、途中でランプの明かりが消えていく・・・。バッテリー切れだぁ。明日から、暗くなる前にMandiとトイレは済ませておこう、と思うのであった。
それから食事。2階の広間で床に座って手で食べた。これもインドネシアで経験しているので、どうということもない。Ibuの料理は、まさに家庭料理で、すべて手作り。ちょっと辛いのもあったけど、Sedap(美味).特にIkan(魚)がおいしかった。海が近いせいかもしれない。
Saya 「Ikan ini sedap.」
Ibu 「Sila makan! Makan banyak!」
僕の皿からNasi(飯)が無くなると、すかさずIbuが言う。
Ibu 「Makan nasi lagi?」
Saya 「Tidak,sudah kenyang(満腹)!」
食事が終わると21時。近くに住んでいるという、Ibuの息子夫婦(Nadia達の両親)が遊びにやってきた。みんなでテレビを見ながらBuah(果物)を食べる。ふと天井を見ると、蛍光灯のそばにCicak(ヤモリ)が2匹ほど張り付いている。日記でも書くか、とジュウタンに寝転がると目の前には蟻が。でも、そんなのがTidak apa apaに思えてくる。
22時40分、ホームステイ初日で疲れていたので「Saya mau tidur(寝).」と、先に寝ることにする。僕の寝室は、2階にある3つの寝室のひとつで、8畳位の部屋に大きなダブルベッドがひとつと、古ぼけた洋服ダンスがひとつ置いてあった。寝る前にIbuが蚊取り線香を持ってきてくれた。窓は外が暗くなると同時に閉めてしまうので、ちょっと暑い。かけるものはなく、インドネシアでも見た長い抱きマクラがおいてあった。
(続く)
Ogos 18,Ahad(8月18日 日曜日)
−−− 近所を散歩 −−−
Ayam(鶏)の声で目が覚める。5時半。それからひっきりなしに鳴くAyamの声と格闘して寝ようとしたが、家族の話し声も聞こえてきて、6時半には完全に目が覚めた。蚊もCicakもいなくて、暑くもなく、よく眠れた。明け方はちょっと涼しい。
朝御飯はPisang(バナナ)の葉っぱでくるんだNasiと、Lempengという、韓国風のおこのみやきのようなもの(帰国後、韓国の「プチンゲ」と判明。Sedap.)と、野菜の煮た物など。飲み物は熱いMILO。MILOは、こちらではポピュラーな飲み物で、なんと喫茶店のメニューにもあった。
「Yuji,boleh(可能) nike(乗) motor?」ときかれたが、僕は免許もないし、日本でも乗ったことがないので「Tidak,Saya tak boleh.」と答えると、Ibuは、さてどうしようか、といった表情。家には自動車が無いから、今日から1週間どうやってこの大男を運ぼうか、と考えていたに違いない。(結局、近いところは自転車で、遠くへはオスカーがステイしている家の自動車で移動することになったのだった。)
9時にオスカーの家に行く。IbuはMotor、僕は自転車。ほんの10分ほどだったから、距離にして5kmくらいだと思う。家の前の道はデコボコで走るのも大変だけど、舗装されたメインストリートを走ると、風が気持ちいい。とにかく緑が多い。家と家の間にはたくさんの木が植えられている。(というより、森だったところに道や家を造ったのかもしれない。)
オスカーの家の子どもと、僕の家の子どもが結婚しているということで、Ibuどうしも仲良しだった。オスカーも自転車で、オスカーのIbuはMotorに乗り、みんなで近所を観光。
たんぼ || Ibuの
|| たんぼ | ||川|
←Tg.Karang市街 || | || |
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− || |
メインストリート || |
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−| || |
|| オスカー 伊藤さん | || |
|| の家 の家 | || |
||
||僕の家 (家と家はそれぞれ数km離れていて、もちろん他にも家はある)
まず、家の前のSawah padi(たんぼ)を見る。Tg.Karangはお米の生産量がマレーシアで2番目ということで、見渡すかぎりの水田。でも、今はまだ何も植えられていないか、ちょっとだけ芽を出している程度だった。水田の用水路はコンクリートの立派なもので、韓国製だと言っていた。もう少し行くと、水田の水源と思われる、Sungai(川)に着いた。幅20mはありそうな大きい川だった。帰りに伊藤さん(東京・下町地域)がステイしている家によった。
伊藤さんの家で昼食をごちそうになった。この家では床に座らず、椅子とテーブルで食べるが、やはり手で食べる。Ibu達は先に帰ってしまい、僕とオスカーは残った。伊藤さんがフィルムを現像に出したいと言うと、Ayaが自動車を出してくれたので、僕たちもみんな乗ってTg.Karangの市街へ。市街地までは車で15分ほど。僕も撮影済みのフィルムを1本持っていたので、出した。写真は翌日できるということだった。ついでにJalan−jalan。服屋、菓子屋などを見るが、特に買いたい物は無し。
伊藤さんの家に戻り、しばらくのんびりとする。が、することがないので飽きてくる。16時前にオスカーの家から迎えがあり、そちらに移動。しかし、ここでも待てど待てど僕のIbuは迎えにこない。(後で聞いたら、オートバイがパンクして大変だったらしい。) 自分で帰ろうかと思ったけど、その時はまだ道がわからなかった。
あまりに退屈そうだったのを見かねたのか、オスカーの家の息子が、近所をJalan−jalanしようと誘ってくれた。今朝見たたんぼの用水路のところにいくと、7、8才の男の子が数人遊んでいて、2人ぐらいはそこでMandiしていた(笑)。
家へ戻るとちょうどIbuが迎えに来た所。Ibuがオスカーにも、一緒に来いと言うので、一緒に僕の家へ。
家には、誰もいなかった。孫達はみな、親の所に行っているらしかった。そういえば今日は日曜日だ。それで寂しいのでオスカーを誘ったらしい。Ibuはしきりに、オスカーに泊まっていけと言っている。その上、一緒に夕食を食べているうちに大雨になってしまった。こりゃ本当に泊まることになるかな、と思っていたが、やがて孫達が自動車で帰宅、オスカーはその車に乗せてもらって帰ることができたのだった。
帰ってきた孫達、1人増えてる(笑)。5才のAziziという男の子。Nadiaの弟らしい。
今日も22時40分寝る。
(続く)
Ogos 19,Isnin(8月19日 月曜日)
−−− みんなで精米所見学、午後は近所をぶらぶら。 −−−
雨が降ったせいか、明け方は寒かった。昨日と同じように起きて朝食。日本で出発前に配られたスケジュールによると、今日は「BERNAS Seri Tiram Jaya」に行くことになっている。それが何で、どこにあるのかわからないんだけど、Ibuが、自転車に乗ってオスカーの家に行けと言うので、道がわかるかちょっと不安ながらも9時前に家を出発。見知らぬ街を1人で自転車に乗って走るというのは、奇妙な感じがする。
無事にオスカーの家に着くと、今度はAyaの運転する自動車(ホンダのアコードだった。)に乗り込んで、出発。Tg.Karang市街地を通り抜け、マレーシアの農協のようなところに到着すると、日本人のメンバーが皆集まっていた。時刻は9時半。そこには大規模な精米所があり、その過程はほとんど機械化されている。コントロール室にも入れてもらって、説明をきいた。以前に筑波大学に留学していたという女の子が通訳してくれた。
11時、みんなで集合写真を撮って解散。帰り道、僕たちはTg.KarangのPasar(市場)に寄った。衣料品、食料品、日用品、いろいろあるけど、おみやげになりそうなものはあまりなかった。僕はGajah(象)の置物を買った。16RM(マレーシアリンギット)=770円。(象はどこかに行くたびに買っている。)
車に戻ってから、オスカーのAyaが、「Mau minum?」ときくので、「Ya.」と答えると、とある飲食店に入った。オープンなつくりで、台湾に行ったときによく見た感じの店だった。インドネシアで飲んだKopi(コーヒー)がとても美味しかったので、期待してKopiを注文するとインスタントで、下の方に練乳が大量に沈んでいた。ちょっとがっかり。「Mau makan?」ときかれ「Sikit(少).」と答えると、中華マンが出てきた。甘いあんこが入っている、アンマンそのもの。
オスカーの家に戻ると12時半。すでに今日のスケジュールは終わってしまったが、まだ時間はたっぷりある。とりあえず、眠くなったので昼寝する(笑)。昼間はとにかく暑い。Panas!
1時間ほど寝たら、今度は昼食。おかずにTempeiとトムヤンが出た。
Ibu 「Yuji,Sudah makan tempei?」
Saya「Ya,Saya sudah makan ini di Indonesia.」
Ibu 「Ini トムヤン.」
Saya「Ah,Makanan Thai?」
Ibu 「Ya.Sila makan!」
モグモグモグ、Sedap.Sedah kenyang!
食後、隣の家に遊びに行く。なんと、オスカーのAyaには3人の奥さんがいて、1人はオスカーがステイしている家のIbu、もう1人がこの隣の家のIbuだって。
そして、次は親戚の家へ。そこでは、Kelapa(椰子)の実をごちそうになった。まず、汁だけをコップにとって、「Sila minum!」と出され飲んだが、あまり美味しくない。正直に「Saya tidak suka(好) ini.」と言うと、今度は、果肉を入れて、砂糖と氷を入れてくれた。これは、まあまあいける。氷がちょっと心配だったけど、ごくごく飲んだ。おなかは大丈夫だった。(実は、昨日はちょっとおなかの調子があやしくてトイレに何回も行ったのだった。薬を飲んだらなおった。)
ちょうどそこに、IbuもMotorでやって来た。そして、今度はSate(焼) ayam(鶏)を食べに行くぞ、と言われて着いたところが伊藤さんの家。隣の家で大量にSate ayamを焼いていた。「Sila makan!」「Sedap.」「Sedah kenyang!」
その家に来ていた人がドライブに行こう、と誘ってくれて、僕と伊藤さんのご主人、オスカーは白いベンツに乗り込む。昨日行った川に行くと、観光用なのか、渡し船なのかよくわからないけどボートがあって、乗せてもらえた。しばらくボートに乗り、川を遊覧。再び車でさらに川の下流(ひょっとしたら上流かも?)に行くと、ダムがあった。ダムの向こう側の川にはBuaya(ワニ)がいる、と教えてくれた。
しだいに夕日が沈んでいくTg.Karangのまちはずれの風景は、それはそれは美しかった。
この日は自動車で僕の家まで送ってもらった。家に着くと、Aziziたちが出迎えてくれる。今日はいろいろな所に行って疲れた。でも、我が家に帰ってくるとホッとする。
Ibuが、明日の予定を教えてくれる。僕がわかるよう、ゆっくり話してくれる。
「Esok,jam tujuh bangun,pergi laut・・・」
明日 時 七 起 行 海
そして、服をプレゼントしてくれた。Nadiaが選んだんだよ、と言っているみたいだった。明日着ていくことにする。
(続く)
Ogos 20,Selasa(8月20日 火曜日)
−−− 海に行く。 −−−
6時45分起床。朝食はビーフン、Ayam、など。飲み物はMILO。僕が出かけるしたくをしていると、タオルを持ったか、着替えを持ったか、とIbuが口うるさくきいてくる。日本の母とよく似ている。8時過ぎに出発。僕は自転車、IbuはMotorで、孫を1人乗せている。メインストリートのところで、オスカーの家の車に乗せてもらい、Tg.Karang市街へ。自転車は孫が乗って帰った。IbuはそのままMotorで市街へ。最初の日にバスが到着したところに、またみんな集合していた。
9時30分、2台のバスで出発。Tg.Karangは海に近いけど、漁港なので泳げないのか、今回行くのはずっと北のPerak州のTeluk Batik Beachというリゾート地。バスの中ではIbuが隣にすわって、次から次にお菓子を出しては、「Sila makan!」。今日は昨日と違ってIbuが一緒なので嬉しい。Saya gembira.
11時50分、海に到着。海は、遠浅で波が無かった。家のMandiの水よりも温かくて気持ちいい。誰かが日本の海と味が違う、と言っていた。Ibu達は暑い砂浜で昼寝。泳いでいるのは日本人と、男性と、小さい子どもだけ。
泳ぎ終わったあとは、近くの公衆トイレへ。50セントでMandiができる。水が冷たくなくて、家のMandiよりいい。シャンプーを持ってくればよかった。(実は、昨日は水が冷たいのを口実にMandiしてないのだ。)
近くにはちょっとしたみやげ物屋があって、Tシャツとかお菓子があった。そんな中で、本屋を発見。ドラえもんの海賊版があった。明らかにコピーなんだけど、耳が書き足してあったりして、「いえいえ、これはドラえもんに似ているけど、オリジナルのキャラクターですよ。」と言っているかのようだった。3冊6RMで買った。
16時10分、バスで帰路につく。18時20分Tg.Karang到着。オスカーのAyaが迎えに来ていた。車でそのままオスカーの家へ。夕食を食べてから家に送ってもらった。
家では一足先に帰ったIbuが待っていた。明日も観光があるけど、Ibuは足が痛い(Kaki(足) taketと言っていたと思う)ので行かない、ということだった。残念。日本の僕の母もよく足が痛い、と言うので、その姿がダブる。
(続く)
Ogos 21,Rabu(8月21日 水曜日)
−−− ホタルを見に行く −−−
7時ごろから激しい雷雨。8時過ぎに起きていくと、Ibuは朝ごはんを作っているところで子供達はまだ寝ていた。Ibuはこうして毎食毎食、食事をつくるから、いつも台所にいるような気がする。
朝御飯はLempeng(韓国のプチンゲ)と、Ubi(さつまいも)。さつまいもは、Ibuが小さかった頃(というと50年程前か)に日本軍が持ち込んだもの、戦争はとっても怖かった、と説明され、ちょっと複雑な心境。
今日のスケジュールは16時に家を出て、Malawatiという歴史的な名所を訪れて、Kelip−kelip(蛍)を見にいく、ということになっている。遅くなるので今夜はオスカー宅に泊まる。出発までは時間があるので、子供たちとチェスをしたり、ヒッポのテープを聞かせたり(あまりうけなかった)していると、電話があって、IbuがKawang(友達)が来るという。誰かと思ったらオスカーと伊藤さん夫妻が自転車に乗ってやってきたのだった。伊藤さんは僕が出した写真を持ってきてくれた。出す時ちょっと不安だったんだけど、ちゃんと現像されていた。12時前に3人は帰っていった。
Ibuが昼のおかずのIkan(魚)を買いにTg.Karang市街までいくというので、写真の現像をさらに2本頼んだ。子供たちに、日本から持っていったリコーダーを披露するが、これもいまいちうけない。Aziziは自分で勝手に吹きたがるし、小学校にかよっている女の子は自分が学校で使っている笛を持ってきて吹くし。(リコーダーはマレーシア語でSerulingというそうだ。)
そうこうしているうちに昼食。なんだか毎日食べてばかりだ。今日は珍しく天井の低い1階で食べた。(でも、昼食をこの家で食べるのは初めてだから、いつもそうなのかもしれない。) テーブルについて椅子に座って食べた。Nasi、Ikan、Sop(スープのようなもの)など。Air(本来は水のことだけど、飲み物は何でもこう言うみたい)がSejuk(冷)なジュースで、とてもおいしかった。冷蔵庫で冷やしてあるのかと思ったら、ポットの中に氷が入っていた。去年インドネシアではおなかをこわして大変だったんだけど、今回のマレーシアではこうして氷を口にしているもなんともない。あとで他の人に聞いても、みんな大丈夫だったということだった。
15時に家を出ると言われていたので、食後に急いでMandiしたのに、今度は17時と言われた。時間までAziziと遊ぶ。家の中にいても蚊にくわれるのでムし刺されの薬を塗っていると、「僕にも塗って」と刺されたあとをさがしだして、そのうちに今度は僕の首や背中をさがしては「ここ、ここ。」と薬を塗ってくれたり・・・・・箸(たまたま家に飾ってあった。)を持ってきたので、小さなボタンをつまんでみせるとびっくり。自分でも何とかやってみようとするけど、うまくいかず、今度はビスケットをつかんで、「ほら、できたよ。」・・・・とてもなついてくれて可愛い。
ところが、遊んでいると、今度は今すぐ出発と言われた(笑)。16時過ぎに家を自転車で出る。今日もIbuが孫を1人連れて大通りまで来て、自転車は孫が乗って帰る。僕はまいどおなじみオスカーの家の車に乗せてもらってMalawatiへ。車で30分ほどの小高い丘に古い砲台があり、遠く海まで見渡せる。Muni(猿)がたくさんいて、人からえさをもらって食べていた。ここに18時ぐらいから三々五々、日本のメンバーが集まってきた。
日没寸前の19時過ぎ、次の目的地のKampong Kuantanに向けて出発。車で10分ほどだった。Kelip−kelipを見るところは、しっかりと入場料を取る観光地であった。我々以外にも日本人や西洋人の観光客がたくさん来ていた。
小さなボートに4人づつ乗り、川を20分くらいまわる。大きな川の両端にはクリスマスの飾りのように、無数の蛍の明かりが点滅していた。日本ではけっして見ることのできない光景だ。
一緒に乗った岐阜の石岡さんが、「この方(やはり一緒に乗った伊藤さんのAya)は何回も見ているのかしら?」というので「Aya,sini Pertamakali?」と聞いたり、また、Ayaが「12時になると蛍も寝るんだ。」と言うのがわかっちゃったりして、確実にBahasa Malaysiaが自分のものになってきているという実感がわいてくる。
22時に解散、途中のレストランでMee Goreng(焼きそば)を食べる。初めての外食。Pedas(辛)だった。その店ではテレビで映画をやっていて、ワニが出てきた。オスカーのIbuが「Itu Buaya.」と教えてくれて、一昨日のダムのことを思い出し、「Sungai di Tg.Karang,ada?」と聞くと、やはり「Ada.」という答えが返ってきた。
あとで聞いたのだが、Kelip−kelipを見た川も、Ada buayaだったらしい。どうりで、Ibu達は誰もボートに乗らずに見ていたわけだ・・・。
それと、帰国後に気が付いたんだけど、Buayaは、今年インドネシア交流があった都市、スラバヤの「バヤ」だった。(マレーシアでは、どっちかというと「ブアイヤ」に聞こえていたので、全然気がつかなかった。)
23時半オスカー宅に到着。また夕食。Ibuが「Sila makan!」と言うので食べないわけにはいかない。NasiとIkanとオクラ。オクラは、日本のと同じ。モグモグモグ・・・Sedah kenyang!
24時寝る。この夜は大広間の一角にカヤをつって、そこで寝た。
(続く)
Ogos 22,Rabu(8月22日 木曜日)
−−− のんびりと過ごす1日。 −−−
ここの家でもやはりコーランで目が覚める。まだ6時。8時までなんとか頑張って寝て、朝食。KopiとRoti(パン)だった。
それから、ここの家の娘、息子達と遊ぶ。日本語を教えたり、バドミントンをしたり、庭の花を教えてもらったり、鶏の巣を見つけて卵を失敬したり、隣の家で飼っているうさぎを見にいったり。そんなこんなで昼食。また「Sila makan!」モグモグモグ・・・Sedah kenyang・・・そして昼寝。あまりにものんびりとした時間のたちかたに、このまま、ここにずっと住みたくなる。明日の夜に飛行機に乗って日本に帰るなんて、信じられない。
目が覚めると15時半。オスカーのIbuがどこかに行くというので、自転車で出発。家の近くのモスクに着くと、Pasar(市場)をやっていた。週に1度なのか月に1度なのかわからないけど、食料品、衣料、日用品、たくさんの店が出ていた。
その中に、僕のIbuを発見。ビーフンのようなものとスイトンのようなものがスープに入っている食べ物を作って売っていた。僕ももちろん食べた。「Sila makan!!」「Sedap.」Ibuが先に家に帰っていろ、というので帰ると例によってAzizi達が出迎えてくれた。昨日は帰らなかったので、ひさしぶりに我が家に戻ってきた気分。あれれ、孫がまた2人増えてる?
Azizi達と遊んで、暗くなる前にMandiをすませたら、Ibuも帰ってきた。昨日出した写真が出来上がっていた。次第に暗くなる中で、みんなで写真を見ながら話をしていたら・・・突然、電気が消えた。停電だ。そんなにあわててはいないから、珍しいことではないのかもしれない。でも、IbuがNadiaにロウソクを買いに行かせたから、そうしょっちゅうあるわけでもなさそうだ。
それから約3時間、ロウソクの明かりを囲んで、みんなで話をした。Nadiaが、日本語を知りたいらしく、たくさんきいてくる。
Nadia「Apa khabar,bahasa Jepun?」
Saya 「お元気ですか。」
Nadia「o−genki−desuka?」
Saya 「Ya.Pandai.」
Nadia「Nama Saya,Bahasa Jepun?」
Saya 「私の名前は。Nama Saya Nadia,私の名前はナディア。」
Nadia「Watasi−no namae−wa Nadia...」
ホームステイ最後の夜はこうして、ふけていった。Nadia達の両親もやってきて22時頃、遅めの夕食。ロウソクの明かりでの食事は、幻想的でなんだか夢のよう。ホームステイ最後の夜の、すてきな演出だった。
食事が終わる頃に、タイミングよく電気がついた。そしたら、こどもも大人もテレビドラマにくぎづけ(笑)。僕は部屋で荷物の整理と、日本からのメンバーみんなで作る記念アルバムを製作。
24時に寝た。この日は、Ibuと孫7人、息子夫婦と大所帯。みんな大広間にゴロゴロ寝ていたみたい。
(続く)
Ogos 23,Jumaat(8月23日 金曜日)
24,Sabtu (24日 土曜日)
−−− Jumpa lagi! Terima kasih! −−−
最後の朝だ。8時頃起きる。朝食はMee gorengと、Ayam gorengと、ジャガイモのgoreng(早い話がフライドポテト)。
お別れのFarewell Partyは夕方からだから、出発は昼過ぎかな、と思ってのんびりと荷物の整理をしていると、いきなり出発するといわれ、大急ぎで荷物を片づけ、みんなで記念写真をとって家を出た。スーツケースはIbuのMotorにくくりつけて、僕は自転車で。最後まで移動は自転車だった。
例によって大通りでオスカーの家の車に乗せてもらい、例によってTg.Karang市街の集合場所へ。僕たちが着いたのは9時35分だったけど、ほとんどみんな来ていた。
10時、バスに乗って出発。今日はIbuが一緒だ。1時間半ほど走ると、博物館についた。なるほど、ここに寄るために早く出発したのか、と納得。博物館では、マレーシアの地理、歴史、自然、人々の生活などが展示されていた。蝶の展示に「Rama−rama」と書かれていて、隣の蛾の展示に「Kupu−kupu」と書かれていて、あ、そうなのか、と納得。
昼食は近くの池のほとりの木陰で、持ってきたお弁当を食べた。食後、ホスト達の大半がお祈りのためにモスクに行ってしまい、残された僕たちは待つ。暑い。ジュースの自動販売機があったので、Sarsiとかいう炭酸飲料を買ってみる。味はともかく、とても冷えていておいしい。
14時40分、出発。Shah Alamという世界最大規模のモスクを見て(外から見ただけ。)、Farewell Partyの会場に到着。ほぼ予定どおり、17時頃開始。出し物が始まる。マレーシアの人のギター演奏、僕とパペールとメトロのリコーダー演奏、バイクの空手、みんなで歌を歌ったり。そして、えらい人の長い話、ヒッポを代表してドラえもん、こと愛知のたいぞうさんのホームステイの感想。
その後軽い食事があり、対面式の時と同じように、Ibuは僕のために料理を持ってきてくれた。「Sila makan!」・・・これが最後の「Sila makan!」だった。
・・・そして、お別れ。涙が出てきて、どうしようもなかった。何か言おうと思ってもことばにならず、言えたのは「Terima kasih.」だけだった。Saya boleh cakap(話) satu bahasa 「Terima kasih」・・・
それから空港までのバスの中でも、いろいろな思いがうずまいていた。
海に行った日の夜、足が痛い、と言っていたIbu。孫に足を踏ませている姿を見ながら、僕は「足、痛いの?さすってあげようか?」が言い出せず、何もしてあげられなかった。
食事のあと、子供達がそれぞれ自分の皿を台所に持っていったり、後かたづけをするのを見て、僕も手伝おうかな、と思いながらも、何もしなかった。
そんなことが、心残りだった。いつもみんなが言っているように、普段日本でやっていないことは、ホームステイ先の家でもできないんだ、ということを実感した。
空港に着いてからは、おみやげを買ったり、ステイ中に書いた絵はがきを出したり、ちょっと軽食をとったりで忙しかった。帰りの飛行機は、予定通り22時15分に離陸。しばらくすると機内の電灯も消えて、みな眠りについた。2時間位寝ただろうか、ふと目をさまして窓から外を見ると、外は満天の星。飛行機から見る夜空がこんなにきれいだとは知らなかった。星を見ながらマレーシアの僕の家族のことを想うと、また胸が熱くなり、眠れなかった。家についたらすぐに電話しようと思った。Saya mau telefon ke ibu di Malaysia.
やがて空が白み始め、早朝に成田到着。成田からはフリオが運転するレンタカーで家まで送ってもらった。
家に着いて、電話に手をのばす。
RRRR・・・ガチャッ
???? 「Hello?」
Saya 「Hello.」
???? 「Siapa?」
Saya 「Saya Yuji di Jepun.」
???? 「Eh,Yuji.」
Saya 「Siapa?」
???? 「Aizat.」(孫の1人の名前)
Saya 「Ibu ada?」
Aizat「Ibu‥○△×□◇☆‥ pergi Tg.Karang.」
Saya 「Sekarang,Tidak ada rumah?」
Aizat「Ya・・・」
・・・そうか、昼食の買い物にでも行っているのだろう。
Saya 「Cakap ibu,Telefon dari Yuji di Jepun.Jumpa lagi! Bye,bye.」
Aizat「Bye bye.」
そして、2時間後。電話がかかってきた。
RRRR・・・
Saya 「もしもし。」
??? 「Hello?Eh?Yuji?」
Saya 「Ya,Yuji.」
??? 「Saya,Ibu,ya?!」
なんと、Ibuからの電話だった。
Saya 「Ya,faham(解).」
Ibu 「Sampai(到着) rumah?」
Saya 「ya,sampai rumah saya di Jepun.」
Ibu 「Bila(いつ) datang(来) ke Malaysia lagi(再)?」
Saya 「(笑)」
Ibu 「‥‥○△×□◇☆‥‥Nadia.」
(わからないが、Nadiaにかわると言ったらしい)
Nadia「Hello,Yuji?」
Saya 「Nadia?」
Nadia「OGENKIDESUKA?」
(一瞬、何を言われたのかわからなかった。が、すぐにわかった。)
Saya 「Ya,GENKIDESU.」
Nadia「Pukul(時) berapa(何) sampai?」
Saya 「Duabelas(12).」
Nadia「‥○△×□◇☆‥(わからないけど、Ibuにかわる、だろう)‥‥」
Ibu 「Yuji,‥○△×□◇☆‥Kahwin(結婚)‥○△×□◇☆‥」
Kahwinだけ聞き取れたので、たぶん、「結婚するときは知らせるんだよ」、と言っているんだと思い、きいた。
Saya 「Kalau saya kahwin?」
Ibu 「Ya.‥○△×□◇☆‥mau‥○△×□◇☆‥」
ちょっとの沈黙があってから、Ibuが言った。
Ibu 「Yuji,○△×□◇☆‥Menangis?」
その時は、まだこのことばの意味がわからなかった。
Saya 「Menangis?」
Ibu 「‥○△×□◇☆‥Cry!‥‥」
ああ、そうか、昨日のお別れの時のことだな、と思った。
Saya 「Ya・・・」
Ibu 「Ibu,menangis semalam(昨晩).」
そのことばを聞いて、また胸がいっぱいになった。こんな時に僕が言えることばは、ひとつしかない・・・
Saya 「Terima kasih・・・」
Ibu 「Yuji,Ada apa apa,telefon ibu,Ya?」
Saya 「Ya,ya,ya・・・Jumpa lagi.」
Ibu 「Jumpa lagi.」
Saya 「Bye.」
Ibu 「Bye.」
(終わり)
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HIPPOのホームステイに参加したのは9回目なんだけど、別れる時に泣いてしまったのも、帰ってきてすぐに電話をしたのも、初めてだった。それだけ、今回のホームステイがIstimewa(特別)だったのか?・・・Tidak・・・ホームステイそのものは、ごく自然なものだったんだけど、それを受け入れる僕が、以前と違っていたのかもしれない。
実は、泣くという行為自体、20年以上縁が無かった。普段から親が死んだって泣かないだろう、と思っていた。ところが実際に今年の5月に父が他界した時、ただただ、泣けた。頭の中で何かを考えるでもなく、自然に泣けて、それ以来、涙もろくなってきていた。
そして、今回の家族。Ibuの年齢は、僕の母とほぼ同じ。Ayaがいないのも同じ。何かにつけて、Ibuと母の姿がダブった。
そんなことがあったから、今回のホームステイが僕にとって、Istimewaだったのだと思う。
1996年9月
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