アフリカ大陸には人間(ことば)の原点がある!!

(HIPPO初のチュニジア交流に参加して)

1999.4.29
東京・西武線
井内わか(わかちゃん)
 
この文章はインターネットのコッキリのホームページでも読むことができます。
URL http://www2h.biglobe.ne.jp/~zou/tunisia/

カット:チュニジア

◎何故、私はチュニジアへ?

 昨12月に今春&GWの参加者募集があった時、ついにアフリカ大陸にHIPPO上陸!!という文字が目にとまり、行きたいな〜と思った。
 But,夏に40日間U.S.A交流に行ってきたばかりなので、そんなに度々はムリだな〜と思っていたけれど、まあダメでもモトモトだからと、機嫌の良さそうな時に主人のヘンボと娘のヨーコに、チュニジアに行きたいけど……と言ってみたら、いいよ!言ってくれば!の返事。その場で申込書を書きました。同じ行くなら一緒に行く仲間が欲しいので、丁度、今春韓国へ行こうと思うんだけど……と言っていたペロに「初めて行くんだから、韓国もチュニジアも同じだから一緒に行こう!!」とさそった所、OKをしてくれた。やっぱり嬉しい!!(ペロは昨夏、娘のDanceとSleepyを2人、U.S.Aに送り出した、彼女達のママです。) 同時に、アフリカ大陸というだけで、多分、黒人がいっぱいの国だろうと考えて、私自身への挑戦でもあったのです。(実際には、チュニジアでは色の黒いには出会えませんでした!)

◎チュニジア大使館訪問

 2月の寒い日に、上斗米マリンシャさん(本部の)とペロと私で、大使館へ行きました。中に入るとベナリ大統領の大きな写真の額とチュニジア特産のツボetc.…が並んでいる部屋の片隅にはダンボールが積まれていたりして、何かホッとする空間です。そして現れたのがムニール・フラティ参事官と可愛いい日本女性高石さん(職員−何と青嵐中学卒のゆきと同学年だった人)でした。
カット:チュニジア国旗 ※この交流の始まりは3年前、東京ビックサイトで行われた東京国際フェスティバルの時に、HIPPOもブースを出して参加。でも、ジッと待っていても誰も来てくれないからと、他のブースへ出前HIPPOにナカジン達が出かけて行った所が、チュニジア大使館のブースだったのです。その縁で’97、’98とチュニジア大学生のホームステイを受け入れすることになり、今回のチュニジアへ行く方の交流が実現したのです。犬も歩けば棒にあたる!ですね!)
番外!! 今でも覚えているその時の面白いエピソード!!
 『ねえ!いろんな国の人が来ていて、と〜っても面白いね!あの人、どこの国のかしら?お友達になりたいな〜!でも英語が……!!!』
 『エッ?!そんなの簡単よ!I'm Japanese. Are you Japanese?って聞けばいいのよ!』
 私はこの会話にいたく感動しました。仲良しになるのにムヅカシイ単語知らなくてもOK!!

 大使館で感動したことは、マリンシャさんが初めて会うムニールさんにむかって弾丸のようなフランス語で、HIPPOの交流とは何か?ということをハートのイラスト熱い想いをこめて話していた姿でした。そして彼もひきつけられる様に、私の自己紹介アルバムを見てくれたり、2時間近く、すっかりHIPPOの交流(観光ではなく、家族として日常の生活を共にしたい、BéBéのようなアラビア語やフランス語だけど何より仲良しになりに行きたいetc.……)の意味が解った様で、具体的には日本、チュニジア友好協会の方へ渡すが、皆、大喜びだろうとのこと。
 私はこの時、はじめてチュニジア人に出会ったのですが、何だか暖くて大きいものを感じ、彼の人間性にも感動しました。フランス語ばかりだったので帰る時に“マレハバ!!シュッラン!”と、いつもファミリーでドラゴン(小5の男の子)が言っているアラビア語を言った途端、彼の顔は一段と笑顔になりました。(マレハバはいらっしゃい!とボクが言うんだよ! あなたはサバハールヒル! と大笑い!)ひとことのアラビア語が、こんなに人を近づけてくれるなんて〜と、又、改めて嬉しい訪問になりました。

◎第1回準備会のこと。(本部にて)

 どんな人達と一緒に行けるのかな〜とウキウキしながら、ペロと、今春韓国へ行く池さんと3人で出かけました。(何と、そこにはコキリもきていて上海グループの所で話をしていました。)
 メキシコやフランスの行ってきた人の話を聞いたあと、各国にわかれて準備をすることになりました。チュニジアは15名募集したにもかかわらず定員われで、12名の参加。(きっと、3月〜4月という時期が悪かったのでしょう)それも北海道−鹿児島まで各地域にわたって点在しているのです。それでも、静岡からネロが奥さん子供と共に参加していたり、東京、神奈川のメンバーも入り、又、応援団も来てくれて、人数としては10数名でした。
 ところが、自己紹介したり、話していくうちに、“私、あまりHIPPO好きじゃないんです”とか、“あまりTape聞いていないんです”とか“ファミリーにはあまり行けてません”という人が続々でてきてヒョエ〜?!どうしてチュニジアのパイオニア隊に申し込んだの〜?!一体どうする〜?!と内心ガックリきました。
 でも、そこで私は思ったのです。この人達、今、こんなことを言ってるけど、少なくともHIPPOに入った人達なんだから、きっとHIPPOが好きにちがいない!!入会して1〜2年たつと、こういう風に言いたい時がある。この人達を信頼しよう!! 自然はないものねだりはしない。今あるもので勝負してゆくのが自然なんだから、精一杯がんばろう!! そして、準備カルタをペロと一緒に書いたり、マリンシャさんと書いたりしながら、みんなに送りつづけました。

カット:飛行機◎成田空港出発の日

 パイオニア隊出発にふさわしく、ホストの名前だけが解ったのは昨夜遅くorここ空港での出発時でした。(リコはまだ解らなかった) マリンシャさんと、切符手配の旅行社の人の見送りの中、我々12名(10才〜60代)は、ここで初めて全員顔を合せました。でも、今までにいろいろFAXのやりとりをしていたので、すぐにうちとけて、次のことを約束をしました。
“何があってもプラス思考でいこう!!”
“ホームステイはそこの家のDoorを開いて頂いただけで感謝。
食物、その他何がなくても、人と比べず、自分の出会った人と仲良しになろう!”
“自分の100%、いや120%を精一杯やろう!”
“一歩前へ、でなく、10歩前へ!”
(HIPPO歴も6ヶ月〜1、2年の人がほとんどで、大多数がHIPPOのHomeStayは初めてのメンバーですから、顔で笑っていても、きっと不安だったでしょう。私は10数年前のメキシコやヨーロッパのopen時のことを想い出しました。)

カット:凱旋門◎パリのホテルで一泊(ここでリコのホスト名も解りました。)

 成田→パリの13時間の飛行は快適で、あまり疲れることなく到着。リヨン駅のすぐ横の「フランソール・パリ・リヨン」ホテルに着いた時は夕方で、ワーイ!!ここはフランス!!と言いながら肝だめしに数人でサンドイッチやオレンジジュースを買いに出かけ、リヨン駅の古い歴史そのままの終着駅に感動しながら、みんなで自己紹介アルバムをもって私の部屋に集合。超個人的な自己紹介アルバムは、あっというまにその人が解るというもので、北海道から鹿児島の12名は一気に戦友仲間という感じで仲良しになりました。
(私はみんながフランス語で自己紹介してゆくのに感動しました。…みんなガンバッテル!…その中に多言語でいこうと、ギスヤンが沖縄弁、ペロがアラビア語…!!)
 そして、ネロの奥さんが用意してくれた“感謝”の和紙のよせ書きを、みんなで折紙つけたり、写真をはったり、サインを入れたりして完成させてゆきました。その中で新潟からきたタマキが、ボク絵を描くのが好き!と言ったので頼んだ所、彼は徹夜で、1枚の絵(素敵な花)を描いてくれました!!
 今回は日本・チュニジア協会の友好協定調印式もマスコミも参加で行われるとか…チュニジア大使館からの情報で…その時に“What's HIPPO?”の紙しばいと、このよせ書きを送ろう!!と思ったのです。
 そして全員で、紙しばいの練習もして…時差ボケも何のその。翌日AM9:00の集合まで自由時間と言ったら、朝早く起きてエッフェル塔まで行ってきた人、私はパリ(フランス)は初めて!というペロ、アツミ、ミーリャ達に“シャンゼリーゼを少しでも歩きに行こう!”とタクシーを拾ってトンボ返り!!
 全く解らなかった私のフランス語が、ここパリに来て、こんなに嬉しく通じていいの?!と思う位、タクシーの運転手さんと話せる自分に感動!!(HIPPOはウソじゃない!!HIPPOでことばも度胸も同時に育ててもらっているのです。)

◎チュニス空港着

 パリのオルリー空港から1時間30分位で到着。空港に下り立っただけで、何かチュニジアの風が吹いてきて、スーツケースが2時間待たなければ出てこなかったり、入国審査も終わっていないこの場所に出迎えの人がどんどん入ってきて大入り満員だったり…。やっぱりアフリカ大陸!!ムシムシキラーなんだネ!と言っていると、そこへHIPPO!HIPPO!と人の好さそうなオジさんが走ってきてくれて、何とその人が今回の私達の世話を最初から最後まで献身的にして下さったBensta教授だったのです。
 そして、対面式などというものは何もなく、早く早く、夕方からの友好協会主催のレセプションに間に合わないから…と、せかされて…空港に出迎えに来てくれていたホスト達にみんなアッという間に連れ去られました。

◎日本・チュニジア友好協会によるレセプション

 皆、家に着くやいなや一番いい洋服や着物に着替えて、私は“感謝”の紙と“What's HIPPO?”の紙しばいを持って、早く早くとせかされながら会場へ。(私の家は会場から遠いので、ペロのホスト宅で着替えて行った。まず、この家の大理石のすごさと大きさにびっくり!!近所も風景が何となくアラビアンNightの世界!!お父さんや兄弟達が暖くて、とってもいい雰囲気!ペロはいい家族に出会ったな〜と思った。)
 そして、“Le Foram”という超きれいなParty会場で、沢山の美しく着飾った人達が豪華な飾りつけの料理やのみ物で歓談している社交界へ突然放り込まれた感じで、私は次々といろんな人の握手ぜめで一体誰が誰なのかサッパリ解らず……ただ笑顔とあいさつで……(ヒッポのメンバーもいい洋服でウロウロ)
 でも、ここで最初に“What's HIPPO?”をやりたいとBenstaに言うと、Rodhia('96夏、大学生のリーダーできた、外務省の関係のエライ女の人)にたづねてOK! SADAもやりたいと言うと、Tapeを流してくれた。But、歓談はそのままで…何の挨拶、司会もなく、いつのまにか人は帰って行くのです。 エッ?!一体これは何?対面式は?調印式は?マスコミは?…
 最後の方で、エライ人3人位に“What's HIPPO?”を見せて!と言われてやっていると、数人がまわりをかこんでHIPPO!HIPPO!と嬉しそうにしてくれた。But……これではダメ!何としても、HIPPO主催のPartyをスケジュールの中に入れてもらおうと、交渉していった。
 何と、チュニジアに着いた日にこれだけのプログラムが組まれているわけです。そして、調印式は既に2週間前に終わったとのこと!ホント。チンプンカンプンです。

カット:家◎私の家族

 ※ホストパパ(Ahmed Ounaies・アハメッド ウナイエス)63才。
 私にとってはお城みたいに思える程、大きな家に住んでいて、お庭はいつでも周遊会が開ける位、美しく広い。チュニス生れのチュニス育ちで外交官として50ヶ国をまわり、インドやロシアの大使も経験済。今は退職しているけれど、毎日何かと忙しい。丁度コソボ紛争やユーゴスラビアの問題の時なので、ラジオやTV局からコメントを求められたり、各国の大使から夕食会、その他来賓Partyなども入る。自分の親類にも大使が多い。
 ホームステイの最初の日に、自己紹介アルバムでWhat's HIPPO?の話をした所、どの話にも大きくうなずいて、その通り、その通り!!(多言語、自然習得、BéBéが先生、異い=平等、異いを認めて同じ人間を見つける世界ネットワーク、etc.…)
 まるでサカッチャンと話をしている感じ。そして、沢山のことがあるけれど、大切なことはただ1つだね!家でも国でも世界でも…それは平和!…ドグマはダメ!!
 私はこのHIPPOの活動を通して全てHomeStayで22ヶ国行きました。と言うと、それは素晴らしい!!ボクの50と同じ位いい線いってるね! ボクも5回位日本へ行ったことがあるけれど、こういう生き方をしてきた女性に出会ったのは初めて!WAKAは日本人の女性(奥さん)の今までの常識を破っていった最初の世代だね!とのことでした。 確かに、HIPPOのことばと人間に対する視点は、大きな意識改革に通じるものがあるのです。
 静かで考え深く、やさしく暖かい、哲学者のような、ある時は庭の木を見て空をみて、詩人のようなお父さんです。外へ行く時はピシッとカッコ良くきめて出かけるのですが、家の中では全くリラックスしてTVをみたり、話をしたり…でも、書斎で本を読んだり、書類を書いたり仕事をしている時も多いです。But,冗談をとばして笑っていることも…。HomeStay中端でフェテ de アミカール de HIPPO(Thank's Party)をやった時は、HIPPOのPartyはほんとに“Charming!!”とベタホメでした。
 ※ホストママ(Anissa Ounaies・アニサ ウナイエス)59才
 夫、Ahmedとは対照的に自由奔放で、はっきり意見を言い、まっすぐな感じのいい人。アルジェリア生れで、戦争の為チュニジアへ移住して、アハメッドに出会って結婚したとか。子供がいないけど、すぐお隣に住む自分の姪のフリーダ(32才、子供2人)家族を娘の様に可愛がっている。
 小さい時から、自分でお料理を作ったことは1度もない。今も使用人が3人いて、食事係が2人でいつも給仕してもらって食べている。でも、自分で6年前から高級食器店(全てmade in Tunisia)を経営しているので、毎日朝8:00〜夜7:00まで店で働くので(昼食休みは2時間)、まるで私はカゴの鳥!!と嘆いている。
 ある晩もロシア大使の夕食会にAhmedとおよばれして、そこでかわした会話のことを教えてくれたけれど……。もし、何でもやれるなら、あなたは今何がやりたいか? ロシア大使夫人はレストランをやりたい。ママのアニサは、いろいろな国へ行きたいので大型トラックの運転手。もう1人の友人はお菓子屋さん。 あっ、それならいい考えがある!!ロシア大使夫人は国境ごとにDrive Innでレストランをやり、そこへもう1人の友人はお菓子を卸し、アニサがトラックで通りがかりに必ずそのレストランに寄って休憩する!!とってもいい考えね〜!!と大笑いした。との事!!
 私、この話、とっても気に入りました。みんな自由に働きたいんだな〜と。アニサの姉、妹は皆お医者さん。なる程、女の人も主婦だけでなく、よく働いているのです。

カット:ことば◎ことばについて

 何が面白いといっても、みんなのおしゃべりが一番面白いのです。会話は50%、50%でフランス語とアラビア語が混じっています。(誰もが!)今、フランス語しゃべっているかと思うと、次の瞬間にはアラビア語になっていて、何と心地いいこと!!何が何だか解らないので、その中に入ってサハッ!とかアワッ!とかムシムシ!とかレ・レ・レとかナーム!とか真似しているうちにどんどん事は運ばれて、時に英語を入れてくれるので、解らないけど解っちゃうの世界!!(しっかり話す時はパパ、ママ、Bensta etc.…とは英語になってしまったのですが…一般的には英語が苦手な人が多い。)
 やっぱりアラビア語を拾って言うと大ウケ。かっこいい時サハール! すご〜い!の時はベーヒバルシャ! 朝起きるとサバハールヒル! おいしい時はブニーンバルシャ! お腹いっぱいはシュバット ハンドレッラー 心が暖い人ハニームバルシャ!etc.… 日本にいる時にいろいろな人からもらっていったムシムシキラーとかマルハバ シュックラン ラベス! サマハニー! ビッサラーマetc.…全部通じるのです。 そして、少しでも言うとWAKAはチュニジア人だ!!と喜んでくれるのです。
 パパから教えてもらったアラビア語のSADAとHIPPO Goes Over Seasのタイトルを自動車の中で練習していると、パパはその通り!上手!とほめてくれて、ママは笑いコケていて、Redhiaは(あまりHIPPOのことを知らない)私がアラビア語を言うから聞いてね!とSADAを歌ってHIPPO Goes Over Seasを言ったら、又又、大笑いして、解った?とたづねると、解らない!と言ってお腹をヨジって笑っているのです。(考えてみたら、カバが海を渡る!とか、カバはカバ!とか言っているわけだから、やっぱりオカシイ!!)
 そして思ったことは、1つのことばだけで直球でこられると、とても疲れたりするんだけど、いろいろなことばの空間は何か心地がいい。 そう、遊びがあるのです。フランスだけ!というと何か緊張するでしょ!でも、その中にアラビア語なんてとんでもないのが入ってきてくれるだけで、フランス語も嬉しくなって、どんどんできるようになる。
 それに人が又又いいのです。そう、人もことばもメキシコとロシアを合せて、アラビアの粉をふりかけたような感じなのです。こういう所へ来ると、誰でもことばができる! そしてフッと思ったのは、HIPPOの多言語の空間はまさしくコレだったのですね!何か、人にもことばにもホッとする余裕とかゆとりがあって(大波で…BéBéのように…)みんなで遊んでいる。HIPPOはそういう環境をみんなで創っているのです!! VIVA HIPPO!

カット:遺産◎8つの世界遺産のうち、5〜6コ“見てしまった!”

 イリアボクー観光、観光、観光…で、大学や病院、研究所、CREDIF、女性の職業訓練所etc.…も含めて、よくぞこんなに…と思う位、たくさんの人に会い、遺跡に会いました。
 あ〜!家で子供達と遊んでいたい!日常の生活…料理…お掃除…昼寝…etc.と思った人も多かったけれど、パイオニア隊としてはそんなことは言っていられない! とりあえずこの熱い想いのホスピタリティーをまっすぐ受け取り、次の交流の時には、より良いものに…と思って、丸ごといただきました。
 正に世界史を目で見る感じで、3000年の昔と今が混在しているカルタゴの遺跡と地中海の青色の美しさには心をうばわれる思いでした。
 今のチュニジアになる前の歴史は沢山の国に支配されているのです。(日本とは大ちがい!) フェニキア人(BC1200、バール・ハモン神)のカルタゴ→ローマに征服(ベルベル人)され→東ローマ(ヴィザンチン−キリスト教入る)→アラブ王朝(イスラム教)→オスマントルコ帝国→フランスの植民地→1956年にチュニジアとして独立。
 というわけで、チュニジアへ行く前は何も知らない私でしたが、この土をさわり、風に吹かれ、この国の人の日常生活にどっぷりつかって家族にしてもらうということは、歴史を全部もらってしまうものだと実感しました。 でも、3000年の昔から、人間というのはそんなに変っていないのだということも同時に感じました。

カット:国旗2◎旗(チュニジアの)には意味がある

 シティ・ブ サイドに行った時、夕方、太陽が海に沈んでゆくのがとっても美しくて、毎日、こんな風景が見られる人はいいなぁと思っていたら、ベナリ大統領公邸が正にその位置にあって、あっ、この国はマグレブ諸国(太陽の沈む所。チュニジア・モロッコ・アルジェリア)だからマグレブの場所に大統領が住んでいる!!とBenstaに言うと、どうしてマグレブなんて知ってるの?と驚きながら、旗の意味を彼が教えてくれた。
 月のイラスト月はイスラム教の国(アラブ全体をさす)、★は5回のお祈り、真中だけが白色で全体全て赤色なのは、この赤は戦士の血の色(戦ってくれた人に感謝)
 なる程!パパもママも月が好き!と言う。何故? その時フッと中野矢尾シニアフェローのトラカレの授業を想い出した。記紀万葉の世界では、月はヨミの国で死者の世界をいう! 日の出ずる所、東とか太陽が神様(天照大御神etc.…)の所は多い。メキシコのテオテワカンも、エジプトの古代の神も、皆太陽!!なる程、蔭(-)と陽(+)か! どちらも同じ位大切なのだ!(蔭がなければ陽もないわけだから)
 この頃、思わず夜空の月を見てイスラム教のことを思い(今までとはチョッと異う月になった)、やっぱりきれいだなぁ〜と思う。(私は昔から星が好き!) と同時に、プラス思考、マイナス思考のことも考えたり…(これって風景のついてくることばの獲得!) 自然は沢山のことを私達に教えてくれて…まだ解らないことばかり…だから自然科学には夢があって楽しい!! − HIPPOは大自然科学者集団!!(赤ちゃんのことばと不思議を研究している)(人間なら誰もが、その環境にあることばができるという)

カット:羊◎犠牲祭(AID KEBIR)のこと

 HomeStayに入って2日目の朝、目を覚ますとどこからともなくコーランの音楽が流れてくる。同時に羊の泣き声もメエーメエーと聞こえる。パパとママは昨夜、日本大使館でおよばれがあって夜遅く帰宅したので、まだゆっくり眠っている感じ。のんびり私もBedでいると、“WAKA,Bonjour! サバハールヒル!”とママが起しにきてくれて、朝食が始まり(パンとジャム、ハチミツ、ヨーグルトとTea)ミルクとハチミツの美味しいこと!近所の農家から直接買ってくる天然もの!
 今日は暇そうなので、食後、一人で近所へ散歩に出た。三軒隣りの農家に沢山、羊が集っていた。何だろう?とのぞいて見たらエッ?何?アレ〜?!庭の隅の木の枝に頭のない羊がさかさにされてぶら下がっていた!! そして、又、そ〜っとのぞいていると、次々と羊が殺されて、皮をはがれ、肉片にされ、頭も内臓も足も余す所なく食べる料理の材料にされ、毛皮として利用されていくのです。 そして、その一部しじゅうを子供達も一緒に見ていて、手伝うのです。まさしくヒョエ〜!!という感じで衝撃を受けました。
 犠牲祭というのはチュニジアの国をあげての祝日で、日本で言えばお正月とお盆が一緒に来たような、年に1度のお祭りなのです。 この日はお店も閉り、使用人達は皆、自分の故郷へ帰り(ヤブ入り)、どの家庭も親、親類、兄弟が集ってきて、朝殺したマトンの肉を料理して食べる。洋服もきれいに着飾って!!
 私達もアニサの姪のフリーダの家に集まって、バーベキュー(ブロシエット)をして食べました。何と、このブロシエットの美味しいこと!!(ついさっきまでメエーメエーと鳴いていた可愛い羊です。) この時ほど、私って残酷なことをして生きているな〜、それもこんなに美味しいなんて!!と思わず自分の“生命”ということを考えさせられたのです。 確かに日本でも鯛の生け作りとか、エビのオドリとかを御馳走として、新鮮なほど美味しい!!と、何の疑いもなく食べているのですネ! ただ、それが羊に変っただけのこと! ここのこどもたちも習慣として、あたり前のおいしい御馳走なのかなー?!多分、そうなのかもしれない。
 But,昨日まで一緒に遊んでいた羊が……!! 私達はみんな、人の生命をもらって生きている(正確には食べて!)ということを、丸ごと解らせてくれてありがとう!!の気持です。 そして、何故、犠牲祭という名前の祝日なのかな〜と考えていたら、ハッと気がついたのです。 カルタゴ遺跡の説明をしてくれた人(チュニジア人のガイド)が、約3000年位前のフェニキア人の神バール・ハモンは、その頃、長男、長女は必ずいけにえとして殺さなければならなかった。だから今も、この様に小さなお棺が遺跡として残っている(沢山)と言っていたので、その名残りで長男、長女の代りに羊が犠牲になってくれているのかな〜と思ってしまったのですが…?!
 同時に、“ことば”も同じなんだなぁ〜と思いました。 人のことばを貰って 自分のものにしながら 生きているのですね! 私達!
 ※今回、初めての交流の日程を、この犠牲祭という自分達の国で、そして家族で一番大切な時に当てて組んで下さったチュニジア友好協会の人に感謝です。今だにヨーロッパやアメリカでは、私達のホームステイがクリスマスのど真中に組まれることはありません。それは、自分達家族や、親類だけで御祝するから…。その前後にしか交流日程は組まれないのです。この1つの事実をとっただけでも、チュニジアの人達がどんなに私達のことを自分の家族の一員として迎えて下さったか…ということがよく解ります。正に、コラソン カリエンテ! ハニーム バルシャの人達なのです。

カット:クスクス◎チュニジアの食物(料理)

★何といってもよく食べるのがクスクス。ヒエかアワの様な粒粒のパスタに、マトンやピーマン、人参をトマトシチューの様に煮込んだものにハリッサという何やら辛いスパイス(調合してある)を入れて、そのパスタ(クスクス)の上にかけて食べるのです。ハリッサの分量は人により加減しています。(そう、韓国のコチジャンのようなもの!)皆大好き!
★ブリックカット:ブリック  両手で両端をもって半熟卵の所をススって食べる。これは辛くなくて美味しい!
★テ・ア・ラ・マントウ
 ミント入りの松の実も入った甘いお茶。マグレブのシティ・ヴ・サイドで飲んで、ホントに美味しかった!

カット:女◎チュニジアの女達

 チュニジアという国は国土は日本の3/5で、領土は小さいけれど、アフリカ大陸のリーダーであると共に、アラブ圏国のリーダーでもあるのです。何故かというと、40数年前、チュニジアのみが男女平等という法律を定め、一夫一婦制をひき、全てに法治国家となったのです。現に他の国々(これらの)では、未だに男社会で、又、治安の上でも他の国々はイスラム原理運動で大変危機ですが、チュニジアはベナリ大統領が徹底してこの運動を排除したので、とても安全な国です。だから、私が見た限り(チュニス周辺)では頭からヴェールを被った女性を見たことがありません。そして今回、私達を受け入れて下さった家のママ達は皆 “肝っ玉かあさん”という感じで、よく食べ、よく話し、よく笑い、よく働きます。丁度、クリントン夫妻(U.S.A)の公式訪問がチュニジアであった時と、今回のホームステイが同じ日程で重なったのですが、私といつも一緒に行動してくれたRedhia('96夏、チュニジア大学生来日のリーダーで来た人)も、タンテのホストママも、うちのママも、そして日本チュニジア友好協会の人々(よくお茶会などに招かれたり施設訪問もした)も、ヒラリー夫人歓迎レセプションに参加をして、司会をしたり、スピーチをしたりしているのです。そして皆CREDIFの長(女性家族省の大臣)やI’UNET(Union Nationale de la Femme Tunisienne)の長もしていて、チュニジアの女性の意識改革や他のアフリカ諸国の女性達と手をつないでがんばっているのです。(実際、私達はモロッコ代表やアルジェリア代表の女性とも会いました。)
 この人達を見ていて、沢山学ぶことがありました。何しろ、自立しているのです。でも同時に思ったことは、新しい時代を開くものとして、“革新的な言語観の転換”を軸に、世界ネットワーク創りに励んでいる私達ともあい通じるものもあるような気もしました。 どんな壁にぶつかっても負けない!(時々、負けそうになるけど、みんなとやっているから、又、元気がでる!) ウソでないこと、人間が人間であることが好き!etc.……本気、やる気、元気!!

◎“ジャックと豆の木”のジャックの気持が解った!

 ママの姪のフリーダは今32才。10才の男の子のサドリと、8才の女の子アジザがいて、我が家の5軒先位に広大な庭を持つ素敵な家に住んでいる。フランスへ留学して建築を学び、今うれっ子の建築設計士で、我が家もフリーダが設計した。顔も姿もとてもきれいで、ついこの間、映画にも出演! 主人はDoctorとか。
 犠牲祭の日に一緒に買物へ行き、彼女の家でお花をいけたりしていたら、突然、家の玄関の所に車がとまった気配。フリーダも子供達も出てゆき、私はLiving Roomでお花をいけていた。でも、気になるのでちょっとのぞきに行くと、カッコイイ男の人が何やらフリーダと話をしている。そのうち、その会話の雲ゆきがアヤシイ!その男の人が大声をあげる…どうも主人のような気がして、急いで私はLivingに戻った。 会話はどんどん最悪の方向へ行き、フリーダも何やら大声で応戦している(でも、きれいな声で) その内、何か物をケ飛ばす音がして…段々私は、ここに居てはいけない! もし、私のことが見つかったら、この男の人はもっと怒るだろう! と、カーテンの陰にかくれた。でも、まだ見つかりそう! ホント、台所へ行って鍋の中へでもかくれようかしら! と、思わずジャックと豆の木のジャックの気持になった。
 そうこうする内にバタン!!と大きな音がして、エンジンの音も大きく車が走り去った。同時に、女の子のアジザがすっ飛んできて、私の胸に飛びついてきた。何かあったな!きっと、フリーダは泣いているに異いない!あ〜あ!大きな家も、お金も、何もいらない。小さな家で貧乏でも、家族仲良しが一番いいなぁ〜と、この時程思ったことはなかった。
 しばらくしてフリーダが戻ってきた。何もなかったかの様に! But,顔は悲しそう(泣いてないけど) そして、誰?ときくと、夫と答え、3年前に離婚したので別に住んでいる。今日は犠牲祭なのでオマエも子供達も皆、自分の所へ来い!寂しくないのか? ときくので、寂しくない!と答えたら、怒りだしたとか。そして、長男のサドリを自分の車に押し込んで行ってしまったとのこと…。私は、フリーダが自分の娘の様で胸が痛かった。そのことをママのアニサに話すと、そうなの!夫婦は自分達のことだからまあいいとして…子供達が可哀想でねぇ…と!! 全く、どこの国も同じことが起っているのです。
 でも私達は、御馳走いっぱいの楽しい犠牲祭をすごして、私も茶道したり、折紙したり、漢字トランプで遊んだり、みんなの名前を漢字で書いてあげたり…と、精一杯楽しみました。
 ※きっと、ジャックと豆の木のあの大男はアラブの男で、あのおばさんは奥さんだったにちがいない!と思ってしまったのです。
 でも、夫婦ゲンカは犬も喰わないというので…男の方にも沢山言い分があるのでしょう!!アラブの男も大変ですね。急に意識改革しなくてはいけないわけだから。ついていけない部分も多くあるのでしょう。

カット:HIPPOのマーク◎フェテ de アミカール de HIPPOのこと

 新しい国に行く時、既に組まれているスケジュールの中に、このThank’s Partyをしっかり入れるのは(それもHomeStayの中間の時期に)、どの国を開く時にもとても大変なことなのですが、チュニジアの場合は、BenstaもRedhiaもよく解ってくれて、日本食持ちより、マイク、カセット、Openスペースのある場所etc.…全てうまくとれました。60〜70人の人が集るということで、私達はできる限り沢山の日本食を作ろうと、みんなとてもがんばりました。(天ぷら、焼そば、炊きこみ御飯、ソーメン、そば、チャプチェ、ちらしずし、いなりずし…きれいなお菓子…折り紙の飾りつけetc.…) そして、上手下手は関係ないので、自分のできる限りをやろうと、コマまわし、ケン玉、空手、韓国ダンス、茶道をやったり、そしてMainの“What's HIPPO?”の紙しばいの時には、全員が多言語で自己紹介したり、私のパパAhmedの教えてくれたアラビア語のSADA、HIPPO Goes Over Seasのタイトルをみんなで歌ったり−これは特に大ウケで会場中が大笑い!−
 日本食もみんな上手におはしを使って、おいしい、おいしいと食べてくれました。時間はやっぱり予定通りには進まず、ハプニング続きで、特にSADAをみんなでやろうとした所、Tape操作は隣のビル(建物)まで行かなければならず…マサカーだったのですが、Tape係のネロはどんなに走り廻ったことか! でも、うまく曲が出てこなくて、The farmer in the dellをついに口ジャミセンでやろう!と私がマイクで歌っていたのですが、カセットの方の連絡に行かなくてはならなくなって、どうしようと思っていたら、何とギスヤン(彼はSADAって何ですか?とパリで言った人)がパッとマイクを持ち、ア〜〜ア〜〜とほとんどアの音で大波で歌い、ジャンケンポンだけを大声で言って、会場中をわかせていったのです。まさしく、これがことば!!と、大感動をしました。 赤ちゃんは何の過不足もなく100%のことばをしゃべっているのです! 一歩もウシロへひかない、みんなが自分の精一杯を出したPartyでした。特に'96,'97年日本へ来てHIPPOでHomeStayした大学生が9家族も受け入れてくれていたので、皆、SADAも大好きで盛り上がりました。
 このPartyはほんとに誰からも楽しかった!美味しかった!とほめられ、この日以降、ママのアニサは私の顔を見るたびにガニまた歩きのかっこうをして、WAKA!ガンニー ガンニー ガンニーマイ(Sing Sing Sing Along)、オロコス オロコスマイー!(Dance Dance Along!)と大笑いするのです。 そして、自分達も日本語でオイチイ、オイチイと言ったり、オアヨーと言ったりしてくれるようになりました。


 大体、ざっとこんな感じのチュニジアだったのですが、今回ほど外側(公式の場)のことと、内側(ハダカの人間の関係性)を肌で感じた交流はありません。
 特に印象に残っているのは、HomeStayも終りのころ、パパAhmedの私に言ってくれたことばです。
 「WAKA、本当の国際交流というのは政府Sideでやるものではなく、WAKAのやっているHIPPOのように、その国の家族の真中に入ることだね。」
 「WAKAの全ての人(大人にも子供にも)に対するコミュニケーションのとり方は素晴らしい!」
 「今度はボクも日本へ行ってWAKAの家にHomeStayするよ!」
「もう帰ってしまうなんて…来週の金曜日の朝、いつもの様にWAKAの部屋にむかって、Bonjour!Wake up WAKA! と言うので、そちらで答えてね!」でした。
 すべて、これらのことは、私はHIPPOから学んで自然に身についたことなのです。アラビアンNightの様な生活の12日間はパイオニア隊として100%−120%−いやいや200%力が必要だったけど、山程の収穫がありました。
 帰りの飛行機の中では、無口なタマキが1時間半男泣きをしていて…彼の感想文には、ボクは自分を変えたかった!…と書いてあり、彼のチュニジアでのホームステイでの様子(まるで本当の息子の様に、おばあちゃんやお母さんにHugされていた)と重なり感動しました。これが“ことば”なんですね!
 やっぱり、ソノ子のように、みんなに“ありがとう”を言いたいです。そして、又、みんなで一歩一歩、身近な自分のまわりに、そして世界にHIPPOの環境を作ってゆきましょう!自分のために!
 でもフッと思うのです。何回目に行っても、全部パイオニア隊なんだと。自然はいつも生きていて、ただそこに在るものでなく、成るものだから。しっかり大地に足をつけて、ことばと人間にまっすぐ向ってゆきましょう。

P.S.
 Ahmedパパの教えてくれたSADAとHIPPO Goes Over Seasのタイトルのアラビア語をつけておきます。8月にはアラビア語のTapeがでるとか! とっても楽しみです。
 最後まで読んで頂いてカット:アラビア語のありがとう(シュックラン)!!


アラビア語のSADA
アラビア語のタイトル
この文章は、わかちゃんが手書きで書いたものを、僕(コッキリ)がパソコンに入力しました。
なお、僕のヒッポネームは、ハングル:Ko-Kki-Riなので、カタカナで書く場合はコキリでもコッキリでもOKです。
1999.4.30
西武線地域・井内F・コッキリ