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大聖人は弘安五年(1282年)10月13日。武蔵の国池上(現在の東京都大田区池上)にて御入滅なされました。御年61歳でした。
大聖人は自分がこの世からいなくなった後の門弟たちのことを考えて、まず6人の本弟子を定められました。これは当時、門下にあって指導者として、また、中心者として活躍されていた弟子達を明確にすることによって、門下に与えるであろう混乱を防ぐために行われたものと考えられます。
また、日興上人に対しては、本門弘通の大導師に任命し、身延山久遠寺の別当(貫主)を相続させました。その証拠として身延相承書ならびに池上相承書が有ったことが記録に残っております。正文書は残念ながら戦国時代の末期に、北山本門寺と西山本門寺とが起こした騒動の際、北山本門寺に寺宝として厳護されていたものが時の官憲である武田家に押収され、その後武田家が滅亡した際の混乱によって行方不明となってしまいました。なお、紛失する前に写された写本が京都要法寺にあります。
葬儀は同年14日、池上邸で行われました。しかし、身延の地頭南部実長一族は地域の所為もあったのかもしれませんが、誰一人参加していませんでした。