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 弘安8年頃、民部阿闍梨日向がようやく身延へ登山してきたようです。日向は他の4人とは別行動を取っていた節がありますが、とりあえず本弟子の中で登山してきたのは日向だけのようで、これを喜んだ日興上人と地頭・波木井実長は日向を歓迎し、身延の学頭職という要職にあてられ、それ以降日興上人の補佐をすることになりました。

しかし、日向は日興上人の謹厳実直な教義になじまず、地頭・波木井実長と交流を深めるうちに、鎌倉方の4人の老僧が掲げていた「軟風含み」の教義を波木井実長に吹き込むようになり、次第に大聖人の仏法を乱すようになっていったのです。

日向は日興上人の度重なる忠告に耳を貸さず、地頭・波木井実長と結託して謗法を重ね、ついに日興上人をして「身延離山」を決意させることになりました。