冒険に行こう! 

第一章  Open Your Book

作 山下泰昌


                           三
  一、二、三、四、五。
 朝靄が煙る中、俺は小さく息を切りながら口の中で規則正しく数を数えていた。
 それと共に、木刀の空気を切る音がぴゅっと俺の耳に聞こえてくる。
 六、七、八、九、十。
 この木刀の空気を切る音が聞こえてこないと良い素振りとは言えない。
 木刀を背中に当てるくらいに振りかぶる。そして鋭く息を吐き出すと同時に、肩、肘、手首、と次々に力を伝えて行き、最終的にしなる鞭のように木刀を眼前の虚空に叩き込む。
 斬った、という手応えがする。こういう密度の濃い素振りを繰り返す。
 ただ、木刀を振りまわしているだけの素振りでは何にもならない。一振り一振り、意味を持たせてやらないとならないのだ。
 正面の素振りを千回も終わったところで、ようやく身体が暖まってきた。朝靄も晴れてきたのか、うっすらと眼下の船橋市街が一望出来る。
 ここ船橋大神宮で毎朝素振りをするのが俺の日課だ。
 大神宮の大階段の上から、船橋の町並みに向かって剣を振り下ろすのは、非常に気持ちがいい。俺は木刀を両手で握ったまま、八の字に振り回し手首の関節の柔軟をした後、続いて切り返しの素振りを始めた。
 と、その時である。
 自分の背後に人の気配を感じた。
 自慢じゃないが俺はこういう感覚は鋭い方だ。混雑している駅のプラットホームで俺に敵意を抱いている人間の視線を特定出来るくらいに敏感だ。その俺が、すぐ後ろまで人間に近づかせるなんてことは、まず、ない。
 俺は予備動作なしで、振り向きざまにその背後の人間を袈裟懸けに切り落とした。
 手加減は全くなしだ。
 そもそもそれくらいのレベルで斬り伏せないと逆にやられる。俺に気付かせずに背後に立てる人間とはそういう人種だ。
 木刀は空を切った。だが、俺はすでに次の動作に入っていた。目の端で相手が俺の右に飛ぶのを捉えたからだ。
 瞬間、俺は臍下丹田に意識を集めた。そして一気にそれを意識化で自分の左足に向けて放出する。
 俺の左足が地を蹴った。地を這うように跳躍し、むかって右方向に攻撃をかわしつつある相手に直線的に突っ込む。木刀は両手で右腰の方に開いて構えていた。変則的な脇構え。
 相手は俺が予測以上の軌道で迫ってきたのに驚いて、逃げ腰で拳を構える。
 遅い。圧倒的に遅い。勝機だった。
 俺は裂帛の気合いと共に左手一本で敵の腹を薙ぐ。
 木刀越しに人体を打ち据えた時の鈍い響きが腕に伝わって来る―――はずであった。
 だが、木刀はぐにゃりとした軟体の生き物に捕まれた様に途中でその速度を失速させた。
 木刀が捕らえられる?
 俺は咄嗟に危機を感じて、木刀を自らの方へ引き寄せる。軟体動物は木刀を戒める好機を一瞬差で逸した。俺は再び脇構えの形で次の攻撃に備えて―――
 「ちょ、ちょっと待ってぇぇぇ!」
 敵は両方の手のひらを前にしてそう言った。敵から発せられていた殺気がすでにない。
 俺は構えを解かないまま敵を見た。
 「シュンスケ! あんた、女の子に対するいたわりの気持ちってものがないの!」
 「都合の良い時だけ、女の子だよな」
 お約束のごとく敵はレイリアだった。実は攻撃を仕掛けているときから薄々気が付いていた。だが、こちらが手を抜いて相手出来るほど甘い相手ではない。そういう訳で本気で攻撃させてもらった。
 「ったく刀持っている時のシュンスケには迂闊に近寄れないねっ」
 レイリアは服に付いた埃をぱんぱんとはたき落とした。レイリアの昨日着ていたスラクーヴァの民族衣装ではなく、こちらの世界のTシャツと、Gパンを履いていた。おそらくサイズ的に言ってお袋のお古だろう。真っ白いTシャツは昨日の民族衣装と違い、まともに身体のラインが分かるので目のやり場に困る。
 「『気配を絶って』、しかも『背後』から、近寄るんじゃねえよ!」
 俺はそう言い放って、素振りを再開した。
 「ちょっとしたお茶目じゃない。後ろからそうっと近寄って驚かそうと」
 「十分驚いたよ!」
 切り返しの素振りは手首の返しの練習になる。架空の敵の右側頭部、左側頭部を叩き割るつもりで、交互に振り下ろして行く。
 レイリアは俺の練習の邪魔をしてはいけないと思ったのか、それっきり何も話しかけずに、近くのベンチに腰を下ろした。
 そして頬杖をついて俺の素振りを眺めていた。
 俺のやっているのは純粋な剣道ではない。
 神山一刀流。
 俺の家にだけ代々受け継がれている剣術だ。
 現代の競技剣道とは一線を画している。本気で敵を切り伏せるための剣術だ。
 居合いと実戦剣術が混ざったような流派で基本は一刀両断。
 二の技は繰り出さない。一の太刀で全てを終わらす。それが俺が習い覚えている剣術だ。
 俺の視線は前方一メートル先の虚空を見据えていた。架空の敵をそこに想定し、それを次々に打ち据えていく。
 だが心の視線は、横で俺のことを見ているレイリアの方に向けられていた。考えたら誰かに見守られながら練習をするなんてガキの頃以来かも知れない。
 この程度で、素振りに集中出来ないなんて俺も修行がまだまだってことか。
 それからたっぷり一時間木刀を振り込んだ俺は、汗だくになりながら、レイリアの方を振り向いた。レイリアは飽きもせずにずっと俺の素振りを眺めていたらしい。
 俺と目が合うとにこりと笑った。
 「ごくろうさま。こんなこと毎日やってるの?」
 「ああ、朝の日課。やらないと気分が悪い」
 俺は持参していたタオルで汗を拭くと、木刀を黒のレザーの竹刀入れに入れ担いだ。
 そして傍らに置いて合ったチャリンコのカギを開ける。
 「レイリア、どうやってここまで来たんだ?」
 「歩いてきたわ」
 俺はチャリンコの後部座席を指さした。
 「乗っていくか?」
 「え?」

 「きゃああああっ!」
 数分後、俺にしがみついてそう叫声をあげるレイリアがそこにいた。大神宮からの急な下り坂を俺たちは下っていた。ほとんどノーブレーキで。レイリアの長い栗髪はほとんど水平にたなびいている。
 「見ろ! このノーブレーキのヘアピンカーブさばきおお!」
 「いやああああっ!」
 チャリンコは地面に倒れ込んでほとんどアスファルトすれすれだ。タイヤがキュキュキュと危機的な音を立てている。だが、後部座席での体重移動を言われもしないのにやっているレイリアの運動神経も大したものだ。
 「ちょ、ちょっと止めてええ!」
 「このダウンロードのスペシャリスト俊輔様のロケット走法を見よ!」
 俺は更に調子に乗って急カーブに突っ込んで行く。
 「もう、いやあああ!」
 おかげで、大神宮から本町の自宅まで俺たちはわずか一分でたどり着いてしまった。
 俺の頬にはレイリアの手形がしっかり残ったけど。
 
 「え? 今日、学校なの?」
 「当たり前だろ」
 俺はイチゴジャムを適当に塗ったパンを口で引きちぎりながらそう言った。
 時々、壁に掛かっている時計を見て時間を気にする。
 まだ、七時三十分。学校の始業時間は八時三十五分。本町の俺の家から習志野の学校までチャリンコを飛ばせば四十分ほどで着く。余裕だ。
 お袋、親父はともに仕事に出かけてしまい、いない。
 この家で一番遅く家を出るのは俺である。
 「なーんだ」
 レイリアはそう落胆した声をあげて、テーブルに俯せる。
 俺はそんなレイリアを見ながらふと疑問に思った。
 「お前は行かないのかよ。学校」
 レイリアはきょとんとした瞳で俺を見返した。
 「え? あたし? あたしんとこは長期休み。三キュビアほど」
 「三キュビア? ええと、ああ。一ヶ月か」
 一キュビアはレイリアの国での日にちを数える単位で、十日のこと。感覚的にはこっちの一週間に似ている。
 「夏休みみたいなもんか?」
 「ま、そんなもんね」
「こっちとすれ違いなんだ」
 そう言えば俺がガキの頃、夏休みに両親と一緒にレイリアの国に行った時はレイリアは学校に行っていたような気がする。
 小学校の時はほとんど毎年のように遊びに行っていたな。それこそ、田舎に帰るような感覚で。でも俺が中学くらいに上がってからぱったり行かなくなった。
 普通そうだろう。みんな、友達付き合いの方が楽しくて、家族付き合いの方はないがしろにされて行く。だが、根本的な問題として俺が行きたくなかった理由というのが他にあったのも事実だ。
 胸がちくりとする。その行きたくない理由を思い出したからだ。考えたくもない。
 俺はそのことについて考えるのをやめた。そして、時計を見る。
 七時三十分。
 大丈夫。チャリンコを飛ばせば、学校まで四十分で………。
 ちょっと待て。何でさっきから時計の針が進んでいないんだ?
 俺はテレビのリモコンを取り、急いで電源をオンにする。
 ワンテンポ遅れて点いたテレビ画面にはどこかのニュース番組が映し出された。
 そしてその右上には八時ジャストの文字。
 駄目じゃん! 
 俺は朝食も途中にあわてて立ち上がった。そして椅子の背中に掛けてあったカバンを肩に掛ける。下らない話に熱中しすぎた。
 「ど、どうしたの? 時間ないの?」
 「ああ! あと三十分しかない!」
 「サンジュップン? ああ、五キュビアのことね。だけどさあ、いつも思うんだけど、こっちの世界って何でこんなに十二進法や六十進法が幅を利かせているの? 私が考えるに、きっとこっちの人間は昔は指が十二本あったんじゃないかな?」
 「そんなごたくは後にしてくれ!」
 俺はその時にはすでに玄関におり、靴を履いていた。そして、飛び出す。
 レイリアがサンダルをつっかけて玄関から出てきた。
 「いってらっしゃい」
 そしてすぐさまレイリアは言葉を継ぐ。
 「……帰ってくるまで、行くか行かないか、決めておいてね」
 「ああ!」
 俺はチャリンコに飛ぶように跨り、いきなり全力でペダルを漕ぎ始めた。
 スタートからトップスピードだ。
 でも、家を出るときに女の子から 「いってらっしゃい」と言われるのは始めての経験だった。肉親以外の女の子に見送られるってのは、結構、気持ちがいいもんだな。
 にやけ顔でそんなことを考えながらペダルを踏んでいたら―――
 ―――案の定、遅刻した。
 
                              四
 一時間目の現国の授業に十分近く遅刻した俺は、教室の後ろのドアから静かに入室した。別に先生に見つかりたくなかったからではない。遅刻してどうどうと騒がしく入るのは、何か問題あるだろう。人間として。
 しかし、そんな苦労も甲斐がなかった。
 「あらあ、神山君。ずいぶんごゆっくりですわねえ」
 必要以上に張りのある声で現国の教師、宗像雪子は俺を見咎めた。
 そのとたん、教室中の目が俺に集中する。皆の目の色が何かいつもと違う。
 俺は凄まじく嫌な予感がした。
 やがて誰かがぽつりと呟く。
 「奥さんが寝かしてくんなかったんじゃねえの?」
 一瞬後、教室中がどっと笑う。一抹の嘲笑と羨望、そして冗談。
 そんな雰囲気がすべてない交ぜになった笑いが教室中を包んだ。
 クラス中、知れ渡っている。教師の宗像ですら、愉快に笑っているところを見ると事情を知っているらしい。
 「神山君。ご家庭の事情だから仕方がないとは思うけど、それで遅刻はいけないわよ」
 宗像は優しく俺に説くように話しかける。でも、目がにやけている。
 「先生! 羨ましいんじゃねえの?」
 「神山に結婚、先を越されちゃいましたねえ!」
 教室のあちらこちらからそんな声が飛んだ。
 「こらっ!」と言って宗像は教壇を力強く叩いた。だが、顔は笑っている。心なしか嬉しそうにも見える。
 うう、ちくしょう。人の家庭の事情がそんなに楽しいのかよ。
 俺は無言で自分の席に着くと、はす向かいにある北村の顔を探して、睨み付けた。
 奴はへらへらと笑っている。
 覚えていやがれ! 

「なあ、奥さんってどんな感じの娘?」
 「可愛いタイプ? それとも美人系?」
 一時間目が終わり、休み時間になったとたん、俺の周りには人だかりの山が出来た。これだから男子校は嫌だ。皆、女の話になると飛びついてくる。
 「だから、そういうのじゃないって。許嫁って言っても親同士が勝手に決めたことで、俺も相手も別にそんなこと本気で思っちゃいないんだって」
 「外人だよ、外人。それも凄え可愛いの!」
 北村が勝手に解説する。
 人だかりが「おおー!」とどよめく。
 俺の話など誰も訊いていない。
 「国際結婚かよ!」
 「だから違うっつうの!」
 俺は必死に否定するが質問の嵐はやむことはなかった。
 「相手は何歳なんだよ」
 「確か同い年らしいぜ」と北村。
 「名前は?」
 「レイリア、とかって言ってたな」と北村。
 「スタイルは?」
 「もうばっちり!」と北村。ちょっと待て、お前は見たのか!?
 「で、もう、したの?」
 「………」と北村。
 ん? 北村は俺の顔をじっと見ている。
 「したの?」
 「な、何が?」
 「決まってんだろうがよ! アレだよ、アレ」
 「ちょっと待て!」
 俺はさすがにそこまでの下世話な話には乗っていけなかった。いや、別にこういう猥談は嫌いな方じゃない。だが、今回の場合は別だ。ちゃんと具体的な相手がいる話だ。それにレイリアのいないところで、レイリアを汚すような話は絶対にしたくなかった。きっと聞いたら傷つくに違いないからだ。
 レイリアは俺の許嫁、という以前に、俺の幼なじみであり、俺の友達でもある。そういうところは守りたかった。
 俺はがたっと椅子をずらし立ち上がった。
 「お、おい。逃げる気か?」
 北村が呻く。俺は強引に俺を囲んでいる級友どもをかき分けようとした。
 と、その時だ。
 「よおよお、みなさん。元気にやってますなあ」
 人だかりを割いて一人の男が現れた。
 本山信夫。北村を含めた俺の悪友の一人だ。
 本山は俺の肩を、がしっと抱えて
 「よっ! 聞いたぜ、俊輔。やっと女が出来たそうじゃん」
 と嬉しそうに言った。本山は持ち前の醤油顔に加え、マメで押しの強い性格のおかげでかなり浮き名を流している奴だ。一度、本山に渋谷でナンパの実演を見せてもらったが、それは圧巻であった。押しと引きを憎らしいほどに心得ている。そして一日の間に一体、何人の女の子の携帯電話番号を聞いたことか。
 その光景を見ていて、俺にはナンパは無理だと、悟った。とても女性に対してそういう態度をとれない。どうも俺は古風な考えらしい。つきあう女性は本当に気が合う娘一人だけ、という古くさい考えに固執している。
 そんな本山が俺を席から引っぱり出した。
 「女と付き合うのは良いことだぜ。ま、こんな『もてないクン』たちは置いて、俺たちは女の話でもしようとしますか」
 「お、おい」
 俺は戸惑ったが、この質問地獄から逃げ出すチャンスでもある。俺は本山に身を任せた。
 「おい、本山。そりゃないだろう!」
 北村が非難の声をあげる。
 本山は後ろ向きのまま、手を上げてひらひらと振った。
 「ま、君らも早く彼女を作ることだね」
 俺たちは教室を後にした。

 「というわけでさ、今度の新人戦のメンバーに入ってくんねえかな?」
 廊下の隅で俺は本山に口説かれていた。
 口説かれていたといっても妙な意味ではなく、剣道の試合に出てくれと言われただけだ。
 本山はこう見えても我がC第一高の剣道部の大将なのだ。
 こんなナンパな奴が大将を張っていることでもお分かりの通り、ウチの剣道部は弱い。 主将の浜崎と上段で大将の本山は別格としても他部員が壊滅状態である。
 剣道は五対五の団体戦。しかも勝ち抜き戦ではない。たった二人で大会を勝ち進めるほど甘くはないのである。そこで、俺のお鉢が回ってきた訳だ。
 「頼むぜ。次の大会で少なくとも県大会までには行かないと部費が減らされちまうんだ」
 おねだりする子供の様に片目を閉じ、そして顔の前で手を合わせた。
 ああ、きっとこういう態度に女の子どもはころっ、ていっちゃうんだろうなあ。
 「でもよ、部外者の俺なんかがいきなり試合のメンバーに入ったりしたら、どんなに弱いって言っても前からいた部員に反感買うんじゃないのか?」
 「ああ、それは大丈夫」
 本山はきっぱり言った。
 「あいつらはそんなプライドすらも持ち合わせていない」
 散々な言われようだな。同情するよ、まだ見ぬ既存の部員さん。
 「それとよ。俺の『剣』は今の『高校剣道』とはかなり違うよ。ルールの違いはちょっと不安なんだけど」
 「それを差し引いてもお前の実力は県大会上位レベルだ。充分、県大会出場への戦力にはなる!」
 そうかなあ。でも、自分の力を試してみたいってのは俺の心の中にあった。俺のやっている『神山一刀流』は実戦剣術だ。敵を斬る為の剣術である。いくら腕を上げたって現代日本ではそれを使う場所がないのだ。いかにルールに縛られた『現代剣道』といえども、その中で果たして自分はどれくらい通用するのか? という興味がある。
 「うん……。やってみようか、な?」
 「そうだろ!」
 本山は嬉しそうに拳を振り上げた。
 「そうこなくっちゃ! これで望みが繋がったぜ!」
 本山はさばさばした顔で笑い掛けた。そしてがらっ、と表情を崩し、俺に肩を組んできた。気安く肩を組むのが本山のくせだ。
 「ところでよう、俊輔。お前の彼女、今度会わせてくれよ」
 「だ、だから彼女じゃあないって」
 「ああ、そうか許嫁だっけな。外人なんだろ。どこの国だ? アメリカ? イタリア?」
 「いや、その、スラクーヴァってところなんだけど……」
 「すらくーば? 東ヨーロッパかロシアのどこかか?」
 「まあ、そんなところだ」
 やべえやべえ。そろそろボロが出そうだ。
 しかし、天の助けか、その時ちょうど、始業のチャイムが鳴った。
 本山は舌打ちした。
 「しゃあねえな。じゃ、大会の件、考えてくれよ、それじゃ」
 本山はそう言って、足早に去っていく。俺は安堵のため息をもらした。
 レイリアの国、スラクーヴァ。いい加減説明せねばなかろう。そう、お察しの通り、ヨーロッパにはそんな国はない。ロシアにもない。地球上にもそんな国はない。
 じゃあ、レイリアはどこから来たのか。
 そう、レイリアはこの世界ではなく、異世界から来たんだ。
 
スラクーヴァは異世界にある小国の名前だ。
 文明レベルは他国との戦乱に明け暮れている中世のヨーロッパ程度。
 ただ、一つ、こちらの世界と事情が異なっているのは、本当に魔法が存在する、ということである。
 こちらの世界は『科学』を基底として文明を発展していったが、向こうは『魔法』が基準となった魔法文明だ。であるから、訓練すれば誰でも魔法が使えるし、乗り物なども魔法が利用されている。魔法犯罪を押さえるための警察や法律なども整備されつつある。そういう世界だ。で、なぜそんな異世界と俺が関わりがあるかと言うと、ウチの押入に眠っていた一冊の本がその元凶だった。
 その本は異世界の文字で書かれている。
 その本は俺の家に一冊、スラクーヴァのレイリアの家に一冊の計二冊しかない。
 その本はスラクーヴァに居た大昔の魔術師によって作られたものらしい。その本を読むと空間跳躍魔法が発動し、もう片方の本がある所まで跳べるというものだ。
 今から約三十年前、俺の親父がこの本を田舎の蔵の中で偶然見つけた。どこの誰がどうやって親父の田舎の蔵にそれを持ち込んだのかは分からない。が、とにかく『本』はそこにあった。そして親父は当然のごとくそれを開いたのだ。そしてスラクーヴァに期せずして旅立ってしまうことになった。
 当時、十九歳だった親父はすでに神山一刀流免許皆伝の腕前だった。じいちゃんから生前訊いた話によると親父は代々の神山一刀流の継承者の中でも飛び抜けた才能の持ち主だったらしい。天才だ、って言っていた。その親父が言葉も生活様式も違う向こうの世界スラクーヴァでレイリアの親父の魔法使いドラガン=アルケムスと組んで大活躍したのも当然の成り行きだったのかも知れない。
 これはお袋に訊いたんだけど、それは凄い活躍だったらしい。
 百人斬り。魔法獣封印。大将軍アラバトラとの一騎打ち。スラクーヴァ国王救出作戦。ドライコニアの発見などなどなど。
 それこそ伝説の剣士としてスラクーヴァでは俺の親父の名前は崇め奉られている。マサタカ=カミヤマの名前ははっきり言って知らない人間はいないほどだ。
 だが、親父は向こうで知り合ったユウリィ=ケミクァラン―――つまり俺のお袋、神山悠璃なんだけど―――と結婚するとこちらの世界に戻って来て、普通のコンピュータ会社に入社して普通の生活を始めた。
 そして俺、妹の麻菜をもうけて現在に至る、とこんな具合だ。
 向こうでの名声を捨ててこちらで生活を始めたのが俺には良く分からない。向こうで何かあったのかも知れない。
 でもいくら伝説の剣士と向こうで崇め奉られようとも俺は親父はあまり好きではない。
 幼い頃、遊ぶ時間を奪われてまで俺は神山一刀流を叩き込まれた。防具も付けない状態で竹刀で手加減無しで打ち込まれた。身体中に痣が出来ていた。防具も付けない状態で木刀で打ち込まれた。何回骨を折ったか分からない。そして防具も付けない状態で真剣で斬りかかれた―――
 親父は俺のことを自分の息子だと思っていなかったに違いない。俺は本当に殺されるかと思った。あの真っ直ぐな強い意志のこもった瞳で直視されると俺の生き方の全てを咎められている様な気になってくる。麻菜なんかは「全くお父さんは堅物なんだから」とか言って軽くかわすが俺にはそれが出来ない。
 だから俺はいつも視線をずらして黙り込むことしか出来ない。
 俺がスラクーヴァに行きたくない理由がこれだ。
 向こうに行くとどうしても『伝説の剣士の息子』という見方しかされない。正直言って重荷だ。
 俺は、俺だ。親父とは違う。同じ人生は辿れないし、価値観も違う。張り合おうなんて気もない。神山一刀流は鍛錬はしているが極めようと云う気はさらさらない。
 それなのに向こうの人々は俺に親父と同じものを求める。
 こうして俺は中学に入学して以来、スラクーヴァには行かなくなったのだ。
 スラクーヴァやドラガンおじさん、レイリアたちは好きだ。
 だが、親父は苦手だ。

                             五
 「ただいま」
 俺は別に誰に言うわけでもなく、疲れた声で玄関を開けた。
 「お帰りなさい」
 予期せぬ返事が帰ってきて俺は思わず、顔を上げる。
 一瞬、失念していた。そうだ、今日はレイリアがいたんだ。レイリアは来た時と同じスラクーヴァの民族衣装に着替え、俺に優しく微笑み掛ける。その笑顔を見るだけで俺の心は安堵する。だけど、そんなこと、とても口に出しては言えない。
 「さ、シュンスケ。タイムリミットよ。私、もう帰んなきゃいけない。決めてくれたかしら。一緒に行くか行かないかを」
 レイリアはまだ、帰宅して靴すら脱いでいない俺の顔をじっと凝視する。
 俺は帰り着いたばかりなんだから少し休ませてくれと不平を言おうとしたのだが、その瞳に込められた真剣な光を見て、思いとどまった。
 その光は期待の光。そして自分の夢への希望も含まれた決意の光であった。
 こんな真剣な目で見つめられて適当に返すわけにはいかない。
 俺はごくりと、唾を飲む。
 スラクーヴァには行きたくない。行けば聞かされる言葉は「伝説の男の息子」という俺の名前の頭に付く枕詞だ。行けば俺はずっと親父の名声に付きまとわれる。
 だけど。
 行かなければ、普段通りの平凡な授業と試験に縛られた毎日だ。
 どちらを選ぶ? 冒険か? それとも平凡だが平和な毎日か。
 俺は自問自答する。
 そしてレイリアの瞳をもう一度見た。その瞳は一刻前とは別の光を湛えていた。
 不安。
 そんな名前の光だった。俺の背中はその瞳でとん、と後押しされた。
 本当、こんなきっかけなんて些細なことだと思う。決断する時のきっかけなんて。
 俺はため息を吐く。そして勿体ぶるように一度頭を振ると、ゆっくりと口を開いた。
 レイリアの顔は、ぱあっと明るく輝いた。

 木刀が二振り入った竹刀入れと着替えが何着か入ったデイパックを背負って、俺はレイリアとともに書斎へと向かった。 
 書斎は一階の奥にある。親父の書斎ではない。大体、親父は本を読まない。今は亡き爺ちゃんの書斎だ。
 ぎいっ、と鈍い音を立ててドアを開ける。毎週一回はお袋が掃除をしているが、ほこりっぽいイメージがする。日の光もあまり入ってこないので、陰鬱な感じのする部屋だ。
 その部屋の奥に重そうな机があり、その上に一冊の本が置いてあった。
 本は分厚い表紙で、その表紙には何も書かれてはいない。
 実に向こうに渡るのは三年ぶりだ。本を前にして、ちょっと緊張する。
 俺は肩を廻したりして身体をほぐした。すると後ろからレイリアが耳元に囁く。
 「あんまり緊張すると失敗するよっ」
 どきっとした。
 「縁起でもないこと言うなよ」
 レイリアはころころと笑う。
 ったく。
 でも緊張が取れた。俺はその本を手に取り、表紙を開ける。
 この本はどうやら神山家に代々伝わっているものらしい。だが、長い歴史の中でこの本を開いた者は昭和になるまで現れなかった。
 そう、それが俺の親父、神山正隆だ。
 親父が夏休みのある日、押入の奥から見つけたがこの本だ。それからの活躍は前述の通りだ。ええい。不愉快なことを考えるのは止めよう。それこそレイリアの言う通りに『跳躍』に失敗してしまう。
 俺はレイリアと並んでその厚い表紙を開いた。隣にレイリアの体温を感じて何か居心地悪い。肘がその身体に当たる。柔らかい。俺がそういう複雑な表情をしているとレイリアは「何よ」というような顔で俺の顔を見返す。
 俺は一つ息を吐いて心を落ち着けた。そしてその本に書かれている『モノ』を読み出す。
 記号、いや図形とでも言っていい程の幾何学的文字が目の中に飛び込んで来る。
 当然の事のながら、その文字は読めない。しかし不思議なことにその文章の意味がするする脳の中に送り込まれて来る。
  ―――汝、時を越え、空間を越え、
 やがて極彩色のイメージが俺の頭に流れ込んできた。百四十四色の虹が蛇のようにとぐろを巻き、やがてその蛇は四散し、無数の泡を四方にまき散らす。

 ―――自らの日々を捨て去ろうとする者よ。
 泡の表面にはどこか夢で見たような懐かしい街が映っており、、そこにはやはり懐かしい階段がある。階段は無数の泡からタケノコのように伸びてきて互いに絡み合う。

 ―――汝の内なる力を引き出し、異なる世界へその身を委ねよ。
 そして空間は階段で埋め尽くされる。俺とレイリアはその階段を歩く。階段を下りる。だが上がってもいる。前後左右の階段を見ると俺とレイリアがいる。

 ―――まさに、それは全ての数に十一を加減した紋章である。
 数秒前の俺たちであり、数秒後の俺たちでもある。ランダムに動いていた無数の階段と無数の俺たちは次第に合わせ鏡のようにその像を重ね合わせ始め、一つとなる。
 そして―――

 ふっと、身体が浮いた様な気がした。目の前が一瞬、白くなる。この感覚は柔道で締められて、落ちる時の感覚に良く似ている。苦しくも、何か気持ちよい、あの一瞬に。
 そして、次に意識が戻った時には、俺は見慣れない小屋の中に、居た。
 自分の住んでいた世界とは違う建築様式で建てられた、小屋。妙な違和感。うっすらとほこりのかかった調度品。机らしき家具の上に置かれた一冊の本。
 その本は俺の家の書斎にあった本と同じだ。
 そう、ここはスラクーヴァ。
 レイリアの故郷であり、魔法という不可思議な法則があり、今だ怪物どもが闊歩する伝説、神話の世界だ。


二章 一

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