冒険に行こう! 

第二章  魔法泥棒

作 山下泰昌


                            三
 何かを爆発させたような低い音が広場中に響いた。
 「さ、行くよっ!」
 レイリアが俺を促す。どうやらゲーム開始の合図だったらしい。とても合図に思えなかったがこれがスラクーヴァの常識なのだろう。日本での花火みたいなものか。
 広場に集まっていた群衆は足早に森の中に進入して行った。
 俺、レイリア、ヤヤ、ウスラの四人も続いて分け入って行く。
 森の中、と言っても地面の所々には石畳が見え隠れており、また木々の間には太古の建造物が朽ち果てている。森の中というイメージより、廃都にたくさんの樹を生やしたって感じだ。
 ここが植物に浸食され滅んだ都市、エオアヌパだ。森林破壊、環境問題が叫ばれている俺たちの世界とは違い、こちらではこのように文明が自然に浸食されるケースが少なくない。それというのもこちらの世界の地下に流れる地脈の働きによるものらしい。全ての生命力の源、そして魔法の原動力でもある力強い地脈は植物や動物たちを生み、育て、殖やす。このエオアヌパはそんな地脈の放出点にたまたま存在した都市だ。放出点に存在しただけはあって人間の出生率などはやたら高かったらしい。だが、人の活動力より植物の繁殖力が少しだけ勝った。そんな都市だ。
 俺はそんな半森林、半都市の中を歩きながら、ふと疑問に思った。確かこの大会の目的は『杯』を探しに行くことであるはずだ。だけど、その『杯』はどこにあるんだろう。それに『杯』を探すだけなら戦闘要員の俺の存在は必要ないのではなかろうか?
 俺はそんな疑問を素直にぶつけてみた。するとヤヤ、レイリア、そしてウスラまでもが呆れた顔で俺の顔を見返す。
 「レイリア。あなた、シュンスケに何にも説明していないの?」
 ヤヤが少し詰問調にレイリアに詰め寄る。レイリアは諦めたように目を閉じた。
 「はいはい。ごめんなさい。全く説明していません」
 「そりゃ、ないだろう」
 ウスラが俺の心を代弁してくれた。俺の中でウスラの好感度がぐぐっとアップする。
 二人に責められて少し不機嫌気味のレイリアに代わってウスラが説明を始めた。
 「『杯』はね、この遺跡の最奥部、宮殿の中に安置されている。それは昔から全く変わっていない。だからただ、単に『杯』を奪取するだけなら簡単な大会なんだね、これは」
 俺はウスラに問うような視線を向ける。その口振りだと裏に何かあるような感じだ。ウスラは俺のその視線に深く頷いて見せた。
 「俺たちの首に掛かっているこの紅い首飾りがあるだろ? これが大事なアイテムなんだ。この首飾りを取られたり、なくしてしまったりすると失格になるんだ」
 「これが?」
 俺は思わず、自分の首から掛かっている代物を見返してしまう。俺はてっきり大会参加章の一種かと思っていた。そんな大事なものだったとは。
 「でね。この森の中には大会運営側が放った魔法獣がうようよいる。あ、といってもそんなにレヴェルの高い魔法獣はいないよ。大会用に用意されたこの首飾りを奪うだけの魔法獣だ」
 魔法獣は知っている。スラクーヴァにごく普通にいる動物の一種だ。スラクーヴァの人間たちがごくごく普通に魔法を使えるように、こちらの動物の中にもごくごく普通に魔法を使う奴がいる。だが、そのほとんどは猛獣、モンスターの種類に区分される。なぜならそのほとんどが魔法を補食の為に使っているからだ。危険な動物なのだ。だが、この大会で放たれている魔法獣はそこまで危険なものではないらしい。こちらの世界にも遺伝子操作のようなものがあるのだろうか。その辺の細かいところは伺い知れぬところだ。
 「そんな魔法獣たちの攻撃を躱しながら大会期間一キュビア内で『杯』を探し出せば優勝。でももちろんそれは口で言うほど楽なことではないんだけどね」
 俺は頷いた。ようやく納得がいった。レイリアは説明が少なすぎる。つまり俺はその対魔法獣要員であるのと、ライバルの組と闘うための戦闘要員なのだ。
 その時、突然頭上から音もなく何かが疾風のごとく接近してきた。その気配を敏感に察知した俺はすかさず後方に跳ぶ。少し遅れてレイリア、ヤヤ、ウスラの三人も散開した。俺たちがいなくなった空間に一匹の鳥が疾り抜けた。
 その鳥は丁度鳩くらいの大きさだ。それは地上付近で羽を大きく振り上げホバリングすると、再び頭上の大空へと姿を消して行った。
 「あれが、魔法獣?」
 俺は体勢を整えつつ訊く。しかしレイリアは首を横に振る。
 「あれはメキキハヤブサね。この森に昔から住んでいる鳥よ。だけど光り物に目が無くてこうして参加者の首飾りを奪いに来るの」
 「『ラ・ウ杯の傾向と対策』に出ていたぜ」
 ウスラが訳知り顔で頷く。受験対策本みたいなものなのだろうか。
 「あれに失格にされることほど間抜けなことはないね」
 ヤヤが言葉を継ぐ。
 その時だ。すっと実に自然にとある気配が森の木々の間に隠れ込んだ。他の三人は気が付かなかったらしい。俺は静かに緊張していつでも腰の木刀を引き抜ける体勢になる。
 だが、そいつは隠れた状態のまま俺たちに襲いかかってくるのかと思いきや、大胆にも真正面からのそりと身体を表した。
 そいつは身の丈三メートルはあろうかという大型獣だった。イメージ的には熊に近い。その前足に鈍く輝く爪を見ただけでもぞっとする。これが本当に安全なのか。そしてこの上にこいつは魔法を使うのか。
 「こいつはエノベーズだ! 『ラ・ウ杯の傾向と対策』によると……」
 ウスラが何事かごたくを並べていたがそんなことはすでに俺の耳に入ってはいなかった。俺はすでに木刀を抜き取り、身構えていた。だが、それは無駄な行動だった。
 どん! という炸裂音がしてその獣は地響きを立てて後方に倒れたからだ。空気が擦過したようなきな臭い匂いが鼻の奥を刺激する。
 まさしく速攻。
 「ふう」
 レイリアがため息を付く。その戦闘は一瞬で終わった。レイリアの魔法が炸裂したのだ。
 「さっすがあ」
 ヤヤが感嘆の声をあげる。レイリアはそれに片手を上げて応じる。ちょっとまんざらでもないらしい。そして俺の方に「どう?」という視線を向ける。俺は肩を竦めた。
 抜き身の居合いのようなレイリアの魔法は面白みのかけらなど全くないが、実戦では最も効力を発揮する魔法だろう。
 呪文詠唱無しの直接攻撃魔法―――
 火炎が巻き起こったり、雷撃が放たれたりする魔法と比べると派手さはないが、自分の思った対象をタイムラグなしで攻撃出来ることの優位性はとてつもないものだ。魔法術師同士での闘いであれば、余程のことがない限り、レイリアは遅れをとることはないだろう。なぜなら普通の魔法術師は必ず呪文を詠唱しなければならず、それには十数秒の時間が必ずかかるからだ。
 恐らくレイリアは自分のその能力を長い時間を掛けて特化させたに違いない。それはたぶん自分の父親―――偉大なる魔術師ドラガン―――の名声に引けを取らぬ魔法をと考えてのことだろう。そのせいでレイリアは他の魔法の全てを犠牲にした。それで普通のスラクーヴァ人なら必ず使えるはずの回復魔法ですら、レイリアは使えないのだ。

 それから三十分ほども歩いただろうか。森の中とはいえ、元は都市なのでちゃんと道の通りに歩いていけば舗装されているので歩きにくくはない。かなり距離を進めたと思う。気候は夏の割には涼しく体力の消費も少ない。だが、この魔法獣どもの数の多さはなんだ。
 「次来るよっ!」
 レイリアの鋭い声が聞こえてきた。
 休む暇がない。これほどタイトなゲームなのか、これは? はっきり言ってこのペースで十日間も進むと身体が持たないぞ。俺のそんな感想などおかまいなしに敵は襲いかかってくる。
 敵は空から襲いかかってきた。今度はさっきのメキキハヤブサどころではない。その数倍の大きさを持った生物だ。だが、そいつは空を飛んでいるというのに、翼を持っていない。その代わりに鋭い爪を持った四肢が自由に蠢いている。
 たぶんその体躯を浮かしているのは魔法。空中浮遊魔法かなにかなんだろう。その姿は凶悪だ。とても『安全な』動物には見えない。スラクーヴァのその辺の危機感ってこっちと少し違うようだ。
 「ケニヨウルだよ! 『ラ・ウ杯の傾向と対策』には……」
 もういいよ。ウスラのその声を無視して、その空中の敵に対して木刀を構える。地上の敵と対するのと違い、間合いが取りにくい。
 レイリアが小さく呼気を発した。魔法を発動させたらしい。だが、空中に浮いているその魔法獣は慣性の法則を完全に無視したような動きで素早く場所を転じる。獣は全くダメージを受けなかった。レイリアはわずかに顔を歪ませる。
 「ち。狙い辛い」
 「私に任せて」
 ヤヤが目を輝かせて言った。そして敵が目前にいるというのにその瞳をゆっくりと閉じ何やら呪文を呟いた。
 そして―――ヤヤの姿が消えた。代わりにもう一匹、獣―――というより大鳥が現れた。後から現れたそいつは大きな翼を持っていた。俺らの世界の猛禽類を思わせるそれはいきなり遙か空中に飛び上がる。そして先に現れていた獣の頭上に位置した。
 獣は突如頭上に出現した、その大鳥に驚いたのか、あわてて不規則な動きで攪乱しようとする。だが、大鳥は獲物を狙う鷹のように頭上を旋回し、じっと動かなかった。制空権は完全に大鳥が握っていた。
 そして大鳥はいきなり急降下を始める。獣はその大鳥の攻撃を避けようと逃げ掛ける。
 その時。
 獣は空中で四散する。辺りに血液やら、内臓やら、骨やら、毛皮やらが豪快に飛び散る。俺は顔を顰める。ちょっとしたスプラッタだ。レイリアの攻撃魔法がピンポイントで炸裂したのだ。大鳥が獣を追いかけたおかげで獣の進行方向を予測出来たってわけだ。だが、突如現れたこの大鳥は一体……。
 やがてその大鳥は大きくその翼を羽ばたかせ地上に舞い降りる。そして俺は次の瞬間驚愕の光景を目の当たりにすることになる。
 大鳥は急激にその骨格や構成要素を大きく変貌させて行き、そしてそれはやがて人間の形を取りだした。ハリウッドの最新SFXでもこう上手くは行くまい。人間の顔は知った顔だ。そう、お察しの通り、ヤヤだった。
 「お見事」
 レイリアがヤヤにハイタッチをする。ヤヤは少し気恥ずかしそうにそれに応じた。
 一方、目を白黒させている俺がいる。
 「なに? それ、どういうこと?」
 傍らでウスラがにやりと笑う。
 「これがヤヤの魔法。びっくりしただろ」
 びっくりも何も。こんな事は聞いちゃいない。全くレイリアは万事に於いて説明不足だ。

 「変身能力ぅ?」
 「そう。変身能力。言わなかったっけ?」
 言ってねえよ。
 俺は心の中で毒づきながら目の前の焚き火に薪をくべる。辺りはすでに暗くなっていた。当然の事ながら森に中には照明などない。夜の森を歩くのは危険というのは次元が異なっても共通のことらしく、俺たちは少し拓けた場所を見つけ、そこで野宿することになった。立て続けに魔法獣に襲撃されこのペースで襲われ続けたらどうなるんだと思っていた心配も杞憂で、その後はぱったりと静かになり、俺たちはかなり距離を進めた。
 「ヤヤはね、生まれつきこの特殊な魔法を使えるの。ヤヤと同じくらいの大きさの生物であれば、どんなものでもその姿に変えることが出来るの」
 レイリアは焚き火で焼けた魚―――先程森に中の川で捕まえてきた―――を口に運びながら説明する。
 「特殊? 誰でも使える魔法じゃないのか?」
 俺のその問いにレイリアは目を丸くする。
 「当たり前でしょう。こんな魔法誰でも使えたら、世界中が大混乱するじゃない。これは本当に天賦の才。習って覚えられるタイプの魔法じゃないの」
 レイリアの隣に座っているヤヤは気恥ずかしそうに肩を竦める。
 「でも、この力のおかげで昔っからろくなことがないけどね」
 俺が「どういうこと?」という疑問の視線を辺りにまき散らすと俺の隣に座っていたウスラが説明してくれた。
 「ほら、何にでも変身出来るってことはさ、その気になればどこにでも忍び込めるってことでもあるわけじゃん? そういうわけで、ヤヤの能力に目を付けた、あまり良くない人間どもが何度かヤヤを誘拐しようとしたんだ」
 「まあ、でもこの力のおかげでその都度抜け出しているけどね。最近は家族やウスラやレイリアが護ってくれたりしてくれるから、そんなこともほとんどないし」
 焚き火の炎にヤヤの顔が紅く照らし出される。その表情は逐一変わる炎のせいで詳しく読み取れなかった。その顔に映し出されたのは嬉しさだろうか、寂しさだろうか、それともあきらめだったのだろうか。
 「ま、とにかく第一日目は何とか切り抜けたね。大分『杯』への距離も稼いだし」
 ヤヤは気を取り直すようにそういうと隣のウスラが持っていた本を取り上げた。
 「あ、何すんだよ!」
 ウスラが抗議の声を上げる。ちらりと本の題名が目に入った。スラクーヴァ語を読むことには不調法な俺だが、辛うじて『ラ・ウ』という文字が読み取れた。なるほど、これがウスラのバイブル『ラ・ウ杯の傾向と対策』か。
 ヤヤはその巻末に付いている地図のようなものを広げる。「この調子で行けばあと三日で『杯』のある場所までたどり着くわね」
 「この調子で行けばの話だけどさ」
 ウスラが少し不平ぎみに言う。
 「それにしても男性陣はほとんど役に立っていないよね。結局二匹の魔法獣を倒したのは私とヤヤの活躍だし。役に立ったのと言ったらウスラが火を起こしたことと、シュンスケが魚を釣ってきたってことくらいじゃない」
 俺とウスラは複雑な表情で顔を見合わせる。しょうがないじゃねえか。俺の剣の出る幕がなかったのだから。だから俺が手を出すまでも無かったほどの大した相手ではなかったとも言える。俺がそのようなことを言うとレイリアは呆れた顔で「本当、減らず口だけは達者ね」ときたもんだ。
 お前に言われたくねえや。これ以上相手になるのはやめよう。
 俺がそう思って、目の前でいい感じに焼けてきた魚を食おうと思って手を伸ばし掛けた時、背後に幾人かの気配を感じた。俺はすかさず、傍らに置いてあった木刀に手を伸ばし、身構えた。レイリア、ヤヤ、ウスラの三人もそれに気が付いたらしく、戦闘態勢を取る。
 その数人の人間たちが近づいてきた。俺は木刀を握る手に力を込める。焚き火の炎に照らされてその人間の姿が次第に明らかになる。
 「ユじゃない!」
 レイリアは声を上げた。
 そう言えば何となく見覚えがある。今日、スタート地点の広場で俺に強烈な殺意のこもった視線を投げ掛けていた男だった。そのユと呼ばれた男はパートナーである女性と、後、恐らく同盟を組んでいる他の組の四人を引き連れていた。
 ユは銀髪であった。そして整った顔立ちをしているが、その切れ長の瞳の奥に宿る光が冷徹で何か冷たい。雪上の狼。そんなイメージを想起させる感じの男だった。
 ユは俺たちを一通り見渡すと、あからさまに俺の存在を無視するようにレイリアに話し掛ける。
 「初日からこんなところでビバークか。余裕だな」
 「あんたは、どうなのよ。ペース配分無視で強行軍? ま、頑張ってね」
 棘のある言葉がちくちくと空中に放たれる。こういうレイリアは凄く心強い。味方だと頼もしいが何となくユの方を同情してしまう。
 ユはその涼しげな顔をわずかに歪めるとすかさず俺の方に視線を向けた。
 「貴様がレイリアの許嫁か」
 俺?
 いきなり俺に話が振られたので少し反応が遅れる。
 「私の代わりに選ばれたのだから、さぞかし凄まじい魔法が使えるのだろうな」
 ユは挑むようなそしてそれでいて嘲るような視線を俺に向ける。俺はその視線を真正面に受け止め、同じ質量の視線をそっくり返した。
 「魔法なんか使えねえよ」
 俺がぼそりとそう言うと一同は静まった。そして一瞬後、軽い嘲笑が俺を包む。
 「ふん、今時魔法の一つも使えない奴がいるとはな」
 俺が魔法を使えないのは当たり前なのだが、その尊大な物言いに少しむかっと来る。前言撤回。同情はなしだ。
 「試しに―――」
 瞬間、俺とユの間に疾風が走った。
 「―――闘ってみるか?」
 突然眼前に現れた木刀の切っ先にユの顔が驚愕に歪む。
 俺は全くの予備動作なしで腰の木刀を抜いていた。抜刀術は一撃必殺の神山一刀流では必修の剣術である。ユの額に妙な感じの汗が一筋垂れる。当然だろう。この至近距離、呪文を唱えなければならない魔法より剣の方が圧倒的に早い。
 「なるほど、これで理解した」
 ユは眼前の切っ先に注意を払いながら口を開いた。
 「貴様はあの伝説の剣士の息子だったというわけだな」
 ……出た。一番訊きたくないセリフがその口から放たれた。
 「レイリアの許嫁というところとその異国風の名前で気が付くべきだった。偉大なるドラガンとマサタカのジュニア同士であれば許嫁というのも納得が行く」
 「親父たちのことは関係ない」
 俺がそう言うと、初めてユは余裕を持った笑みで俺を見下ろした。
 「ふん。腕の方は遺伝していないというわけか」
 むかむかむか。俺の胸の中で黒い紐のような物が大量にこんがらがってくるのを感じる。マジでキレかかる五秒前。俺は目を眇め木刀の切っ先に神経を集中した。対するユも俺の精神的な変化に敏感に気が付いたらしく、俺の目の動きに神経を集中させている。
 辺りの空気が硬直した。
 その時。
 俺の耳にとある女の声で呪文を唱える声が聞こえてきた。
 素早く目だけを動かし、視線を走らす。正面のユはそんな余裕はありはしない。ユが連れてきた二人の男もその口を動かしていない。ウスラも同様だ。とすると、誰だ。
 ユも俺から集中を逸らす、一同はざわめく。当然だ、魔法戦に於いて先に呪文を詠唱されることほど不利なことはない。一方レイリアだけはいつでも魔法を放てるように身構えていた。心強いぜ。
 そして、しばらくしてその呪文の詠唱は終わった。辺りを静寂が包む。
 やがて、それは姿を現した。スライスした闇の隙間から顔を出すようにそれは俺たちの目の前に姿を現した。ゆっくりと。 
 「―――召還、魔法?」
 ウスラが信じられないものを見るかのように目を見開いた。
 でかい。とにかくでかい。その体躯は三メートルはあろうか。軽く俺の身長の倍以上はある。そしてその身体の色は夜の闇に溶け込むように黒い。身体に体毛はない。それが強烈な異質感をもたらしている。そしてそれが全く人間の常識の範疇外であることを示す、身体の三分の一を占める口、そして牙。
 早い話が口に身体がくっついているような化け物だった。
 「違うわ! 強化魔法の一種よ! これは術者本体だわ!」
 レイリアの鋭い声が飛んだ。
 本当かよ。こんな人間いてたまるか。
 俺がそんな感慨に耽っているのもつかの間、レイリアの直接攻撃魔法が『口』の右腕に炸裂する。右腕が四散した。しかし『口』は右腕がなくなったのにも関わらず、ゆっくりと歩を進めた。そして一瞬にしてその姿を消す。
 「!」
 一同は緊張する。だが俺の動体視力は辛うじてその動きを捉えていた。『口』は高速で俺たちの右後方に回り込んでいた。俺は叫ぶ。
 「散らばるな! 固まれ!」
 異議を唱える者は誰もいなかった。俺たち四人は互いに背を向け合わせて陣を組む。
 すると―――
 ばくん。という音がしてユの連れの一人の左腕が消えた。いや、消えたのではない。食われたのだ。『口』は咀嚼する様子も見せずに引きちぎった腕を吐き出して再び姿を消す。消える前に俺はその『口』の全身を見て取った。さっきレイリアが粉砕したはずの右腕が復活している。これも強化魔法の効果の一つなのか?
 食われた男は初め何が自分の身に起きたのか分からなかったようだ。だが、やがてあるはずの場所にない自分の左腕を何度か見返した後で、聞いた者誰もが狂ってしまうそうな程の意味不明な叫び声を上げた。
 そのとたんユのグループは恐慌状態に陥った。それは仕方がないことだろう。生まれて初めて生命の危機に直面したのだ。自分の精神を安定させることすら出来ないはずだ。
 俺たちのグループは俺が少なくとも平静を保っているように外からは見えるので、辛うじてパニックにならずに済んでいる。
 俺も自分が意外に落ち着いているので驚いている。軽く、腕や足を動かしてみる。
 大丈夫。自分の思うとおりに動く。胸の鼓動は早くなっているが不自然なほどではなく、それなりな早さだ。
 多分、これは親父に殺されかける様な訓練ばかり受けていたからだろうか。そのせいでこんな事態に陥っても落ち着いていられるのだろう。だけどこれは喜んでいいことなのか。
 と、益体もないことを考えていたら『口』は三度場所を変えて出現した。
 丁度俺の数歩前方、つまりユの目の前に現れたのだ。
 「くっ」
 ユはその彫像のような顔を歪ませたが、すでに呪文を詠唱済みだった。他のメンバーがパニくって何にも出来ないでいるのとはさすがに違う。
 ユの魔法が発動された。とたん『口』の両足はまるで空間ごとハサミで切られたように切断される。
 「出た。ユの切断魔法よ!」
 後ろでヤヤが説明してくれる。正直、感嘆のため息が出たほどの鋭い攻撃だった。今は敵に向かって行使したから良いけど、もしこれをこっちに向かってやられたら果たして避けきれるかどうか。そんなことを考えてしまったそれほどの切れ味だった。
 横に両足を真っ二つにされた『口』は一瞬、その身体を止めた。そしてそのまま倒れるかと思いきや、切断された両足は一瞬にして復元した。
 「な!」
 ユの顔が驚愕に歪む。自慢の魔法が役に立たなかったのだ。その失意は相当なものだろう。『口』は一瞬にして加速し、その姿を闇に溶け込ませるように消した。
 『口』は急激な方向転換を繰り返し、俺たちを翻弄しようとする。
 だが俺の目は完全にその軌跡を捉えていた。はっきり言わせてもらえば親父の体捌きのスピードに数段落ちる。俺はその時点で敵の底を知った。ここに来て心が完全に落ち着く。
 俺の神経は臍下丹田にぐっと集中した。そしてゆっくりと瞳を閉じる。もはや視覚からの情報など必要ない。俺の心の目、そして肌は完全に『口』の居場所を捉えている。 
 『口』は何度目かの反転を繰り返し、俺の背後に突如出現した。そして背後居たヤヤに襲いかかろうとする。恐慌状態のヤヤは立ち尽くしたまま何も出来ない。
俺はその瞬間、かっと目を開いた。
 『口』をも上回る加速力で俺は『口』とヤヤの間に割って入った。
 そして木刀を右肩の位置に構え、意識を針のように尖鋭化する。『口』は突然現れた俺に対応することも出来ない。あわてたようにその最大の武器を大きく開いた。凶悪な口内が見える。どす黒い粘膜。そして全てを切り裂く無数の牙。
 だが―――
 そんなものなどこの神山一刀流の前には無意味だ。
 「うおおおおおおおおおお!」
 俺の木刀は裂帛の気合いとともに振り下ろされる。『口』は人型動物が自然と取る防御態勢を見せた。すなわち、腕で頭を防御したのだ。だが、驚愕にその顔を歪ませるまでもなく俺の刀は腕ごとその頭を叩き斬る。
 皮膚が弾け、皮下脂肪が飛び散り、頭蓋骨が割れ、脳髄をまき散らし、背骨を粉砕し、内臓を攪乱し、腰骨を分断し―――
 俺の木刀はごりごりと大地まで振り下ろされた。
 『口』は防御することも攻撃することも出来ずに立ったまま両断にされる。だが、まだ意識はあるようだ。分割された右の目と左の目が俺の顔をバラバラに眺めている。そして右半身と左半身がそれぞれに俺を捕らえようと動き出した。だが、当然のごとくそれは上手く行きっこない。すぐにバランスを崩して大地の上にどう、と倒れる。回復する様子もない。回復するための閾値を超えたのだろう。その物体から生命の気配はすでに感じない。
 終了。
 俺は残心を取った構えのまま一つ息をつく。敵を倒すということはここまでやらねばならない。中途半端は即、死に繋がる。そういう意味でユの攻撃はまだまだ甘ちゃんだ。
 俺の後ろでレイリアが息を止めて硬直していた。
 「す、凄い」
 そうか。考えたら、実戦でレイリアに俺の剣を見せるのはこれが初めてかも知れない。
俺は浮かれるでもなく照れるでもなく、冷静にレイリアを見返した。
 「ま、こんなもんだ」
 「薄々強いとは思っていたけど、ここまでとは思わなかった」
 「見直したか?」
 「少し」
 レイリアはちゃかすでもなく素直に頷いた。素直に来られると逆に困る。俺は少し照れて視線を宙に漂わす。
 「あ」
 レイリアが声を上げた。俺はその視線の方を向く。そちらには今し方、俺が倒したはずの『口』が転がっているはずの方向だ。
 そこには先程までの『口』はいなかった。代わりに一刀両断された大型の肉食動物のようなものが居た。全身からドライアイスのような煙を立てている。
 「魔法で、怪物化させられていたんだ……」
 俺はその今まで『口』であったはずの残骸を見つめながら思考する。
 「ところでこいつらも大会役員が用意した魔法獣なのか? ちょっと危険すぎないか?」
 腕まで無くなった奴がいるし。俺は心の中で付け加える。
 レイリアは真剣な顔で首を横に振る。
 「違う。こんな危険なものが出てくるわけない。これは異分子よ。大会とは関係ないわ」
 「ということは、こいつは一体何の目的で俺たちを襲ってきたんだ?」
 「さあ」
 レイリアが首を傾げたその時、
 「きゃあああ」
 空間を切り裂くような悲鳴が上がった。ヤヤの声だった。
 「しまった!」
 こちらに気を取られ過ぎた。まさか別働隊がいるとは思わなかった。
 ……というか、なぜ、俺たちをそうまでして襲うんだ?
 ともかくも俺とレイリアはヤヤの元に駆け寄ろうとした。
 ヤヤの目の前に女がいた。赤毛の長い髪の女だった。ウスラは何をされたのか赤毛の女の足下で昏倒している。赤毛の女はヤヤに詰め寄っている。ヤヤは怯えた表情で後ずさった。辺りを見回すと、ユも倒れている。ユの仲間は相変わらずのパニック状態で役に立たない。俺たちがヤヤの元に駆けつけるにはわずかに間に合いそうにない。
 「ヤヤ! 変身してっ!」
 レイリアが叫んだ。ヤヤはそれに頷いてすかさず瞳を閉じ、精神を集中する。その時、赤毛の女の口元に笑みが浮かんだのは俺の見間違いだろうか。
 ヤヤの姿は次の瞬間消え、そこにはネコ科の肉食動物を思わせる俊敏そうな小動物が現れ掛けた。だが、その瞬間、赤毛の女は何かを抱き締めるようなジェスチャーをした。ヤヤは「ひっ」とひきつった声を上げその身体を止めた。変身は人間から小動物へ変わりかかった中途半端なところでストップする。
 おかしい。今、何かが起こった。まるでテープの逆回しを見ているような感じでヤヤは人間の姿に戻っていく。そしてばたりと倒れた。気を失ったのだ。
 「ヤヤ!」
 レイリアが叫んだ。そしてお得意の直接攻撃魔法を叩き込もうと精神を集中させ掛けた。
 俺は見た。またしてもその瞬間、赤毛の女がにやりと笑うのを。
 俺は猛烈に嫌な予感がした。
 「レイリア! やめろ!」
 「え?」
 俺の制止にレイリアは戸惑ったような顔で見返す。すると赤毛の女は「ち」と舌打ちをして、脱兎のごとく反対側の森の中に駆け込んでいった。
 「待ちなさいよっ!」
 レイリアは再び魔法を放とうと身構える。
 「だから、やめろって!」
 俺はレイリアの腕を掴んで強引に制止する。
 「なんでよっ! 逃げられちゃうじゃない!」
 だが、俺はそれには答えられない。首を横に振る。ただ単に嫌な予感がするというだけだったからだ。
 「もう!」
 レイリアはそんな俺に腹を立てて、ぷいと先に行ってしまう。
 もうすでに赤毛の女の気配は感じない。遠くへ逃げられてしまったのだろう。レイリアはあわててヤヤの元に駆け寄って行く。そしてその身体を抱き起こした。
 「ヤヤ! 大丈夫?」
 ヤヤはわずかに呻いた。そしてゆっくりと瞳を開ける。
 「……レイリア」
 ヤヤは弱々しく呟く。
 「どうしたの? 途中で変身をやめちゃったりして。それに何もされなかった?」
 ヤヤは首を振った。
 「力が入らない。身体の中心が抜かれたみたいな気分……」
 「本当? 大丈夫? ヤヤ!」
 レイリアはヤヤの身体を激しく揺さぶる。ヤヤがそれに対して不平を言うとレイリアはあわててその手を離した。
 「まさか……」
 ヤヤは自力で、だがよろよろと起きあがった。そして瞳を閉じて何やら精神を集中する。何かに変身しようとでも言うのか? だが、その姿は一向に変わる様子を見せず人間の姿のままだ。ヤヤは目を閉じたまま天を仰いだ。
 「ああ」
 そして肺の中身の空気を全て吐き出すようにため息を付く。
 「何? どういうこと?」
 レイリアはその憂いを帯びた瞳で心配そうに問いかける。だが、ヤヤはそんなレイリアの杞憂など全て払拭するような屈託のない表情で言った。
 「なくなっちゃったみたい」
 「え?」
 「私の魔法」 
 


三章 一

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