作 山下泰昌
序
「ただいま戻りました」
タゥアは片膝を立てて男の前で礼をした。
男は鷹揚に頷いて微笑み掛ける。だが、その微笑みでさえも醜悪に見えるのはなぜだろう? タゥアはそんなことを思いながら顔を小さく上げた。
男の傍らにはやはりタゥアと同じく紫色の布を首に巻きつけている白髪の男がいた。
「して『皮膚』はどうなった」
「は、この通りに」
タゥアは何やら呪文を唱える。そして身体の中から何かを放つかのように両の腕を広げた。とたん、何か凝縮された密度の濃い物が男の身体に入り込んで行く。
男はかっと目を見開いた。
「これが『神の皮膚』か!」
男の傍らに佇んでいた白髪の男が口を開いた。
「ウゥ様。早速使ってみてはいかがですか」
ウゥと呼ばれたその男は嬉しそうに、そしてゆっくりと立ち上がる。
「だが、まだ手に入れたばかりだからな。使い勝手が悪いかもしれん」
そして瞳を閉じた。誰にも教えられたわけでもないのに自然と呪文が口をついて出た。
次第に中年の男がその姿を変えていく。
そして、タゥアの目の前にもう一人のタゥアが現れた。
本物のタゥアはそれを眉を顰めて見た。これもまた醜悪。目の前には自分と寸分違わぬ姿の女性が立っている。
見たくない。こんな女見たくない。
タゥアは思った。その汚れきった瞳。淫らな口元。今まで何人の血を吸って来たか分からないその手。
こんな女見たくない。
タゥアは目を背けた。するとその目の前のタゥアは「どうだ?」とタゥアの声で訊いてきた。一瞬、驚く。声帯さえも真似るのか、この『神の皮膚』は。
返事は訊くまでもなかった。タゥアのその表情を見るだけで十分だった。
次の瞬間、二人目のタゥアは消え、元の醜悪な中年男に戻った。すなわちウゥだ。
「やはり慣れぬせいかあまり長い間は出来ぬな」
「ですが、『皮膚』を手に入れたことは大きいですな。これで最難関の『神の頭脳』の奪取に大きく近づいたわけです」
白髪の男のその言葉にウゥは大きく頷く。
「我らにはすでに『目』がある。『目』と同時に『頭脳』を手に入れること。それは世界を統べることを意味する」
ウゥは目前のタゥアをしっかりと見据える。
「その為にはタゥア。お主の力が必要だ。次で全てが決まる。期待しておるぞ」
「は」
タゥアは低頭してそれに応じた。
「して次の策は」
「うむ。次はこの『皮膚』を使わざる得ぬだろう。私が直々に行かねばならぬ。タゥア、お主はヴァドーツの近くで待機せよ。頃合いを見計らって私が『足』で『頭脳』を連れ出す。そこで盗むのだ」
「御意」
だが口ではそう言いつつも、タゥアは白けた目で佇んでいた。しかし、それを悟られないように頭は従順にも低頭したままだ。はっきり言えばこの男が神になろうとなるまいと自分には関係ないこと。
そしてその頭の中では別のことを考えていた。私がこの男と出会ったのはいつであったかということを。
それは今から十年前。まだタゥアが十二歳の時だった。戦乱で荒廃しきっていた都市、ハイエルクでタゥアは暮らしていた。両親は戦争で一年前に亡くなっていた。唯一の肉親となった兄も数日前、疫病で死んだ。だが、タゥアは力強く生きていた。それは日々の貧しく、そして厳しい生活の中からふと身につけた魔法のおかげだった。
タゥアはその魔法を『盗人』と呼んだ。
その魔法は敵の魔法を奪い取る事が出来る。それがどんな強大な魔法であろうともだ。それはすなわち戦闘に於いて強力なアドバンテージを生むことになる。タゥアはその身につけた魔法のおかげで生命の危機を何度か乗り越えていった。
だが、その無敵に思えた魔法にも唯一の欠点があった。それは盗んだ魔法を自分で使うことは出来ない、ということだった。盗んだ魔法を自分ではない第三者に渡すことは出来る。だが自分で使うことは出来ない。しかし、それでも自分の魔法を疎ましく思ったことはない。対魔法戦では敵の魔法を無効に出来るだけでも有効なことだからだ。それにこの少し無意味な部分のある魔法も自分らしいと思っていた。この何をやっても上手く行かない自分の人生のように、と。
そんなある日、タゥアはハイエルクの中心を流れる川の土手の上を逃走していた。屋台の売り上げを店主の目をかすめて盗んだのだが、折悪しく強烈に右足首を捻ってしまったのだ。悪性の捻挫であった。靱帯を損傷し、軟骨までひびが入っていた。当然のごとくタゥアの逃走速度は鈍り、追っ手は急速にその距離を縮めてきた。相手は棍棒を持っている。タゥアの魔法は魔法戦では圧倒的な力を発揮するが、物理的な攻撃には全くの無力だ。
タゥアは右足を引きずりながらその顔を絶望に曇らせた。その時。
「助かりたいか?」
土手の道ばたに乞食のように寝ていた男が声を掛けたのだ。その乞食はどうしても強そうには見えない。それに何か起死回生の強力な武器を持っているわけでもない。タゥアは精神の錯乱した乞食の戯れ言だとは思ったが、追いつめられている精神的な圧迫感と右足首の激痛でつい、その問いかけに答えてしまった。
「助かりたい」と。
乞食は大きく嬉しそうに頷くとのそりと立ち上がった。そして言った。
「契約成立だ」
何を悠長なことを言っているのだ、この男は。早くしないと追っ手が追いついてきてしまう。タゥアがそう危惧していると、その通りに追いつかれてしまった。乞食はその棍棒を持った男の前に立ちはだかる。
「なんだ、てめえは。こいつの仲間か」
その男、屋台の店主の怒りの形相にも動じずに乞食はにこやかに笑みを浮かべていた。
「いいや、違う」
「なら、道を明けてもらおう。お前さんには関係ないこった」
「いいや、関係はあるんだな」
店主は怪訝な表情で乞食の顔を見返す。
「やっぱり仲間なのか?」
しかし乞食はそれには取り合わず、勝手に話を続ける。
「今、私と会話したね?」
「なに?」
「私が訊いてお主が答える。お主が訊いて私が答える。これでお主との因果が出来た」
気が触れているのか? 店主は乞食のあまりに意味不明な言動にそう考えた。そしてその考えは「こいつは相手にしないことにしよう」という結論を導き出した。自明の理だ。幸い、目的の女盗人は足を怪我しているらしく少し先をのろのろと逃走中だ。すぐにでも追いつける距離だ。店主は前に立ちはだかる乞食の身体を避けて、先を行こうとした。
その時―――
「お主は、あの女を捕まえられない」
乞食がはっきりとした口調で言い放ったのだ。
何を莫迦なことを。店主はそう思いつつ、先を行く女を追いかけようとした時、急にその気持ちが萎えてくるのを感じた。
別に捕まえなくても良いんじゃないか? 女が持ち逃げした金など端金だ。そんなものは明日一日頑張ればまた稼げる。見逃しても良いのではないか?
そんな言い訳が心の中から次々と沸いてくるのを店主は感じていた。
そしてあわてて「捕まえるんだ!」という強い意志を起こそうと努力する。だが、その意志は数瞬後には風に吹き飛ばされたようにどこかに消えてしまった。
どうしたことだ。目の前にいるこの女を捕まえなくても良いなんてことはあり得ない。だけど、捕まえる気がどこかに失せてしまったのだ。
店主は道ばたに四つん這いになり、自分の頭がどうかしてしまったかと思い、勢い良く首を数度振る。だが、店主の頑張りもそこまでだった。やがて店主は諦めたように立ち上がるととぼとぼと元来た道に帰って行ってしまったのだ。
足首を引きずりつつ逃げていたタゥアはその様子を目の当たりにして目を白黒させた。
乞食はそんなタゥアに嬉しそうに近づいてきた。
「どうだ? 助かっただろう?」
タゥアは呆然と乞食を見上げる。
「一体、どうやって……」
乞食は口元に醜悪な笑みを浮かべて口を開いた。
「これで因果が出来たな」
この乞食こそが、『神の身体』の一つ、『神の口』の持ち主であり、『神なる宝珠』教祖であるウゥ=オドナルフその人であったのだ。野心を持った『神の身体』の持ち主が盗人魔法のタゥアと出会った。これが運命の歯車が掛け違った瞬間でもあった。
一
「ふああ」
俺は人目もはばからずでかい欠伸をした。
眠い。圧倒的に眠い。
それというのも睡眠不足の上にかなりの肉体労働を強いられたからだ。俺は構わず、もう一つ欠伸をする。
「おい、仮にも『道場』なんだぜ。少しはわきまえろ」
隣で本山が胴の肩紐を結びながら咎めた。
「悪い、悪い」
俺は垂紐を慣れた手つきで結びながら素直に謝る。
あの後俺は、ヤヤたちを無事家に送り届けたり、向こうの魔法警察の事情聴取を受けたりと、何だかんだで不眠のまま約一日拘束された。結局『ラ・ウ』杯は棄権することになった。当然だろう。自分のチームではないとはいえ、けが人を一人出して、魔法の行使不能になったものが二人も現れたのだから。
二人? そう二人だ。ヤヤだけでなく、ユも魔法が使えなくなってしまったのだ。あの戦慄の切断魔法が、だ。ユの落ち込み様は尋常じゃなかった。その力に絶大な自信を持っていて、しかもそれがアイデンティティだったのだから、それも尤もだろう。
そして『本』でこちらの世界に戻ってきたのが今日の朝の六時。そこからあわてて登校して当然の事ながらそこから六限全て爆睡。そして終了のチャイムが鳴って早々と帰ろうとしたところを本山に捕まって剣道部の練習に参加している、とこういう訳だ。
ったく、レイリアの頼みを聞くと結局こういうことになるんじゃねえか。俺は欠伸をかみ殺しながらそう思った。火吹きカエル、街のチンピラ、山で遭難に引き続きこの事件は俺のレイリア伝説の中に深く刻み込まれることになるだろう。
しかし、悔いが残る。
俺はあの後のことを思い出した。
「ごめん」
レイリアは申し訳ないような、悔しいような複雑な顔でヤヤに深々と頭を下げた。俺もその脇で一緒に頭を下げる。
「ごめん」
「いいって、気にしないでよ」
対するヤヤは自分の部屋のベッドで横になりながらそんなレイリアに語りかけていた。 「でも」
レイリアは少し涙ぐむ。
ヤヤは優しい笑みを口元に浮かべてレイリアの涙を拭った。そしてゆっくりと口を開く。
「正直な話、実は少しすっきりしているんだ」
「え?」
レイリアは思わず驚いた目でヤヤを見返す。
「私ってさ。昔っからああいう人とは違った能力を持っていたせいで変な目で見られていたじゃない? 人前に出ても見せ物みたいにされたり、学校に行っても冷やかされて友達もレイリア以外あまり出来なかったし。正直言って、あの力を持っていて苦痛だった」
「でも」
「あの力を持っていて良いことがあったことなんて一度もない。それに悪いヤツらに狙われたことも今回が最初じゃないのよ。知っていると思うけど、もっと小さい頃何度か誘拐されかかったことだってあるの」
「……」
「だからね、今回、力が盗られたのって、神様が私の願いを叶えて下さったんじゃないかって思っているの。だってはっきり言ってこの力から逃れられるなんて死ぬ以外無いんじゃないかって思っていたところだったんだから。自分は生きることが出来て、しかもこのいらない力だけなくなって。私にとって今回の事件は最高の結果を引き起こしたわ」
ヤヤが晴れ晴れとした顔でそう語っていてもレイリアは疑わしい表情を隠そうともしなかった。ヤヤは言葉を捕捉しなければならなかった。
「別にレイリアやシュンスケを気遣って言っている訳じゃないの。心の底からそう思っているのよ。分かってくれるかしら。それに……」
ヤヤは破顔して言葉を続けた。
「レイリアやシュンスケが私を助けようとしてくれたこと、それが何よりも嬉しいわ」
とぼとぼと家路に付くレイリアは肩を落としたまま、一言も口を利かなかった。
普段が口うるさいだけあってこういう沈黙は非常に気まずい。
しゃあない。俺の柄じゃないけど、ここは慰める場面だろう。俺はレイリアの肩にぽんと優しく手を置いた。
「ヤヤもああ言っていたじゃねえか。そりゃあ、護りきれなかったのは残念だけどさ。あれは心底嬉しがっているぜ。結果オーライだよ。元気だせよ」
「うん」
レイリアはそう頷いたが、それは反射的に返事しただけだ。その証拠に相変わらず肩を落としたまま、俯いている。
「それとも『ラ・ウ』杯を途中棄権したことを悔やんでいるのか? 年齢制限は十八歳だろ? ってことは来年もあるじゃねえか。これから一年、今以上に力を付けてまた頑張ればいいだろ?」
「うん」
そう言いつつもレイリアは俯いたままだ。俺は天を仰いだ。俺に出来るのはここまでだ。これ以上の慰めの言葉なんて出てきやしない。大体、柄じゃないんだ、こういうの。
「私、友人失格ね」
ぼそりと突然レイリアが呟いた。
「だって私、ヤヤが自分の変身能力であんなに悩んでいるなんてこれっぽっちも考えたことなかった。小さい頃から十年以上も一緒に遊んでいるのに、そんなこと考えたことも無かった」
「……ヤヤはきっとそんなこと思っていないよ」
だがレイリアは俺のそんな言葉を訊いちゃいなかった。
「私なんてヤヤの友達の資格無い! だから今回だって護りきれなかったんだ!」
「レイリア……」
俺はその背中に掛ける言葉を見つけられなかった。
それでも何か言葉を捻り出そうと頭を巡らしているとレイリアは「ごめん。勝手言って悪いけど、一人にしてくれる?」と消え入りそうに呟いた。
「……また来るよ」
俺は何のレイリアの助けにならない自分に自己嫌悪に陥りながら、それだけの言葉を残すと、『本』が安置してある部屋に足を運んだ。
そして俺は『日本』に帰ったんだ……。
俺は自分の若さに腹が立った。そして経験の無さに腹が立った。俺がもう少し度量があって大人だったら、レイリアを元気づけさせてやることが出来たのかも知れない。
大人? 俺の頭に一瞬、親父の姿が過ぎった。親父だったら、こんな時、どうしたんだろうか。きっと含蓄のある言葉でも投げ掛けてやったに違いない、いや、それ以前にヤヤを完璧に護衛したに違いない。あの天賦の才を持ってすれば。
俺は首を横に激しく振った。そして気合いを入れるように両頬を自らの掌で叩くと、手早く面を装着し始めた。
やめた。こんなこと、ぐだぐだ考えていると鬱になって来る。今は、目の前の事に集中しよう。そう、『剣道』に。
C一高の剣道部は総勢六名。しかし、今日は俺を除いて四名しか練習に参加していない。俺を含めた五人が防具を装着したのを見計らって、二年で部長でもある浜崎晋平が言った。
「今日は人数も少ないし、新メンバーの神山も初参加ということだから地稽古にしよう」
俺たちは頷いた。そして本山が近寄ってくる。
「よう、俺とやろうぜ」
「え? いきなりか?」
「あたりまえだろ? お前の古くせえ剣術を高校剣道で通用するように直さなくちゃならねえんだから」
そうだな。今日は身体を慣らす意味でもたくさん地稽古をした方が良いのかも知れない。
俺は了承の意味で蹲踞した。
「そうこなくっちゃ」本山もそれに合わせて蹲踞をし互いに竹刀の剣先を付き合わせる。
そして裂帛の気合いを発して一斉に立ち上がった。
本山は高校剣道標準の正眼の構え。ヤツの切っ先は俺の喉元を狙ったように動かない。対して俺はゆっくりと竹刀を直立に立てて、右肩の辺りで固定した。
「八双かよ」
本山が呟く。正確に言うと蜻蛉の構えなんだけど、まあいいか。
そしてゆっくりと俺の右へ、右へと旋回した。俺も身体を小刻みに動かしてそんな本山に正対する。本山は俺の回りを旋回しながら次第に焦りを感じてきたようだ。面の奥の微妙な表情からもそれは推測出来る。俺に隙の一つも無いからであろう。当たり前だ。隙なんぞ、見せるか。隙を見せたら最後、親父の剣が俺の身体を切り刻む。
その時、本山の剣先が沈んだ。右足が今にも切り込まんばかりに踏み込んでくる。だが、その踏み込みはわずかに小さかった。フェイントだ。俺は瞬時にそう判断する。俺に隙が無いので向こうから動いて能動的に隙を作ろうっていう魂胆だ。
だが、俺は敢えて、そのフェイントに乗ってやった。フェイントを掛け終えて、自ら崩した体勢を整えるべく右足を元に戻そうとした本山のその動きに合わせて、俺はすっと前に出た。本山は突然、間合いを詰められて狼狽する。当然だろう。とりあえず高校生にはこんなタイミングで間合いを詰めてくるヤツはそうそういないはずだ。本山はあわてて俺に斬りかかってくる。しかし、それは苦し紛れの一打だった。完全な死に体だ。身体を一度引いた所で再び打って出た打突が有効打になるはずがない。
俺は余裕を持って竹刀を上から下へ振り下ろすだけで良かった。
俺の竹刀は完璧に本山の左肩を捉え、そのまま下まで斬り下ろす。焦げ臭い匂いが鼻についた。俺の竹刀と本山の面紐が擦過し、焼き切れた匂いだ。
決まった。
もしこれが実戦なら本山は袈裟懸けに左肩から心臓にかけて両断されているはずだ。
一撃必殺。これが神山一刀流だ。
本山は俺に斬られた状態で硬直している。左肩を押さえて片膝を付いている。だが、俺もある程度手加減したので鎖骨までは行ってないだろう。
「ば、ば……」
本山は俺の方を向き、何事か言いかけた。
「ん?」
「この、大莫迦野郎おおおおお!」
本山の跳び蹴りが俺の顎に見事にヒットした。
げふう!
「あのなあ、競技剣道じゃあ、面か小手か胴か突き垂れのどれかに竹刀を当てないと一本にならないの!」
「でも俺は確かに『斬った』」
俺はカップラーメンをすすりながらふてくされて言う。
ここは学校帰りのコンビニエンスストア。練習後の剣道部はここに立ち寄るのが日課らしい。郷に入りては郷に従えだ。俺も彼らと一緒に食い物を物色していた。
あの後、数度本山と剣を交えた俺は十回に三回は防具の無いところを攻撃してしまった。ガキの頃の地獄の特訓が身体に染みついてしまっているのだ。これこそが頭で理解していても身体が言うことが効かないってやつだ。
「斬らなくてもいいの! 肩なんかに竹刀を当てても何にもならねえんだよ!」
「おかしな話だよな。敵を斬り倒すための剣道が『斬らなくて』も良いってんだからよ」
「そんなごたくはいいんだよ! せっかく立ち会いが抜群に良いんだから、素直に竹刀を面に当ててくれ!」
本山はソフトクリームを舐めながら言う。そんな本山に俺はふてくされながら言葉を返した。
「努力するよ」
本山は天を仰いだ。
「こりゃ試合で使えるようになるには、まだまだ時間が必要だぜ」
二
「ただいま」
そんなこんなで寄り道をしていたせいか家に帰宅したのは夜の八時だった。俺が玄関にカバンと竹刀入れを投げ出して靴を脱いでいると、台所の方からお袋がぱたぱたとスリッパを鳴らしてやってきた。
「俊輔? ビーバスちゃんが見えているわよ」
「ビーが?」
俺は怪訝な顔でお袋の顔を見上げる。
「そう。俊輔が学校に行くのとほとんど同時くらいに見えたの。何かレイリアちゃんから伝言なんだって。今、麻菜の部屋にいると思うから行ってらっしゃい」
レイリアからの伝言?
一体、何だろうか。はっきり言って全く想像が付かない。『ラ・ウ』杯に再エントリーされたのだろうか。それともヤヤの魔法が元に戻ったのだろうか?
俺は慌ただしく階段を駆け上がり、俺の向かいにある麻菜の部屋の扉の前に立った。
そしてノックもせずにその扉を開けようとしたその時、扉の向こうから何やら妙な感じの話し声が聞こえてきた。俺はぴたりと動作を止め、いけないこととは思いつつも思わず扉に耳を付けそばだてた。
すると麻菜の今まで聴いたことのない様な甘い声が聞こえてくる。
「ああ、もう。駄目だったら。乱暴にしないで」
「あ、ご、ごめん」
「もっと、やさしくしてくれなくちゃ駄目。デリケートなんだよ?」
……ちょ、ちょっと待て。何やってんだ、ビーと麻菜は。
「……どう?」
「うーん。合格」
「……あの、俺。やっぱり良く分からないからさ」
「大丈夫。教えて上げるから。じゃあ、まずレッスン1」
「うん」
「ここに人差し指を置いて。それで……そう。そこが中指ね。で中指を動かしてみて」
……なんだろう? 何のレッスンだ? しかし麻菜もビーの前ではお姉さんなんだな。
……。
いや、そんなことを俺は言いたいのではない!
問題は麻菜がビーにその『何か』を教えるほど経験豊富でしかも二人がその『何か』をしようとしているってことだ!
しかし扉の前でいろいろ聞いてしまったせいで逆に部屋の中に入りづらくなってしまった。だが、このまま若い二人を早すぎる大人の世界に突き進ませてしまって良いものか。
……いや。それは良いわけない。俺だってまだ、そんなことしていないんだから。
「こほん」
俺は扉の前で大げさに咳払いをした。とたん、部屋の中が静かになった。それからおもむろに扉をノックする。
「ええと、あの俺だけど、中に入っていいか?」
「良いわよ。いつも勝手に入ってくるのに、変なお兄ちゃん」
もう少し取り繕った返事が来るかと思いきや、意外にあっさりと返事が返ってきた。
もう準備出来たのかな? と妙な邪推をしつつ俺は麻菜の部屋の扉を開けた。
「ああ! もう駄目だなあ。そんなに乱暴にキーボードを叩いたら駄目だって言っているじゃない!」
「ご、ごめん」
「ほら、マウスを動かして。そうそう。それで右クリックね」
「右クリックって……中指を動かせば良いんだよね?」
「うん。段々分かってきたね。じゃあ、次はレッスン2かな?」
俺は呆然とその光景を見て立ち尽くしていた。麻菜とビーはパソコンの前に仲良く並んで座っている。
「な、何やってんの?」
「何って」
麻菜は振り返りながら得意げに言った。
「ビーにパソコンの使い方を教えているところよ」
「あ、そう」
俺はへなへなとその場にへたり込む。
はいはい。分かっていました。そんな気はしていたんだよな。
「で、結局何の用なんだって?」
俺が床の上に胡座をかいて座っていると、麻菜の横でイスに座り俺を見下ろす格好になっているビーは「そんなこと知るかよ」と鬱陶しそうに言った。
俺はむっとする。
「伝言しに来て、『知らない』ってことはないだろうが」
俺がそう咎めるとビーは目を逸らして口を尖らし気味に言った。
「本当だって。だって姉ちゃん俺に何にも説明しないんだぜ。『ビー、向こう行ってシュンスケを呼んで来て』しか言わねえんだもん」
なるほど。それは大いにあり得る話だ。
「だけど、大体どんな話かってことは分かるんだよね?」
麻菜が小首を傾げてビーに訊いた。ビーは「う、うん」と顔を真っ赤にして頷く。何だ、こいつ。俺に対する態度と麻菜に対する態度が大違いだぞ。
「父さんが姉ちゃんに何か仕事を手伝ってくれって頼んでいたんだ。だからきっとその関係だと思う」
「ドラガンおじさんが?」
ビーは頷く。
ドラガンおじさんの仕事に関わることって一体なんだろう。あ、そう言えば、『ラ・ウ』杯に出る前に確かおじさん王宮に呼ばれたって言っていたな。その関係か。でもそれになぜ、レイリアはともかく俺まで呼ばれるんだろう?
「とにかく早く行けよ。呼ばれてんだからさ」
ビーが面倒くさそうに顔を顰める。
俺も同じく顔を顰める。ビーの物言いには腹が立つが、確かに行ってみないことには話が始まらない。『本』を使ってから十二時間が経過しているから、もう大丈夫か。
俺はデイパックと竹刀入れを取ってくる為に部屋を出ようとする。その時、ふと思った。
「ビーは帰らないのか?」
「だってまだ十トゥム経ってないじゃん。俺はこっちで一泊してから帰るよ」
……何か心配だな。俺は一言釘を刺しておくことにする。
「いいか、麻菜。例え親しき仲とは言え、ある程度節度を持った付き合いをだな」
「何言ってんの? 変なお兄ちゃん。お父さんみたい」
げ。よりによって親父に似ているかよ。俺は天を仰いだ。
荷物の準備をした俺は階下に降りていった。一階の台所にはお袋が炊事をしている。
俺はスラクーヴァに行って来る旨を伝え、戻ってくるのはいつになるか分からないとも伝えた。
「分かったわ。いってらっしゃい」
しかし、そのあまりにあっさりし過ぎる返事に逆にこっちが心配になる。
「……あのさ、一応俺、明日学校なんだけど。平日だし」
するとお袋は片目を瞑って「大丈夫よ。学校にはお母さんが言って置くから」と付け加える。ああ、どこの親が息子が学校をサボることを応援するってんだ。
だが、確かにレイリアのことが気になるのも事実。俺は「頼むよ」とだけ言うと竹刀入れだけを掴んで足早に奥の書斎へと向かう。
ばん、と扉を開けると相変わらず部屋は埃臭い。俺は一直線に奥の机に向かっていった。そしてその上にある豪華装幀の分厚い本を開く。開いて最初のページを覗き込んだとたん、いつもの膨大なイメージとメッセージが俺の頭の中に飛び込んで来た。
俺の頭の中は真っ白になり意識が跳ぶ。そして俺の身体もスラクーヴァへと跳んだ。