冒険に行こう! 

第四章  神斬り

作 山下泰昌


                             一
 俺の木刀はレイリアの首を確実に捉えていた―――
 ―――はずだった。
 ほぼ同時に叔父さんの右拳もレイリアの鳩尾を深く抉っていた―――
 ―――ように見えた。
 だが、そのどちらの攻撃もレイリアの身体の数センチ手前で止まっていた。俺の右手は木刀を通して、何か見えない壁に阻まれたような感触を感じていた。レイリアは左手を自分の顔の前にかざしていた。
 「それが『神の左手』か。『目』以外の『神の身体』は初めて見る」
 姫は驚きもせずにその様子を眺めていた。
 「なぜ分かった」
 突然レイリアの声が男の声になった。そのあまりの違和感に俺は背筋に冷たい物が走るのを感じる。
 「レイリアは雷撃魔法なんぞ、使わん」
 おじさんが静かに怒りを溜めながら語る。そして俺が言葉を続ける。
 「回復魔法もな」
 そのレイリアに化けた何者かは顔を歪めさせる。誰だか分からないが頼むからレイリアの顔でそういう表情をするのはやめて欲しい。
 「この世に回復魔法すら使えない魔法術師がいるとはな」
 レイリアに化けた男はそう言って、小さく別の魔法を唱え出す。
 「来るぞ!」
 おじさんが怒鳴った。俺は自分の頭上に妙な気配を感じて横っ飛びに逃れる。とたん、ずどんと見えない何かが、今まで俺が居た場所に振ってきた。硬質の石材で造られていた床はとたん、隕石が墜ちた後のクレーターの様にひしゃげる。これも魔法か? いや、これがきっと『神の右手』なんだろう。俺はその破壊力を目の当たりにして気を引き締める。
 「姫様!」
 コロニアがいつの間にかレイリアと姫の間に壁のように立ちはだかる。だが姫はイスから立ち上がりもせずに冷静に口を開いた。
 「全ては予測範囲内だ。どうだ、ドラガン。言った通りだろう?」
 「は。返す言葉もございません」
 おじさんはレイリアから気を逸らさないままそう頷く。何だ。どういうことだ、それは。
 まさか、これは敵を引っかけるための罠だったのか。レイリアを囮にしての罠なのか?
 「ま、魔法陣が張ってある……」
 ウスラが室内を見回して言った。俺はその視線を追う。今の『神の右手』の打撃により床に敷かれていた絨毯が引き裂かれていた。だが、その下には巨大な魔法陣の一端が見て取れた。結界だ。この敵を逃がさない為の結界だ。
 姫は目を急に細め、静かに言った。
 「捕らえよ」
 とたん、コロニアが呪文を唱える。そして人差し指をレイリアに向けた。
 閃光が走った。
 何かが空気を焦がす匂いが辺りに漂う。
 驚くべき光術系魔法。文字通り光の早さで飛来するその攻撃を避ける術は人間には無い。だが、レイリアは『神の左手』でそれを辛うじて遮っていた。
 「く、こんな結界ごときなど。『神の足』をなめるなよ!」
 怒りの形相でレイリアはまた何か別の呪文を唱えた。そして空間を切り裂くようにして、その姿は消え去った。後に残った魔法陣は強引にその効力を消された為かずたずたに切り裂かれていた。姫は座ったままの姿でため息を付く。
 「ドラガン。追尾紋は付けたか?」
 「抜かりはありません」
 なんだ? 追尾紋って? 俺がそんな視線を投げ掛けているとおじさんは懐から奇妙な図形の描かれた紙切れを取りだして見せた。
 「この紋章は特殊な魔法の波を発していてな。後からどこに逃げたかを追跡することが出来るのだ。さっき奴に攻撃を仕掛けた時に同時に取り付けた」
 「『目』を呼べ」
 姫はコロニアに命令する。
 「すでに待機しております」
 すかさず、コロニアは部屋の外の従者に指示を下す。すぐに数名の男たちが部屋に入ってきた。
 「我がスラクーヴァが誇る遠隔透視魔法術師たちだ。もちろん『神の目』には劣るがな、それなりに役だってくれている。さ、今し方放った追尾紋はどこにいるか視よ」
 『目』と呼ばれた男たちは皆一様に床の上に結跏趺坐で座り、その瞳を閉じた。やがてその内の一人が口を開く。
 「……遠い。遠いです。まさかこんなところまで跳ぶわけは。まさか」
 「ごたくは良い。どこに居るのかだけを答えよ」
 姫の叱責に別の『目』が答えた。
 「ベドニア山脈の麓の村、キシオです。ここから三ベシオ離れております。ただ、今まで跳躍魔法術師が一ベシオ以上跳んだ例はございません」
 三ベシオというと、ええと十キロくらいだな。ということはここからそれほど離れているわけではない。
 「『神の足』だからな。ただの跳躍魔法ではない。それと、その程度は予測範囲内だ。コロニア」
 姫は再びコロニアを呼んだ。コロニアは姫の足下に歩み寄り傅く。
 「やはりキシオだ。確定した」
 「教団でしたな」
 「第六北部方面軍と第八近衛隊は?」
 「すでにキシオの南、一ベシオに待機中です」
 「よし、コロニア。現場に急行せよ。お主に今回の作戦の全権を預ける。二大隊を動かし、教団を殲滅せよ」
 「御意」
 「ドラガン」
 「は」
 「お主もコロニアと同行せよ。そして『神の身体』を根絶せよ」
 「は」
 「そして恐らく、お主の娘御はそこに囚われておる」
 「……」
 「救出してくるのだ」
 おじさんは深く頭を下げた。
 「ところで」
 突然、姫は口元に何かを企むような笑みを浮かべておじさんを手招きした。その瞬間、姫は年齢相応の普通の女性に戻ったかのようだ。
 「ドラガン。お主に私のとっておきの予測を授ける」
 そして近づいたおじさんの耳元に何事か囁く。二人はその間、ちらちらと俺に何度か視線を送った。
 なんだ? 俺に関する予測なのか? それだったら俺に話せばいいじゃないか。
 俺が怪訝な顔で二人を眺めていると、ドラガンは眉を顰めた。
 「まあ、それ相応な力はあるとは思いますが……しかし……。まあ『祝福』の言葉として受け取っておきましょう」
 「ふん。素直でないな」
 姫は腰に手を当てため息を付いた。そして俺の方を向き、こう言い放った。
 「さ、マサタカの息子よ。お主の活躍、期待しておるぞ」

 コロニアは現地に赴くためにすでに退室している。部屋にはあれほど破壊されたというのにイスに悠然と座っている姫と俺、そしておじさん、ウスラだけが残っていた。
 ウスラは事態のあまりの急展開に付いていっていないようだ。戸惑いの視線をおじさんに投げ掛けている。
 「ウスラ。お主はここまでだ。一人でラ・ウには帰れるな?」
 ウスラは放心状態でおじさんに言われるがまま頷いた。
 次におじさんは俺の方を向く。
 「シュンスケ」
 あいよ。俺は木刀を腰に佩き直し、頷く。
 レイリアの救出戦だ。ここからは恐らく厳しい闘いが始まる。命の獲り合いになるのかも知れない。気合いを入れ直さなくてはならない。俺はごくりと唾を飲み込む。
 だがおじさんはそんな俺の意気込みを見事に挫くような言葉を放った。
 「シュンスケ、お前は残っておれ」
 「え?」
 俺は仰天する。
 「ちょ、ちょっと待てよ! 俺もレイリアを助けに行く」
 だがおじさんは辛そうに首を横に振る。
 「駄目だ。ここからは血で血を洗う凄惨な闘いになる。そんな所にまだお前をやるわけにはいかん」
 「そりゃあねえよ!」
 俺は憤った。そして言いたくはないが、これを大きな理由付けで使わせて貰う。
 「レイリアは仮にも俺の許嫁だ。自分の妻を旦那の俺が護らなくてどうする!」
 おじさんは嬉しそうな、だがそれでいて悲しそうな表情をして頑固に首を振った。
 「駄目だ。これは自分の娘を囮に使ってしまった父親が責任をとるべきことなのだ」
 「……ってことは、やっぱりレイリアを囮にしたんだ」
 おじさんは息を深く吐き、小さく首を横に振る。
 「いや、とりあえず部外者を何人かヴァドーツに引き込むのが姫の作戦の一つだった。敵は『神の皮膚』を使用して来ると推測していたのでそれら全部に網を張っていたのだが、まさか自分の娘が狙われるとはな」
 そしておじさんはおもむろに背負い袋の中から何やら取りだした。それは本だった。豪華そうな装幀の本だった―――
 『本』!
 おじさんは俺の目の前でそれを開く。幾何学的な文字が次々と俺の頭の中に飛び込んでくる。駄目だ! このままでは跳んでしまう!
 「ちょ、ちょっと待ってくれ! 汚ねえよ、おじさん!」
 俺はあわてて目を閉じた。だが時はすでに遅し。俺の頭の中に水の様に言葉が流れ込んでくる。極彩色のイメージが溢れ出してくる。次第に目の前のおじさんの姿が薄れだした。
 「すまんな、シュンスケ。無事、この戦が終わったらまた会おう」
 おじさんはそう言って寂しそうに笑った。
 「くそったれえええ!」

                             二
 そして俺は自分の家の書斎に居た。
 畜生! あのくそじじいめ!
 俺は心の中で悪態を付くと、書斎から飛び出してとある部屋に足早に向かった。途中の廊下でお袋とすれ違う。
 「あら? もう帰ってきたの?」
 俺はそれには答えず、ずんずんと更に突き進む。
 俺の目的地は親父の部屋だ。一度『本』を利用して跳躍してしまうと、同じ人間がその『本』を再び利用するためには十二時間経たなくてはいけない。その間にレイリアたちが無事でいてくれればいいが。気がはやる。だが、俺はその心を落ち着けた。こんな何にも出来ないところで焦ってもしょうがない。焦って貴重な時間を無駄に過ごすくらいなら、その時間で今の俺に出来ることをやるだけだ。つまり十二時間後のための準備だ。
 俺は親父の部屋の前までたどり着いた。この時間帯であればまだ親父は帰ってきていないはずだ。俺はノックもなしに勝手にその部屋の扉を開けた。
 そして突き当たりの押入を開くと、その奥にある細長い包みを取りだした。
 これだ。お目当ての物は。
 俺はその包みをするすると外す。すると中からは白木の木刀が現れた。これが親父がスラクーヴァで数々の伝説を生み出した木刀だ。スラクーヴァの神木から切り出したと言われるこの一振りはまさしく名刀の名が相応しい。
 「その刀に何のようだ」
 冷徹な言葉が俺に投げ掛けられた。まるで冷たいナイフを背筋に突き立て、すっと筋に沿って引かれたような気分だった。俺は恐る恐る振り返る。
 「親父」
 この部屋の入り口に立っていたのは俺が一番恐れていた人物。神山一刀流免許皆伝であり、スラクーヴァで数々の伝説を残してきた男、神山正隆。俺の親父だった。
 痩身の親父はスーツに身を包んでいたが、その視線でだけで敵を切り伏せてしまうような眼光で俺を睨み付ける。
 「私の息子はいつから盗人のまねごとをするようになったのだ?」
 親父は一歩部屋に足を踏み入れる。その一歩で俺と親父の間にある空気は数倍にも緊張する。暑くもないのに俺は滝のように汗をかきだした。
 親父の身体は自然体だ。いつでも攻撃出来る体勢だった。実際俺は刀も持っていない親父の姿を見ただけで数種類の攻撃パターンを想起した程だ。だが、親父はきっとそれを何倍も上回る攻撃のヴァリエーションを持っているのだろう。いや、逆か。親父くらいの達人になると攻撃方法は一つだけかもしれない。そう神山一刀流の本質、一撃必殺だ。
 「レイリア。レイリアが危ないんだ。助けに行くんだよ」
 俺は懇願するような瞳で親父を見る。だが親父は俺のそんな想いなど拒絶するような冷たい視線でまた一歩、俺に近寄った。
 すでに親父の間合いだった。この距離からだったら親父はいつでも俺を切り伏せられるはずだ。親父は素手なのに、そんなことを思ってしまう。
 ……俺だっていつまでもやられる訳にはいかない。俺はすっと立ち上がった。そして親父に向かって正対する。
 「……」
 親父は顔色も変えずに俺の正面に立った。
 「貴様は未だに神山一刀流がなんたるかを理解していないようだな。そんな棒きれごときに頼る気か。敵と戦うのは木刀ではない。お前自身だ」
 俺はぐっと呻いた。その通りだ。親父の言う通りだ。俺は心の弱さをこの神木の木刀で補おうとしていたのだと思う。
 「だけど、それのどこが悪い」
 俺は視線を逸らしながら呻くように、辛うじて声を絞り出した。背中を嫌な汗が流れる。
 「木刀一つで弱さが補填されるのならそれはそれでいいじゃないか」
 だが親父は俺の目をしっかりと見据えたまま首を横に振った。
 「心の弱さは剣筋に迷いを生む。神山一刀流でその迷いは致命的だ」
 そして親父は悲しそうな目で俺を一瞥するとくるりと振り向いた。無防備な親父の背中ががら空きになる。だが、当然その背中からもとてつもない威圧感が放たれていた。
 「俊輔」
 親父は俺に背中を見せたまま、俺の名を呼んだ。
 「人を斬る時はな」
 言葉を一度切る。そして吐き出すようにその後を続ける。
 「身体でなく、心を斬れ」
 俺は親父の後ろ姿を見ながら、はっとした。そして思い出していた。
 親父が最後に俺に神山一刀流を教えた日のことを。

 俺は親父から中学三年の時、つまり二年前まで毎日のように神山一刀流の壮絶な特訓を受けていた。学校へ行く前の早朝の素振りはもちろんのこと、帰宅後、基本打ちや実戦稽古を受けていた。何度も言っている通りそれは凄まじいものだった。毎日、俺はどこかに傷をこさえていた。神山一刀流免許皆伝の親父がそれこそ本気で打ち込んでくるのだ。それは当たり前だ。
 そんなある日。そう、それはやっぱりこんな残暑の厳しい初秋だったと思う。俺と親父は家の庭で、互いに木刀を構えて立ち会っていた。
 道着だけで互いに防具など付けていない。技が決まればどちらかの肉体が損なわれる。そんな練習だった。
 親父の鋭い気合いと眼光を受けつつも、俺はそれと同等の気合いでもって押し返していた。双方ともに打ち込まず、立ち会っているだけですでに五分ほどが経過していた。だが、俺の額からはだらだらと汗が滴り落ちる。端から見るとただ立っているだけのように見えるが実は互いに隙を狙って剣先で高度な駆け引きを何度も繰り返しているのだ。激しい精神疲労が俺の体力を徐々に奪っていく。だが、親父はそんな苦闘など表情にも見せずに俺の隙をシビアに狙ってくる。いや、親父の場合は実際にそんな精神的な疲労などしていないのかも知れない。
 と、額の汗が俺の右目に入った。手で拭くわけにはいかない。かと言ってそのままにしておくわけにもいかない。俺は一瞬、右目を瞑った。その時―――
 ――親父が俺の右側から深く潜り込んで来た。背筋がそそけた。俺の瞑った右目の死角を完全に突いて来た。親父の姿、剣先は全く見えない。だが気配や動きはある程度捕らえることが出来る。すでに機先は親父に取られている。ならば後の先の技で斬り伏せるのみ。
 俺は恐らく下段から斬り上げられるであろう親父の剣の軌跡を予想して同じく右下段から木刀を斬り上げた。しかしそれは剣道のように敵の木刀をすり上げるだけの技ではない。すり上げつつ敵の脇腹から心臓を斜めに斬り上げるための必殺の技だ。
 俺はある程度の手応えを感じていた。このタイミング。このスピード。この反応。今までにない切れ味を感じていた。初めて親父に一太刀を浴びせかけることが出来る。
 瞬間、そんなことを思っていた。
 だが、俺の剣は空を切っていた。
 なぜ? 俺の心の中にそんな疑問が浮かぶ。次の瞬間、俺の左脇腹に激痛が走った。俺の肺の中の空気が一気に吐き出される。
 逆だ。てっきり死角の右から斬りかかってくるのかと思ったのに、親父は逆を突いてきたのだ。さすがだった。
 俺は脇腹を押さえ片膝を突いた。たぶん肋骨が何本かやられている。呼吸するのが苦しい。俺は痛みに堪えながら親父を見上げる。
 親父は俺から間を取り俺のことを鋭い目つきで見つめていた。すでに構えは解いている。
 「今、何をした」
 「え?」
 親父の詰問するような問いに俺は思わず訊き返す。
 「何をしたって……親父の木刀をすり上げざまに切り上げようと」
 「そうじゃない」
 親父は首を横に振った。多量の汗がその拍子に飛び散る。今、気が付いた。汗なんかかいたところを見たことがない親父の額に汗が滴り落ちている。
 「今、何を斬ったか? と訊いている」
 「何をって……」
 俺は言葉に詰まる。親父の身体を斬ろうとしたんだけど、結局空を切った。ただそれだけだ。何にも答えられるわけがない。
 俺が返答に窮していると親父はため息をつくように言った。
 「意識してやったわけではないようだな」
 そして飛んでもない一言を言い放った。
 「もう一度だ」
 「え?」
 俺は唖然とした。今までのパターンだと、俺が怪我したところで稽古は終了のはずだった。完全に左脇腹から左胸にかけてダメージを受けているこの状態で稽古をしたって何の役にたつわけがない。
 俺はそういうことを問うような目で言った。
 だが親父はゆっくりと首を振る。
 「駄目だ。もう一度だ」
 俺の不満は爆発した。それは俺が親父に反発した最初で最後の時だった。
 「もう、嫌だ!」
 俺は木刀を投げ捨てる。親父は投げ捨てられた木刀を見つめながら咎めるような目で俺を睨む。
 「やってられっか、こんなの! 何の役に立つわけでもない剣術を毎日毎日。おまけに身体中をぼろぼろにして! こんな生活している友達はいない!」
 「他人は関係ない。お前はお前だろう」
 「だから何だって言うんだよ! 俺は止める。もう稽古はしない!」
 俺は親父の鬼のような瞳に真正面から睨み掛かった。捨て身だった。死ぬつもりで親父に挑んでいた。しばらく俺のその刺すような視線を受け止めていた親父だが、やがてすっと視線をそらすと背を向けた。
 「勝手にしろ」
 そして親父は屋内に入っていった。
 俺はその後ろ姿を呆然と見つめていた。まさか、こんなあっさり親父が引き下がるとは思わなかったのだ。
 それ以来俺は親父とはほとんど会話をしていない。そして神山一刀流の稽古も付けて貰ったことはない。だが、俺はなぜか一人で神山一刀流の修行を続けていた。

 十二時間が経った。
 『本』の前に居る俺が居た。
 今度はすでに木刀を腰に佩いていた。そしてスラクーヴァ製の軽くて動きやすい革製の胸当てを身につける。木刀は親父の木刀ではない。俺が普段から使っている方の木刀だ。親父の言葉を鵜呑みにしたわけではないが、考えたら、慣れ親しんでいる木刀の方が闘いやすいに決まっている。試しに一度振ってみる。
 うん。しっくりくる。こちらが正解だ。
 「俊輔。気を付けてね」
 お袋が俺の背中に声を掛けた。そして麻菜もそれに続く。
 「お姉ちゃんを必ず助けてね」
 「まかしておけ」
 俺は背中を向けたまま右手を上げてそれに応じた。
 そして真剣な顔を正面に向けたまま、俺はおもむろに『本』を広げた。

                             三
 小賢しい金属音がその両手首から聞こえてくる。その両手を縛している手錠には鍵穴がない。魔法により錠がなされているようだ。魔法によって掛けられた鍵は開錠の魔法か、もしくはそれを上回るような魔法でしか外すことは出来ない。それは恐らくレイリアの攻撃魔法で壊せるはずであった。沈黙の魔法がかけられているこの部屋でも、呪文が必要のないレイリアの魔法であれば大丈夫だ。だが、性急にそれを実行に移すことは避けていた。
 なぜなら例えこの手錠を外したとしても、今度はこの部屋から抜け出なくてはならない。そして幾人もの見張りが居るこの建物から脱出しなくてはならない。その為にはこの段階で切り札を見せてしまうことは賢明ではない。
 チャンスを待とう。
 レイリアはそう考えて余分な体力を使わないように部屋の隅で膝を抱えて座っていた。
 部屋はのっぺりとした石材で囲まれた無味乾燥な部屋。窓はなく、唯一の外界との接点である扉には鉄格子がはめられ、鍵が掛かっている。いわゆる牢屋という奴だ。
 レイリアは思い返していた。自分がどのように攻撃されたかを。
 それはラ・ウからヴァドーツへ向かう馬車での旅の中途でのことだった。ラ・ウとヴァドーツを結ぶ中継地点で俊輔、ウスラ、レイリアの三人はめいめいで休息を取っていた。そして持参した水筒の中の水が減っていることに気が付いたレイリアは他の二人から離れて井戸まで水を汲みに行ったのだ。
 その時に、事件は起こった。予兆も気配も何も無かった。突然、短い呪文が聞こえ、レイリアの目の前が暗くなったのだ。
 それがごくごく初歩的な『睡眠魔法』だと気が付いたのはこの獄房の中で目が覚めてからだった。
 レイリアには自分が一体、どういう理由で拐かされたのかを知る由もない。だが、自身に身の危険が迫っていることは分かっていた。
 レイリアはチャンスを待つ。
 廊下から足音が聞こえてきた。レイリアの身体は緊張する。チャンスが訪れたのかも知れない。その足音はレイリアの獄房の前で止まった。そして鉄格子越しに中を覗き込む。
 「食事よ」
 女の声だった。レイリアはその声で初めて自分が腹を空かしていることに気が付いた。
 その赤毛の女は鍵を開けて中に入ってきた。その手に持たれた盆にはスープのような物が入ったお椀が載せられている。
 チャンス?
 レイリアはその瞳の奥で好機を伺う。だが赤毛の女は一度たりともレイリアから視線を逸らさずにいた。
 ―――隙がない。
 レイリアは額に汗を滲ませつつ即座に諦める。
 駄目だ。次の機会を待とう。
 赤毛の女はレイリアの前にことりと椀を置いた。
 「食べた方がいいわ。毒など入っていないから」
 赤毛の女はそう言ってレイリアの瞳を覗き込む。レイリアはその目を見る。悲しげな目だった。
 赤毛の女の言葉に疑心暗鬼ながらも頷き、レイリアは椀に口を付けた。中に入っているスープは暖かかったが、あまり旨い代物ではなかった。
 「たぶん、あなたはすぐに解放されると思うわ。戦略的に重要でないからね。でも……」
 赤毛の女はそう言って諦めたように目を瞑り、忌々しそうに言葉を捻り出す。
 「……後でここに来る男と『会話』をしては駄目。絶対に話し掛けられても答えては駄目よ。分かった?」
 レイリアは胡乱な表情で赤毛の女を見返す。
 この女は一体、何を言っているのだろうか。助言? それとも罠? しかし罠にしてはあまりに不自然だ。そして言葉に真摯な思いが込められている。
 レイリアは戸惑いながらも頷いた。赤毛の女はその様子を見て嬉しそうに微笑む。
 「いい? 絶対よ。決して会話しては駄目……」

 軍勢は隊列を組んで待機していた。
 少し小高い丘からその様子を見ていたドラガンはその光景に思わず感嘆していた。
 第一列の大きな盾と突槍を持った重装歩兵部隊。第二列は剣をかざした攻撃的主力部隊。そして第三列に攻撃魔法部隊。
 高々新興宗教教団ごときにこの本気の軍勢は少しやりすぎのような気もした。だが、それだけヴァドーツが、そして姫が『神の身体』を恐れているという証拠でもあるだろう。
 「まもなく、戦端を開く」
 ドラガンの隣でコロニアがまるで独り言のように呟いた。
 「教団の本拠地は背後片翼を岩場に囲まれた歪狭な場所だ。逃げ場がないので恐らく勝敗は一瞬で付くだろう」
 「そうだといいがな」
 ドラガンのその言葉にコロニアは鋭い視線を向けた。
 「教祖―――ええと、ウゥと言ったかな―――の『神の身体』、侮れないぞ。特に最強の攻撃力を誇る『神の右手』は難敵だ」
 ドラガンがそう言うとコロニアは嘲るように口元にひねた笑みを浮かべる。
 「伝説の魔法術師とは思えない言葉だ。貴様は『神の身体』などというものを本当に信じているのか」
 そして頭を振って言葉を続ける。
 「そんなものはあるわけがない。幻想だ。単なる特殊な魔法であるだけだ。姫様があまりに心配なさるが言う通りにしておるが、本来ならこんな軍勢も必要ないところだ」
 ドラガンは落ち着いた表情で諭すように言葉を返す。
 「いろいろと経験していると信じられないことが次々と起こるんでな。例え、あり得ないと思っても、心のどこかに『もしや』という考え方を残しておくのは悪いことではない」
 コロニアは胡乱な視線を浴びせる。ドラガンはその視線を軽く受け流した。
 「では私は別働隊として動かせて頂く」
 「勝手にしろ。だがこちらの作戦の邪魔はするな」
 「そちらこそな」
 
 また廊下から足音が聞こえてきた。
 レイリアは瞳を閉じて身体を横たえ休めていた。いざという時の為の体力温存だ。レイリアは目だけを開けてその音に反応していた。
 足音は二つだった。その二つの足音は扉の前で止まり、そして金属音を立てて鍵を開けると室内に進入して来た。
 一人は先程の赤毛の女だった。もう一人は中年の男だった。いかにも俗物そうな濁った瞳と薄汚い皮膚に嫌悪感を持った。
 「こんなところに押し込めて済まんな」
 男は少しも済まないといった表情はしていなかった。そしてにっこりと笑う。笑い顔も醜悪だ。レイリアは心の中で顔を顰めた。
 「ウチは宗教道場でな。獄舎のように見えるここも実は修行施設の一つなのだ。気にせんで欲しい」
 それは絶対、嘘だ。レイリアは心の中でそう断言する。
 「ところでお主、あの伝説の魔法術師、ドラガン=アルケムスの娘だそうだな」
 レイリアは沈黙している。頷きもしなかった。それは返事もしたくないからで別にさっきの赤毛の女の言葉を信じたわけではない。
 「だがドラガンの娘のくせに回復魔法も使えないそうではないか」
 余計なお世話よ。
 レイリアは心の中で毒づく。ふと男の後ろにいる赤毛の女に目が行く。その表情は「そう。決して返事しては駄目」と言っていた。
 「ここで修行していってはどうかな? 回復魔法くらいすぐに唱えられるようになる」
 全く言葉を返そうとしないレイリアに男は少しの焦燥の色も見せずに言葉を続ける。
 「ところで、何と言ったかな? あの伝説の剣士マサタカの息子は」
 ぴくり、とレイリアの身体が反応した。男はその反応を嬉しそうに眺める。
 「奴はとても伝説の剣士の息子とは思えんな。姫様に謁見してその美貌に鼻の下を延ばしておった」
 え? とレイリアの唇がその形を取った。だが辛うじて言葉は発していなかった。男は畳みかけるように言葉を続ける。
 「それに、そなたが囚われているというのに、助けにも来ないで自分の国に帰ってしまった。無責任な男だ」
 自分がその発端を造っているのにも関わらず、そんなことは棚に上げてウゥは俊輔を糾弾した。
 「嘘!」
 レイリアは遂に言葉を発した。赤毛の女は絶望に顔を歪ませる。
 「そんなの絶対嘘よ! シュンスケはそんな男じゃない!」
 ウゥはにやりと顔を歪ませた。そして呟く。
 「返事をしたな」
 「え?」
 「言葉を返したな」
 「な、なんのこと?」
 レイリアは切れ切れに言う。
 「これでお主と因と果が出来た」
 「これでお主と繋がりが出来た」
 にやりと醜悪にウゥは顔を歪める。
 「これで『契約』が結ばれたのだ」


四章 二

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