Blue Heven ブルーヘヴン (前編)
作 山下泰昌
空は限りなく青かった。
あまりにも青過ぎるというのも白々しく感じる。
三輪キヨノブは左右にせまる黒い樹木の間から、晴れ渡る空を見上げて、そ
んなことを思った。
三輪は嘆息をもらし、視線をその空から自分の足下に向けた。
今は山道を登っているのだ。上を見ている時ではない。
一歩先、一歩先を見て登るのだ。それが長い上り坂を歩くコツだ。
背負っている荷物が歩く度に肩に食い込み、腰に佩いた剣が金具にぶつかり
耳障りな音を立てる。
だが、その苦労も終盤にかかっていた。坂の斜度は次第に緩やかになり、
ゼロになっていたからだ。つまり峠である。
三輪はそこで歩を止めて、一息ついた。
眼下には盆地が広がり、そこに広がる村が一望出来る。
森林に囲まれた中にぽっかり拓けた赤茶けた土地。
点在する家屋。
そして、あちらこちらに立ちのぼる人々が昼食を炊いでいる証拠である煙。
三輪はやっとたどり着いたという感慨を胸に、盆地に向かって軽やかに下り
だした。下り坂が上り坂よりつらいという話を良く耳にするが、三輪にとって
は、やはり圧倒的に下り坂の方が楽だった。
何よりも目的地が目で見えるので、精神的に楽だった。
三輪はあきらかに先ほどまでとは違う、かなり高揚した精神状態で歩を進め
ていた。
しかし、その瞬間、三輪は歩を止めた。
背後に人の気配を感じたのだ。人が動く時に発生する衣擦れの音と幽かな呼
吸音が背中で如実に感じられた。
さほどその手のことに、敏感でもない三輪にも分かるほどであった。
瞬間的に三輪は振り向く。
「あ」
突然三輪に振り向かれたその人物は間抜けにも、そう呟いた。
それは子供だった。
少女だった。
薄汚れた服を着て、髪も短く、顔もいささか泥まみれで少年のようであっ
たが、身体から発せられる雰囲気は紛れもなく齢12,3歳くらいの少女であ
った。
三輪とまともに目が合い、あわてたその少女は数瞬後、道の片側の森の中に
逃げ込んだ。
三輪はため息をついてその様子を見送った。もとより追いかけるつもりなど
なかったからだ。だいいち追いかけたからって何になるのか。別に危害を加え
られた訳でもなく、この地の情報が欲しいわけでもない。
三輪はしばらく少女が消え去った方の森の木々を見つめた後、きびすを返して
あらためて峠を下りだした。
峠を下りだして二十分も経過しただろうか。坂の傾斜も緩やかになってきて
足にかかる負荷が軽くなり出した頃、三輪の視界に二人の男が入ってきた。
二人の内、一人は身の丈二メートルはあろうかという大男で、もう一人は
小柄だが、着ている物が張り裂けんばかりの筋肉を有していた。
だが、二人とも明らかに身体のバランスが妙だった。
大男の方は隻腕で、肩の位置が少し胸の方によっている。小男の方は前述し
た通り筋肉質ではあったが、それは上半身のみで足はまるで枯れ枝のように
細い。
二人は道の両端に分かれて三輪を待ち受けていた。
三輪は二人の訝しげな視線に怖じ気づきながらも近づいていく。
「待て」
大男がなまりのあるくぐもった声で言った。なまってはいるが一応標準語だ。
二人は三輪の進行方向に身体を入れて立ちふさがる。
三輪は気丈に二人の顔を睨み付けると、懐に腕を入れて一枚の丸まった
羊皮紙を取り出した。そして二人の鼻先に突き出す。
二人はその紙に刻されている印を一瞥すると、三輪を胡散くさそうに見直し
た。そして小男の方が言った。
「少し待て」
三輪はため息をついた。
郷に入りては郷に従え、だ。
三輪は道ばたの座り心地の良さそうな岩の上に腰を下ろし、一服を始めた。
「奇特なお方もいたものだ」
長老は独り言のようにそう呟いた。
三輪は村の中心部にある木造の邸宅内に案内されていた。案内された、とい
う表現は少し語弊があるかも知れない。連行された、と言う方が正しい表現だ
ろう。と言って良いほどかなり、荒々しく、そしてぞんざいに扱われた。
三輪はその邸宅内にある炉端の前に連れて行かれた。そこには白い顎髭を長
くたくわえた1人の老人がいた。三輪を連行した人間の話によるとそれが、こ
の村の長らしかった。
三輪は先ほどの羊皮紙を再び懐から取り出した。
長老はそれを受け取り、うやうやしく紐解くとその文面をゆっくりと読みとっ
ていった。三輪はその様子を見ながら口を開いた。
「ご挨拶が遅れました。『王立歴史編纂所』から参りました王立学芸員の
三輪キヨノブと申します」
長老はその挨拶を聞いているのか聞いていないのか、慣れた手つきで炉端に
掛けている鍋から何かの汁を自分の皿に注ぎ、
「腹は減っておるか」
と三輪に聞いた。
「いえ」
三輪は即座に答える。
長老はそれに反応すらしないで、皿に汁を注ぎ終わるとおもむろにそれをすす
り出した。
「昼食をまだとっていなかったので、失礼して食べさせてもらうよ」
「どうぞ」
三輪は表面では平静を装っていたが、自分の用件が何一つ伝えられない為、
実はかなり苛立ち始めていた。
三輪は心の中で方針を切り替えつつあった。多少強引に話を進めることに。
「それでですね、今回、私がこちらに来ることになったのは」
「国王の命令か?」
急に強い口調で長老が問いただした。
「いえ・・・。私一個人の研究のためでして」
「・・・そうじゃろうて」
長老はひとしきりすすった皿を床に置いた。
そして前述した言葉を紡ぎだしたわけである。
「奇特なお方もいたものだ」
と。
王立歴史編纂所でこの国の歴史や地理を研究している三輪は古書を解析し
ている時に偶然とある記録を目にしたのだ。
それは今から約百年前の歴史家の坂口伸司の手記であった。
それによるとこの地方には他とは完全に交流を絶った村があり、そこの住人
は皆、尋常あらざる姿をしていると。そして更にこう続いている。
「その村が他の村と交流を絶ってまで隠すのはその最奥部にある洞窟である。
その洞窟には古代国家より貯えられし遺産があり、この村はその遺産を守る
ために作られたのだ。そしてその洞窟の美しきこと、まさしく天上のものかと
見紛うばかりである。洞窟を構成している氷柱にその古えからの遺産が発する
光が青く映え、それは『蒼き宝石』とでも形容出来ようか。いや、そんな陳腐
な言葉ではこの美しさの十分の一も表現できない。この洞窟まるごとがまさし
く天界のようである」
と。
この記述を読んだ三輪は居ても立ってもいられなくなった。
古代国家の遺産。
その遺産をひたすら守り続ける村。
そして『蒼き宝石』とまで形容されるその美しき洞窟。
それは三輪の好奇心と探求心を十二分に刺激した。
その村の研究の許可を取るまであちらこちらの部署に書類がたらい回しにされるので
約一年はかかるのだが、それだけの価値はあると三輪は踏んだ。
そして実に二年越しで今、その地にたどり着いたのだ。
「それで、私はその古代遺産が守られているというその洞窟をぜひ、拝見し
たいのです。何卒、見学の許可を頂きたいのです」
三輪は必死であった。せっかくここまで来て、目的の洞窟も見られずに帰って
はどうしてあれだけ苦労したのか分からない。
三輪は両手をついて頭を下げた。
もはやプライドの問題ではない。研究対象にたどり着けるか、着けないかが
問題なのだ。
頭を下げながら、三輪の頭脳はすでに断られた時の算段まで始めていた。
断られたら無断で潜入する。
言葉には出さなかったが、三輪の瞳にはその決意の光がありありと放たれて
いた。
長老はそんな三輪をあきれた目で見る。
「ふん。古代遺産か。物は言い様じゃな」
「えっ」
「国王からの許可証が出ているのでは断る訳にもいくまい。誰か案内してや
れ」
長老はそう言うと鈍重な動きで立ち上がると奥の部屋へ消えていった。
三輪はそれ以後、長老と会うことはなかった。
「初めまして。私が管理を担当している鏑木と申します」
長老と入れ替わりで現れたのは、小柄な中年男性だった。
その鏑木と言う男は、人の良さそうな笑顔を絶やさない腰の低い男であった。
この男があの伝説の古代遺産を管理しているのか。
三輪は自分の想像していた管理者のイメージとの差に軽い衝撃を受けた。
鏑木は丁寧な物腰で三輪を長老の邸宅から連れだし、村の中を進み始めた。
坂口氏の報告の通り、村人達はほとんどが異形の姿をしていた。
体毛がないもの。単眼なもの。腕や足が一つしかないもの。また逆に多いも
の。
姿が異形なのは、別に構わない。今の時代そのような人間が大半だ。
だが、村人達のこの無気力さは何であろう。
その瞳には光が見受けられない。
その緩慢な動きからは希望が感じられない。
村人達は恐らく、とある化け物に食らわれているのだろう。
『絶望』という化け物に。
だが、『絶望』の原因は何なのか、三輪には分からなかった。
そもそも外部との交流を遮断しているこの村で、外部の人間である三輪の姿
を見て、奇異に思わないのが不思議であった。
否。ただ一人だけいた。
ただ一人だけ、立ち止まり、じいっと三輪を凝視している者がいた。
それは、見覚えのある少女だった。
大木の陰からほんの少し顔を出してこちらを見ているだけであるが、記憶力
の良い三輪にはそれが誰であるか即座に理解した。
峠であった少女だ。
三輪はその少女に軽く微笑みかけた。
少女はそれに気付くと、真っ赤になって大木の陰に完全に隠れてしまった。
「こら、リサ!こんなところで何をやってる!」
鏑木がそう怒鳴るとーーーといってもかなり優しい口調ではあるがーーーそ
の大木の陰に隠れていた少女はおずおずと姿を現した。
「仕事はどうしたんだ?今はまだ休憩時間ではないだろう?」
リサと呼ばれた少女は鏑木にそう詰問され、こくんと頷く。
その状況にしばし唖然としていた三輪に気が付いた鏑木は一瞬で破顔した。
「ああ、すいません。私の娘でしてね。ほら、こちらに来なさい」
リサは恐る恐る歩を進め、鏑木と三輪のところまでかなり時間をかけて辿り
着いた。
「この通り好奇心は旺盛なんですが、人見知りをする方でして。ほら、ご挨
拶をしなさい、王立歴史編纂所からやってこられた三輪さんだ」
リサは目も合わせようともせずに頭を申し訳なさそうに下げると、きびすを
かえし、すぐに村の雑踏の中に消えていってしまった。
「はは。すみませんねえ。無愛想な娘で」
「いえ」
三輪はそれだけ言うと娘の消え去った方をしばらく眺めていた。
「こちらです」
二人は村のはずれまで来ていた。村のはずれは荒れ地で、赤茶けた土が剥き
だしになっていた。草木はただの一本すら生えていない。次第に上り坂になっ
ていて先を行く鏑木は慣れた歩みですいすい進んで行く。
かなり健脚な方である三輪ですら着いていくのがやっとであった。
しばらくすると、道は急に平坦になりとたん目の前に巨大な洞窟が口を開い
ていた。洞窟の入り口の手前には小さい掘立小屋があり鏑木はその中に入って
行く。
「さあ、こちらへ。ここで洞窟に入る準備をするのです」
準備?
三輪が不思議そうな顔をしていると鏑木は瞬時にその意味を悟った。
「ああ、この洞窟はそのままでは入れないのです」
小屋の中に入ると三輪はその壁一面に掛けられている奇妙な服を見て興奮し
ていた。
これは、確か坂口氏の記述にあった、『聖なる服』ではなかろうか。
村の儀礼の一種でこの『聖なる服』を着込まないことには洞窟の中には立ち
入ってはいけないのである。
「さあ、この服を着て下さい。ちょっと難しいのでお手伝いします」
服はかなり重くごわごわしていた。色は乳白色だが、著しく汚れている。
つなぎの様な服で足下から首まで1つになっていた。何重にもなっている
ファスナーやボタンを全て留めると服の内部が肌に密着して暑苦しい。
「そして最後にこれを被って下さい」
奇怪な形の面が手渡された。顔の全面部が透明な材質で出来ており、その他
の部分は服と同じ材質で覆われている。
それを被ると暑苦しさは数段に増した。
「さ、行きましょう」
鏑木はそう言った。
しかし、三輪は良く聞こえなかった。
鏑木は苦笑し己の面を三輪の面にくっつけた。
「聞こえますか?」
面の材質が振動して三輪の耳に鏑木の声が聞こえてきた。
三輪は頷いた。
鏑木は面の中で笑った。
「いいでしょう。では行きますか」
ついに洞窟の中に足を踏み入れた三輪は緊張した。
洞窟の中は薄暗かった。
壁のくぼみに一定間隔で松明が焚かれているが、まるで役に立っていないか
のように暗い。
途中、三輪達のような格好をした人間と何回かすれ違う。
彼らは、鏑木の姿を確認するとみな黙礼してどこかへと消えていった。
この遺跡内で働く作業員なのだろうか。
かなりの時間、洞窟内を進んだ。
だが、『蒼き』光を発する遺産も、それを反射するという氷柱も現れてこな
い。
鏑木がどんどん奥に進んで行くところを見るとどうやらそれは更に奥らしい。
三輪は分厚い服を着込んで非常に歩きにくい状態ながらも、必死に鏑木に
着いていった。そもそもうっかりすると前後すらも分からなくなるような洞窟で
はぐれたらそれこそ生死に関わるような気がしたからだ。
だが、服の中を汗でびっしょりにして、先を行く鏑木の後ろ姿だけを見失わない
様に必死だった三輪も数分後ついにへたりこんだ。
面を着けているせいで息苦しいのもその原因である。
鏑木はそんな三輪に気付きもせずどんどん前に行く。
かまうものか。どうせ1本道だ。呼吸が整ったらまた歩き出せばいい。
鏑木からはぐれるという危機感と自信の身体の疲労を天秤にかけた結果、
三輪は危機感をあっさり捨てた。
しかし、息は落ち着いてきたが気分が良くなる様子は一向になかった。
顔を覆っている面のせいだった。この面が発生させている閉塞感とそれによ
る息苦しさは尋常ではなかった。
三輪は面を外したいという衝動にかられた。
しかし、自分では外せない構造になっているらしく、三輪がいくら面の接続
部分に手をやっても外れる気配はなく、そのとっかかりすらも掴めない。
三輪は苛立ってきた。
そして立ち上がる。
こんなことさっさと終らして、外の新鮮な空気を早く吸ってやる。
三輪の足は鏑木が消えた洞窟の奥へと向けられた。
その頭からは古代の遺産のことなどすでに消えかけていた。
知的欲求は本能的欲求に駆逐される傾向にある。
三輪はかすれた思考の片隅で一瞬、そんなことを思った。
鏑木は洞窟の途中で待っていた。良い感じに張り出している岩に座っていたが、
三輪の姿を確認するとすぐに立ち上がって近づいて来た。そして三輪の面と自
分の面を接する。
「さ、行きましょう。もうすぐですよ」
面の振動で鏑木の声が聞こえてきた。
三輪はうんざりした顔で頷くと、踵を返した鏑木の後を再び着いていった。
三輪は前傾姿勢で鏑木の足だけを見つめて歩くことにした。
これが先を歩く人間をペースメーカーにして着いていくためのコツである。
何だか今回の旅は、こういう地味な苦労が多い。
三輪はそんなことを疲れた身体とは離別している頭で考えていた。
と、その時、突然、鏑木の足が止まった。
前を行く鏑木の足しか見ておらず、しかも余計なことを考えながら歩いてい
た、三輪はうっかり鏑木の背中にぶつかってしまう。
三輪は急停止した鏑木から、あわてて距離を取った。
「どうしたんですか。急に」
三輪はその言葉を鏑木に向けて発したつもりだが、良く考えればこの面をつ
けているので、三輪の言葉は鏑木に伝わらないのだ。
苦笑した三輪は、面と面とを付けて振動で話そうと考え、鏑木の前に移動し
た。
すると鏑木は前方を指さしていた。そして三輪に目で
『そちらを見ろ』
と合図をしている。
三輪は、はっとして鏑木が指さす方向を瞬間的に振り向いた。
鏑木が指さした、その方向は洞窟が急に広がっており、ちょっとした広場にな
っていた。
が、三輪が目を奪われたのはその事ではない。その広場に存在する物、いや、
その広場の空間そのものに目を奪われたのだ。
「す、凄い」
三輪は思わずそう呟いていた。自分で言葉を発した、という気も無かった。
本当に無意識に口をついて出た言葉であった。
その洞窟内の広場には中央に広い湖が存在した。
その水面からぼおっとした蒼い光が発せられ、水面の揺れをその氷柱や氷壁
に如実に伝え、幾何学的模様を芸術までに昇華させていた。
それは、まるで蒼い妖精が乱舞しているかの様だった。
その妖精はとある岩壁に現れたかと思うと、その身体をすうっと細くして、
また別の場所に現れた。かと思うと、今度は一ヶ所でその身体の大きさを微妙に
変えつつ、奇妙な異国の踊りを始める。
妖精は三輪の眼前にも現れる。そしてその舞踏会へ彼をも誘うのである。
それはまさしく、坂口氏が言うとおり、洞窟そのものが宝石であった。
何物にも変えがたい、貴重な財産。
蒼き天界の宝石。
もはや服や面の暑苦しさもどこかに消えていた。
「これは、この世の奇跡だ。この世の財産だ」
三輪は思わず呟く。
だが、鏑木はそんな三輪をどこか嘲る様な目で見ていた。そして近づいて来
て三輪の面に自分の面を付けた。
「さ、行きましょう。長居は無用の場所です」
しばらく放心状態だった三輪は、鏑木のその言葉にはっと我に返った。
「細かい話は表でしましょう」
三輪はのろのろと鏑木の後を着いていった。そして名残惜しそうに、何度も
何度も後ろを振り返るのだった。
洞窟の外の掘立小屋に戻った2人は、その身体を覆っていた服や面を互いに
取り外した。
面を外した三輪は、狂ったように深呼吸をした。久しぶりに吸う新鮮な空気
は、まさに甘露であった。
人間は満たされた状態では有り難みを感じない生き物である、ということを
痛切に思い知った。
鏑木は近くにあった岩に腰掛けながら、そんな三輪を見て微笑んだ。
「私も最初、先代からこの仕事を受け継いだ時は、あなたみたいな状態に
なりましたよ」
新鮮な空気を何度か肺に送り込んだ三輪はようやく落ち着いてきた。
規則正しくなった呼吸音とともに言葉を紡ぎ出す。
「しかし、話には聞いていましたが、これほどのものとは。あの美しさは
とてもじゃないけど、言葉では表現出来ないですね」
鏑木はそれには返事をせず、口元を歪めて視線を地面に落とした。
三輪はさらに言葉を繋げる。
「あれはまさに奇跡ですよ。自然と古代文明の遺産とが奇跡の調和をしてい
る珍しい例です。世界中を探してもこのような事例は見つかりませんよ。きっ
と。あの『蒼』の美しさは、なんと形容したら良いか。まさに世界財産です」
しかし鏑木はやはり無言であった。
三輪は薄々気が付き出していた。どうも、あの長老といいこの鏑木とい
い、あの古代遺産をあまり良く思っていないらしいということを。
それどころか疎んじているような素振りさえ感じる。
すでに三輪と鏑木の間には、その話題を持ち出すことを忌避しなければなら
ないような雰囲気が出来つつあったが、三輪はあえてそれを持ち出すことにし
た。研究者としての意地であった。
しかし三輪が言葉を紬出すより先に、鏑木が錆び付いた機械を無理矢理動か
すかのように、その口を開いた。
「財産? 財産というより借金ですよ。これは」
鏑木はそう吐き捨てた。
三輪は自分の言葉が否定された様な気がして、少し苛ついた。
「ずいぶん知った様に言いますね。あなたはあの古代の遺産が一体何だか
分かっているとでも言うのですか」
鏑木は真っ直ぐな視線を三輪に向ける。
「いえ」
ほらみろ、と三輪の口がその形を取りかけた時、鏑木がそれを遮った。
「これがそもそも、何のためにあるのか、またなぜここにあるか、等は全く
知りません。しかし」
「しかし?」
三輪は自らの苛つきを押さえ、その話を促した。
鏑木の話を遮らなかったのは研究者としての勘と自制心だった。
鏑木は恐らく、真相を知らないまでも、謎のかなりな最深部まで知っている。
研究者としての勘がそう告げていた。
あの歴史家、坂口氏でさえ、その古代遺産の意味を探り得なかったというのに。
それを目の前のこの小男が知っている。
それを封じるのは研究者として恥ずべき行為であろう。
そんな三輪の思惑とは余所に、鏑木は話を続けていた。
「洞窟の奥に湖がありましたね」
「ええ、あの『蒼い』・・・」
「はい。あの湖には古代より伝わる、とある水が湛えられています」
「水?」
「ええ。ですが普通の水ではありません。災いの水です。その災いの水は
我々、この村の人間によってこの洞窟の外にある滝の水力を借りて絶えず循環
させ、冷やしています。しかし、一度、その循環が絶たれると・・・」
鏑木は一旦、言葉を区切った。そして次の言葉は一語一語はっきりと発音し
た。
「・・・自然に爆発します」
「え?」
三輪は一瞬、己の耳を疑った。あまりにも場違いな単語を聞いたせいだった。
あの遺跡が、あの水が爆発する?
「爆発するのです」
鏑木は何かあきらめるかのように首を振った。
「何かの原因でその循環が止まるとアウトです。ですから、滝の水力部の所
にも監視小屋があり、絶えず水量などをチェックしています。しかもその爆発
はこの村を含めこの付近一帯を吹き飛ばします。それで被害はそれだけでは収
まりません。神の呪いによって、この国の約半分の地域でとれた食物には全て
毒が入ることになるのです」
三輪の唇はからからに乾いていた。
「三輪さん。あなたは『螺愚』という地名を知っていますか」
「ええ。あの『封印の地』が、何か」
「そう。『螺愚』もこの村と同様の施設があったと聞きます。ですがこの災
いの水の管理にミスがあったのです。たった一度のミスで国土の大半が死滅し
てしまったのです。しかもその土地は何万年も足を踏み入れてはいけない場所
になってしまった・・・」
「この水は何百万年もの長きにおいて管理しなければなりません。ですが、
その何百万年管理せねばならないそのとある年、とある日、しかもとある一瞬
にミスを犯したのです」
「・・・」
「人間はミスをする生き物です。そしてそのミスを最大限に少なくしようと
生きています。ですが、一体どこの人間が何百万年もの間ミスを犯さずにいるこ
とが出来るのでしょうか」
鏑木は、はっと我に返ったように表情を変えた。
「・・・柄にもなく、少し喋りすぎましたね。さあ、次に行きましょうか」
鏑木は後悔したかのように顔をしかめると、出口に向かって歩き出した。
三輪はそんな鏑木の態度に戸惑ったが、舌打ちをした後、すぐに後を追っ
た。
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