杜子秋
作 山下泰昌
「わしが朝に帰ってくるまでそこ座っておれ」
仙人、鉄冠子に弟子入り志願した杜子秋は一つの試練を与えられました。
鉄冠子が仙人の女神である西王母に会って帰ってくる明日の朝まで、絶壁の
上で座禅をしていろ、と言うのです。しかもその間は『一言』も喋ってはいけ
ないと言うのです。いろいろな悪魔が現れ、そこに座る人間をたぶらかすと言
われる絶壁に、です。
杜子秋は内心、緊張のためどきどきしましたが、逆に決意を固めました。
「やってやる。僕は絶対に一言も喋らないぞ」
杜子秋のいとこの杜子春は悪魔が見せる幻覚に耐えることが出来ず、仙人に
なることを諦めました。しかし、杜子秋はなみなみならぬ決意がありました。
「はい、分かりました。お師匠さま」
杜子秋はそう鉄冠子に言って、こくりと首を立てに振りました。
鉄冠子は目を細めてそれを見て、
「じゃ行って来るぞ」
と言って、その姿を一瞬にして消しました。
杜子秋はその姿を見て、ほう、と感嘆の声をもらしました。
やっぱり仙人って凄い。俺も絶対、仙人になるぞ!
杜子秋はそう決意も新たにし、座禅を始めました。
半刻も過ぎたでしょうか。
急に暴風が吹き荒れ始めました。
絶壁の上で身体が不安定に揺れます。思わず、声が出てしまいそうになりま
したが、歯を食いしばって堪えました。
するといつの間にか目の前の空中に矛を持った人が立っていました。
いえ、違います。人ではありません。頭に二つの角が生えています。鬼です。
杜子秋は緊張しました。だが、声は出しません。
鬼は感情の全く無い目をしたまま突然、杜子秋の胸をその矛で貫きました。
あっ!
と叫ぶ間もありません。杜子秋は心臓を見事に突き抜かれ、絶命しました。
はっと気が付くと目の前の鬼は消えていました。自分の胸を見ると、どこに
も傷はありません。悪魔が見せた幻覚だったのです。ですが、胸を突き抜かれ
た瞬間の痛みは本物でした。
杜子秋はこの先、全ての幻覚をやり過ごせるか不安になっていきました。
その後、とても幻覚とは思えない出来事が次々に杜子秋を襲いました。
ある時は巨大な人間に握りつぶされました。
またある時は、業火に焼かれました。
そしてまたある時は、生きながらにして内蔵を一つ一つ取り出されました。
また、骨をぐしゃぐしゃに砕かれました。
また、脳をいじられ、永遠の不快感を与えられました。
また、大勢の人の前で性的にいたぶられました。
ここまで来て、杜子秋は痛みや不快感、感情を意識的に切り離すコツを覚え
ました。痛みや不快なことはただ、肉体の上を通り過ぎていくのみ。その心は
固く奥深く守られています。
そして、悪魔はついに、
杜子秋の父と母をその目の前に呼び出しました。
杜子秋はここが正念場だ、と思いました。いとこの杜子春が挫折したのは
ここだったからです。
杜子秋の目の前で父と母は悪魔どもに無惨にいたぶられて行きます。その身
体からは血がおびただしくあふれ、骨が飛び出しました。その顔は苦悶に喘ぎ
ます。その口から母は言いました。
「心配してはいけないよ。私たちはどうなっても構わないからね」
悪魔の責めは凄惨を極めていきました。
身体を包んでいる皮膚は裂け、骨はもちろんのこと、内蔵もただれ落ちまし
た。そしてそれがさらに細切れになるまでその責めは続きました。
杜子秋はその光景を感情のないスクリーンのような瞳で見ていました。
ついには朝日が向こうの山の稜線の端からその姿を覗かせ始めました。
悪魔はついにその姿を消し、今までずたずたになっていた父と母の幻覚も消え
ました。
そして、鉄冠子が朝日の中からその姿をひらりと現し、杜子秋の前に舞い降
りました。
「よくやったな、杜子秋。これでそなたも仙人の仲間入りじゃ」
鉄冠子はそう言って髭だらけの顔に満面の笑みを浮かべました。
しかし、ふと、その顔が歪みました。
「杜子秋? 杜子秋、どうしたのじゃ」
杜子秋は返事をしませんでした。朝日も、鉄冠子が現れたことも、悪魔の手
の込んだ幻覚だと思っているのです。
「杜子秋! もういいのじゃ! 修行は終わりじゃ! 杜子秋!」
しかし、杜子秋は返事をしませんでした。
今でも峨眉山の絶壁に立つと座った人のような形の岩が見ることができます。
それが杜子秋です。今だ、世の中のことは幻覚だと思って、黙して座り続けて
いるのです。
でも、ひょっとすると、その方が幸福なのかも知れませんね。
あとがき
芥川龍之介の『杜子春』のパロディです。本当は杜子秋なんていかにもな名前
でなくて、全くの別物にしようかと、思っていたのですが、原作との比較も
考えて、世界観はそっくりお借りしました。ああ、芥川先生ごめんなさい。
先生の話を汚す気は毛頭ないんです。ただ、こういうパターンもありかな、と。
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