恋人レッスン 

第三話 クリスマスの過ごし方

作 山下泰昌


12月22日 下校の仕方

 軽やかなチャイムとともに二学期最後の長いホームルームが終了した。

 俺は、うんと唸りながら背伸びをして、高らかに両腕を上げた。

 高校生が自由を勝ち取る瞬間。

 さあ、今日から一月八日までなんの予定もない。

 何をしようか。そう、何でも出来るに違いない。

 俺の胸は風船のように膨らんだ期待で一杯だった。

 俺はすかさず、北村の姿を探す。

 「北村ぁ!」

 北村は俺の声にすぐ気が付いて近寄ってきた。

 「なんだよ。金ならねえぞ」

 「違えよ!」

 俺は北村を軽く小突いてその戯れ言をさり気なくかわす。

 「この後、暇だろ? カラオケでも行こうぜ!」

 すると北村は自分の顔の前で手をワイパーのように振った。

 「悪い。俺、これからバイトなんだ」

 「バイト?」

 何だ? 北村がそんなものやっているなんて初めて聞いたぞ。

 俺のそんな疑問を表情で素早く察知した北村が言葉を継ぎ足した。

 「ウチのじいちゃんが菓子屋をやっているんだけどさ、そのじいちゃんが

寝込んじまって替わりに働かなくちゃいけなくなったんだよ」

 「そうか。それじゃ、仕方がねえな」

 北村は片目を瞑った。

 「わりぃ。手が空いたら電話すっからさ。今日は勘弁な」

 「ああ、頑張れよ」

 俺はそう言って手をぷらぷら振った。北村は足早に去っていく。

 となると、本山だ。

 「本山ぁ!」

 本山はちょうど帰り支度をして帰るところだった。

 俺の声に気付き、振り返る。

 「なんだよ」

 「カラオケ行かねえか?」

 本山は首を横に振った。

 「すまん。この後、部活でさ」

 そう、ちゃらんぽらんな外見のくせにこの本山はハードな練習で知られる

当校剣道部の主将だったりするのだ。

 「あ、そう」

 俺は肩を落として落胆した。

 「気ぃ落とすなよ。お前の相手は別に居るじゃん」

 本山はそう言ってあごでとある方向を指す。

 ?

 俺はそれが指し示す方向に顔を向けた。

 そこには皆が帰り支度をしているというのに、机にへばりついて、文庫本を

熱くに読みふけっている立石真美がいた。

 「自分の『彼女』を誘えばいいじゃん」

 「彼女!?」

 それは違う! と言い掛けたが、すんでの所で留まった。

 そうか。立石は一応俺の『彼女』という立場になるのか。

 人に指摘されて初めて気が付いた。

 「でもよ」

 本山が顔を寄せてきた。

 そして小さな声で言う。

 「その気がないんだったら、あまり関係が深くなる前にきっちりとしといた

方がいいぜ」

 「え?」

 「罰ゲーム仕掛けた俺が言うのもなんだけどよ」

本山はそう言い残すと

 「じゃあな」

と手を振り教室から出ていった。

 そんなことは分かっているよ。

 俺は心の中で呟いた。

 でもそれを声にすることは出来なかったのは、なぜだったんだろう。 



 俺は立石に近づきながらも躊躇していた。

 どう考えても立石ってカラオケに行くって柄じゃないよな。

 集中して本を読んでいる立石の背中を見ながらそう思う。

 でも、一人でカラオケ行くのも恥ずかしいし、やっぱり連れがいた方がいい。

 駄目モトで誘ってみるのも悪くないかも知れない。

 「立石」

 無言。

 「立石!」

 これだけ至近距離で呼び掛けているのに、気が付いてくれない。

 だが、俺もいい加減このパターンには慣れてきた。

 「立石ったら!」

 俺は立石の肩に手を掛ける。

 「あ」

 気が付いたように立石は顔を上げる。

 「どうした? 飯尾。何か用か?」

 その無骨な眼鏡と色気のないおさげを見ているだけで、更に誘う気が萎えて

くるが、心を強く持って言葉を発した。

 「立石さ、これからカラオケ行かない?」

 「カラオケ?」

 案の定、困惑した顔をされる。

 たぶん断られるだろう。俺は内心九十パーセントの確率でそうなるだろうと

確信していた。

 おそらく

 「誰に聞かせるでもなく、滔々と歌を垂れ流すのが嫌」

 だの

 「他人に歌を強要するのが嫌」

 だの

 「所詮、自己満足」

 だのという不愉快な理由を述べて断るだろうと俺は踏んだ。

 「いいよ」

 そら、思った通りだ。

 ………。

 「え?」

 「だから、行ってもいいと言っている」

 立石は眉の間に皺を作りながら言った。

 いつもながら立石の言動は俺の予想を上回る。

 「本当にいいの?」

 「ああ」

 「冗談じゃなくて?」

 「………」

 すると立石は不機嫌な表情をしながら

 「いつも思うんだが、飯尾ってかなり疑い深い」

 と言い放った。

 「そう?」

 「そうだ。そう何度も念を押さなくても嘘なんか付いていないから、少しは

信用してくれ」

 立石の発言が予想外だからだ、と言い返そうとしたが考えてみると俺ってそ

ういうところはあるのかも知れない。

 「悪い、口癖みたいなもんでさ」

 俺は軽く謝った。

 「いや、別に謝られるほどのことじゃ、ない」

 立石は急にどぎまぎして視線を逸らす。

 「まあ、いいから行こう」

 ちょっとぎこちない雰囲気が漂う。

 立石は持っていた文庫本を、手早く帰り支度の終えていたカバンの中に突っ

込む。

 あれ?

 立石、帰り支度終わってんじゃん。

 何でうだうだ、教室に残ってんだよ。

 そんな俺の疑問もよそに立石は一人でさっさと廊下へ出て行く。

 「ちょ、ちょっと待てよ!」

 俺はあわててカバンの中に勉強道具のようなものを適当に詰め込み、立石を

追いかけた。



 「へえ」

 立石は興味深そうに室内を見回す。

 俺はソファに腰を下ろしながら訊いた。

 「ひょっとしてカラオケ初めて?」

 立石はぐっと詰まる。そして数瞬置いて言葉を吐き出した。

 「実は」

 立石は緊張気味にソファの端の方にちょこんと腰を掛けている。

 「そんな緊張すんなよ」

 俺はすでに曲目リストをぱらぱらめくり、お気に入りの曲を探していた。

 あった、あった。

 GLAYの新曲。発売されて一週間も経っていないのに、もう入っている。

 俺はリモコンで曲を入力しようとしてはっと立石の方を見た。

 相変わらず所在なさ気にきょろきょろと辺りを見回している。

 「ほら」

 俺はぱさっと曲目リストを放った。

 「うわ」

 立石は少しあわててそれを受け取る。

「それで、歌いたい歌を探すの!」

 俺はそう言い放って自分のおめあての曲をぴぴぴと入力する。

 曲が呼び出されるまでの待ち時間。このわずかな時間は妙に息苦しい。

 イントロが始まった。俺はマイクを構えて画面に集中する。

 そしてその瞬間、立石の方に視線をちらりとやる。

 立石は呆けた様な顔で、本と画面を代わる代わる見ていた。

 がく。

 俺は力が抜けた。

 そして出だしのタイミングを見事に外す。

 「ん? 飯尾、歌わないのか?」

 「今、歌うって!」

 君のせいで歌えなかったんでしょうが!

 俺はタイミングを取る為にわざと一小節外して、歌い始めた。

 腹から声を出して、裏声、シャウトを駆使して歌い始める俺。

 自己満足だ、なんだかんだ言われようとも、やっぱり歌を歌うのは楽しいし、

すかっとする。

 一曲歌い終わった。顔が少し火照っている。

 俺は立石の方を向いた。

 「曲、決まった?」

 「ああ。でも入れ方が分からない」

 そうだろ、そうだろ。カラオケの機種によって入力の仕方が違うし、まして

初めてなら尚更だ。

 「何番?」

 「32○−○×」

 「OK」

 俺が代わりに入力する。立石は身を乗り出して俺の手元を覗き込んだ。

 「番号を押してからセットするだけなのか」

 「ああ」

 操作を覚えようとするためか、ぐぐっと身を乗り出した立石の頭が俺の目の

前にある。

 髪がさらっと流れた。

 シャンプーとリンスの香りが俺の鼻孔を柔らかく刺激する。

 俺は少し身を固くした。

 少し視線を落とすと白いうなじが制服の襟から見え隠れしている。

 気のせいか空気を通して、立石の体温が伝わって来るような気がする。

 俺は初めて立石が《女》だ、と意識した。

 その時、曲のイントロが流れ出した。

 「あ、始まった」

 立石はすっと、俺から身体を離して、あわててマイクを持つ。

 俺はほっとしたように息を吐いた。

 なんだ、俺。何、緊張しているんだよ。

 「マイク、ONにしたか?」

 俺はその緊張を隠すかのように立石に声をかける。

 「あ、あ、あ?」

 立石はみっともなくうろたえながら、マイクのスイッチを探しONにする。

 そして曲が始まった。

 聞き慣れたテンポ。覚えのあるフレーズ。

 「え? 宇多田ヒカル?」

 俺の方を見て恥ずかし気にこくりと頷く立石。

 実に立石らしくない選曲だった。まさか、こんなに若者向けの曲を歌おうと

するとは。

 イメージ的に唱歌か演歌かアニメソングでも歌い出すと思ったのに。

 第一声が聞こえてきた。

 俺は目を剥いた。

 鈴を転がすような、という形容はこのためにあるのだと思った。

 もちろん、ところどころのフェイクやファルセットなどは照れているのか歌

えていないが、通じて音程やテンポを外すことがない。とてもカラオケ初心者

には見えない。

 更には普段の低く目の暗い声ではなく余所行きの高い声で歌っているので、

 本当に立石か!?

 と言うくらいのイメージの違いを見せつけてくれた。

 立石が歌い終わった後、俺はリモコンに付属の拍手ボタンを押した。

 「な、なに?」

 突然スピーカーから沸き起こる拍手に戸惑う立石。

 「立石、嘘ついたろ」

 立石はきょとんとしている。

 「なにを?」

 「カラオケ初めてじゃないだろ」

 立石は首を大きく横に振る。

 「嘘だあ」

 俺は疑わしい目つきを立石に向ける。

 「正真正銘、初めてだ」

 立石は真剣な瞳で俺を見返す。

 「本当に、本当?」

 と訊こうとして思いとどまった。

 ………。

 確かに俺って疑い深いかも知れない。逆に言うと自分に自信がないのだろうか。

   俺は言い直した。

「その割には上手いじゃん」

 「そうか?」

 立石は怒ったように目を伏せる。

 「たぶん、風呂で良く歌っているからかも」

 「風呂場で?」

 「ああ」

 俺は一瞬、その光景を想像した。いや、本当にほんの一瞬だけだって。

 ともかくも、これで気を使う必要はなくなった訳だ。

 俺は勇躍、曲目リストを立石から奪取すると、目当ての曲をぱらぱらと選び

出す。

 ええい。次はラルクだ!

 それからたっぷり二時間、俺達のカラオケバトルは続いた。



12月23日 電話のかけ方

 ようやく念願の冬休みに突入した。

 俺はやることもなしに、ぼけえっとテレビを点ける。

 点けたチャンネルではニュースをやっていた。

 『………ここ柏駅前ではクリスマスに備え、豪華なイルミネーションが点灯

され………』

 ぽち

 チャンネルを替える。

 『それではみなさん、明日のクリスマス特別番組《杜の都恋物語SP》を

ご期待下さい!』

 ぽち

 チャンネルを替える。

 『明日、クリスマスイブの首都圏の天気は晴れと予想され………』

 ぷち

 俺はテレビを消した。

 あーあ。何にもすることがないってのも結構、退屈だな。北村は菓子屋の手

伝いだし、本山の方は剣道部の冬季合宿で学校に泊まり込みだし。

 俺もバイトか何か予定を入れておけば良かったな。

 俺は重い腰を上げて、おもむろにジャンバーに手を通した。

 ゲーセンにでも行って暇を潰してくるか。

 俺は身体を丸め、両手をポケットに突っ込んで町中に飛び出た。

 街はすっかりクリスマスデコレにより浸食されている。

 白と緑と赤。

 「パターンだよな」

 俺はそう一人で呟く。

 吐き出した言葉は北風に乗って、枯れ葉と一緒に寒空へと消えていった。

 駅前の不二家の店先にはケーキを予約するために並んでいる人でいっぱいだ

った。

 アクセサリーショップの前ではショーケースを覗き込んでいろいろと物色し

ている男達がたくさんいた。

 あーあ。あいつら、みんな明日彼女と一緒に過ごすんだろうな。

 羨ましいこった。

 俺は襟を立てて、まるで体温を逃がさないかのように身体を更に丸めて道を

急ぐ。

 ………。

 彼女?

 彼女。

 彼女!?

 俺はぴたりと足をいきなり止めた。

 俺の真後ろを歩いていた男がそれに対応しきれず、俺にぶつかる。

 「あ、すいません」

 男は迷惑そうな顔をして足早に去って行った。

 そうだ。今年の俺には形の上だけとはいえ、彼女が居るじゃないか。

 立石真美が。

 だが、立石ってどう考えてもクリスマスって柄じゃないよな。

 ぷ。

 俺は自分が立石とクリスマスにデートしている光景を想像して、思わず笑った。

 やめやめ。

 どうせ、立石もクリスマスデートなんて、考えもしていないに違いないさ。

 余計なこと考えないでゲーセンに行こう。

 俺は再び歩き始め、駅前通りから少し入ったところにある《ゲームセンター

FUJI》に飛び込んだ。

 目当てのゲームは昨今流行のいわゆる《音ゲー》と呼ばれる筐体の一種であ

る《ドラムフリーク》だ。このゲームは数ある《音ゲー》の中でも一番リアル

なので気に入っている。

 俺は筐体にコインを入れ、スタートボタンを押した。

 その時、店内のBGMにとある曲が流れ出した。毎年、この時期になるとシ

ングルチャートベストテンに入ってくるあのお馴染みクリスマスソングだった。

 ああ、全くこの曲はクリスマスソングの中じゃベストオブベストだよな。こ

れだけ、毎年聞いていればいい加減飽きてきてもよさそうなものなのに、飽き

るどころか、この歌を聴くだけでせつない気持ちになってしまうのはなぜだろ

う。

 うーん。やっぱりクリスマスイブに男一人ってのは、寂しいよなあ。

 女の子と一緒に過ごせたら楽しいだろうなあ。

 それが立石でも一人でクリスマス過ごすよりは楽しいと、思う。たぶんだけ

ど。

 と、その時、

 ドーン。

 と目の前の画面にいきなり《GAME OVER》の文字が踊った。

 やっぱり、考え事をしながらアーケードゲームをするもんじゃない。単なる

金の無駄使いほかならない。

 俺はせっかくゲームをやりに来たっていうのに、たったそれだけで、そのゲ

ーセンを後にした。

 再び、表に出ると、今度はなぜかやたらとカップルが目に付く。

 二人で楽しく談笑したり、手を繋いだり、見つめ合ったりして、どいつもこ

いつもイチャイチャしている。

 ああ、あいつらもクリスマスはデートすんだろうなあ。

 ………。

 ……。

 …。

 だあああ!!

 ああ、もう! 構うもんか! 明日、立石をデートに誘うぞ!

 バイトも何の用事もないのに、一人っきりでクリスマスを過ごすなんて寂し

いことしてたまるかあ! 仮にも立石は女の子で、俺と付き合っているんだし

一体何の問題がある!?

 しかし、そこで、俺は、はたと思った。

 ちょっと待て。俺、立石の電話番号も住所も知らないぞ!

 俺は北風が吹き荒ぶ中、町中の路上で愕然と立ち尽くしていた。



   俺は自分の部屋に居た。

 自分の部屋の電話の前で胡座を組んでいた。

 立石の電話番号はすぐに分かった。

 よくよく考えたら、《クラス名簿》というものがあるんだった。

 何の問題もない。

 これで解決だ。

 俺は受話器を上げて、ボタンを押した。

 ぴっぴっぴっぴ、ぴっぴっぴ………。

 がちゃ。

 受話器を下ろす。

 立石が電話に出たら、何て言おうか。

 やっぱり、あからさまに《デート》って言うと退いちゃうかも知れないな。

 「ちょっと、会わない?」

 くらいのがいいだろうか。いや、《会う》ことが《デート》なんだけど、

言葉のニュアンスが違うじゃないか。

   よし、それで行こう。

 俺は再び、受話器を持ち上げて、ボタンを押し始めた。

 ぴっぴっぴっぴ、ぴっぴ、ぴっぴ………。

 がちゃ。

 受話器を下ろした。

 まてよ、立石の親父さんとかお袋さんが出たら、嫌だな。

 俺は時計を見る。

 お昼の一時三十分。

 この時間だったら、親父さんが家に居るってことはないな。お袋さんだけな

らなんとかなるか。

 俺は三度、受話器を持ち上げる。

 ぴっぴっぴ………。

 がちゃ。

 俺の額に脂汗が滴り落ちる。

 ちょっと待てよ。そもそも立石は家にいるんだろうか?

 ………。

 いや、そんなことは言い訳だ。電話を掛ければ分かることだ。

 自分の心の弱さを認めよう。

 はっきり言おう。今、俺は電話を掛けることに恐怖している。

 女の子の家に電話を掛けることが、こんなに緊張するものだとは思わなかっ

た。

 いきなり電話を掛けて、迷惑じゃないだろうか。厚かましいやつだと思われ

るんじゃないだろうか。鬱陶しいやつだと思われるんじゃないだろうか。向こ

うの親が出たらどうしようか。エトセトラ………。

 というようなことが頭に渦巻いて、動悸が激しくなり、息苦しくなる。

 俺は電話を前にしてかなり猛烈な自己嫌悪に陥っている。

 自分がこんなチキン野郎だとは思わなかった。

 次第に、「電話するのやめようか」なんて気にもなってくる。

 だいたいこんなに苦しんでまで、立石をクリスマスに誘うことにそれほどの

意味があるのだろうか。

 そう、そんなに意味はないに違いない。それに誘うのはクリスマスじゃなく

てもいいじゃないか。《デート》は《デート》。いつだって同じだ。

 やめやめ。

 俺はそう考えて布団にもぐりこんだ。

 そう、明日誘う必要は何もないんだ………。

 目を瞑る。

 でも。

 クリスマスは一年に一度だけだ。明日が過ぎたら次は一年後まで来ないのだ。

当たり前だけど。

 そう考えると、もの凄く損をしたような気になってくる。

 それに、もし、立石が俺からの連絡を待っていたらどうする?

 万に一つも可能性はないと思うが、ああいう自分の本心を伝えるのが下手な

人間である。意外と電話の前で待っていたりするかも知れない。

 一夜明けて俺からの電話がなくて失意のどん底に陥っている立石を一瞬想像

した。

 俺は布団からがばっと起き上がった。

 そして、電話に飛びつき、受話器を上げる。

 ボタンを押す。

 ぴっぴっぴっぴ、ぴっぴ、ぴっぴっぴっぴ。

 がちゃん!

 あああ! 決心がつかん!

 俺はそんなことを夜の十時まで、最低でも二十回は繰り返していたと思う。

最低でも、だ。



   時計を見る。

 PM10:00。

 さすがにこの辺がタイムリミットのような気がする。

 この時間を過ぎた電話は先方の家族にかなりな迷惑をかけるだろう。

 立石の親父さんも帰宅している時間に違いないし、完全に「夜分遅くすみま

せん」という接頭文を付けなければならない時間帯だ。

 俺はこの期に及んで、

 「やっぱり夜遅くて迷惑だから電話するのやめようかな?」

 なんていう考えが頭の片隅からむくむくと沸き上がってくるのを感じていた。

 だが、そのチキンな考えを心の力で無理矢理押さえつける。

 いや、これはただ、「立石をクリスマスに誘えるか、否か」という問題では

なく、俺が自分の心の弱さを克服出来るかという大命題が含まれているのだ。

 だから、俺はこれに打ち勝たなくてはならない。

 俺は「これで最後だ」という意気込みでボタンを押す。

 ぴっぴっぴっぴ、ぴっぴ、ぴっぴっぴっぴ。

 ぷるるるる、ぷるるるる。

 初めて聞く呼び出し音が俺の耳に響いてくる。俺の緊張は一段階レベルUP

した。

 もう引き返せない。ここで切ったら、ただのいたずら電話だ。

 俺は腹を決めた。

 呼び出し音が七回も鳴っただろうか。

 単調な音階は急に複雑な音階に変化し、それが人の言葉だと判断するのに、

たっぷり三秒はかかった。

 「あ、夜分遅くすみません。立石さんのお宅でしょうか」

 「はい、立石ですが」

 立石真美の声だった。電話なので、余所行きの声を出しているらしくイメー

ジがいつもと違うが立石の声だ。

 俺はほっと胸をなで下ろす。

 「ああ、立石? 俺、飯尾だけど」

 すると電話の向こうでは少し戸惑った様に、一呼吸の間があった。

 「え? あ、ああ。飯尾さん?」

 なんかずいぶん他人行儀だ。近くに家族でもいるのだろうか。

 まあいいや、とりあえず、さっさと本題に入ろう。

 「………。あのさ、立石。明日って暇?」

 電話の向こうの立石は更に戸惑ったようにあわて出した。

 「ちょ、ちょっと待って下さい。ねえ、お姉ちゃーん!」

 言葉の後半は受話器を手で塞いだらしく、遠くから聞こえてくように響いた。

 ん? なんだと? お姉ちゃん?

 俺の左脳が現在自分が置かれている状況を冷静に分析を始めた。

 大して暖房も効かせていないのに、冷や汗がたらりと背筋を伝う。

 脳がはじき出した答えを俺の心は認めようとしなかった。

 だがその答えの正しさは数瞬後、証明されるはずだ。

 受話器の向こうから、どたどたと廊下をスリッパで走ってくる音が聞こえた。

 そして女性二人のひそひそとした短いやりとりが聞こえて来る。何を言って

いるのかは分からなかったが。

 「あ? 飯尾か? 私だけど」

 俺は目を覆った。俺は立石真美以外の人間にデートの申し込みをしようとし

ていたのだ。

 俺はおそるおそる訊く。

 「あ、立石? 最初に電話に出たのって誰?」

 「ん? ああ、私の妹だよ。美奈だ」

 ああ、そう言えばそんなものが居るというような話を聞いた気がする。

 「声似ているね」

 「姉妹だからな。声だけなら電話越しだと良く間違えられる」

 「なるほどね」

 俺の額はすでに汗でびっしょりだ。

 ああ、なんて恥ずかしい男なんだ、俺って。

 「ところで何の用だ?」

 立石の声が聞こえてくる。

 「ああ」

 俺は我に返った。ここまで来るともう緊張も何もない。

 「明日なんだけどさ、立石、暇か?」

 しばらく考えているような時間があった。

 「………。一応、暇だが」

 「ええとさ、どこかで会わない?」

 「なぜ?」

 このパターンは俺もいい加減慣れた。

 「いや、ほら、明日、クリスマスだし」

 「明日はクリスマス・イブだが?」

 「そうそう、クリスマス・イブだ」

 「ああ」

 「………」

 「………」

 「で?」

 立石の不思議そうな声が聞こえてくる。

 まさか、ここで俺は一から説明しなければならないのか?

 「ほら、クリスマスってのはさ。付き合っているカップルがさ、デートした

りする日じゃん?」

 「そうなのか?」

 「そうだろ?」

 「私の知識だと、クリスマスというのはキリストの聖誕祭で、カップルがデ

ートしたりしなければならないという事項はどこにもないが………」

 「いや、それは」

 「しかも別の説ではそもそもキリストが生まれた日は全くの別の日だという

し、そうなるとクリスマスというのは全く形骸化されているイベントだ、とい

うことになるな。だいたい、私はキリスト教徒じゃないぞ。一応、仏教徒だけ

ど、まあ今の大半の日本人と同じ様に無宗教みたいなもんだし。飯尾は何か宗

教に入っているのか?」

 「………いや。立石と似たようなもんだ」

 「じゃあ、問題ないじゃないか。無理してクリスマスに会う必要はない」

 俺って理屈に弱い人間なんだろうか。いや、違うな。俺の方が適当な理屈で

話を始めるから、正当な理屈で論駁されると話負けしてしまうんだ。

 「それじゃあ」

 立石は電話を切ろうとした。

 「ちょ、ちょっと待ったあぁ!」

 俺はそれを強引に押しとどめる。

 受話器は切られる寸前で押しとどめられたらしい。

 辛うじて向こうの声が聞こえてくる。

 だが、何やら言い争っている声がする。

 『ちょっと!? お姉ちゃん、せっかくかかって来たのに自分から切ってど

うすんのよ』

 『人が電話している時は口を挟むな!』

 『だいたい何よ! 今の妙な理屈は!?』

 『仕方がないだろう! 話の流れなんだから!』

 『それだからお姉ちゃんはねえ!』

 頼むから人との電話中に姉妹喧嘩を始めないで欲しい。

 受話器を手で押さえたのか、それ以降、何やら聞き取れない話が続き、息を

切らして立石が電話に再登場したのはたっぷり一分が経過した後だった。

 「すまん、飯尾。妹のやつがうるさくて」

 「いや、それはもういいよ」

 俺は初めの緊張感がすっかり消え失せているのを感じていた。俺は言葉を替

えて立石に言った。

 「とりあえずクリスマス云々という話は関係なしで、それとは別に明日、カ

ラオケでも行かない?」

 「………」

 立石は電話の向こうで少し逡巡していた。凄まじく嫌な間。

やがて、立石の思いきって放たれたような低い声が聞こえてきた。

 「構わないが」

 ふう。それだったら初めからOKしてくれ。

 形式上の彼女とはいえ、自分の彼女をクリスマスに誘うだけなのに、なぜこ

んなに疲れなくてはならないのだろう。

 世の男性陣は皆、こんな苦労をしているのだろうか。

 その後電話は、待ち合わせ場所や時間などを淡泊に指定して終了した。

 これほどの精神力を消耗した夜は今までなかったような気がする。


後編へ続く